2016年5月7日土曜日

匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)

匠ヶ城(たくみがじょう)

●所在地 岡山県井原市上稲木町
●別名 工ヶ城
●指定 井原市指定史跡
●高さ 標高130m(比高69m)
●築城期 鎌倉末期
●築城者 陶山氏か
●城主 陶山吉次
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2015年4月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 岡山県井原市を東西に走る山陽道から、瀬戸内側に向かう道は何本かあるが、そのうち高屋から笠岡に向かう県道3号線を南下していくと、上稲木町という所で、290号線と合流する所がある。
 その東側には大きな溜池があり、西側にはこんもりとした小山が見える。この山が鎌倉時代末期に築城されたといわれる匠ヶ城である。
【写真左】匠ヶ城
 登城途中に設置された説明板

 登城するたびに遠望写真を撮っていたつもりだったが、今回は忘れてしまっていたようだ。



現地の説明板

“井原市指定史跡
  工(匠)ヶ城跡

 この城は、鎌倉時代末期、笠置山合戦に足利尊氏軍勢として参加し、活躍した陶山吉次の居城として伝えられています。
 標高130m、本丸さらに西にのびる二段の郭で構成されており、二番目の郭の東端には、土塁の跡も残っています。また、本丸の東方向と南方向には腰郭が張り出し、南方向の腰郭は、四段で構成されています。
 戦国時代の典型的な山城で、本丸からは、稲倉地区が一望でき、現在も当時の状況をよくとどめています。
 
 指定年月日 昭和50年9月16日
            井原市教育委員会”
【写真左】登城道
 登城口を示すような標識はないが、東側の道路からそれらしき箇所があったので、勘を頼りに向かう。







陶山氏

 匠ヶ城の城主である陶山氏については、以前取り上げた笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の城主陶山氏と同族である。陶山氏の始祖は、桓武平氏平貞盛6代の後裔・盛高に始まるという。

 源義親の乱(鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)参照)において、追討使・平正盛の先鋒として出雲国に発向した盛高は、天仁元年(1108)義親を討ち、軍功を挙げその恩賞として、翌2年備中国小田郡・魚緒・西濱・甲弩の三郷並びに3000貫を賜った。
【写真左】郭段
 西側に犬走りのような道があり、このあたりから郭段が右手に現われる。








 彼はその後陶山和泉守を名乗ったことにより、備中陶山の祖とされる。盛高の子・泰高の代になると、瀬戸内側の金浦に陶山城を築き、平家方の水軍領主としての活躍を見せる。しかし、源平合戦の壇ノ浦にて平家が没落すると、陶山氏も歴史の表舞台からしばらく消えてしまう。

 下って鎌倉時代に至ると、陶山道国が時の第5代執権北条時頼に仕え、その子・道高が弘安の役で恩賞を賜り、再び西濱(西浜)の城に入ったという。平家時代の陶山氏が鎌倉中期に再び登場する経緯ははっきりしないが、平家没落の段階で陶山氏一族郎党すべてが滅んでいなかったことと考えられる。
【写真左】郭・その1
 階段状に配置された郭は小規模なもので、桜の木などが植えられている。
 また、場所によっては畑のような状況になっている。


 その後南北朝期に至ると、陶山義高は笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)の北方2キロにある竜王山(H:175m)に同名の笠岡山城を築き、元弘の変の際には幕府方として後醍醐天皇側と対峙した。

 特に有名なのは、元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇が三種の神器を持って笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に入り挙兵した際、幕府方として義高はじめ、匠ヶ城の築城者吉次兄弟、並びに道国の母の実家・小見山一族らが先陣を切って功を挙げたという。
【写真左】笠置山
所在地:京都府相楽郡笠置町
写真:弥勒磨崖仏
2016年3月6日撮影







 しかしその後、幕府方は劣勢に陥り、特に近江番場で六波羅探題北条仲時ら432人が自刃することになるが、その名簿記録である「蓮華寺過去帳」の中には、陶山二郎をはじめとして、小見山孫五郎ら陶山一族の名が残っている。(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)
【写真右】北条仲時はじめ従士432名の墓
所在地:滋賀県米原市蓮華寺
参拝日 2015年10月24日

 この墓石群の中に、陶山氏・小見山氏一族のものが入っている。




  その後の陶山氏本流の動向ははっきりしないが、室町時代には幕府の側近として活躍したという記録がわずかに残るものの、応仁の乱後ほどんど記録に出てこない。一説には戦国時代に小早川(毛利氏)氏の麾下となったというのもある。
【写真左】郭
 郭段のように見えるが、畑地としてかなり改変されたかもしれない。
【写真左】郭・その2
 その1とよく似ているが、こちらは左側の切崖直下に溝のようなものが残る。
【写真左】西にのびる郭
 当城は東側に郭段を築き、その北端部でL字に曲がって、西に伸びる尾根筋にも郭を配している。

 写真はちょうどその分岐点で、堀切のような鞍部を形成している。
 登城した時期が悪かったせいか、雑草や熊笹などが繁茂し、今一つの写真となった。
【写真左】井戸跡か
 先ほどの鞍部に見えたもので、直径2m前後の大きさの井戸のようなものが残る。
【写真左】西側に伸びる尾根の斜面
 一旦、下がり西側尾根の南斜面までくる。この傾斜もかなりあるようだ。

 このあと、再び上がり、東側の頂部に向かって進む。
【写真左】主郭・その1
 東側最高所で、主郭となる部分が見えてきた。
【写真左】主郭・その2
 土壇のような高まりの中央部には松の木などが植えられ、その脇には小さな祠が祀られている。
【写真左】主郭付近から西方を見る。
 手前の整地された箇所を見ると、近年まで畑地として使用されていたようだ。
【写真左】主郭から東方を俯瞰する。
 手前には東麓にあった池が少し見え、その右側を290号線が走っている。
【写真左】主郭から南方を見る。
 この先を行くと、陶山氏の本拠地・笠岡に繋がる。

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