2022年3月3日木曜日

一之瀬城(岡山県久米郡美咲町栃原)

 一之瀬城(いちのせじょう)

●所在地 岡山県久米郡美咲町栃原
●別名 一瀬山城、大串城
●高さ 240m(比高110m)
●築城期 不明(天文元年(1532)以前)
●築城者 竹内久盛
●城主 竹内氏等
●遺構 郭、石垣、堀切、井戸
●登城日 2017年6月20日

解説(参考資料 『公家源氏ー王権を支えた名族』倉本一宏著、『日本城郭体系』等)
 一之瀬城は岡山県の中央部にあって、岡山三大河川の一つ旭川中流域の東岸に築かれた小規模な城郭である。
【写真左】一之瀬城遠望
 南西麓から見たもので、一之瀬城の右側を旭川の支流・大瀬毘川が流れ、左側(中央の谷間に当たる箇所)を坪井下栃原線が走り、南下して旭川と合流する。


堂上源氏・竹内家

 一之瀬城が築かれた中世、この地域は垪和郷(はがごう)と呼ばれていた。城主は、この垪和郷に下向した京の公家出身といわれる竹内久盛と伝える。

 久盛の竹内家は河内源氏傍流の義光、すなわち八幡太郎・源義家の弟であるが、この義光の四男・盛義を祖とする。清和源氏で唯一公家として残った家で、信濃源氏平賀氏の流れを持つ。家業は弓箭(きゅうせん)と笙(しょう)及び和歌で、近衛家の家礼となった。
【写真左】一之瀬城鳥瞰図
 資料を元に管理人が作図したもので、下方が南を示す。







 ところでこの竹内家は堂上源氏(とうしょうげんじ)十八家(十五家)の一つである。堂上源氏とは、昇殿を許された公家源氏のことで、公家社会の中で生き残り、明治時代になると華族に列せられている。竹内家以外では村上源氏系の久我家(こがけ)や、久世家などが知られている。
【写真左】登城口付近
 写真中央に案内板が建っているが、登城したこの日は6月という蒸し暑い時期で、当然ながら草丈は繁茂し、かなり藪蚊に咬まれた。



竹内久盛

 さて、城主竹内久盛は文亀3年(1503)、従四位竹内近江守幸治の子として京都で生まれた。永正15年(1518)ごろ、久盛は二従兄弟にあたる竹内駿河守八郎為長及び弟の竹内備中守為就(ためなり)の一行に連れられて美作の垪和郷へ下向した。

 竹内家をはじめ朝廷に仕える家業を持つ公家源氏らにとって、応仁の乱以来、遅々として平和を取り戻せない京都では安定した生活が確保できなかったのだろう。こうしたことから、当時多くの公家が京を離れている。竹内氏もその中の一人であった。
【写真左】一条目の堀切
 登城していくと、左手に堀切が見えた。竹などがあって明瞭でないが、まずまずの遺構だ。



 一行が最初に足を踏み入れたのが、一之瀬城から旭川沿いに南に下った石丸(現:岡山市北区建部町和田南)である。

 当然この地にも先住していた領主が居たが、その居城・鶴鳴山城(たづなきやまじょう)を攻略し、名を鶴田城(たづたじょう)と改め、この城には竹内八郎為長が城主となった。そしてこのとき爲長は、垪和八郎為長と改称した。久盛は彼ら為長兄弟に世話になりながら成長していく。
 大永2年(1522)頃、すなわち久盛20歳のとき、彼は北方の西垪和(栃原)に一之瀬城を築き、1万3千石の城主となった。
【写真左】二条目の堀切
 こちらの方が良く分かる。









 やがて毛利氏が西進してくると、久盛は毛利氏に属した。しかし、美作及び備前国周辺では宇喜多直家(備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田)参照)が台頭し始め、しばらく毛利氏と宇喜多氏の激しい戦いが続く。
 天正8年(1580)5月、宇喜多氏は一之瀬城を攻略、毛利氏の支援もなく、瞬く間に火に包まれ落城したという。
【写真左】犬走
 三の丸と繋がる部分で、右側が本丸に当たる。








 因みにその直前まで宇喜多勢は劣勢だったが、直家が秀吉に支援を求めると、秀吉はこれを受託、一気に宇喜多勢が優勢となり、2万の大軍を率いて美作に入った。このときの毛利氏・宇喜多氏の最初の激突が、久米郡川口(現建部町川口)付近である。

 そして垪和の高城山城や鶴田城を攻めた。この戦いですでに毛利勢が劣勢に陥っていたことを、一之瀬城の久盛は知らされていたのだろう、彼は落城する前に播磨に逃げ落ちた。
【写真左】本丸に建つ社
 本丸の一角には社が建っている。だいぶ年季の入った建物だが、前の方に賽銭箱が置かれている。



竹内流捕手の誕生

 ところで久盛は幼少期から「勇壮アリ好剣ヲ」(古語伝 原文)という武将だった。竹内家は冒頭でも紹介したように弓箭(きゅうせん)すなわち、弓矢を巧みに操る一家である。  
 
 美作の小さな山城である一之瀬城に入城したころから、武芸に秀でていたこともあり、当時の一般的な武将が使う長尺物の武具より、接近戦になった時のことを考えて、小刀を使うことを編み出した。また、敵を捕らえる捕手五か条の形と、敵を搦めとる捕縄の結び方を発案し、「竹内流捕手」という柔術を広めていった。
【写真左】社の反対側
 左の男性は、最近山城に興味を持たれ、近在の城郭を訪ねているという倉敷にお住いのAさん。
 この日は午前中、岩屋城(岡山県津山市中北上)を登城し、その後こちらに向かわれたという。場所が分からず、地元の方の案内でここまできたという。

 奇しくもこれから登城しようとする管理人と一緒になった。Aさんは遺構の見方などまだ良く分からないというので、当方でよければご説明しましょうと、家内と3人で向かった。
 

 この柔術は一之瀬城が落城する前、久盛が究めていたため、落城してから3年後、久盛は一族の本拠地石丸で再会。「竹内流捕手」すなわち、「捕手腰廻小具足」をお家芸として息子たちに託した。そして、一子相伝として連綿と続き、現在に至る。
【写真左】摩利支天
 摩利支天は多くの戦国武将が信仰していたものだが、一方で忍者が結ぶ印(九字護身法)の基となっている。竹内久盛も竹内流捕手を編み出した際、この摩利支天を信仰していたと思われる。
【写真左】火霊
 摩利支天のそばには火霊を祀る祠が鎮座している。







遺構の概略

 添付絵にもあるように一之瀬城は小規模かつシンプルな城郭である。本丸・二の丸・三の丸を連郭に繋ぎ、本丸の南側にある基壇には石垣が用いられている。
 また登城道の左手にも部分的に野面積が確認できる。本丸には祠を祀ったであろう朽ち果てた建物(社)があり、摩利支天を祀る。その傍らには、部分的に欠損した五輪塔なども残っている。
 また、管理人が作図した絵に描かれている井戸を確認しようとしたが、あまりの草丈だったので写真を撮っていない。
【写真左】本丸先端部
 西側に突き出しているが、この下には三の丸から繋がる帯郭がある。
【写真左】本丸を見上げる。
 北側の斜面から見たもの。
【写真左】石積
 何か所かある石積の一つで、当時はもう少し広い範囲に敷き詰められていたと思われる。
【写真左】本丸奥の犬走付近
 本丸から下の段に降りてみたもので、少し崩れているが、囲繞していたと思われる。
【写真左】郭先端部
 南西方向に突き出した個所。
【写真左】下の段から本丸を見上げる。
東側斜面を降りてわずかに郭の形状を残す個所から見たもの。
【写真左】本丸下の段
 右側が本丸の切岸で、左が下の段。
【写真左】西麓の集落
 下山途中に見たもので、西側に数軒の家がある。
【写真左】登城口付近の分岐点
 一之瀬城の登城口付近は道の分岐点にもなっている。
 左の道を下ると旭川に繋がり、右の道を行くと、西垪和方面となり、久盛が修行を重ねたという三ノ宮がある。




竹内久盛の墓

 ところで、久盛は晩年は帰郷し、和田村石丸(現在の岡山市北区建部町和田南)に住み、後に久米郡の稲荷山城主であった原田三河守の孫・弥右衛門に世話になり、文禄4年(1595)6月6日に没したといわれている。
【写真左】竹内久盛の墓
 円形状の石積の上に久盛の五輪塔が置かれ、脇には「竹内中務大輔源久盛朝臣廟」と書かれた標柱が置かれている。









 稲荷山城というのは、現在の美咲町加美小学校の南方に所在する丘城で、ここからおよそ900m程向かった新城の陰地地区の民家の畑に久盛の墓が祀られている。

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