2013年1月9日水曜日

天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)

天霧城(あまぎりじょう)

●所在地 香川県仲多度郡多度津町吉原
●築城期 貞治年間(1362~68)
●築城者 香川氏
●高さ 382m
●別名 雨霧城
●遺構 郭・堀切・石垣その他
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年11月3日
●備考 弥谷寺(四国第71番札所)

◆解説
 天霧城は、香川県の四国88か所霊場の第71番札所である弥谷寺の北東1キロ余りにある天霧山に築かれた山城である。
【写真左】天霧城遠望
 北西部予讃線付近から見たもの。

天霧城の遠望写真としては、南側から見たものが多いが、現在この付近は採石場があり、上部の郭直近まで鋭角に切り取られ無残な姿と化している。


現地の説明板より

国指定史跡
  天霧城跡   ― 四国を代表する中世山城跡 ― (平成2年5月16日指定)

 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要害(砦)を造りだした山城です。
 古代から鎌倉時代にかけて造られた城は、そのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。
【写真上】天霧城案内図
 麓に設置されているもので、この日の登城ルートは、左下の石塁側から入って、右端の方形郭まで往き、帰りは中央部の空堀から降った。


 中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも400か所近くが確認されています。
 その中で天霧城跡は、その自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実戦的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海どの方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
【写真左】水場
 弥谷寺と天霧城の関わりはどの程度あったものかわからないが、境内に「水場」という箇所がある。

 天霧城の水の手といわれている。


 香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。

 その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
【写真左】巨大な五輪塔
 境内一角にはご覧の巨大な五輪塔をはじめ、数体の五輪塔が建立されている。

 なお、これらの五輪塔とは別に、下段に天霧城主香川氏が戦国期落城した際のものと思われる五輪塔郡が別に祀られている。


 香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。

 天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています。

    平成24年7月
    二市一町天霧城跡保存会
      事務局(善通寺市・三豊市・多度津町 各教育委員会)”
【写真左】弥谷寺本堂
 先ず本堂へ参拝し、その後天霧城へ向かうことにする。
 天霧城へはこの弥谷寺本堂から少し右(北東)へ降りていくと、道標が建ててあり、そこから向かう(後段参照)。





讃岐香川氏

 讃岐香川氏については、以前多度津城跡(香川県仲多度郡多度津町桃山)でも紹介している。
【写真左】多度津城・本丸跡付近
 香川氏が平時の住まいとしていたところで、居館跡はこの多度津城(現:桃陵公園)の東麓部にあったといわれている。

 おそらく、多度津の居館から天霧城へ往来する交通手段は、舟が利用されていたものと思われる。


現地の説明板にもあるように、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎(景政)の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部した。
 香川氏については、鎌倉期に安芸国八木城(未登城)を本拠とした安芸香川氏も鎌倉権五郎景政を祖としている。(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)参照)

 さて、讃岐香川氏だが、入部のきっかけとなったのが、正平17年・貞治元年(1362)に起こった「白峰合戦」(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)の功によって当地に封ぜられ、居館として多度津城を置き、詰城を天霧城とした。
 白峰というのは、以前取り上げた崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)の白峯寺より少し西に向かった雄山の西麓付近といわれている。

 細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が激突して始まった応仁の乱において、のちに細川四天王と呼ばれた一人が香川氏である。ちなみに、他の三人は、
である。
【写真左】天霧城主「香川家」代々の墓
 弥谷寺境内に祀られている。









墓の脇に設置された説明板より

“天霧城主「香川家」代々の墓

 天正13年8月、秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して400年詣でる人とてなく、半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方100m本堂西「西院(さいいん)」の旧跡にあった。
 昭和59年住職建林良凞が回向のため、現在地に移したものである。

 昭和61年1月23日
    三野町教育委員会
    三野町文化財保護委員会
    三野町文化財保護協会”
【写真左】天霧城登城口案内道標
 登城口としては、これより東方側と、反対の北側から登るものがあるようだが、いずれも途中で合流していく。





戦国期

 上記墓の説明板にもあるように、香川氏が滅亡するのは天正13年(1585)6月から始まった豊臣秀吉の四国攻めによる。ところで、秀吉自身はこの四国攻めに実際に参加していない。秀吉はこのころ体調が悪く、総大将となって指揮を任されたのは弟の秀長である。

 四国攻めは三方向から行われた。東方の淡路・阿波から進攻した秀長・秀次を始め、西方の伊予から入った毛利勢(小早川隆景・吉川元春)、そして天霧城を含む讃岐方面を北から攻めたのは、宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛(如水)らであった。
【写真左】登城途中の白方側からの合流点
 北西麓になる白方側からの道と合流する。
 なお、ここから本丸に向かわず白方へ向かう道は「へんろみち」でもあるようだ。


 このころ四国統一を果たして間もない長宗我部元親であったが、羽柴軍率いる総勢11万の大軍に対し、元親は約4万であった。諸戦から元親方の諸城が次々と落ち、開戦からわずか2か月で秀長に降服することになる。

 天霧城はその諸戦の戦いであったが、衆寡敵せず香川氏は滅亡した。戦後、秀吉は讃岐国を仙石秀久と十河存保(十河城(香川県高松市十川東町)参照)に分け与えた。
【写真左】隠し砦跡
 先ほどの合流点から上り勾配の道を進むと、小高いピークに至る。この頂部には「隠し砦」といわれる郭が残る。

 西側の高まりを残し、東側を削平している。
 このことから、白方方面から攻め入ってくる敵を意識したものと思われる。
幅7,8m×奥行10m前後。
【写真左】石塁
 上記の隠し砦を過ぎると、再び小さなピークがあり、そこにも郭跡らしき平坦地がある。それを越えいったん下がると、いよいよ本丸に向かう急傾斜の道が現れる。

 冒頭の遠望写真・案内図でも分かるように、登城ルートとしてもう少し楽なコースは、本丸の北西側に回り込んだところからあるらしいが、この日、たまたま地元の方と登城が一緒になり、ご案内を戴いたため、この急傾斜面のコースを選んだ。

 この石塁の下の方には、「犬返しの険」という箇所があるように、要所にはロープが設置してあり、結構足元が滑る。
【写真左】本丸・その1 南端部
 この位置が本丸側南端部で、冒頭案内図でも分かるように、南方に向かって細く突き出した形状をしている。
【写真左】本丸・その2
 途中で少し幅が広くなるが、全体に幅は狭く、10m未満の箇所が多い。

 手前には中央に大きな石があり、その周りを小さな石が配列してある。
【写真左】本丸・その3 
 東側は巨石が南北にあり、物見台も兼ねていたかもしれない。
【写真左】二の丸
 本丸を過ぎると少し右に尾根が曲がり東方に伸びていく。

 二の丸から三の丸にかけては3,4段の小さな腰郭が介在している。
【写真左】三の丸
 当城の中でもっとも幅が広くなった箇所で、北側には石塁が残り、案内図では北側に登城道が記されているが、判然としていなかった。
 
【写真左】三の丸東方の段
 三の丸を過ぎさらに東方に向かうと、さらに三の丸を囲むような帯郭が見える。
 このあとさらに東方の空堀に向かう。
【写真左】南麓の採石場が見える。
 高松自動車道からよく見える採石場で、手前に安全のためのロープが渡してあるが、この真下はほぼ垂直の崖となっている。
【写真左】堀切
 三の丸東方の帯郭を過ぎると、中規模の腰郭を2段過ぎ、最後の郭の南端部から堀切に降りる。

 当城の中でも最大のもので、深さ5~8m前後、幅(奥行)10mの規模を持つ堀切。帰りはこの写真の奥を進む下山道コースを歩いた。

 先ず、この堀切を通過して、東側の方形郭に向かう。
【写真左】外郭部
 空堀を過ぎると、しばらく平坦地を進むが、その先には4m前後の土壇形状の方形郭がある。

 この方形郭と相対するように下段の方形郭が北東端に設置されている。


【写真左】北東端の方形郭
 上記外郭からさらに東方に進むと、途中で2,3段の郭を登っていくと、最後にこの北東端の方形郭が現れる。

 方形郭群の中で最高所となり、標高は360m。したがって、本丸頂部382mより約20m低い。
【写真左】方形郭から南方を俯瞰する。
 本丸側では眺望はほとんど期待できないが、方形郭群からは、ごらんの景色が見える。

 手前左は筆ノ山(296m)、右は我拝師山(481m)、そのすぐ右に中山(439m)があり、奥の尖った山は大麻山(616m)。

 手前の麓には、四国72番札所曼茶羅寺、73番札所出釈迦寺がある。
【写真左】古井戸
 堀切箇所から帰るコースの途中にあるもので、現在でも水が残っているが、たまり水のようだ。






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