明禅寺城(みょうぜんじじょう)
●所在地 岡山県岡山市中区沢田
●築城期 永禄9年(1566)
●築城者 宇喜多直家
●高さ 標高110m(比高100m)
●遺構 郭・堀その他
●形態 海城か
●登城日 2012年9月8日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
明禅寺城は、岡山市の岡山城東方約1.5キロの操山公園内に築かれた丘陵地にあって、西麓を旭川が流れ、北から東にかけては、その支流百間川が流れている。
【写真左】明禅寺城遠望
北東部の百閒川堤防付近より見る。
現地の説明板より
“岡山市・岡山森林管理署
知っている? 明禅寺城跡
この城跡から東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市 沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城である。
【写真左】操山案内板・その1
この図は現地に設置されているもので、下方が北を示す。
明禅寺城は、この図の中央やや右下の赤い印付近に図示されている。詳細は下図参照。
なお、現在この山全体が「操山公園里山センター」を中心に公園となっており、森林浴、ハイキング、バードウォッチングなど市民憩いの場として活用されている。
【写真左】操山案内板・その2
文字が小さいためわかりずらいが、赤下地の白抜きで「里山センター」と書かれた文字の下に明禅寺城が図示されている。
この図でも分かるように、当山の北端部に配されている。
翌年に備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されたが、宇喜多直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩しと呼ばれた。
城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっている。
城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段どりと背後を遮断する堀切が遺構として確認できる程度であり、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体とした臨戦用城砦の構造であったと考えられる。”
【写真左】「里山センター」の建物と明禅寺山城
ご覧の通り公園として整備され、駐車場も広くとってあり、気持ちのいい場所である。
登城ルートはいろいろあるが、今回はセンター東の道を南に進んだコースから向かう。
明禅寺城の主郭はこの写真の右側にある。
操山付近の地勢
明禅寺城を含む操山(みさおやま)及び、それらに連なって東峰に笠井山を戴くこの山塊は、今はその周囲は陸地となっているが、おそらく当時はこの山麓部は現在の児島湾の一部として、入海であったと思われ、独立した島ではなかったと考えられる。
ただ、これは満潮時のときで、干潮時になると周辺部はおおきな砂浜(河原)が広がり、陸続きの状況も見られたのかもしれない。
このため、当城の形態をあえて「海城」として記した。
【写真左】6叉路分岐点
なだらかな道を進むと、「ふれあいの辻」箇所になるが、6叉路という多叉路に出る。ここから明禅寺城方向の道標に従って、北に向きを変える。
ここから明禅寺城までは約600m余りの距離になる。
明禅寺城の戦い
説明板にもあるように、戦国大名として徐々にその力を蓄えつつあった宇喜多直家が永禄9年(1566)に築城している。しかし、その翌年備中から三村勢が侵攻し、当城を一旦落としている。
このとき、明禅寺城には宇喜多直家は在城しておらず、家臣(城代不明)に守らせていた。永禄10年(1567)7月、三村氏による明禅寺城攻めは不意打ちの夜襲だったといわれている。
【写真左】分岐点の鞍部
しばらく歩いていくと、一旦下り鞍部が現れる。この箇所は4叉路で、まっすぐ進むと、原尾島側に出るが、ここで右に進む。
写真は振り返ってみたもので、ここから再度登るコースとなる。
その後、直家は明禅寺城奪還のため、三村氏に属していた岡山城主・金光宗高や、中島城主・中島元行らに対し、寝返りを企て、この謀計によって明禅寺城内は、一気に三村氏の孤立となった。こうした謀を成立させた後、城下において宇喜多・三村の合戦が行われ、宇喜多氏が大勝したとされる。
【写真左】土橋か
先ほどの分岐点から進み、2,3回アップダウンを繰り返していくと、ご覧の箇所にたどり着く。
一瞬土橋と思えたが、左側は元採石跡ということで、このように抉られた結果、土橋のようになっている。
採石された時期は戦国期ではないだろう。
この戦いは、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれ、宇喜多氏が後に浦上氏の被官でありながら、戦国大名としてその名をあげ、大きく飛躍していくきっかけとなった。
ところで、この戦いの後は殆ど使用されることなく、自然に廃城となったことから、いわゆる戦のための一時的城砦、すなわち「陣城」であったことが推測される。このため、遺構としては精度の高いものはあまりなく、また規模も比較的小規模なものである。
【写真左】本丸に向かう
採石付近からすでに城域に入っていると思われるが、ここから階段を登って本丸区域に入る。
なお、この階段下に細長い郭が認められる。
【写真左】本丸・その1
南北約30m×幅平均10m程度の平坦地で、この写真ではわからないが、西側には3段の小郭を設け、後ほど紹介する北側には2段の郭を設けている。
【写真左】本丸・その2
本丸北東部には巨石でかこまれた深さ3,4mほどの壕が残る。
この壕はそのまま北東部に下がり、途中で段が切れる。
自然地形で残っていたものか、築城時に加工されたものか不明だが、防御的にはかなり効果があったものと思われる。
【写真左】本丸・その3
同上のもので、堀の反対側(東側)に回り込んで撮ったもの。
【写真左】本丸・その4
上記の東側で囲繞された箇所で、この左側はそのまま急峻な崖となっている。
巨石だが、やはり意識的に配置されたものと思えるが、どうだろう。
【写真左】本丸から北西に岡山市街地を見る
眺望はあまり期待できないが、北西方向には岡山の町並みや、岡山城が俯瞰できる。
【写真左】本丸その5
本丸北端部にはご覧の展望休憩所が設けられている。
【写真左】北側の郭
帰りは本丸の北端部を降りていくコースをとったが、本丸との比高10~15m下がった位置からしばらく長い平坦地が続く。
長さは100m前後はあったと思われ、北方の守備としては十分な規模を持つものだろう。
【写真左】下山途中から見上げる
帰りは、東斜面を九十九折しながら降って行ったが、この箇所は相当な急傾斜となっている。
外から見る以上に要害性がある。
【写真左】沢田山 恩徳寺
東麓に建立されている寺院で、山門の前には鳥居があり、寺院の向背には竪巌稲荷権現が祀られている。
高野山真言宗、中国49薬師霊場第8番・備前薬師霊場第8番・備前最上稲荷霊場
縁起によれば、天平勝宝2年、行基菩薩みずから等身大の薬師如来をきざみて以て創立す、とある。
従って、明禅寺合戦のころすでにあったということだが、おそらくその時は戦火にあい一時焼失したのだろう。
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◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
明禅寺城は、岡山市の岡山城東方約1.5キロの操山公園内に築かれた丘陵地にあって、西麓を旭川が流れ、北から東にかけては、その支流百間川が流れている。
【写真左】明禅寺城遠望
北東部の百閒川堤防付近より見る。
現地の説明板より
“岡山市・岡山森林管理署
知っている? 明禅寺城跡
この城跡から東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市 沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城である。
【写真左】操山案内板・その1
この図は現地に設置されているもので、下方が北を示す。
明禅寺城は、この図の中央やや右下の赤い印付近に図示されている。詳細は下図参照。
なお、現在この山全体が「操山公園里山センター」を中心に公園となっており、森林浴、ハイキング、バードウォッチングなど市民憩いの場として活用されている。
【写真左】操山案内板・その2
文字が小さいためわかりずらいが、赤下地の白抜きで「里山センター」と書かれた文字の下に明禅寺城が図示されている。
この図でも分かるように、当山の北端部に配されている。
翌年に備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されたが、宇喜多直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩しと呼ばれた。
城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっている。
城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段どりと背後を遮断する堀切が遺構として確認できる程度であり、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体とした臨戦用城砦の構造であったと考えられる。”
【写真左】「里山センター」の建物と明禅寺山城
ご覧の通り公園として整備され、駐車場も広くとってあり、気持ちのいい場所である。
登城ルートはいろいろあるが、今回はセンター東の道を南に進んだコースから向かう。
明禅寺城の主郭はこの写真の右側にある。
操山付近の地勢
明禅寺城を含む操山(みさおやま)及び、それらに連なって東峰に笠井山を戴くこの山塊は、今はその周囲は陸地となっているが、おそらく当時はこの山麓部は現在の児島湾の一部として、入海であったと思われ、独立した島ではなかったと考えられる。
ただ、これは満潮時のときで、干潮時になると周辺部はおおきな砂浜(河原)が広がり、陸続きの状況も見られたのかもしれない。
このため、当城の形態をあえて「海城」として記した。
【写真左】6叉路分岐点
なだらかな道を進むと、「ふれあいの辻」箇所になるが、6叉路という多叉路に出る。ここから明禅寺城方向の道標に従って、北に向きを変える。
ここから明禅寺城までは約600m余りの距離になる。
明禅寺城の戦い
説明板にもあるように、戦国大名として徐々にその力を蓄えつつあった宇喜多直家が永禄9年(1566)に築城している。しかし、その翌年備中から三村勢が侵攻し、当城を一旦落としている。
このとき、明禅寺城には宇喜多直家は在城しておらず、家臣(城代不明)に守らせていた。永禄10年(1567)7月、三村氏による明禅寺城攻めは不意打ちの夜襲だったといわれている。
【写真左】分岐点の鞍部
しばらく歩いていくと、一旦下り鞍部が現れる。この箇所は4叉路で、まっすぐ進むと、原尾島側に出るが、ここで右に進む。
写真は振り返ってみたもので、ここから再度登るコースとなる。
その後、直家は明禅寺城奪還のため、三村氏に属していた岡山城主・金光宗高や、中島城主・中島元行らに対し、寝返りを企て、この謀計によって明禅寺城内は、一気に三村氏の孤立となった。こうした謀を成立させた後、城下において宇喜多・三村の合戦が行われ、宇喜多氏が大勝したとされる。
【写真左】土橋か
先ほどの分岐点から進み、2,3回アップダウンを繰り返していくと、ご覧の箇所にたどり着く。
一瞬土橋と思えたが、左側は元採石跡ということで、このように抉られた結果、土橋のようになっている。
採石された時期は戦国期ではないだろう。
この戦いは、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれ、宇喜多氏が後に浦上氏の被官でありながら、戦国大名としてその名をあげ、大きく飛躍していくきっかけとなった。
ところで、この戦いの後は殆ど使用されることなく、自然に廃城となったことから、いわゆる戦のための一時的城砦、すなわち「陣城」であったことが推測される。このため、遺構としては精度の高いものはあまりなく、また規模も比較的小規模なものである。
【写真左】本丸に向かう
採石付近からすでに城域に入っていると思われるが、ここから階段を登って本丸区域に入る。
なお、この階段下に細長い郭が認められる。
【写真左】本丸・その1
南北約30m×幅平均10m程度の平坦地で、この写真ではわからないが、西側には3段の小郭を設け、後ほど紹介する北側には2段の郭を設けている。
【写真左】本丸・その2
本丸北東部には巨石でかこまれた深さ3,4mほどの壕が残る。
この壕はそのまま北東部に下がり、途中で段が切れる。
自然地形で残っていたものか、築城時に加工されたものか不明だが、防御的にはかなり効果があったものと思われる。
【写真左】本丸・その3
同上のもので、堀の反対側(東側)に回り込んで撮ったもの。
【写真左】本丸・その4
上記の東側で囲繞された箇所で、この左側はそのまま急峻な崖となっている。
巨石だが、やはり意識的に配置されたものと思えるが、どうだろう。
眺望はあまり期待できないが、北西方向には岡山の町並みや、岡山城が俯瞰できる。
【写真左】本丸その5
本丸北端部にはご覧の展望休憩所が設けられている。
【写真左】北側の郭
帰りは本丸の北端部を降りていくコースをとったが、本丸との比高10~15m下がった位置からしばらく長い平坦地が続く。
長さは100m前後はあったと思われ、北方の守備としては十分な規模を持つものだろう。
【写真左】下山途中から見上げる
帰りは、東斜面を九十九折しながら降って行ったが、この箇所は相当な急傾斜となっている。
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