2013年1月18日金曜日

備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)

備中・猿掛城(びっちゅう・さるかけじょう)その1

●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷
●指定 町指定史跡
●高さ 230m(比高200m)
●築城期 元久2年(1205)、又は南北朝初期
●築城者 庄左衛門資政
●城主 庄氏・毛利氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・空堀・馬場・井戸その他
●登城日 2012年11月16日

◆解説(参考文献『矢掛町・真備町指定史跡 備中猿掛山城跡概要 横谷歴史と文化の会編』、『日本城郭体系第13巻』等)

 奈良時代に活躍した学者・政治家である吉備真備(きびのまび)の出身地といわれる真備町(現倉敷市)と、小田郡矢掛町の間に聳える猿掛山に築かれた山城である。

 猿掛山の北麓を流れる小田川沿いには、江戸期の山陽道が東西に走り、西隣の矢掛町は宿場町として栄え、参勤交代のための本陣や脇本陣が残る。
【写真左】猿掛城遠望
 北麓を流れる小田川西方より見る。

小田川を下ると、本流高梁川と合流するが、その東方対岸には南北朝期激戦のあった備中・福山城(岡山県総社市清音三因)、及び幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1が控える。



現地の説明板より

“矢掛町重要文化財
猿掛城跡(史跡)
    指定日・平成8年4月1日
    所在地・矢掛町大字横谷小字平林

 築城年代については定かでないが、武蔵国の武士・庄家長が源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと伝えられている。
【写真左】登山略図
 猿掛城の登城は2012年だが、その前の2011年7月にも麓まで行っている。この図はその時撮ったものだが、2回目のときはこの図がなかったように記憶している。

 登城コースは、ご覧の通り、北麓の小田川側から民家の間を進み、①大手道と②搦手道の二つがある。この日は①の道を見過ごし、険しい②の道から向かった。


 城の最盛期は庄元資のころであった。元資の後を継いだ為資は、備中松山城主となり、猿掛城は一族に守らせた。
 その後、1575年(天正3年)毛利元清が最後の城主として入城、在城となった。
 城は標高約230mの所にあり、堀切・土塁・本丸・二~六の丸・寺丸・大夫丸等多くの遺構が残されており、保存状態も良い。
    矢掛町教育委員会”
【写真左】妹山城遠望
 小田川を挟んで対岸の北方に聳える山城で、南北朝期、武家方(尊氏は)の真壁・陶山氏らが宮方の庄氏に対する向城として当城に拠った。





庄氏

 猿掛城の築城者である庄氏(荘氏)については、これまで備中松山城(岡山県高梁市内山下)幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1亀迫城(岡山県井原市西江原町)並びに、国吉城(岡山県高梁市川上町七地)でも少し触れているが、その系譜については、諸説があり確定したものがどれなのかはっきりしない点がある。
 ここでは、「岡山県古文書集」を参考に記す。
  • 大織冠鎌足 ⇒ 
  • (23)家長 ⇒ (24)頼家 ⇒ (25)頼房 ⇒ (26)頼澄 ⇒ (27)房時 ⇒ (28)頼資 ⇒ (29)資房 ⇒ (30)資氏 ⇒
  • (31)資政 ⇒ (32)資昭 ⇒ (33)氏貞 ⇒ (34)氏敬 ⇒ (35)元資 ⇒ (36)為資 ⇒
  • (37)高資 ⇒ (38)勝資 ⇒ (39)資直 ⇒ (40)直清 ⇒ (41)直明 ⇒ (42)直法 ⇒ (43)直勝 ⇒ (44)時直
【写真左】登城口
 小田川の川土手側に案内板がある。車はこの箇所より少し西の方の所に停め、ここから歩いて向かう。








 ここで、23代家長の代のとき初めて庄氏を名乗るが、家長から30代資氏までは、上述の総社市の幸山城を居城とした。

 そして31代資政すなわち、庄左衛門資政のとき、矢掛に移り、猿掛城の初代城主となる。資政は、文和2年・正平8年(1353)、南朝方に属して北畠顕能に従い、北朝方の執事高師直としばしば合戦に及んだ。
【写真左】宝篋印塔
 民家を過ぎた畑地の脇にあったもので、下部は新しい底板で建立されている。庄氏一族のものだろうか。






 その後の庄氏については、惣領を中心とした記録と、庶流の記録などが複雑に絡み、今一つ整理されていない点があるが、室町期に入ってからは、備中守護細川氏の守護代として活躍していることが分かっている。

 やがて、応仁・文明の乱(1467~77)が始まると、備中国も東西両軍に分かれた激戦地となった。そして、その動きはさらに下剋上へと発展していく。明応元年(1492)、35代元資は、守護職であった細川勝久に反旗を翻した。京にあった勝久は帰国後元資を鎮圧したが、すでに時代の流れは戦国時代への幕開けでもあった。
【写真左】登城道・搦手道
 大手道との分岐点があったのだが、見過ごしてしまい、そのまま搦手道を進んだ。
 途中から落石や流石による渓流のような険しい状況が続く。



 天文2年(1533)、為資の代になると、勢威著しく、小田川の本流・高梁川を登った備中松山城(岡山県高梁市内山下)の城主・上野伊豆守を攻め滅ぼし、為資はここに猿掛城から高梁の名城・松山城の城主となった。そして、猿掛城には、一族の庄実近を城代として置いた。

 庄氏が備中松山城を支配してから20年後の天文22年(1553)、既に備後を支配下に置いていた毛利氏の支援を受け、成羽の三村家親が猿掛城に攻め入った。この戦いは雌雄ようとして着かず、和睦の形がとられ、家親の長子元祐を庄為資の後継者とし、為資は永禄元年(1558)没した。
【写真左】猿掛城略図
 下方が北を示す。
 この日の登城ルートは、左図でいえば、右側の搦手道から登り、最初に3か所の倉庫(郭段)を過ぎ、三の丸から本丸に向かった。

 その後、Uターンし、下段の四の丸~六の丸と降り、大夫丸・寺丸へと至り下山するコースを選んだ。









 元亀2年(1571)、備中松山城の城主であった37代・庄高資は、毛利元清及び三村家親連合軍の攻城にあい討死、その首級は猿掛城へ送られた。三村家親はその後5年間松山城主となる。

 高資の子で38代・庄勝資は、このため一時出雲の尼子氏に属し、鴨方の細川氏などを攻めたりしたが、出雲に退いた。
【写真左】最下段の倉庫跡
 南北に延びる小郭で、幅4m前後×奥行10m前後の規模。

 この上にはさらに2段の倉庫跡とされる郭があるが、最上段のものは帯郭の役目も兼ねていたと思われる。




 天正2年(1574)、毛利氏に属していた三村氏は、敵対していた宇喜多氏が毛利氏に属したことによって、毛利氏と断絶した。

 これによって、松山城にあった三村元親は毛利氏に攻め落とされ、さらには、猿掛城にあった三村兵部も同じく落とされた。こうして、備中兵乱は一応の幕を引くことになり、猿掛城には毛利元清が入城した。
【写真左】三の丸下段入口
 搦手側から登り、最上段の倉庫を抜けると、三の丸下段(四の丸)にたどり着く。
 ここから上に向かう。







 天正10年(1582)、秀吉(信長)による西国攻めにおいて、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)が包囲された時、毛利輝元は猿掛城を本陣とした。

 高松城攻めの和睦ののち、猿掛城は元清から、宍戸隆家が城番を務めたが、関ヶ原の合戦により、毛利氏の防長移封によって毛利氏支配は終わりを告げた。その後江戸期に入り、備中松山城に入った小堀遠州の管轄となったが、猿掛城はほどなく廃城となった。
【写真左】三の丸
 『日本城郭体系』では、郭の名称を「丸」ではなく、「壇」としているが、当城の中ではもっとも長い郭である。

 長軸75mで、幅はくびれ部で12~15m、最大幅28.6mである。
【写真左】井戸跡
 三の丸から二の丸に向かう途中の西側に認められるもので、かなり埋まった状況だが、直径は3m近くありそうである。

 なお、この近くには西側に大手門といわれた虎口跡があるとされるが、大分遺構が劣化している。
【写真左】二の丸
 三の丸北端部から1m程度上がった位置に二の丸がある。

 東西23m×南北20mの規模で小ぶりである。
【写真左】土塁・その1
 二の丸を過ぎ、本丸の入口付近から、東端部はこのような土塁が取り巻く。
【写真左】土塁・その2
 土塁の上端幅は平均して1~1.5m程度で、このまま本丸の南側まで回り込んでいる。
【写真左】本丸南端部
 傾斜がきついためか、降る際の補助としてロープが設置してある。これを伝って降りると堀切があるが、当日はそこまで向かっていない。

もっともこのロープは大分劣化していて、あまりあてにならないようだ。
【写真左】本丸
 本丸の南端部から振り返ってみたもので、左(東側)に土塁が伸びて来ている。

なお、本丸の規模は、不定の方形で、長さ37.5m×幅15~26mの規模を持つ。
【写真左】巽の出丸
 本丸西側の下7~8m下には細長い帯郭状の「巽(たつみ)の出丸」が付随している。
 この出丸はそのまま連続して、北に延び三の丸下付近で、一段下がり、六の丸脇まで伸びる馬場となって続く。

 ここで、再び三の丸まで戻り、次に四の丸に向かうが、今稿はここまでとし、次稿で四の丸以降について紹介したいと思う。

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