鞠智城(くくちじょう、又は、きくちじょう)
●所在地 熊本県山鹿市菊鹿町米原
●指定 国指定史跡
●別名 菊池城
●高さ 145m前後
●形態 古代山城
●築城期 7世紀後半
●登城日 2015年2月24日
◆解説(参考文献・資料 HP「熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館」、『中世武士選書 菊池武光』川添昭二著等)
鞠智城は、「くくちじょう」又は「きくちじょう」と呼称する。本稿では次稿で予定している菊池氏の菊池城(きくちじょう)と混乱を避けるため、「くくちじょう」とする。
【写真左】鞠智城
写真:八角形鼓楼(ころう)
復元されたものだが、国内にある他の古代山城にはあまり例をみないもので、これによく似たものが韓国の二聖山城にもあるという。
さて、この鞠智城は現在の熊本県山鹿市菊鹿町(きくかまち)米原(よなばる)付近に所在する古代山城である。また、当城が所在する米原の南方には、前述した南北朝期に活躍する菊池氏の本拠があった菊池市が接している。
【写真左】鞠智城跡周辺案内図
当城周辺には、南東部に菊池神社(菊池城)、北東部に隈部氏館跡、北東部には田中城などがそれぞれ所在している。
【写真左】再現図
当時の状況を再現し、さらに観光史蹟として建てられた施設も併せて描いたものである。
主だったものとしては、冒頭の八角形鼓楼を始め、米倉、兵舎、宮野礎石群、板倉、北の門礎、西側土塁、灰塚、池の尾門跡、南側土塁、堀切門跡、深迫門跡などが描かれている。
現地説明板
“鞠智城
鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。
このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで、九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう)(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。
鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。”
古代山城の分布
古代山城に関してはこれまで筑前・大野城・その1(福岡県大野城市・宇美町)などでその都度取り上げているが、当地にも主だったものが分布図によって表記されている。
【写真左】古代山城の分布図
文字が小さいため分かりにくいが、この図では、古代山城を、
(1)朝鮮式山城
(2)神籠石式(系)山城
(3)奈良時代山城
と定義している。
そして、九州方面では(1)の朝鮮式山城として、鞠智城を始め、大野城、基肄城、金田城(対馬)があり、四国では屋嶋城(香川県高松市屋島東町) を挙げている。
【写真左】深迫門跡(ふかさかもんあと)
この付近の土は脆いのか、ブルーシートが要所にかけてある。
説明板より
“深迫門跡
深迫門跡は、城域の南東隅に所在し、標高は123mをはかります。これまでの発掘調査によって、地元で「長者どんの的石(まといし)」と古くから呼ばれてきた門礎石1基のほか、版築工法による土塁やそれに伴う柱穴、石列などが確認されるとともに須恵器などが出土しています。
【写真左】門礎石
この石には真円に近い穴が掘られている。
版築土塁は谷部を挟んだ南北両側で見つかり、それぞれ高さが4m以上あり、裾部には土留めのための石列を置く構造となっています。また、同じく土塁裾部からは、1.8m間隔で並ぶ柱穴が南土塁で7基、北土塁で8基見つかっていますが、これらの柱穴は版築で土塁を築く際に用いた支柱の痕跡であると考えられています。”
【写真左】堀切門跡
城域の南側にあり、標高122mの位置になる。下段で示す門礎石1基のほか、門跡、道路跡(側溝併設)、城壁などが確認されている。
【写真左】門礎石
堀切門跡に残るこの石には、2か所の軸摺穴があり、この穴で門扉の軸を受けていたといわれる。
また、当該城域内に残る城門跡の中で、唯一門跡の原位置が判明している。
【写真左】南側土塁線附近
城域南外郭線上にあり、東西に伸びている。その外側の崖面は比高差20~30mをはかり、「屏風岩ライン」とも呼ばれている。
【写真左】南側土塁線付近から西にのびる谷を見る。
この谷には現在でも田圃が残り、耕作もされているようだ。このあと下に降りていく。
【写真左】谷間
整備された道のため高低差は無いように思われるが、下に降りて上を見上げるとかなりの比高差を感じる。
【写真左】池ノ尾門跡
鞠智城の城域では最も低い箇所で、標高は90m。
ここにも写真にあるように軸摺穴が1か所残る門礎石が1基あり、石塁、通水溝、盛土状遺構などが確認されている。
写真の奥は城外となる。このあと、再び谷を遡り灰塚展望所に向かう。
【写真左】堀切か
現地には特段説明するようなものは設置されていないので、分からないが、自然地形でできた小谷にも見えるし、人工的に掘削された堀切にも見える。
左に向かうと、灰塚展望所、右に向かうと長者山展望広場休憩所に繋がる。この谷間に橋が架かっている。
【写真左】長者山展望広場
橋を介して、灰塚展望所側からみたもの。
右斜面は険阻な傾斜面で、手前の斜面もかなり傾斜があるため階段が設置してある。
【写真左】灰塚展望所に向かう
上記の橋を渡って西を見ると、ご覧の様に郭状の形のものが数段構築されている。
【写真左】灰塚展望所
頂部を始めこの付近はきれいに整備され、四周の眺望が楽しめる。
【写真左】展望所から南西方面を俯瞰する。
鞠智城の西麓から南麓にかけて流れるのが、菊池川だが、その支流である迫間川附近の海抜は30m前後である。
おそらく鞠智城が築かれた頃は、有明海から菊池川を遡り当城の麓まで船を使った水運が用いられ、陸路と併せて大野城や大宰府に盛んに物資などが運ばれていたのだろう。
【写真左】不動岩を遠望する
展望所から北西の方向には、独特の形をした奇岩「不動岩」が顔をのぞかせている。
往古この岩を本尊として修行に励んだといわれている。
【写真左】礎石群
鞠智城跡にはこうした建物跡の礎石群が数か所見られる。
このうち、宮野礎石群(49号建物跡)は、3間×9間の総柱のもので、調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、瓦葺屋根であったことが分かっている。
こうした点は大野城にも共通する。
【写真左】板倉復元建物(第5号建物跡)
3間×4間の掘立柱建物で、総柱であったことから高床式の倉庫であったと考えられている。
また、配置から考えて「兵庫」すなわち、「武器庫」であると推定されている。
因みに、六国史(正史)という史料によれば、天安2年(858)、貞観17年(875)及び、元慶3年(879)に、鞠智城院の「兵庫」の鼓が自ら鳴る、などとする記述が残されている。
【写真左】兵舎復元建物(16号建物跡)
側柱(がわばしら)のみの掘立柱建物。3間×10間の大型建物。柱径は30cm程度。
防人(さきもり)といわれた兵士が寝起きしていた兵舎で、50人程度の兵士が生活していたとされる。
●所在地 熊本県山鹿市菊鹿町米原
●指定 国指定史跡
●別名 菊池城
●高さ 145m前後
●形態 古代山城
●築城期 7世紀後半
●登城日 2015年2月24日
◆解説(参考文献・資料 HP「熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館」、『中世武士選書 菊池武光』川添昭二著等)
鞠智城は、「くくちじょう」又は「きくちじょう」と呼称する。本稿では次稿で予定している菊池氏の菊池城(きくちじょう)と混乱を避けるため、「くくちじょう」とする。
【写真左】鞠智城
写真:八角形鼓楼(ころう)
復元されたものだが、国内にある他の古代山城にはあまり例をみないもので、これによく似たものが韓国の二聖山城にもあるという。
さて、この鞠智城は現在の熊本県山鹿市菊鹿町(きくかまち)米原(よなばる)付近に所在する古代山城である。また、当城が所在する米原の南方には、前述した南北朝期に活躍する菊池氏の本拠があった菊池市が接している。
【写真左】鞠智城跡周辺案内図
当城周辺には、南東部に菊池神社(菊池城)、北東部に隈部氏館跡、北東部には田中城などがそれぞれ所在している。
【写真左】再現図
当時の状況を再現し、さらに観光史蹟として建てられた施設も併せて描いたものである。
主だったものとしては、冒頭の八角形鼓楼を始め、米倉、兵舎、宮野礎石群、板倉、北の門礎、西側土塁、灰塚、池の尾門跡、南側土塁、堀切門跡、深迫門跡などが描かれている。
現地説明板
“鞠智城
鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。
このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで、九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう)(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。
鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。”
古代山城の分布
【写真左】古代山城の分布図
文字が小さいため分かりにくいが、この図では、古代山城を、
(1)朝鮮式山城
(2)神籠石式(系)山城
(3)奈良時代山城
と定義している。
そして、九州方面では(1)の朝鮮式山城として、鞠智城を始め、大野城、基肄城、金田城(対馬)があり、四国では屋嶋城(香川県高松市屋島東町) を挙げている。
【写真左】深迫門跡(ふかさかもんあと)
この付近の土は脆いのか、ブルーシートが要所にかけてある。
説明板より
“深迫門跡
深迫門跡は、城域の南東隅に所在し、標高は123mをはかります。これまでの発掘調査によって、地元で「長者どんの的石(まといし)」と古くから呼ばれてきた門礎石1基のほか、版築工法による土塁やそれに伴う柱穴、石列などが確認されるとともに須恵器などが出土しています。
【写真左】門礎石
この石には真円に近い穴が掘られている。
版築土塁は谷部を挟んだ南北両側で見つかり、それぞれ高さが4m以上あり、裾部には土留めのための石列を置く構造となっています。また、同じく土塁裾部からは、1.8m間隔で並ぶ柱穴が南土塁で7基、北土塁で8基見つかっていますが、これらの柱穴は版築で土塁を築く際に用いた支柱の痕跡であると考えられています。”
【写真左】堀切門跡
城域の南側にあり、標高122mの位置になる。下段で示す門礎石1基のほか、門跡、道路跡(側溝併設)、城壁などが確認されている。
【写真左】門礎石
堀切門跡に残るこの石には、2か所の軸摺穴があり、この穴で門扉の軸を受けていたといわれる。
また、当該城域内に残る城門跡の中で、唯一門跡の原位置が判明している。
【写真左】南側土塁線附近
城域南外郭線上にあり、東西に伸びている。その外側の崖面は比高差20~30mをはかり、「屏風岩ライン」とも呼ばれている。
【写真左】南側土塁線付近から西にのびる谷を見る。
この谷には現在でも田圃が残り、耕作もされているようだ。このあと下に降りていく。
【写真左】谷間
整備された道のため高低差は無いように思われるが、下に降りて上を見上げるとかなりの比高差を感じる。
【写真左】池ノ尾門跡
鞠智城の城域では最も低い箇所で、標高は90m。
ここにも写真にあるように軸摺穴が1か所残る門礎石が1基あり、石塁、通水溝、盛土状遺構などが確認されている。
写真の奥は城外となる。このあと、再び谷を遡り灰塚展望所に向かう。
【写真左】堀切か
現地には特段説明するようなものは設置されていないので、分からないが、自然地形でできた小谷にも見えるし、人工的に掘削された堀切にも見える。
左に向かうと、灰塚展望所、右に向かうと長者山展望広場休憩所に繋がる。この谷間に橋が架かっている。
【写真左】長者山展望広場
橋を介して、灰塚展望所側からみたもの。
右斜面は険阻な傾斜面で、手前の斜面もかなり傾斜があるため階段が設置してある。
【写真左】灰塚展望所に向かう
上記の橋を渡って西を見ると、ご覧の様に郭状の形のものが数段構築されている。
【写真左】灰塚展望所
頂部を始めこの付近はきれいに整備され、四周の眺望が楽しめる。
【写真左】展望所から南西方面を俯瞰する。
鞠智城の西麓から南麓にかけて流れるのが、菊池川だが、その支流である迫間川附近の海抜は30m前後である。
おそらく鞠智城が築かれた頃は、有明海から菊池川を遡り当城の麓まで船を使った水運が用いられ、陸路と併せて大野城や大宰府に盛んに物資などが運ばれていたのだろう。
【写真左】不動岩を遠望する
展望所から北西の方向には、独特の形をした奇岩「不動岩」が顔をのぞかせている。
往古この岩を本尊として修行に励んだといわれている。
【写真左】礎石群
鞠智城跡にはこうした建物跡の礎石群が数か所見られる。
このうち、宮野礎石群(49号建物跡)は、3間×9間の総柱のもので、調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、瓦葺屋根であったことが分かっている。
こうした点は大野城にも共通する。
【写真左】板倉復元建物(第5号建物跡)
3間×4間の掘立柱建物で、総柱であったことから高床式の倉庫であったと考えられている。
また、配置から考えて「兵庫」すなわち、「武器庫」であると推定されている。
因みに、六国史(正史)という史料によれば、天安2年(858)、貞観17年(875)及び、元慶3年(879)に、鞠智城院の「兵庫」の鼓が自ら鳴る、などとする記述が残されている。
【写真左】兵舎復元建物(16号建物跡)
側柱(がわばしら)のみの掘立柱建物。3間×10間の大型建物。柱径は30cm程度。
防人(さきもり)といわれた兵士が寝起きしていた兵舎で、50人程度の兵士が生活していたとされる。