伊予・横山城(いよ・よこやまじょう)
●所在地 愛媛県松山市麓
●指定 愛媛県指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 建武年間(1334~36)
●築城者 河野通武
●城主 河野氏・南氏
●遺構 堀切・郭・馬場等
●登城日 2015年2月8日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等
伊予・横山城(以下「横山城」とする)は、旧北条市麓にあった城砦で、南北朝時代河野氏が本拠とした湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)の背後の守りとして築かれたといわれる。
【写真左】太鼓岩(天狗岩)
細長い尾根を東に進んで行くと、本丸にたどり着く。
写真はこの本丸にある大きな岩で、太鼓岩(天狗岩)とも呼ばれている。
現地の説明板
“横山城跡
愛媛県指定文化財(史跡)
昭和28年2月13日指定
横山城跡は、ここから尾根伝いに歩いて約5分のところにあり、場所は横山の山頂にあたる。
現在は樹木に覆われてはっきりわからないが、大小さまざまな、柱穴と思われる穴があいた岩、岩に穴をあけて造った貯水槽、井戸等の遺構も点在し、六つの郭で構成されていたといわれる。横山城跡は、戦国時代の城郭の構造を研究する上で貴重な資料となっている。
【写真左】横山城略図
登城口付近に設置された看板に描かれているもので、登城口から本丸に至るまでに、10か所の堀切があり、先端部の本丸の右側には馬乗り駄馬という郭も付随している。
横山城の築城は、河野通盛が根拠地を風早から道後湯築城に移した建武年間(1334~1338)といわれ、湯築城の背後、北方を固める役目を負っていた。
初代城主は、河野氏の一族の河野通武で、その後、子孫が南氏を名乗って代々、城主であった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐のとき、小早川隆景が東予地方から風早郡に攻め入り、落城したと伝えられる。
松山市
松山市教育委員会”
【写真左】「横山城跡散策(片道400m、徒歩約5分)」と書かれた資料
上の略図と重複するが、隣接する松山市野外活動センターが作成したこの資料も入手できる。
河野宗家と土居・得能の対立
横山城が築かれた南北朝期、伊予では河野氏宗家の河野通盛が北朝方を支援し、同氏支族の土居・得能氏(由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)参照)らは南朝方に属していた。説明板にもあるように、宗家通盛が道後湯築城に築いたとき、この横山城の北方河野川沿いに、高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)をはじめとし、高穴城(愛媛県松山市横谷)、雄甲城(おんこうじょう)・雌甲城(めんこうじょう)などが配置され、横山城はいわばこれらの城砦と湯築城との連絡する位置に当たっている。
【写真左】堀切・その1
登城口は野外活動センターの北西端の所にあり、そこから尾根伝いに向かう。前半の箇所で5条の堀切が出てくる。
登城口側が、当時の搦手側であったと思われるが、野外活動センターの施設ができたため、はっきりとは分からないが、この個所(東南側)からの侵入を阻止するため、五条の堀切が出来たものと思われる。
四国征伐
秀吉による四国征伐のとき、横山城主は河野氏侍大将十八将の一人・南美作守通方であった。
これより先の元亀3年(1572)、新居郡高峠城(西条市)の石川通清(土居構(愛媛県西条市中野日明)参照)が、阿波の三好氏に通じ河野氏に反旗を掲げた。横山城主・南通方は河野氏の命により高峠城を攻撃している。
【写真左】堀切・その2
その後、通方は天正10年(1582)、横山城より東方3.7キロにあった宅並城(松山市小川)の城主栗山左衛門尉通妙と双方の領民による水争いから対立、通妙によって通方は謀殺された。このあと、横山城は通方の嫡男彦四郎通具が跡を継いだが、まもなく秀吉による四国征伐が始まり、小早川隆景による攻略によって落城した。
【写真左】連続堀切
前半の五条堀切のうちのひとつで、特にこの箇所は近接している。
現在は鞍部のような道となって簡単に歩けるが、この付近の尾根幅は狭く、当時の堀切はもっと深く抉られ、簡単に移動できなかったものと思われる。
【写真左】ここから南斜面のコースをとる。
先ほどまではほぼ尾根中央部に道があったが、このあたりから左に回り込み、南斜面を進む。
なお、この右側の尾根頂部が東西に長い郭として連続する。
【写真左】南斜面の道
全体に尾根斜面は傾斜があるため、道は狭く、一部崩れている箇所もある。
また、この日は少雨だったこともあり、濡れた枯葉の上を歩くため、度々足元をすくわれた。
【写真左】途中の郭頂部に登る。
かなり長い間斜面の道を歩いていたため、途中で登れそうな箇所から尾根頂部に向かった。
狭い尾根であるため、まとまった幅を確保した郭ではないが、長手方向では高低差があまりないため、伐採などすれば見ごたえのある郭が再現されるだろう。
【写真左】削平された郭
本丸手前約100m辺りだったと思うが、このあたりから整備された郭が出てきた。
【写真左】本丸東部の巨石
次第に岩肌が露出したものが多くなり、巨石が見えてくる。
【写真左】柱穴の残る巨石
本丸には、既述したように「太鼓岩」又は「天狗岩」などと呼ばれる巨石がある。
写真は南側にある巨石で、ご覧の通り柱穴らしきものが数か所認められる。
【写真左】本丸・その1
本丸付近から尾根は左に曲がり、巨石の下には削平された郭が見える。
【写真左】本丸・その2
巨石の西側に広がる郭で、奥行は10m前後か。
なお、郭面には不揃いながら礎石のような平たいものがみえる。簡単な建物が建っていたのかもしれない。
【写真左】巨石の上に設置された構造物
コンクリート製の構造物で、どういう目的で設置されたのか分からないが、手水(ちょうず)のようなものだろうか。
【写真左】本丸から西方を俯瞰する。
この日は霞んでいたが、西麓には北条の町並みや、斎灘(いつきなだ)が見える。
このあと、北側に伸びる「馬乗り駄馬」に向かう。
【写真左】馬乗り駄馬・その1
中央に見える白いものはシートで、なにか補修した跡のようだ。
【写真左】馬乗り駄馬・その2
さらに先に進むと、巨石が点在した郭となっている。
おそらく、この先に大手道があったと考えられる。
●所在地 愛媛県松山市麓
●指定 愛媛県指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 建武年間(1334~36)
●築城者 河野通武
●城主 河野氏・南氏
●遺構 堀切・郭・馬場等
●登城日 2015年2月8日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等
伊予・横山城(以下「横山城」とする)は、旧北条市麓にあった城砦で、南北朝時代河野氏が本拠とした湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)の背後の守りとして築かれたといわれる。
【写真左】太鼓岩(天狗岩)
細長い尾根を東に進んで行くと、本丸にたどり着く。
写真はこの本丸にある大きな岩で、太鼓岩(天狗岩)とも呼ばれている。
現地の説明板
“横山城跡
愛媛県指定文化財(史跡)
昭和28年2月13日指定
横山城跡は、ここから尾根伝いに歩いて約5分のところにあり、場所は横山の山頂にあたる。
現在は樹木に覆われてはっきりわからないが、大小さまざまな、柱穴と思われる穴があいた岩、岩に穴をあけて造った貯水槽、井戸等の遺構も点在し、六つの郭で構成されていたといわれる。横山城跡は、戦国時代の城郭の構造を研究する上で貴重な資料となっている。
登城口付近に設置された看板に描かれているもので、登城口から本丸に至るまでに、10か所の堀切があり、先端部の本丸の右側には馬乗り駄馬という郭も付随している。
横山城の築城は、河野通盛が根拠地を風早から道後湯築城に移した建武年間(1334~1338)といわれ、湯築城の背後、北方を固める役目を負っていた。
初代城主は、河野氏の一族の河野通武で、その後、子孫が南氏を名乗って代々、城主であった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐のとき、小早川隆景が東予地方から風早郡に攻め入り、落城したと伝えられる。
松山市
松山市教育委員会”
【写真左】「横山城跡散策(片道400m、徒歩約5分)」と書かれた資料
上の略図と重複するが、隣接する松山市野外活動センターが作成したこの資料も入手できる。
河野宗家と土居・得能の対立
横山城が築かれた南北朝期、伊予では河野氏宗家の河野通盛が北朝方を支援し、同氏支族の土居・得能氏(由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)参照)らは南朝方に属していた。説明板にもあるように、宗家通盛が道後湯築城に築いたとき、この横山城の北方河野川沿いに、高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)をはじめとし、高穴城(愛媛県松山市横谷)、雄甲城(おんこうじょう)・雌甲城(めんこうじょう)などが配置され、横山城はいわばこれらの城砦と湯築城との連絡する位置に当たっている。
【写真左】堀切・その1
登城口は野外活動センターの北西端の所にあり、そこから尾根伝いに向かう。前半の箇所で5条の堀切が出てくる。
登城口側が、当時の搦手側であったと思われるが、野外活動センターの施設ができたため、はっきりとは分からないが、この個所(東南側)からの侵入を阻止するため、五条の堀切が出来たものと思われる。
四国征伐
秀吉による四国征伐のとき、横山城主は河野氏侍大将十八将の一人・南美作守通方であった。
これより先の元亀3年(1572)、新居郡高峠城(西条市)の石川通清(土居構(愛媛県西条市中野日明)参照)が、阿波の三好氏に通じ河野氏に反旗を掲げた。横山城主・南通方は河野氏の命により高峠城を攻撃している。
【写真左】堀切・その2
その後、通方は天正10年(1582)、横山城より東方3.7キロにあった宅並城(松山市小川)の城主栗山左衛門尉通妙と双方の領民による水争いから対立、通妙によって通方は謀殺された。このあと、横山城は通方の嫡男彦四郎通具が跡を継いだが、まもなく秀吉による四国征伐が始まり、小早川隆景による攻略によって落城した。
【写真左】連続堀切
前半の五条堀切のうちのひとつで、特にこの箇所は近接している。
現在は鞍部のような道となって簡単に歩けるが、この付近の尾根幅は狭く、当時の堀切はもっと深く抉られ、簡単に移動できなかったものと思われる。
【写真左】ここから南斜面のコースをとる。
先ほどまではほぼ尾根中央部に道があったが、このあたりから左に回り込み、南斜面を進む。
なお、この右側の尾根頂部が東西に長い郭として連続する。
【写真左】南斜面の道
全体に尾根斜面は傾斜があるため、道は狭く、一部崩れている箇所もある。
また、この日は少雨だったこともあり、濡れた枯葉の上を歩くため、度々足元をすくわれた。
【写真左】途中の郭頂部に登る。
かなり長い間斜面の道を歩いていたため、途中で登れそうな箇所から尾根頂部に向かった。
狭い尾根であるため、まとまった幅を確保した郭ではないが、長手方向では高低差があまりないため、伐採などすれば見ごたえのある郭が再現されるだろう。
【写真左】削平された郭
本丸手前約100m辺りだったと思うが、このあたりから整備された郭が出てきた。
【写真左】本丸東部の巨石
次第に岩肌が露出したものが多くなり、巨石が見えてくる。
【写真左】柱穴の残る巨石
本丸には、既述したように「太鼓岩」又は「天狗岩」などと呼ばれる巨石がある。
写真は南側にある巨石で、ご覧の通り柱穴らしきものが数か所認められる。
【写真左】本丸・その1
本丸付近から尾根は左に曲がり、巨石の下には削平された郭が見える。
【写真左】本丸・その2
巨石の西側に広がる郭で、奥行は10m前後か。
なお、郭面には不揃いながら礎石のような平たいものがみえる。簡単な建物が建っていたのかもしれない。
【写真左】巨石の上に設置された構造物
コンクリート製の構造物で、どういう目的で設置されたのか分からないが、手水(ちょうず)のようなものだろうか。
【写真左】本丸から西方を俯瞰する。
この日は霞んでいたが、西麓には北条の町並みや、斎灘(いつきなだ)が見える。
このあと、北側に伸びる「馬乗り駄馬」に向かう。
【写真左】馬乗り駄馬・その1
中央に見える白いものはシートで、なにか補修した跡のようだ。
【写真左】馬乗り駄馬・その2
さらに先に進むと、巨石が点在した郭となっている。
おそらく、この先に大手道があったと考えられる。
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