2013年1月29日火曜日

翁山城(広島県府中市上下町上下)

翁山城(おきなやまじょう)

●所在地 広島県府中市上下町上下
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 長谷部氏
●城主 長谷部氏
●高さ 538m(比高160m)
●遺構 郭
●備考 翁山城跡公園
●指定 府中市指定史跡
●登城日 2007年12月26日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 翁山城を訪れたのは2007年で、6年も前の登城である。本丸跡といわれる頂部付近が公園となっていたため、明確な遺構がはっきりせず、このため写真は撮ったものの印象が薄く、段々と記憶が薄らぎ、投稿を保留していた城砦である。
【写真左】翁山城遠望
 麓の上下町の町から見たもの。











 当城の所在地は上下町(じょうげちょう)という変わった地名である。現在合併により府中市になっているが、江戸時代は石見銀山から瀬戸内に向かう銀山街道の宿場町として栄えた。また、その名の由来は、同町中心部が、北方の江の川と、南方の芦田川両水系の分水嶺になっていることから、ここで上(北)と下(南)に分かれているという意味からきている。
【写真左】翁山城案内図
 当城の西麓を南北に走る国道432号線(石見銀山街道)や、JR福塩線が走る。
 南麓には後述する善昌寺がある。




現地の説明板より

“府中市指定史跡「翁山城址(護国山城址)」
      町指定 平成8年9月20日
所在/上下町字上下

 「平家物語」の「信連合戦」に記されている高倉殿に仕えていた長谷部信連の流れをくむといわれる城主長谷部氏は、南北朝争乱の時北朝方に属し、南朝方有福城竹内氏との戦をはじめ数々の戦に参加して戦功をたてたので、暦応3年(1340)上下の地頭に任ぜられ、前地頭斉藤氏の後、丹下城を賜り根拠地としていた。
【写真左】本丸跡・その1
 車で頂部まで向かうことができるが、道は頗る狭い。また公園となっているものの、もともと本丸の規模は74m×16mという細長い形であるため、駐車台数も4,5台も程度が限度である。


 その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門尉元信により領域は拡大され、居城もこの地に移されたものである。

 山は傾斜急峻で比高160m余り20くらいの郭を配し、要所は石垣を築く等、全山を城郭化している堅固な山城であった。関ヶ原合戦の後毛利氏の萩移転に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住し、当城は廃城となったといわれる。
     平成15年3月
     府中市教育委員会”
【写真左】本丸・その2
 車道としての道が設置されたため、当時の遺構がはっきりしないが、本丸の東側に小郭が一段下がった所に残る。





長谷部信連とその一族
 
 翁山城の築城者は長谷部信連とされている。

 信連(長左兵衛尉)は、後白河法皇の第二子以仁王(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)に仕えていたが、治承4年(1180)平家打倒の企てが知られるところとなり、王宮に一人留まって平家と戦うも捕えられた。その後、死罪を免れ一時伯耆国金持に配流された。
【写真左】本丸から上下の街並みを俯瞰する。
 北方方面を見たもので、右側に県道三原・東城線が走る。







 文治元年(1185)平家滅亡後、赦免され自由の身となった信連は、後に鎌倉に出仕するまで、現在の鳥取県日野町地区(下榎・土居)において開拓に励んでいる。そして、当地日野町にある長楽寺は信連再建の寺院といわれている。
【写真左】醫雲山 長楽寺
所在地 鳥取県日野郡日野町下榎875








 こうしたことから、おそらく備後の上下町に長谷部氏がいたことは、信連の一族がその後、隣国の備後にも残り、扶植していった背景があるのだろう。

 さて、翁山城の築城者並びに城主とされる長谷部氏については、説明板の通りであるが、築城期については諸説がある。
 『西備名区』という史料によれば、長谷部信連が平家追討に土肥実平安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1参照)と西進し、その戦功によって幕府から矢野荘を与えられ、信連自身が翁山城を築いたとされている。
【写真左】ご満悦の眺望?
 山城探訪同伴犬として駆け出しの頃







 ただ、『芸藩通誌』によれば、信連の子良連が建久3年(1221)に当地にきたとあり、信連自身が翁山城を築いたというのは断定できないと思われる。

 南北朝期に至ると、説明板にある戦歴とは別に、建武3年(延元元年・1336)長谷部信仲は、南朝方の城砦であった世羅郡重永城を攻めている(「山内首藤家文書」)。このころが、おそらく翁山城に入る前の南方にあった丹下城を居城としていたものと思われる。
【写真左】翁座
 この建物は中世史跡ではなく、大正時代に建てられた芝居小屋兼映画館の建物で、今では県下でもこうしたものはほとんどないという。

 大友柳太郎・高田浩吉・鶴田浩二などなつかしい往年の銀幕スターも、当館の舞台に立ったという。
 あの頃の時代劇映画は、理屈抜きで楽しめた。古き良き時代だったかもしれない。


 室町期に至ると、当国守護職であった山名氏に従い、応仁・文明の乱などで活躍している。その後、出雲の尼子経久の支配が及ぶと、尼子氏に属することになるが、長谷部氏11代元政の代になる戦国後半期には、安芸国の毛利元就の傘下に入った。

 翁山城の築城者の一人とされているのが、この第11代元政である。おそらく、元政は尼子氏から離れ、毛利氏に属した当初、尼子氏からの攻撃を想定し、当城をより堅固なものとしたのだろう。そして、12代元信に至って、本格的な整備を行い、完成させたものと思われる。

善昌寺

 翁山城の南麓には、長谷部氏ゆかりの善昌寺という寺院がある。
【写真左】善昌寺山門
 向背の山が翁山城





現地の説明板より

“曹洞宗 護国山善昌寺

本尊    千手観世音菩薩(伝 安阿弥正作)
開山    (臨済開山始祖)佛心慧燈国師辨翁智訥禅師(ぶっしんえとうこくしべんのうちとつぜんし)
       (曹洞開山)関叟梵機大和尚(かんそうはんきだいおしょう)
       (曹洞法地開山)雪嶺梵積大和尚(せつれいぼんせきだいおしょう)
開基    丹下城主(たんがのじょうしゅ) 斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公
中興開基 翁山城主 長谷部加賀守元信公
【写真左】善昌寺本堂



(略縁起)
 護国山善昌寺は、後醍醐天皇の御代、鎌倉幕府の地頭職として当地に下向された丹下城主斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公が開基大檀那となり、臨済宗法燈派の佛心慧燈国師辨翁智訥禅師を請し、正中2年(1325)、10年の歳月を費やして創建された。

 辨翁智訥禅師は、後に後村上天皇の帝師となられ、国師号を授けられるなど比類稀な傑僧であったが、南北朝時代が南朝方の滅亡で終わると共に禅師の名声も歴史より抹殺されてしまった。
【写真左】大鬼瓦
 当院の前にはこうした特徴のある鬼瓦や棟瓦などが陳列してある。



 創建百有余年後、外護者を失い衰微していた当寺を備中国西江原(岡山県井原市)、法泉寺関叟梵機大和尚が慨き、長禄2年(1458)、曹洞宗に改めて再興。

 その後、教俊和尚が、足利幕府地頭職翁山城主長谷部加賀守元信公の絶大な外護によって34年の歳月をかけ諸堂伽藍を再興し、法地開山雪嶺梵積大和尚を経て現在に至っている。


【写真左】坐禅堂
 正中2年(1325)創建された堂である。

 この年は、鎌倉北条執権体制が次第に崩れ、後醍醐天皇が討幕計画を画策する頃でもあり、その首謀者とされた日野資朝が佐渡島に配流されることになる。


上下町指定重要文化財(昭和40年9月10日指定)

坐禅堂   善昌寺創建当時の建物で現存する唯一のもの。

鴬張り廊下 永禄3年(1560)本堂の再建にあたり、京都より名工を招いて造らせたと伝えられ、今なお妙音を響かせている。”

2013年1月22日火曜日

鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)

鴨山城(かもやまじょう)

●所在地 岡山県浅口市鴨方町鴨方
●別名 鴨方城・加茂山城・石井山城・清竜山城
●築城期 応永14年(1407)
●築城者 細川満国
●高さ 標高168m(比高140m)
●遺構 郭等
●登城日 2012年11月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備中・鴨山城は、前稿「猿掛城」のある矢掛町から南西約10キロほどむかった浅口市鴨方にある鴨山に築かれた山城である。
【写真左】鴨山城の石碑
 当城四ノ檀附近に祀られている。










 築城者は細川満国といわれ、鴨山城の麓には城主細川氏とかかわりの深い長川寺(ちょうせんじ)という寺院がある。

 鴨山城そのものの説明を表記したものはないが、戦国末期当院を中興した細川通董(みちただ)の墓が祀られ、その脇に彼の事績が記されている。なお、一部判読不明な箇所があり、それらは○印としている。
【写真左】鴨山城遠望
 麓の長川寺付近から見たもの。











“鴨山城主7代
 細川通董公墓碑

 従五位下 下野守通董公は、天文4年鴨山城主5代晴国の嫡男として出生、伊予国宇摩郡川之江に在城後、6代輝政の継嗣として毛利氏と盟約を結び、永禄2年笠岡大島青佐山(在城7年)・鴨方六条院竜王山(在城9年)を経て、天正3年(1575)鴨山城に入り、一門の栄誉を継承した。
【写真左】長川寺
 本堂をはじめ山門など最近新しく建替えられたようだ。



 菩提寺長川寺の諸堂修復、寺領○20石をはじめ、近隣寺社への浄財の寄進とともに、伝統文化や地域産業の振興に寄与するなど、名君の誉れが高かった。

 その治領は備中浅口・小田二郡・伊予宇摩・温泉二郡、松山にも及んだ。天正15年(1587)豊臣秀吉の筑紫征討の際、毛利氏に随伴出陣、その帰途赤間関(下関)で客死した。
 その霊骸は家臣によってこの地に葬られたが、元和年間山崩れにより諸堂什器流失の惨事のため、○○○5年改替再建立された。(以下文字不鮮明のため省略)”
【写真左】細川通董の墓
 宝篋印塔や五輪塔といった形式のものではないようだ。







備中守護細川氏

 室町幕府が最も安定していたのは応永年間(1394~1428)のころである。このころ、現在の岡山県下にあって、美作国と備前国は、明徳の乱で山名氏を倒した赤松氏(義則)が守護として支配し、幕府内では侍所の任をもって四職の一人とされ、備中国においては、三管領の一翼を担った細川氏が守護として君臨した。
【写真左】登城口
 登城コースは麓の長川寺側から徒歩で登るものと、北側の尾根沿いに設置された道路を車で向かう二つのものがある。この日は車で向かった。
 ここから歩いて数分で本丸へたどり着く。写真は数台分確保できる駐車場付近。


 そして同国守護代には前稿で紹介した庄氏と石川氏があてられた。
 しかし、この守護領国体制も30有余年後の応仁年間に至って、さまざまな矛盾が露呈し崩壊していくことになる。そして未曽有の大乱応仁の乱の勃発がここに始まる。
【写真左】一の檀附近
 鴨山城は南北に細長く伸びた尾根を利用して築城されて、長さ約300m、幅平均20mという規模を持つ。

 北端部に「一ノ壇」という郭を置き、そこから南にやや弓なりに下って「二ノ壇(おそらくこれが主郭か)」から「五ノ檀」まで続く。「五ノ檀」からさらに数10メートル下った所には「陽の郭」という単独の郭があるが、物見櫓などがあったものと思われる。
【写真左】磨崖仏
 鴨山城にはこうした磨崖仏が彫られた巨石が点在している。







 ところで、備中守護職細川氏については、『日本城郭体系第13巻(藤井駿「備中守護の細川氏について」』で、この鴨山城の項で特記されている。これによれば、同守護の流れは次のように整理される。

   備中守護    氏名
  1. 初代      細川 頼之(管領)
  2. 2代       細川 満之(頼之の実弟)
  3. 3代       細川 頼重(満之の次男)
  4. 4代       細川 氏久(頼重の子)
  5. 5代       細川 勝久(氏久の子)
  6. 6代       細川 之持(初代頼之の弟詮春の末孫)
  7. 7代       細川 政春(鴨山城主2代持春の孫)
【写真左】一ノ檀から西方を俯瞰する。
 この辺りも巨石で構成されている箇所が多い。








鴨山城主細川氏

 そして、鴨山城主初代は、同守護初代頼之の孫(頼元の次男)満国から始まる。満国の生没年は不明だが、父頼元は応永4年(1397)に没しているので、満国が生まれたのは南北朝後半期であろう。

 満国の兄・満元は父の家督及び管領職も受け継ぎ、主として幕府の要職を務めていくことになる。
【写真左】二ノ檀付近
 幅12m×長さ30m余りでかなり広い。この郭からさらに下段の三ノ檀との比高差は3m以上もあり、事実上の主郭とされている。




 鴨山城主の流れは次の通り。
  1. 初代   細川 満国(頼之の孫)
  2. 2代    細川 持春(満国の子)
  3. 3代    細川 教春(持春の子)
  4. 4代    細川 政国(管領満元の次男持賢の養子)
  5. 5代    細川 晴国(守護7代政春の次男)
  6. 6代    細川 通政(晴国の養子)
  7. 7代    細川 通董(晴国の子又は、通政の子)
 このように、鴨山城主としての流れも、管領・守護職であった細川氏一族の中で錯雑したものとなっている。
 細川氏一族の系譜については、嫡流をはじめ、その分流も多岐にわたり、非常に複雑である。詳細は省くが、鴨山城主の細川氏についていえば、嫡流(吉兆家)の分流の一つとされる野洲家の流れである。
【写真左】四ノ檀
 三ノ檀と四ノ檀の境ははっきりしない状況だが、四ノ檀は幅が狭くなるものの、長さはかなりあり、50m以上を測る。
 この先には五ノ檀が尾根先端部に控える。



 築城したのは、初代満国である。説明板にもあるように、このころ満国は、備中国浅口郡・同国矢田郷、そして四国伊予国の宇摩郡・温泉郡、さらには関西の摂津国小林上下庄、丹波国畑之庄など広範囲な領地を治めていた。
【写真左】石碑
 冒頭で紹介した石碑の裏側で、「五ノ檀」付近に建立されている。細川氏家臣の末裔が建立したと記銘されている。




 前々稿備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)で紹介した庄氏などは、南北朝から室町初期のころまで細川氏(吉兆家)の家内衆として支えていた。

その後、応仁の乱などをはじめ幾多の戦乱が当地にも及び、一旦これらの領地を失うことになる。

細川通董

 再び浅口鴨方に細川氏の再興を打ち立てたのが、初代満国から数えて7代目の通董である。通董の生誕年は、天文4年(1535)とされている。
【写真左】巨石
 麓から見ると、特徴あるこれら巨石が突出しているように見える。








 この翌年の天文5年(1536)出雲の尼子経久・晴久は備中・美作を攻略、さらに翌6年には東に進んで播磨に攻め入った(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)。そして翌7年11月、赤松政村は淡路に敗走、本願寺光教は経久に戦勝祝を送った。

 これに対し、翌天文8年10月、淡路に敗走していた赤松政村は、阿波国細川持隆を頼み、備中国で逆襲を試みるも、再び敗れた(「証如日記」)。
【写真左】五之檀先端部から鴨方の町並みを見る。
 この位置から登城道が下まで続いている。中央部には長川寺が見え、鴨方の町並みが広がる。


 このころ、細川氏の被官(守護代)であった庄為資は、尼子氏に与していた。備中国攻めにおいて尼子氏が優位に立てたのも、この庄氏の力によるところが大きい。

 備中国における細川氏・野洲家はこうした大きな流れの中で、否応なく当地(備中国)を離れなければならなくなった。

 通董が最初に在城したのが、瀬戸内を渡った伊予宇摩郡の川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)であるが、当城の幕下としてしばらく留まることになる。この地は当時細川氏の領地でもあった。その後、尼子氏の備中支配が弱まると、再び当地に戻り旧領回復を目指すことになる。
【写真左】青佐山城(おうさやまじょう)遠望
 現在の浅口市と西隣笠岡市の境にある山城で、標高249m。水島灘(瀬戸内)が南方に拡がる。当時瀬戸内に浮かぶ島だったと考えられ、典型的な水軍城だったと思われる。


 備中国に戻ったのは永禄2年(1559)といわれている。このころから毛利氏の支援を受けていたようで、最初に瀬戸内側の浅口郡大島村に上陸し、青佐山城を築城し、以後7年間在城した。

 同9年(1566)には鴨方町六条院に移り、龍王山城を築城(9年間在城)。そして、天正3年(1575)父祖伝来の鴨山城に入ることになる。

 鴨山城に入城した通董はその後、南北にそれぞれ支城を配置した。北方には杉山城・西知山城、南方には初期の居城であった龍王山城・青佐山城などである。しかし、室町期に隆盛を誇った名族細川氏の勢威は、戦国末期にはもはや衰微のものとなっていた。
写真左】鴨山城から南方を見る。
 おそらくこの視界に支城・龍王山城などが入っていると思われる。

 なお、鴨山城の支城ではないが、左側に見える山は、泉山(H:221m)といわれ、これも山城といわれている。



 通董は鴨山城に入城するころ、同国国吉城(岡山県高梁市川上町七地)攻めにおいて毛利氏に従軍している。備中国守護職としてその名を高めた細川氏は、備中兵乱の時代にあって、安芸国の国人領主だった毛利氏の傘下として参戦せざるを得なかったのである。

そして関ヶ原の合戦後、通董の子・元通は、浅口少輔九郎と名乗り、長州藩主毛利秀元の客将としてこの地を去った。末孫はそのまま長州で明治維新を迎えているという。

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片島城(岡山県倉敷市片島町)

2013年1月20日日曜日

備中・猿掛城・その2(岡山県小田郡矢掛町横谷)

備中・猿掛城(びっちゅう・さるかけじょう)その2

●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷
●登城日 2012年11月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿では前稿に引き続いて、猿掛城の四の丸から下方の遺構、および庄氏関連の寺院を併せて紹介したい。
【写真左】四の丸
 手前が四の丸郭部だが、その奥は三の丸の切崖である。比高5m前後とかなりの高さを保つ。

 四の丸の規模は、12m×20mとややこぶりなもの。
【写真左】石列
 前稿では紹介していなかったが、三の丸やこの四の丸・五の丸のほぼ中央部には南北に長くこのような2列に並んだ石列が残る。

 『日本城郭体系』では、何らかの建造物を物語るもの、としている。実際、本丸では礎石配列と思わせる遺構が確認できたが、三の丸から下方の石列は、その配置から考えて建造物のものではないような気がする。

 いずれ紹介する予定にしている播磨の「置塩城」などにもこうした石列状のものが散見されるが、これはほぼ生活及び雨水排水のための側溝跡で、猿掛城に配置された石列はこれとは異質な用途と思われる。不可解である。
【写真左】五の丸
 四の丸から1.5m下がったところに五の丸が控える。

 32m×25mの規模で、ここで軸線が北東に20度程度振れていく。
【写真左】六の丸
 この郭も上段より1.5m下がり、幅25mの規模となっている。

 一応この六の丸までが、本丸から連続するいわゆる連郭式郭群の構成をなしている。

 六の丸からさらに数十メートル下がっていくと、次の「大夫丸」が出丸の一つとして配置されている。
【写真左】大夫丸・その1
 前稿で紹介した内容と重複する部分もあるが、猿掛合戦の結果は事実上庄氏の敗北に近い形であった。
 このため、毛利方(三村氏)によって、城代庄実近は幽閉に近い扱いを受けることになる。その場所がこの「大夫丸」といわれている。


 現地の説明板より

“大夫丸(たゆうまる)の由来

 天文2年(1533)、猿掛城主の庄為資(しょうためすけ)は松山城へ移り、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。

 その際、為資は一族の庄実近を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553)、毛利元春(吉川元春)の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。
【写真左】大夫丸・その2

 しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年(1554)三村家親の長男の三村元祐が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。
    矢掛町教育委員会
    猿掛城跡へ登る会実行委員会”

 昭和の大戦中、この場所が炭焼き場として使用されたが、郭段(3段)の遺構は当時のままだという。
【写真左】寺丸・その1
 大夫丸の尾根筋から逸れて、大手道を下っていくと、途中で「寺丸」という小郭が現れる





現地の説明板より

“寺丸の由来
 
 延徳4年(1492)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は、孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。
 庄元資は、香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。
【写真左】寺丸・その2
 礎石などが残る。

 寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
 のち、庄氏は永正5年(1508)に山麓の椿原に洞松寺(とうしょうじ)の末寺・見性寺(けんしょうじ)を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。
    矢掛町教育委員会
    猿掛城へ登る会実行委員会”
【写真左】寺丸・その3
 猿掛城からの眺望はあまり期待できないが、この寺丸からは西方を俯瞰できる。

 中央の川は小田川で、上流部の矢掛の町並みが少し見える。





洞松寺(とうしょうじ)

●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷3798
●山号 舟木山
●宗派 曹洞宗
●本尊 宝冠釈迦如来
●創建 天智天皇時代(伝)
●探訪日 2012年7月11日

◆解説
 猿掛城の西麓の谷を南に約2キロほど登った谷間にある寺院で、当城主の菩提寺とされている。
【写真左】洞松寺山門
 如何にも禅寺といった趣がある。











現地の説明板より

“舟木山 洞松寺
 
 洞松寺は山号を舟木山といい、曹洞宗の禅寺で応永19年(1412)に喜山性讃(きさんしょうさん)という名僧が再興しました。猿掛城主庄氏毛利元清の帰依を受け、最盛期には備中国を中心に1,200の末寺を従えた中本山として栄えました。
【写真左】もう一つの山門
 上の写真にある山門とは別に、この手前にも山門があり、その脇には「下馬」と刻銘された石碑が建つ。
手前にあるので、総門ということだろうか。


 その存在は室町時代より地域を代表する寺院として、猿掛城主の菩提寺として歴史的ゆかりが深く、境内全域が町の史跡として指定を受けています。

 また、喜山性讃・恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)の頂相(ちんそう)彫刻(県指定)をはじめ、洞松寺山門(町指定)や毛利元清宝篋印塔(町指定)、庄元資宝篋印塔(町指定)が現存し、洞松寺の歴史ひいては備中地域の歴史を物語る上ではなくてはならないものといえます。
【写真左】本堂
 参詣したこの日はちょうど改修工事の真っ最中のようで、中のほうは入ることはできなかった。

 境内でたまたま背の高い剃髪した若い修行僧に出合った。驚いたことにこの方は、女性で出身は確かオーストラリアだったと記憶している。他にも外国人の方がいるようで、どうやら当院はこうした外国の方にも門戸を開いて行う修験道場でもあるらしい。

 猿掛城主・庄氏のことについて聞いたところ、未だ自分は日本に来て日が浅く、お答えできないと大変丁寧に詫びられ、却ってこちらの方が恐縮してしまった。

 なかでも洞松寺文書は、文安5年(1448)9月27日の庄資冬田地沽券(でんじこけん)をはじめ、室町時代から戦国時代にかけての田地沽券や寄進状、寺領関係文書が一括して保存されており、当該時期の備中南部を拠点とした地方武士のあり方や、経済活動の一端をうかがえる貴重な史料として歴史的評価が高く、平成16年3月に岡山県重要文化財に指定されました。

 また、寺宝として伝世する室町期の古備前の壺・瓶も町の重要文化財に指定されています。これら多くの重要文化財の一部は、矢掛町教育委員会が寄託をうけ保管しています。
  矢掛町教育委員会”
【写真左】庄元資の墓
 町重要文化財(石造美術)で、相輪上部などが欠損しているが、関西形式としての古さを伝えていると記されている。
【写真左】毛利元清の墓?
 付近には何も紹介するようなものがなく、分からないが、おそらくこの宝篋印塔が毛利元清の墓と思われる。












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洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)

2013年1月18日金曜日

備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)

備中・猿掛城(びっちゅう・さるかけじょう)その1

●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷
●指定 町指定史跡
●高さ 230m(比高200m)
●築城期 元久2年(1205)、又は南北朝初期
●築城者 庄左衛門資政
●城主 庄氏・毛利氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・空堀・馬場・井戸その他
●登城日 2012年11月16日

◆解説(参考文献『矢掛町・真備町指定史跡 備中猿掛山城跡概要 横谷歴史と文化の会編』、『日本城郭体系第13巻』等)

 奈良時代に活躍した学者・政治家である吉備真備(きびのまび)の出身地といわれる真備町(現倉敷市)と、小田郡矢掛町の間に聳える猿掛山に築かれた山城である。

 猿掛山の北麓を流れる小田川沿いには、江戸期の山陽道が東西に走り、西隣の矢掛町は宿場町として栄え、参勤交代のための本陣や脇本陣が残る。
【写真左】猿掛城遠望
 北麓を流れる小田川西方より見る。

小田川を下ると、本流高梁川と合流するが、その東方対岸には南北朝期激戦のあった備中・福山城(岡山県総社市清音三因)、及び幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1が控える。



現地の説明板より

“矢掛町重要文化財
猿掛城跡(史跡)
    指定日・平成8年4月1日
    所在地・矢掛町大字横谷小字平林

 築城年代については定かでないが、武蔵国の武士・庄家長が源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと伝えられている。
【写真左】登山略図
 猿掛城の登城は2012年だが、その前の2011年7月にも麓まで行っている。この図はその時撮ったものだが、2回目のときはこの図がなかったように記憶している。

 登城コースは、ご覧の通り、北麓の小田川側から民家の間を進み、①大手道と②搦手道の二つがある。この日は①の道を見過ごし、険しい②の道から向かった。


 城の最盛期は庄元資のころであった。元資の後を継いだ為資は、備中松山城主となり、猿掛城は一族に守らせた。
 その後、1575年(天正3年)毛利元清が最後の城主として入城、在城となった。
 城は標高約230mの所にあり、堀切・土塁・本丸・二~六の丸・寺丸・大夫丸等多くの遺構が残されており、保存状態も良い。
    矢掛町教育委員会”
【写真左】妹山城遠望
 小田川を挟んで対岸の北方に聳える山城で、南北朝期、武家方(尊氏は)の真壁・陶山氏らが宮方の庄氏に対する向城として当城に拠った。





庄氏

 猿掛城の築城者である庄氏(荘氏)については、これまで備中松山城(岡山県高梁市内山下)幸山城(岡山県総社市清音三因)・その1亀迫城(岡山県井原市西江原町)並びに、国吉城(岡山県高梁市川上町七地)でも少し触れているが、その系譜については、諸説があり確定したものがどれなのかはっきりしない点がある。
 ここでは、「岡山県古文書集」を参考に記す。
  • 大織冠鎌足 ⇒ 
  • (23)家長 ⇒ (24)頼家 ⇒ (25)頼房 ⇒ (26)頼澄 ⇒ (27)房時 ⇒ (28)頼資 ⇒ (29)資房 ⇒ (30)資氏 ⇒
  • (31)資政 ⇒ (32)資昭 ⇒ (33)氏貞 ⇒ (34)氏敬 ⇒ (35)元資 ⇒ (36)為資 ⇒
  • (37)高資 ⇒ (38)勝資 ⇒ (39)資直 ⇒ (40)直清 ⇒ (41)直明 ⇒ (42)直法 ⇒ (43)直勝 ⇒ (44)時直
【写真左】登城口
 小田川の川土手側に案内板がある。車はこの箇所より少し西の方の所に停め、ここから歩いて向かう。








 ここで、23代家長の代のとき初めて庄氏を名乗るが、家長から30代資氏までは、上述の総社市の幸山城を居城とした。

 そして31代資政すなわち、庄左衛門資政のとき、矢掛に移り、猿掛城の初代城主となる。資政は、文和2年・正平8年(1353)、南朝方に属して北畠顕能に従い、北朝方の執事高師直としばしば合戦に及んだ。
【写真左】宝篋印塔
 民家を過ぎた畑地の脇にあったもので、下部は新しい底板で建立されている。庄氏一族のものだろうか。






 その後の庄氏については、惣領を中心とした記録と、庶流の記録などが複雑に絡み、今一つ整理されていない点があるが、室町期に入ってからは、備中守護細川氏の守護代として活躍していることが分かっている。

 やがて、応仁・文明の乱(1467~77)が始まると、備中国も東西両軍に分かれた激戦地となった。そして、その動きはさらに下剋上へと発展していく。明応元年(1492)、35代元資は、守護職であった細川勝久に反旗を翻した。京にあった勝久は帰国後元資を鎮圧したが、すでに時代の流れは戦国時代への幕開けでもあった。
【写真左】登城道・搦手道
 大手道との分岐点があったのだが、見過ごしてしまい、そのまま搦手道を進んだ。
 途中から落石や流石による渓流のような険しい状況が続く。



 天文2年(1533)、為資の代になると、勢威著しく、小田川の本流・高梁川を登った備中松山城(岡山県高梁市内山下)の城主・上野伊豆守を攻め滅ぼし、為資はここに猿掛城から高梁の名城・松山城の城主となった。そして、猿掛城には、一族の庄実近を城代として置いた。

 庄氏が備中松山城を支配してから20年後の天文22年(1553)、既に備後を支配下に置いていた毛利氏の支援を受け、成羽の三村家親が猿掛城に攻め入った。この戦いは雌雄ようとして着かず、和睦の形がとられ、家親の長子元祐を庄為資の後継者とし、為資は永禄元年(1558)没した。
【写真左】猿掛城略図
 下方が北を示す。
 この日の登城ルートは、左図でいえば、右側の搦手道から登り、最初に3か所の倉庫(郭段)を過ぎ、三の丸から本丸に向かった。

 その後、Uターンし、下段の四の丸~六の丸と降り、大夫丸・寺丸へと至り下山するコースを選んだ。









 元亀2年(1571)、備中松山城の城主であった37代・庄高資は、毛利元清及び三村家親連合軍の攻城にあい討死、その首級は猿掛城へ送られた。三村家親はその後5年間松山城主となる。

 高資の子で38代・庄勝資は、このため一時出雲の尼子氏に属し、鴨方の細川氏などを攻めたりしたが、出雲に退いた。
【写真左】最下段の倉庫跡
 南北に延びる小郭で、幅4m前後×奥行10m前後の規模。

 この上にはさらに2段の倉庫跡とされる郭があるが、最上段のものは帯郭の役目も兼ねていたと思われる。




 天正2年(1574)、毛利氏に属していた三村氏は、敵対していた宇喜多氏が毛利氏に属したことによって、毛利氏と断絶した。

 これによって、松山城にあった三村元親は毛利氏に攻め落とされ、さらには、猿掛城にあった三村兵部も同じく落とされた。こうして、備中兵乱は一応の幕を引くことになり、猿掛城には毛利元清が入城した。
【写真左】三の丸下段入口
 搦手側から登り、最上段の倉庫を抜けると、三の丸下段(四の丸)にたどり着く。
 ここから上に向かう。







 天正10年(1582)、秀吉(信長)による西国攻めにおいて、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)が包囲された時、毛利輝元は猿掛城を本陣とした。

 高松城攻めの和睦ののち、猿掛城は元清から、宍戸隆家が城番を務めたが、関ヶ原の合戦により、毛利氏の防長移封によって毛利氏支配は終わりを告げた。その後江戸期に入り、備中松山城に入った小堀遠州の管轄となったが、猿掛城はほどなく廃城となった。
【写真左】三の丸
 『日本城郭体系』では、郭の名称を「丸」ではなく、「壇」としているが、当城の中ではもっとも長い郭である。

 長軸75mで、幅はくびれ部で12~15m、最大幅28.6mである。
【写真左】井戸跡
 三の丸から二の丸に向かう途中の西側に認められるもので、かなり埋まった状況だが、直径は3m近くありそうである。

 なお、この近くには西側に大手門といわれた虎口跡があるとされるが、大分遺構が劣化している。
【写真左】二の丸
 三の丸北端部から1m程度上がった位置に二の丸がある。

 東西23m×南北20mの規模で小ぶりである。
【写真左】土塁・その1
 二の丸を過ぎ、本丸の入口付近から、東端部はこのような土塁が取り巻く。
【写真左】土塁・その2
 土塁の上端幅は平均して1~1.5m程度で、このまま本丸の南側まで回り込んでいる。
【写真左】本丸南端部
 傾斜がきついためか、降る際の補助としてロープが設置してある。これを伝って降りると堀切があるが、当日はそこまで向かっていない。

もっともこのロープは大分劣化していて、あまりあてにならないようだ。
【写真左】本丸
 本丸の南端部から振り返ってみたもので、左(東側)に土塁が伸びて来ている。

なお、本丸の規模は、不定の方形で、長さ37.5m×幅15~26mの規模を持つ。
【写真左】巽の出丸
 本丸西側の下7~8m下には細長い帯郭状の「巽(たつみ)の出丸」が付随している。
 この出丸はそのまま連続して、北に延び三の丸下付近で、一段下がり、六の丸脇まで伸びる馬場となって続く。

 ここで、再び三の丸まで戻り、次に四の丸に向かうが、今稿はここまでとし、次稿で四の丸以降について紹介したいと思う。