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2018年4月26日木曜日

筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)

筒井城(つついじょう)

●所在地 奈良県大和郡山市筒井町
●形態 平城
●築城期 永享元年(1429)又は、南北朝期
●築城者 筒井氏
●城主 筒井順覚、順弘、順永、順尊、順賢、順興、藤松(順昭)、藤勝(順慶)、越智氏、古市氏、松永氏等
●廃城年 天正8年(1580)
●遺構 堀、井戸等
●登城日 2015年12月1日

◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)

 筒井城は前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)から南に凡そ3.5キロほど下った筒井町に所在した平城とされている。
 現在は畑や宅地化によって遺構の残存度は少ないが、外堀跡と内堀跡の一部、及び井戸跡が発見されている。
【写真左】『筒井城跡』の看板
 下段の概要図の位置に設置されているもので、このフェンスの中に後段で紹介する井戸が発見されている。



現地の説明板より

“筒井城と筒井氏


 筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え」と呼ばれる構造を取っています。

 外堀で囲まれた範囲は東西500m、南北400mに及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあたり、交通の要衝を押さえています。

 城の中心となる主郭部は、この案内板があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)を含む東西約120m、南北100mの範囲と想定されます。主郭の周囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。

【写真左】概要図
 赤い線で囲んだ区域が城域で、中央に主郭を置き、ほぼ全周を内堀が巡っている。

 虎口は西側を南北に走る吉野街道沿いに配置され、この付近はそのためか少しカーブしている。外堀は北側と東南部に図示されているが、特に南側の奈良街道側には恐らく並行して外堀が構築されていたと考えられる。

 後段でも紹介してい入るが、特に吉野街道と奈良街道が交わる西南側の須浜池(左下の青色部分)などは当時の外堀と繋がっていたのではないだろうか。


 発掘調査では、館に伴う大規模な石組の井戸が見つかっています。主郭部の北には大型の宅地割りが並んでおり、ここに筒井家の重臣が住んでいたものと思われます。

 また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内(かいと))を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北にそれぞれ市場(商店街)がありました。 

 筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことが分かっています。 
【写真左】筒井城周辺マップ
 上記概要図とは別に筒井城周辺にある寺社・地名などを記したマップ。

 北から、「土居」「外堀」「北垣内」「シロ畑」「東垣内」「順慶堤」などといった地名が記されている。
 主郭部は、この図でいえば黄色い線で囲んだ中央部のエリアとなる。



 一方、筒井氏の祖とされるのは筒井順覚(じゅんがく)で、至徳3年(1386)の文献にその名が記されています。しかし、それをさかのぼる康永2年(1343)の文献にも、筒井氏と思われる武士2名(順慎・順円)の署名があることが、近年の研究であきらかになりました。すなわち、筒井城と筒井氏は、共に14世紀中ごろに歴史の表舞台に現われるということになります。

 筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶(1549~84)です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580)、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある郡山城に移しました。

平成26年1月 大和郡山市”


興福寺と筒井氏

 平安時代、大和国はその荘園のほとんどが興福寺の支配下にあり、比叡山延暦寺とともに「南都北領」と称された。この流れは武士の時代となった鎌倉・室町時代になっても変わらず、興福寺自らが抱えた大和武士をもって堅持し続けた。このため、大和国だけは幕府による守護職補任が出来ない状況がしばらく続いた。

 筒井城の城主であった筒井氏歴代の当主の名が、順慶をはじめ順覚、順興といった出家僧の名称で記録されていることからも分かるように、筒井氏はこの興福寺衆中(官符衆徒)を出自としている。
【写真左】井戸跡
 冒頭の看板が設置されていた個所で、現在はすでに埋められているが、外径5m、内径およそ2.5mの規模を持ったものだったという。
 因みに、発掘当時の写真を下段に紹介しておく。
【写真左】発掘調査時の井戸
 この辺りは標高も低く、井戸の深さは浅かったものと思われる。

 発掘時、周辺の取り外された石材が井戸の中に投げ込まれていたが、これは天正8年(1580)の信長の命令で出された破城の際行われた可能性が高いといわれる。
【写真左】内堀
 井戸周辺部には土盛や堀が発掘されているが、このうち内堀の状況。
 この写真でみると、深さは2m前後か。






筒井氏惣領の流れ

 筒井氏の始祖は、筒井順覚といわれている。説明板にもあるように、文献上ではその時期は至徳3年(1386)であり、足利義満の時代となる。

 筒井城の名が出るのは、これより43年後の永享元年(1429)である。ただ、筒井城の築城期はこれより大分遡った頃と思われ、明徳年間頃には、前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)でのべたような、環濠集落的城館を有していたのではないかと思われる。
【写真左】主郭の西側
 防護ネットで囲った位置が主郭付近と思われるが、そのネットの西側に行くと、1~2m前後低くなっている。

 現在畑地となっているが、山川均氏(『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』)によると、東西に郭1・2・3と配置され、これら郭間にも小規模な内堀が介在しているので、主郭は単一のものではなかった可能性がある。




 さて、順覚の晩年当城は、高取城(奈良県高取町)を本拠とした越智氏に攻められるが、順覚のあとを受け継いだ順弘が同氏惣領となった。永享7年(1435)のことである。

 ところが、嘉吉年間になると、弟の成身院光宣に背かれ筒井城を追われるが、その後奪い返したものの、今度は一族・家臣に背かれ最後は殺害されてしまう。

 光宣の弟順永がその後城主となるが、長禄元年(1457)幕府によって没収され、興福寺に寄進された。その後細川勝元の計らいで再び筒井城は筒井氏の手に戻った。
【写真左】旧奈良街道から北を見る。
 現在の国道25号線が東西を横断しているが、この辺りは「南市場」といわれる地区で、右側には当時農村部があった。



 この後、応仁・文明の乱が勃発すると、筒井氏は畠山政長(東軍)(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に属した。そして乱終結の前年、順永が亡くなると、長男順尊が跡を継いだ。

 順尊の時代になると、再び越智氏などの攻略に逢うが、明応6年(1497)越智氏を破り、所領を回復した。2年後の明応8年(1499)順尊の長男順賢が家督を継ぎ、永正2年(1505)長らく抗争を続けてきた越智氏と和睦を結び、この結果大和国人衆が一揆を結ぶことになる。

 この間、京都より赤沢朝経が大和国に侵入するなど動乱が続いたが、その都度巧みに凌ぎ大永元年(1521)、順尊の次男・順興が筒井氏惣領を継ぐと、同氏と越智氏の婚姻が成立し、再び大和国人衆が一揆を結んだ。
【写真左】「筒井順慶城址」と筆耕された石碑
 畑地周辺の畔道を無作為に歩いていたら、ご覧の石碑があった。
 石碑手前は狭い路地が続くが、おそらく吉野街道と接する虎口付近と思われる。


 大永年間の終わりごろになると、大和国の動きも様相が変化してくる。享禄元年(1528)、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主波多野秀長の弟・、柳本賢治が大和国に侵入してきた。

 天文4年(1535)順興が亡くなると、藤松(順昭)が家督を継いだ。すると、2年後の天文6年(1537)、今度は木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和へ侵入してきた。
【写真左】内堀
 主郭の南側には御覧の様な蓮根畑のような湿地帯が残っているが、この付近も元は内堀だったと考えられる。





藤勝(順慶)、筒井氏を継ぐ

 天文16年(1547)、順昭は箸尾氏を傘下に治め大和国をほぼ平定、その2年後の天文18年、順昭は比叡山に入り、家督を藤勝に譲った。この藤勝が後の順慶である。

 なお、箸尾氏は当時「大和四家」と呼ばれた興福寺衆中の一家で、他の三家は筒井氏、越智氏、十市氏である。
【写真左】筒井順慶木像
 藤松が順慶と名乗ったのは、松永勢から筒井城を奪い返した永禄9年(1566)のことで、この年出家して、陽舜房順慶と名乗った。











松永久秀との抗争

 永禄2年(1559)、松永久秀(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和に侵入、筒井城は攻略され久秀が入城した。このとき、順慶は以前から支城としていた奈良市北椿尾町の椿尾上城へ一旦逃れた。

 順慶が筒井城を離れている間に、久秀は併せて信貴山に城を構え、さらに永禄4年(1561)になると、多門町に多聞山城を築き、大和国支配を着々と進めていった。

 しかし、永禄9年(1566)、順慶は奪われた筒井城を奪還すべく、松永勢を攻め、再び城主に返り咲いた。ところが、永禄11年織田信長が上洛すると、久秀は信長の支配下となり、筒井城は再び松永氏の手に入った。

筒井城破却

 こうして度々松永勢との抗争が続いたが、天正4年(1576)織田信長より順慶は大和の支配を任せられ、筒井城をさらに堅固にすべく、多聞山城から多くの石を筒井城に運び込んだ。天正7年のことである。こののち、松永久秀は信長に背き、信貴山城に立て籠もるも、織田勢に攻められ爆死することになる。

 ところが、翌8年信長より、大和一国破城と指出し検地が命ぜられ、大和国の城郭は郡山城を残してすべて破却されることになり、順慶は郡山城へ移り、筒井城は破却された。
【写真左】須浜池
 吉野街道と奈良街道が交わる位置で、城域の南西部にある溜池で、当時外堀と繋がっていたものと思われる。

2018年4月18日水曜日

大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)

大和・郡山城(やまと・こおりやまじょう)

●所在地 奈良県大和郡山市城内町
●形態 平山城
●高さ 69m(比高10m)
●別名 犬伏城、雁陣之城
●築城期 応保2年(1162)又は天正8年(1580)
●築城者 郡山衆、筒井順慶
●城主 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏等
●廃城年 明治6年(1873)
●指定 奈良県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2015年12月1日

◆解説
 大和郡山城(以下「郡山城」とする。)が所在する大和郡山市は、奈良県の北西部に位置し、郡山城の東西には、大和川の二つの支流である佐保川と富雄川が流れている。
【写真左】改修中の大和・郡山城
 この日(2015年12月)訪れたときは、天守台付近の改修工事が行われていたため、本丸付近まで入ることはできなかった。
 予定では平成29年度まで(3月下旬)立ち入り禁止とあったので、現在(2018年4月以降)は入場できると思われる。


現地の説明板より

“県指定史跡 郡山城跡

 郡山城は、天正6~7年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成を見た。同13年豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には、増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成を見るに至った。

 関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
 現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
 なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。
   指定年月日 昭和35年7月28日
      奈良県教育委員会”
【写真左】大和郡山市案内図
 左上の黄色線で囲んだところが、郡山城で、その右斜め下には当時の外堀跡が残る。

 このことから、城下町はこの外堀と本丸の間に囲まれた城の東側に配置されていた。
 また、右側の赤い線で囲んだ箇所は、下段で紹介した「羅城門跡」の位置。



筒井順慶

 郡山城の築城者は筒井順慶とされている。ただ、この場所には応保2年(1162)、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録がある。もっともこの頃の城は盛土と柵を巡らした環濠集落の形態のようなものであったとされ、郡山城から南東へ2キロ余り向かったところにある稗田環濠集落もその当時の面影を残している。

 また、郡山城から東へ1.3キロほど向かった佐保川沿いには、平城京羅城門跡があり、奈良時代の平城京の南側の入口があった場所と推定されている。
【写真左】郡山城跡案内絵図
 現地に掲示されていたものだが、三の丸の位置が図示されていなかったため、追記している。
 なお、城域内には現在郡山高校の学舎等が建っている。



 さて、中世戦国期に至ると、それまで同市筒井町にあった筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)の筒井順慶が、郡山城に居を移し、ここを新たな大和国支配の拠点とするべく築城に取り掛かった。説明板にもあるように、天正11年(1583)には天主閣も造営されている。
 
 順慶については、筒井城で紹介しているが、郡山城の天守を築いた翌年の天正12年(1584)に亡くなっている。享年36歳。
【写真左】三の丸を縦断する近鉄橿原線
 入口は2,3か所あるが、この日は南東部にある近鉄橿原線の踏切側から向かった。

 因みに近鉄橿原線は三の丸の西端部五軒屋敷池と並行して南北に走っており、この付近も当時の三の丸のエリアである。



豊臣秀長

 順慶が亡くなったあと、翌天正13年豊臣秀吉の弟・秀長が大和・和泉・紀伊の三国を併せた100万石余の領主として郡山城に入城した。このとき、当城はさらに規模を拡大し、城下町の整備も行われた。現在の町割りの基礎となったのが秀長時代のものとされ、当時の町名も多く残っている。
【写真左】鉄御門
 先ほどの踏切を渡ると、鉄御門といわれる入口に差しかかる。
 南側が二の丸となり、北側が南北に細長い陣甫郭(じんぽぐるわ)という馬出としての機能を有する郭がある。
【写真左】表門
 二の丸の北側にあるもので、現在二の丸跡には郡山高校冠山学舎が建っている。
【写真左】本丸側に向かう。
 二の丸と本丸の間には堀があり、竹林橋と言う橋を渡ると、手前には柳澤神社が祀られている。
【写真左】柳澤神社
 本丸に向かう道の左側にあり、写真右に
「祭神 旧川越・甲府城主 柳澤美濃守吉保公」
 と刻銘された石碑が建つ。

 柳沢吉保は江戸時代前期の第5代将軍徳川綱吉の大老格として活躍した人物。綱吉が館林藩主であったときから仕えていたため、綱吉が江戸城に入ると、そのまま仕え、次第に頭角を現した。
【写真左】天守台
 この日探訪できたのは柳澤神社境内までで、その奥の天守周辺はご覧の様な改修工事が行われていたため入ることはできない。
【写真左】堀
 天守側の堀で、工事の関係なのか、このエリアだけは空堀状態となっている。
【写真左】毘沙門郭側から天守方向を見る。
 天守の東側には堀を挟んで毘沙門郭があるが、この位置から先ほどの柳澤神社の屋根と天守の工事用クレーンの一部が見える。
【写真左】毘沙門郭北側から本丸東の石垣を見る。
【写真左】毘沙門郭北から玄武郭を見る。
 天守の北側には堀を挟んで玄武郭があり、その先には馬場先門があった。




【写真左】追手向櫓
 本丸の北側毘沙門郭の北東部に配置されたもの。








現地の説明板

“追手向櫓
 追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723年)は、大手先艮角櫓(おおてさきうしとら すみやぐら)と呼ばれていました。
 追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。
 櫓は明治6年に取り払われましたが、記録によると、下重(1階)は4間2尺に5間、上重(2階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
  昭和62年3月吉日
     大和郡山市教育委員会”
【写真左】土塁
 毘沙門郭の北隅には土塁の一部が残っている。

 また写真の左側には、南北朝期から室町初期にかけて活躍した能の観世流祖・観阿弥の墓も祀られている。

 これは、観阿弥の出身地が大和郡山市の南にある現在の川西町であったことからと思われるが、郡山城との関連は分からない。おそらく現地にあるものは、観阿弥の供養塔と思われる。
【写真左】空堀
 毘沙門郭及び東側の旧三の丸の外側には堀があったようだが、現在は三の丸側は殆ど消滅し、北側の毘沙門郭の一角には一部こうした空堀が残る。
【写真左】追手門の多聞櫓
 北東部に位置するところで、三の丸側の桜御門から西に進んで、五軒屋敷池を南に向かうと、東隅櫓がある。ここを西に向かうと、追手門に繋がる。

2017年4月18日火曜日

信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

信貴山城(しぎさんじょう)

●奈良県生駒郡平群町大字信貴山
●指定 平群町指定文化財
●別名 信貴城、磯城
●高さ 433m(比高250m)
●築城期 天文5年(1536)
●築城者 木沢長政
●城主 木沢長政・松永久秀
●遺構 郭・堀切・土塁・門跡・石積等
●備考 朝護孫子寺
●登城・参拝日 2007年5月29日、2015年12月1日

◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く』仁木宏・福島克彦編等)
 前稿河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)から、生駒山系をおよそ15キロほど南下していくと、東隣に当たる奈良県側には、古刹朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がある。当院の創建時期については詳細な記録はないものの、平安時代後期に創作されたという国宝『信貴山縁起絵巻』が残されている。
【写真左】信貴山城遠望
 南麓の朝護孫子寺側から見たもの。









 当院は信貴山真言宗総本山の寺院として、本尊は毘沙門天を祀る。そして信貴山は当院の北方に聳える標高433mの山で、おそらくこの山全体が当時の修行僧の場であったものと考えられている。戦国期に至ると、当山に城砦が築かれた。
 信貴山城を本格的に築いたのは、戦国時代前期、室町幕府の草創期その功によって管領の一人となった畠山氏の家臣であった木沢長政といわれている。
【写真左】信貴山観光案内図
 写真中央上部にある山が信貴山城で、朝護孫子側からは多宝塔の脇を通って登山口となる。






現地の説明板より

“信貴山城 
      平群町(へぐりちょう)指定文化財 
      平成5年4月12日指定 
    所在  平群町信貴山1308の1番地 
    所有・管理  信貴山歓喜院朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)

 標高433mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西550m、南北700mにわたって120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡がよく残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。

 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智期における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
 天正5年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
 その後、廃城となる。

   平群町教育委員会”

【写真左】信貴山城の縄張図
 下方に朝護孫子寺があり、ここから北の方向に向かう。なお、左図は現地に設置されていたモノクロの図に管理人が郭、及び池等を着色したもの。

 説明板にもあるように、規模は大きく、
(1)雄岳地区
(2)雌岳地区
(3)支尾根地区
で構成されている。






木沢長政

 長政の名が知れ渡ったのは天文5年(1536)9月、細川晴元が将軍足利義晴に出仕したときである。このとき、晴元を護衛同行したのが、三好仙熊(後の長慶)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)、並びに木沢長政である(『麓宛日録(ろくおんにちろく)』)。

 長政は元々畠山氏の被官であったが、その後細川高国に、さらに晴元へと鞍替えしていった人物で、その後山城国守護代となり、さらには北河内に進出、河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)に入った。同じ年の6月、大和国守護職を担っていた興福寺が勢力を弱めると、その代役として大和国にも支配を広げ、信貴山城を築いた。この頃の長政の隆盛は目覚ましく、同国支配強化のために、5年後の天文10年7月になると、大和国北東部入口を抑えるため、笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)も支配下に置いた。
【写真左】登城口付近
 登城口は上記案内図にもあるように、朝護孫子寺境内を通過し、多宝塔のある脇から向かう。

 写真は、その多宝塔で、鳥居を潜って上に向かう。


 しかし、長政の終焉は早くも翌年に訪れることとなる。この年(天文10年・1541)9月、摂津多田の一庫城(かずくらじょう)(別名山下城)において塩川伯耆守国満による籠城事件が起こった。

 この事件に絡んで長政は細川晴元の命に逆らい、塩川方に与した。これをきっかけに翌年の3月、長政は飯盛山城及び信貴山城などの兵を糾合し、河内守護代・遊佐長教の籠る高屋城を攻めはじめた。同月17日、遊佐長教と三好政長の兵が木沢長政を太平寺(柏原市)で迎撃(「太平寺の戦い」)、この戦いで長政はじめ木沢一族は討死した。
【写真左】登城道
 信貴山城の主郭跡には空鉢護法堂が祀られ、参道でもある。この日も熱心な信者の方々が往来されていた。

 このため、道は傾斜があるものの、整備されていて登りやすい。



松永久秀と三好三人衆

 木沢長政が亡くなったあと、信貴山城の城主となったのが松永久秀である。久秀は戦国の三大梟雄の一人といわれている。彼については、既に上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)の稿でも紹介しているが、そもそも何故彼を梟雄と呼ぶようになったのだろうか。

 久秀の出自は不明である。このため誕生年も確定しておらず、一説では永正7年(1510)ともいわれているがはっきりしない。彼が戦国史に初めて登場するのは、三好長慶に仕えた頃で、天文11年(1542)ごろである。当時長慶の下で右筆や訴訟取次などを任されている。
【写真左】雌岳方面
 縄張図でも述べたように、3区域の一つ、雌岳地区に当たる個所で、登城コースから少し逸れるが、南側に伸びる尾根筋に凡そ60mほどの長さを持つ郭。
 残念ながらこの日は、踏査せず遠望のみとした。


 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の稿でも述べたが、天文20年(1551)7月、三好長慶は京都相国寺の戦いで敵対する細川晴元を破り、その2年後再び晴元の逆襲を退けた。この戦いで久秀は功を挙げ弘治2年(1556)6月、摂津の滝山城(神戸市中央区)の城主となった。このころから久秀は一挙に頭角を現してくる。

 永禄2年(1559)に至って、久秀は大和国に進出、当時大和国は興福寺や筒井氏(筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)参照)などが守護職として治めていたが、これを奪取し、この年信貴山城の城主となった。
 久秀による信貴山城入城は、前任者であった木沢長政を意識したものといわれている。それは、長政が大和国を支配する際、信貴山城を居城としたことが強烈なアピールになったことを知っており、久秀はその先例を意識していたとされる。

 信貴山城を基盤とした久永は、その後河内国にも侵攻し、翌永禄3年には大和国を完全に支配し、本丸には信長に先んじて四階建ての天守を築いた。また当城から北東18キロの位置に多聞城を築いた。
【写真左】雄岳区域の三の丸東端部
 上述したように、雄岳区域西端部が本丸といわれ、そこから東に向かって、二の丸・三の丸と続く。
 なお、写真の切崖から北東及び東へ二つの尾根が続き、それぞれ中小の郭段が連続している。


 この段階までは戦国の梟雄といわれるほどの動きを見せていないが、永禄7年(1564)に主君であった三好長慶が亡くなったころから久秀の動きは先鋭化してくる。

 長慶が亡くなった直後、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と久秀は三好政権を掌握するが、それも長続きせず、翌年13代将軍足利義輝を暗殺したころから、三人衆と久秀は対立した。
【写真左】空鉢護法堂
 この付近が三の丸から二の丸に向かう位置にあたり、信貴山奥の院すなわち空鉢護法堂の鳥居が建立されている。



 永禄9年(1566)、久秀は畠山高政及び安見宗房と連合し、三好三人衆・筒井順慶らと上芝に戦うが敗退、その後再起を図るものの、再び三人衆に駆逐され遂に大和国の領地を失った。
 しかし、三人衆が担いでいた長慶の継嗣・義継が彼らと袂を分かつと、久秀は義継と連携し、再び信貴山城を奪還、奈良東大寺に拠った三人衆を攻撃、この戦いで大仏殿が焼失した。永禄10年(1567)10月10日のことである。

 この2か月前、織田信長は美濃の斉藤龍興を稲葉山城に破り、当城に入城、名を岐阜城と改名した(岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)参照)。久秀と三好三人衆による攻防が決着しないまま、信長の足音は次第に京の方へ響くようになった。
【写真左】「信貴山城」の幟
 二ノ丸の一画にはご覧の様な幟が数本建っていた。







織田信長の上洛

 永禄11年(1568)9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。三好三人衆は信長の脅威に恐れをなし逃亡、利あらずとみた久永は抗することもなく信長の前にひれ伏し、大和一国と河内半国を安堵された。同年10月18日、足利義昭は室町幕府の第15代・征夷大将軍に任じられ、久秀は義昭の臣下となる。

 しかし、義昭と信長の良好な関係は長くは続かなかった。二人のこうした変化は久秀の目にも留まっていたのだろう、元亀2年(1571)久秀は密かに甲斐の武田信玄に通じ、信長に反旗を翻した。久秀の変質の背景には多分に義昭の意向も働いていたのだろう。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
 雄岳区域の尾根幅は10~15m程度と狭いが、総延長は100m近くになる。

 東から西に向かって50m程度進むと、そこから少し高くなって本丸に繋がる。



二度にわたる久秀の反旗

 久秀が最初に信長に対し反旗を翻したのは元亀3年(1572)である。この年の9月、信長は足利義昭に対し「異見十七箇条」を提出して失政を諌めている。これがきっかけとなって義昭は反信長へと態度を変えていくことになる。

 反信長の包囲網がさらに拡大したのは、翌天正元年・元亀4年(1573)の2月ごろである。主だった面々は、義昭はじめ、武田信玄、本願寺光佐(顕如)、朝倉義景、浅井長政らで、久秀自身は義昭の命を受け、その画策に動いていたものと思われる。しかし、その包囲網を画策した矢先、最も頼みとしていた武田信玄が西上途中の信濃国で病没した。このため、義昭らが計画した信長包囲網の策は実現できなくなった。ところで、皮肉にも反信長の態度を示した者の中には、久秀と対立していた三好三人衆もいた。
【写真左】「信貴山城址」の石碑
 二の丸付近に建つ石碑









 包囲された信長は直ちに、討伐に向かうべく上洛し、首謀者・足利義昭を二条城に囲み(4月4日)、7月には逃れた義昭が拠った宇治槙島城を攻略、義昭はついに京を離れ、河内若江城に逃亡し、ここに室町幕府が滅亡した。

 同年(1573)12月、久秀は信長に降伏した。信長の性格からいえばこの段階で久秀は誅滅されてもおかしくないが、どういうわけか信長は久秀を許している。信長には久秀を生かすことによる何らかの目論見があったのだろう。
【写真左】本丸
 旧本丸跡で、空鉢堂が建立されている。
 長径(東西)凡そ20m×短径(南北)10m前後と小規模な郭だが、現在多くの祠や鳥居が建立されている。

 この場所に天守が建てられていたというが、地形・地盤を考えると、基礎として石垣を積まず礎石を要所に配して建てた天守だったのだろう。


久秀、信貴山城にて爆死

 しかし、久秀がその後信長と良好な関係を持つことはなかった。具体的な理由は分からないが、天正3年(1575)、信長は久秀に対し大和国知行をはく奪、久秀のもう一つの居城であった多聞城も放棄せざるを得なくなった。このため、久秀は越後の上杉謙信に救いの手を伸べ、再び信長に敵対する構えを見せた。
【写真左】主郭から南方を俯瞰する。
 時期にもよるだろうが、天守跡(空鉢堂)から望む視界は思ったほどよくない。

 写真は登ってきた南方面で、遠くには紀伊山地の山並みが控える。


 天正5年(1577)8月、信長は家臣で茶人でもあった松井友閑を遣って久秀の真意を質そうとしたが、久秀は友閑の面談に応じなかったため、信長は同月10日、嫡男信忠を総大将とし、明智光秀・筒井順慶を中心とした軍勢を派遣、信貴山城を包囲した。

 もはやこれまでと悟った久秀は、信長が欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、信貴山城と共に爆死したという。天正5年(1577)10月10日のことである。なお、久秀の生誕年は確定していないが、永正7年(1510)頃といわれているので、亡くなった時は68歳だったと考えられる。
【写真左】主郭南側
 縄張図にもあるように、主郭周囲は険しく、特に南側は見ごたえのある天険の要害である。

 このあと、支尾根地区のひとつで、松永屋敷跡といわれている北側の郭群に降りていく。



 因みに、この2か月後の12月3日、播磨では秀吉が上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)を攻略し、その城番として尼子再興軍の尼子勝久及び、山中鹿助らが三木城(兵庫県三木市上の丸)から移ることになる。
【写真左】松永屋敷周辺部の縄張図
 支尾根地区の一つで、北側に伸びる尾根筋郭群をズームしたもので、登城したこの日、「立入殿屋敷」及び通称「松永屋敷」といわれる箇所が描かれている。

 なお、整備されている箇所はこの尾根筋のもののみで、他の郭群は今のところ整備されていないようだ。

【写真左】立入殿屋敷(たていり とのやしき)
 主郭のほぼ真北に伸びる尾根伝いに築かれた郭段の一つで、立入殿は、久秀家臣であった立入勘介のことを指すのであろうか(『『近畿の名城を歩く』)、としている。
 長径(南北)40m×短径(東西)20mの規模を持つ。
 写真は東側から見たもので、左側に急峻な切崖を持つ主郭が控える。
 このあと、さらに北の尾根筋に向かう。

【写真左】松永屋敷・その1
 左側の切崖上部に「立入殿屋敷」があり、そこからかなりの高低差をもって「松永屋敷」の郭群が連続する。

 なお、現地縄張図では上段から下段までおよそ6段の郭が連続し、それらを総称して「松永屋敷」の郭群としているが、史料によればこのうち、上段半分までは木沢氏時代の「古屋敷」ともいわれ、残りの下段のものが「松永屋敷」とされている。
 また、「松永屋敷」の松永は別名「弾正郭」すなわち、久秀の郭とされているが、別説では一族の秀長ともいわれている。
【写真左】土塁
【写真左】上の段と下の段
【写真左】土塁
【写真左】土塁と簡易タラップ。
 タラップの位置は虎口か
【写真左】振り返ってみる。
 さらに下の段に向かう。
【写真左】綺麗な郭
 上部から何段目の郭だったのか覚えていないが、このあたりから後期(松永久秀時代)の郭かもしれない。
【写真左】東側斜面
 右上が松永屋敷関係の郭段がある個所で、下の道になっている箇所から見たもの。
なお、この左側にも郭群があるようだが、雑木などで覆われていて確認できない。



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