2022年7月22日金曜日

宗良親王旧跡(香川県三豊市詫間町詫間)

 宗良親王・旧跡(むねよししんのう・きゅうせき)

●所在地 香川県三豊市詫間町詫間
●別名 田井遺跡
●形態 居館
●築城期 元弘2年(1332)3月
●高さ 標高9m
●指定 三豊市指定文化財
●備考 浪打八幡宮
●登城日 2017年12月24日

解説
 本稿は山城の紹介ではないが、南北朝期、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が配流されたとき住んでいたという旧跡を紹介したい。なお、宗良の呼称は「むねなが」又は「むねよし」の二通りある。
【写真左】宗良親王旧跡・その1
 現地は北東方向に延びる緩やかな棚田の一角にあり、500mほど北東に下がると、詫間の港に繋がる。



現地の説明板より

宗良(むねなが)親王ご旧跡

 後醍醐天皇の第五皇子宗良親王は、父天皇の北条氏討伐に加わったが、戦に破れてとらわれの身となり、元弘2年(1332)3月、讃岐詫間に配流された。親王の身は浪打八幡宮の別当宝寿院住職英遍がお預かりの後、詫間三郎などのお出迎えを受け、ここ大屋敷の館に入られた。
 元弘3年、建武の中興がなり、讃岐の兵を率いて京都へ帰る。
 しかし、足利尊氏の野心により建武の業破れ、官財相戦う戦乱の世となり、吉野朝廷の柱石となり各地で奮戦せられた。
【写真左】宗良親王旧跡・その2
 周辺部が土地改良されているため、当時の面影はほとんどないが、大屋敷といわれた館と記録されているので、かなり広い敷地に建っていたものだろう。


 昭和10年(1935)「宗良神社」としこの地に宗良親王を祠った。神祠の左には明和9年(1774)建立 小林則茂の句碑があり、「流れても朽ちぬ昔や月と名の」と詠まれている。
   昭和45年10月 町指定文化財
     詫間町教育委員会“
【写真左】宗良親王旧跡・その3
 後ろから見たもの。中央には石積された方形の壇に祠が祀られ、手前には石碑が建立されている。



宗良親王

 後醍醐天皇(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)には子息(親王)が七人いた。
 中でも最も有名なのが、三宮すなわち護良(もりよし)親王(千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)と、八宮の懐良(かねよし)親王(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)である。
【写真左】宗良親王旧跡を遠望する。
 少し離れた農道側から遠望したもので、周辺には数軒の家が建っているものの、ほどんど田圃の中に建っている景観である。
【左図】後醍醐天皇の子息
 このほか、皇女として懽子内親王(かんし/よしこないしんのう)、祥子内親王(しょうしないしんのう/さちこないしんのう)が挙げられているが、このほかにも皇女が6人もいたという説も残り、合計で16人の子女がいたことになる。
 

 宗良親王は四宮とされ、別名尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)とも呼ばれる。
 母は歌人・藤原定家の嫡系子孫・歌壇の大御所二条為世の娘・為子である。

 因みに、為子は四宮宗良を生む前に、一宮である尊良(たかよし)親王を生んでいるので、二人の皇子を儲けたことになる。
【写真左】親王旧跡から塩生山を遠望する。
 詫間の街から北に伸びる半島状の中に独立峰(H:140m)として聳えている。

 ちなみに、塩生山は「はぶやま」と呼称する。地元の人達がよく登る山のようだ。
 中世には島嶼だったと考えられる。


浪打八幡宮

 ところで、親王旧跡から南東へおよそ2キロほどむかったところには浪打八幡宮がある。
 親王配流中に、検校職及び神輿三体を拝受したとし、境内奥には宗良親王社が祀られている。
【写真左】浪打八幡宮
 少し長くなるが、現地にあった当社縁起を記す。








現地説明板より

 ❝詫間郷総鎮守 三豊北の護り
 浪打八幡宮

御祭神
 誉田別命(ほんだわけのみこと) (應神天皇)
 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと) (仲哀天皇)
 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) (神功皇后)

御創建
 古社伝によれば推古天皇十二(604)年8月14日 敏達天皇の皇子高村親王この地に行在されし砌八幡神の夢告げあり御託宣に依りて創建せられたり 御神像は敏達帝宸作なり 一に貞観元年又一に延久5年と伝うふ。
【写真左】浪内八幡宮
 拝殿及び本殿を見る。










御由緒
 往古より大社にして社領40石属従60余人 詫間・比地・中村・吉津・仁尾にわたる諸村より祀られ「七浦の氏神」と崇められる。
 橘元高(長尾大隅守)また国主生駒・京極両家よりの尊崇厚し。

 元弘年間宗良親王詫間配流中の御縁により検校職及び神輿三体を拝受す。
 明治8年郷社に列格、同40年神饌幣帛料供進神社に指定さる。平成16年創祀1400年記念祭を斎行。同19年本殿拝殿焼失。23年新社殿復興再建天満菅原神社・須田塩竃神社他摂末社35、社領7500坪
【写真左】宗良親王社
 境内奥に祀られており、手前に石碑が建つ。








御神徳
 いにしえより「荒神」と称され、霊験あらたかにして奇瑞・霊験瞟多し。御神徳は国家安泰・殖産興業・学問文化の発展など広汎に及び家内安全・安産子育て・病気平癒・厄難祓除をはじめ合格祈願・交通安全・社業繁栄など諸願成就の社として遠近より祈願の者絶えず。”
【写真左】宗良親王社
 祠形式のものだが、きれいに整備されている。








 宗良親王についてはこれまで、千早城などの稿で少し触れているが、説明板にもあるように、後醍醐天皇が隠岐に配流されたとき、彼はこの讃岐・詫間に身を預けられた。
 父後醍醐天皇が隠岐に配流されたのが、元弘2年(1332)3月7日とされ、その翌日8日には宗良親王は讃岐へ、そして兄・尊良親王は土佐へ配流された。

 父後醍醐天皇が翌年の元弘3年(1333)隠岐から脱出し、京に戻ったのはこの年の6月5日である。そしてその8日後、後醍醐天皇は論功のあった足利尊氏を鎮守府将軍に任じ、ついで護良親王を征夷大将軍に任命した。護良親王は三宮(別説では一宮)で、母は民部卿三位で、北畠師親の娘・資子といわれている。

南朝方として活躍

 そして、宗良親王も父後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕が成功した際帰京し、配流される前の天台座主に返り咲くが、建武の新政が失敗し、南北両朝の対立が始まると、還俗して宗良を名乗り、吉野(大和)の南朝方に加わった。
【写真左】吉野の金峯山寺
 元弘の乱の際、宗良親王の兄・護良親王は金峯山寺の僧兵を味方につけ、吉野山全体を要害化し吉野城として立て籠った。


 
 延元3年・暦応元年(1338)、後の後村上天皇となる七宮・義良(のりよし)親王とともに北畠親房(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)に奉じられ、伊勢の大湊から陸奥国府(陸奥国霊山)へ船で向かうが、船が座礁し遠江(静岡県)に漂着。井伊谷の豪族・井伊氏に身を寄せた。

信濃宮と大草城

 その後、尊氏方の高師泰・仁木義長に井伊谷城が落とされると、宗良親王は北に奔り、越後や越中に身を隠し、興国5年・康永3年(1344)には、伊那(信濃国)の豪族で大河原の大草城主・香坂高宗の招きで、現在の長野県大鹿村に入った。

 そしてここを南朝方の拠点の一つとして定め、信濃宮と呼ばれるようになる。この場所で文中2年・応安6年(1373)までのおよそ30年間にわたり活躍した。宗良親王の終焉の場所は諸説あるが、当地・信濃宮ともいわれる。
【写真左】大草城
所在地 長野県上伊那郡中川村。
登城日 2019年11月4日








 大草城は、宗良親王を支えた香坂高宗の居城で、香坂氏は佐久の滋野氏分流。
 南北朝時代、天竜川を挟んで北朝方の片桐氏(船山城)、飯島氏(飯島城)の諸族と対峙した。

 なお、飯島氏の一部は承久の乱(1221年)後、戦功を挙げたことにより出雲国三沢郷へ新補地頭として下向し、三沢城(三沢城(島根県奥出雲町仁多三沢)参照)を築いている。

2022年7月13日水曜日

讃岐・麻城(香川県三豊市高瀬町上麻)

 讃岐・麻城(さぬき・あさじょう)

●所在地 香川県三豊市高瀬町上麻
●高さ 160m(比高100m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤国久
●遺構 郭、土塁、堀等
●指定 三豊市指定史跡
●登城日 2017年12月24日

解説
 讃岐・麻城(以下「麻城」とする。)は、以前紹介した同じ三豊市高瀬町下麻にある麻口城から東南へ2.5キロほど隔てた城山に築かれた山城である。
【写真左】麻城遠望
 麓から見たもので、高さが160m前後と低山であるためか、周辺部の丘陵地に囲まれ目立たたない山城である。





現地の説明板より

“麻城跡
 麻城は戦国時代、麻の領主・近藤出羽守国久の詰めの城である。馬の背状の城山の最高所(168m)を天守(城のてんしん)とし、東に段下りに六つのとりで(六郭)をはしご状に配し、その前後に外郭・出郭を持ち、敵に攻められたときこの城で守る。

 国久は獅子ヶ鼻城主大平伊賀守国祐(豊浜町和田)の弟で、ともに天霧城主・香川氏に属していた。
 天正年間、土佐の長宗我部元親西讃岐に侵攻の時、麻城も落城、国久も討死した。その谷をおじが谷(横死ヶ谷)と呼んでいる。時は天正6年(1578年推定)。“
【写真上】麻城鳥瞰図
 現地に設置されていたものだが、大分劣化し不鮮明な箇所もあったので、管理人によって彩色修正を施している。

 連郭式城郭だが、本丸側の郭段とは別に、堀切を介して出丸のような外郭を付随させている。


近藤出羽守国久

 麻城については麻口城(香川県三豊市高瀬町下麻の稿で少し触れているが、当地高瀬町には小規模な城郭・砦などを含めると、麻城の他、勝間城、爺神城、土井城など40近くのものがあるという。

 麻城の城主・近藤出羽守国久は、獅子ヶ鼻城主・大平伊賀守国祐の弟といわれる。この獅子ヶ鼻城は、現在の観音寺市豊浜町和田に所在する城郭で、麻城から南西へおよそ18キロほど向かった位置に当たる。
【写真左】登城開始
 現地には当城にたどり着くまでの案内標識が目立たないためか、分かりにくい。
 駐車場についても、特に専用の場所が設置されていないので、適当な空き地を探し、そこに停めた。
 そこからしばらく簡易舗装された坂道を登って行く。


 ところで、元亀年間ごろの麻口城の城主は近藤出羽守長頼で、彼の実兄は大西覚養である。これに対し、本稿の麻城主は、近藤出羽守国久である。両者とも近藤姓で出羽守としている。そして、麻城主国久の兄は、獅子ヶ鼻城主・大平伊賀守国祐である。

 麻口城の稿でも述べているが、麻口城及び本稿の麻城の城主近藤氏一族はもともと、阿波の白地・大西城(徳島県三好市池田町白地)を本拠としている。近藤一族がいつ頃西讃のこの地にたのか詳細は分からないが、おそらく承久の乱ごろと考えられる。
【写真左】外郭・その1
 最初に現れてくるのが、外郭で自然地形に近いなだらかな丘となっている。





 その後、しばらくは近藤氏が当地を支配していったと思われるが、途中から近藤氏は天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏に属していく。おそらくこのきっかけとなったのは応仁の乱だろう。

 このころ、讃岐では東軍のリーダ・細川勝元が活躍するが、このとき同氏四天王の一人が香川氏であった。特に西讃岐に本拠を持つ香川氏や近藤氏は、東予の動き(西軍・河野氏ら)をけん制する役目を担ったものと思われる。
【写真左】外郭・その2
 端の方に見えた標柱で、「外郭(1)跡」と記されたものが横たわっている。なおこの個所には土塁の形状が残る。
 この後先に進む。
【写真左】空堀
上掲した鳥瞰図にある空堀で、この空堀が外郭と主郭側の境になる。

 なお、この標柱には「空堀(馬切)」と書かれている。

 馬切という言葉は初めて見たが、この位置で馬から降りるという意味だろうか。
【写真左】主郭に向かう。
 鞍部となった堀切から改めて主郭に向かうべく、この登り勾配の尾根を進む。
【写真左】6郭から5郭へ向かう。
【写真左】ねらい岩・その1
4郭から3郭にかけて左側に「ねらい岩」という大きな岩が横たわっている。

 別名「大門石」とも呼ばれるもので、高さはさほどないが、長さは4m前後あろうか。
【写真左】ねらい岩・その2
 正面から見たもの。

 戦の際、この岩がどういう役目をしていたのかよく分からないが、左の崖からよじ登ってきた敵をこの岩を使って鉄砲などで狙ったかもしれない。
【写真左】第二郭・その1
 第三郭を経て更に上に登ると、第二郭に至る。
【写真左】第二郭・その2
 第一郭(主郭)との境には御覧の竪堀が見える。
【写真左】本丸に着く。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸の石碑
 現地には「昭和60年5月24日指定 高瀬町教育委員会」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】切岸
 本丸側の一角に見えたもので、かなりの険峻さである。



【写真左】本丸から麻口城を遠望する。

 

2022年7月2日土曜日

備後・桜山城(広島県三原市桜山町)

 備後・桜山城(びんご・さくらやまじょう)

●所在地 広島県三原市桜山町
●高さ H:175m(比高 170m)
●別名 三原城甲の丸
●築城期 不明(文応~文永、1260~74年か)
●築城者 不明(山名氏か)
●遺構 石垣、郭、井戸、土塁、堀等
●備考 三原城
●登城日 2017年12月20日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備後・桜山城(以下「桜山城」とする。)は、以前紹介した三原城(広島県三原市館町・城町・本町)の北方に聳える標高175mの桜山に築かれた山城である。
【写真左】桜山城遠望
 南麓の三原城側から見たもの。








山名氏正
 
 『日本城郭体系 第13巻』によれば、「文応・文永の頃、山名氏正の居城であったが、弟備中に殺され、のち氏正の子が備中を討ち、再びこの城に拠る。」と記されている。

 文応・文永の頃とは、1260年(文応元年)から、1261~63年(弘長年間)を挟み、1264年(文永元年)~1274年(文永11年)までの14年間となる。
 文応年間(といっても1年間だが)の鎌倉幕府将軍は、皇族で初めて征夷大将軍となった宗尊親王(むねかたしんのう)で、執権は北条長時である。この後、文永年間になると、将軍は宗尊親王の嫡男・惟康親王(これやすしんのう)で、執権は長時から、義時の子・政村が継ぎ、その後元寇の乱に対応することになる北条時宗が文永5年(1268)に任じられる。
【写真左】三原城大手門跡
 桜山城に向かうには、南麓にある三原城の大手門跡を通って行く。





『日本城郭体系 第13巻』に記されている山名氏正については、出典元が明記されていないためなんとも判断できないが、文応・文永年間ごろにおける備後の守護職は大江姓長井氏とされているので、山名氏正はその家臣(地頭か)として当地に下向していたのだろう。
【写真左】桜山神社
 登城口に至るまで路地のような道を進み、途中で鳥獣用の扉を開けてから登り道が始まる。
 登り始めてすぐに九十九折れとなるが、その途中で小さな祠がある。桜山神社の標柱が建っている。創建などは不明。


三原城詰めの城

 小早川隆景が新高山城から移転して三原城(広島県三原市館町・城町・本町)を築いたのは、永禄10年(1567)から天正10年(1582)の間といわれる。このとき、桜山城は詰の城(甲の丸)として整備したという。
 現在残る遺構のほとんどは小早川隆景の時代に整備されたものではないかと考えられる。

 三原城が海城である以上、どうしても天守から俯瞰できる範囲は限られてくる。このため海抜170mもある桜山に物見櫓的な機能を持たせたものが必要となる。位置的にも三原城の後背にあり、理想的な位置だったと考えられる。
【写真左】四合目
 登城道は階段となっている箇所が多く歩きやすい。文字通り桜山として地元の人々によって桜の木が植えられ、定期的に管理されているようだ。
【写真左】三原城を俯瞰する。
 登城途中には三原城の石垣が見える。
【写真左】北東方向に県道55号線が見える。
 三原と尾道を結ぶ陸路で、近世になってから整備された道である。ただ、中世には海岸部を走る旧山陽道程の需要はなかったかもしれないが、尾道の北部側との接触があったものと思われる。
【写真左】突端部にたどり着く。
【写真左】U字形の窪み
【写真左】右側の土塁を進む。
【写真左】左側の土塁
【写真左】池か
かなり大きな窪みだが、池跡のようにも見える。
【写真左】土塁
 かなり保存度は良く、明瞭な土塁の遺構。
【写真左】虎口・その1
【写真左】虎口・その2
横から見たもの。
【写真左】郭
土塁に囲まれた郭の中から見たもの。
【写真左】北側を見る。
郭の中から北方を見る。
【写真左】石垣・その1
【写真左】石垣・その2
【写真左】井戸
 内側の石積みもあまり崩れていないようだ。
【写真左】石積
両側に積まれて、間を開けている。この石積みは建物の支柱を支える礎石のようなものだったかもしれない。
【写真左】切岸
 険しい切岸だ。
【写真左】下山後再び遠望