讃岐・麻城(さぬき・あさじょう)
●所在地 香川県三豊市高瀬町上麻
●高さ 160m(比高100m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤国久
●遺構 郭、土塁、堀等
●指定 三豊市指定史跡
●登城日 2017年12月24日
●高さ 160m(比高100m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤国久
●遺構 郭、土塁、堀等
●指定 三豊市指定史跡
●登城日 2017年12月24日
◆解説
讃岐・麻城(以下「麻城」とする。)は、以前紹介した同じ三豊市高瀬町下麻にある麻口城から東南へ2.5キロほど隔てた城山に築かれた山城である。
麓から見たもので、高さが160m前後と低山であるためか、周辺部の丘陵地に囲まれ目立たたない山城である。
現地の説明板より
“麻城跡
麻城は戦国時代、麻の領主・近藤出羽守国久の詰めの城である。馬の背状の城山の最高所(168m)を天守(城のてんしん)とし、東に段下りに六つのとりで(六郭)をはしご状に配し、その前後に外郭・出郭を持ち、敵に攻められたときこの城で守る。
麻城は戦国時代、麻の領主・近藤出羽守国久の詰めの城である。馬の背状の城山の最高所(168m)を天守(城のてんしん)とし、東に段下りに六つのとりで(六郭)をはしご状に配し、その前後に外郭・出郭を持ち、敵に攻められたときこの城で守る。
国久は獅子ヶ鼻城主大平伊賀守国祐(豊浜町和田)の弟で、ともに天霧城主・香川氏に属していた。
天正年間、土佐の長宗我部元親西讃岐に侵攻の時、麻城も落城、国久も討死した。その谷をおじが谷(横死ヶ谷)と呼んでいる。時は天正6年(1578年推定)。“
現地に設置されていたものだが、大分劣化し不鮮明な箇所もあったので、管理人によって彩色修正を施している。
連郭式城郭だが、本丸側の郭段とは別に、堀切を介して出丸のような外郭を付随させている。
近藤出羽守国久
麻城の城主・近藤出羽守国久は、獅子ヶ鼻城主・大平伊賀守国祐の弟といわれる。この獅子ヶ鼻城は、現在の観音寺市豊浜町和田に所在する城郭で、麻城から南西へおよそ18キロほど向かった位置に当たる。
【写真左】登城開始 現地には当城にたどり着くまでの案内標識が目立たないためか、分かりにくい。
駐車場についても、特に専用の場所が設置されていないので、適当な空き地を探し、そこに停めた。
そこからしばらく簡易舗装された坂道を登って行く。
ところで、元亀年間ごろの麻口城の城主は近藤出羽守長頼で、彼の実兄は大西覚養である。これに対し、本稿の麻城主は、近藤出羽守国久である。両者とも近藤姓で出羽守としている。そして、麻城主国久の兄は、獅子ヶ鼻城主・大平伊賀守国祐である。
麻口城の稿でも述べているが、麻口城及び本稿の麻城の城主近藤氏一族はもともと、阿波の白地・大西城(徳島県三好市池田町白地)を本拠としている。近藤一族がいつ頃西讃のこの地にたのか詳細は分からないが、おそらく承久の乱ごろと考えられる。
【写真左】外郭・その1 最初に現れてくるのが、外郭で自然地形に近いなだらかな丘となっている。
その後、しばらくは近藤氏が当地を支配していったと思われるが、途中から近藤氏は天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏に属していく。おそらくこのきっかけとなったのは応仁の乱だろう。
このころ、讃岐では東軍のリーダ・細川勝元が活躍するが、このとき同氏四天王の一人が香川氏であった。特に西讃岐に本拠を持つ香川氏や近藤氏は、東予の動き(西軍・河野氏ら)をけん制する役目を担ったものと思われる。
【写真左】外郭・その2 端の方に見えた標柱で、「外郭(1)跡」と記されたものが横たわっている。なおこの個所には土塁の形状が残る。
この後先に進む。
上掲した鳥瞰図にある空堀で、この空堀が外郭と主郭側の境になる。
なお、この標柱には「空堀(馬切)」と書かれている。
馬切という言葉は初めて見たが、この位置で馬から降りるという意味だろうか。
【写真左】ねらい岩・その14郭から3郭にかけて左側に「ねらい岩」という大きな岩が横たわっている。
別名「大門石」とも呼ばれるもので、高さはさほどないが、長さは4m前後あろうか。
正面から見たもの。
戦の際、この岩がどういう役目をしていたのかよく分からないが、左の崖からよじ登ってきた敵をこの岩を使って鉄砲などで狙ったかもしれない。
第一郭(主郭)との境には御覧の竪堀が見える。
【写真左】本丸・その1【写真左】本丸・その2 現地には「昭和60年5月24日指定 高瀬町教育委員会」と筆耕された石碑が建つ。
本丸側の一角に見えたもので、かなりの険峻さである。
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