2022年7月2日土曜日

備後・桜山城(広島県三原市桜山町)

 備後・桜山城(びんご・さくらやまじょう)

●所在地 広島県三原市桜山町
●高さ H:175m(比高 170m)
●別名 三原城甲の丸
●築城期 不明(文応~文永、1260~74年か)
●築城者 不明(山名氏か)
●遺構 石垣、郭、井戸、土塁、堀等
●備考 三原城
●登城日 2017年12月20日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備後・桜山城(以下「桜山城」とする。)は、以前紹介した三原城(広島県三原市館町・城町・本町)の北方に聳える標高175mの桜山に築かれた山城である。
【写真左】桜山城遠望
 南麓の三原城側から見たもの。








山名氏正
 
 『日本城郭体系 第13巻』によれば、「文応・文永の頃、山名氏正の居城であったが、弟備中に殺され、のち氏正の子が備中を討ち、再びこの城に拠る。」と記されている。

 文応・文永の頃とは、1260年(文応元年)から、1261~63年(弘長年間)を挟み、1264年(文永元年)~1274年(文永11年)までの14年間となる。
 文応年間(といっても1年間だが)の鎌倉幕府将軍は、皇族で初めて征夷大将軍となった宗尊親王(むねかたしんのう)で、執権は北条長時である。この後、文永年間になると、将軍は宗尊親王の嫡男・惟康親王(これやすしんのう)で、執権は長時から、義時の子・政村が継ぎ、その後元寇の乱に対応することになる北条時宗が文永5年(1268)に任じられる。
【写真左】三原城大手門跡
 桜山城に向かうには、南麓にある三原城の大手門跡を通って行く。





『日本城郭体系 第13巻』に記されている山名氏正については、出典元が明記されていないためなんとも判断できないが、文応・文永年間ごろにおける備後の守護職は大江姓長井氏とされているので、山名氏正はその家臣(地頭か)として当地に下向していたのだろう。
【写真左】桜山神社
 登城口に至るまで路地のような道を進み、途中で鳥獣用の扉を開けてから登り道が始まる。
 登り始めてすぐに九十九折れとなるが、その途中で小さな祠がある。桜山神社の標柱が建っている。創建などは不明。


三原城詰めの城

 小早川隆景が新高山城から移転して三原城(広島県三原市館町・城町・本町)を築いたのは、永禄10年(1567)から天正10年(1582)の間といわれる。このとき、桜山城は詰の城(甲の丸)として整備したという。
 現在残る遺構のほとんどは小早川隆景の時代に整備されたものではないかと考えられる。

 三原城が海城である以上、どうしても天守から俯瞰できる範囲は限られてくる。このため海抜170mもある桜山に物見櫓的な機能を持たせたものが必要となる。位置的にも三原城の後背にあり、理想的な位置だったと考えられる。
【写真左】四合目
 登城道は階段となっている箇所が多く歩きやすい。文字通り桜山として地元の人々によって桜の木が植えられ、定期的に管理されているようだ。
【写真左】三原城を俯瞰する。
 登城途中には三原城の石垣が見える。
【写真左】北東方向に県道55号線が見える。
 三原と尾道を結ぶ陸路で、近世になってから整備された道である。ただ、中世には海岸部を走る旧山陽道程の需要はなかったかもしれないが、尾道の北部側との接触があったものと思われる。
【写真左】突端部にたどり着く。
【写真左】U字形の窪み
【写真左】右側の土塁を進む。
【写真左】左側の土塁
【写真左】池か
かなり大きな窪みだが、池跡のようにも見える。
【写真左】土塁
 かなり保存度は良く、明瞭な土塁の遺構。
【写真左】虎口・その1
【写真左】虎口・その2
横から見たもの。
【写真左】郭
土塁に囲まれた郭の中から見たもの。
【写真左】北側を見る。
郭の中から北方を見る。
【写真左】石垣・その1
【写真左】石垣・その2
【写真左】井戸
 内側の石積みもあまり崩れていないようだ。
【写真左】石積
両側に積まれて、間を開けている。この石積みは建物の支柱を支える礎石のようなものだったかもしれない。
【写真左】切岸
 険しい切岸だ。
【写真左】下山後再び遠望

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