宗良親王・旧跡(むねよししんのう・きゅうせき)
●所在地 香川県三豊市詫間町詫間
●別名 田井遺跡
●形態 居館
●築城期 元弘2年(1332)3月
●形態 居館
●築城期 元弘2年(1332)3月
●高さ 標高9m
●指定 三豊市指定文化財
●指定 三豊市指定文化財
●備考 浪打八幡宮
●登城日 2017年12月24日◆解説
本稿は山城の紹介ではないが、南北朝期、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が配流されたとき住んでいたという旧跡を紹介したい。なお、宗良の呼称は「むねなが」又は「むねよし」の二通りある。
【写真左】宗良親王旧跡・その1 現地は北東方向に延びる緩やかな棚田の一角にあり、500mほど北東に下がると、詫間の港に繋がる。
現地の説明板より
“宗良(むねなが)親王ご旧跡
後醍醐天皇の第五皇子宗良親王は、父天皇の北条氏討伐に加わったが、戦に破れてとらわれの身となり、元弘2年(1332)3月、讃岐詫間に配流された。親王の身は浪打八幡宮の別当宝寿院住職英遍がお預かりの後、詫間三郎などのお出迎えを受け、ここ大屋敷の館に入られた。
元弘3年、建武の中興がなり、讃岐の兵を率いて京都へ帰る。
しかし、足利尊氏の野心により建武の業破れ、官財相戦う戦乱の世となり、吉野朝廷の柱石となり各地で奮戦せられた。
周辺部が土地改良されているため、当時の面影はほとんどないが、大屋敷といわれた館と記録されているので、かなり広い敷地に建っていたものだろう。
昭和10年(1935)「宗良神社」としこの地に宗良親王を祠った。神祠の左には明和9年(1774)建立 小林則茂の句碑があり、「流れても朽ちぬ昔や月と名の」と詠まれている。
昭和45年10月 町指定文化財
詫間町教育委員会“
【写真左】宗良親王旧跡・その3 後ろから見たもの。中央には石積された方形の壇に祠が祀られ、手前には石碑が建立されている。
宗良親王
後醍醐天皇(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)には子息(親王)が七人いた。
中でも最も有名なのが、三宮すなわち護良(もりよし)親王(千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)、信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)と、八宮の懐良(かねよし)親王(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)である。
【写真左】宗良親王旧跡を遠望する。 少し離れた農道側から遠望したもので、周辺には数軒の家が建っているものの、ほどんど田圃の中に建っている景観である。
このほか、皇女として懽子内親王(かんし/よしこないしんのう)、祥子内親王(しょうしないしんのう/さちこないしんのう)が挙げられているが、このほかにも皇女が6人もいたという説も残り、合計で16人の子女がいたことになる。
宗良親王は四宮とされ、別名尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)とも呼ばれる。
母は歌人・藤原定家の嫡系子孫・歌壇の大御所二条為世の娘・為子である。
因みに、為子は四宮宗良を生む前に、一宮である尊良(たかよし)親王を生んでいるので、二人の皇子を儲けたことになる。
【写真左】親王旧跡から塩生山を遠望する。 詫間の街から北に伸びる半島状の中に独立峰(H:140m)として聳えている。
ちなみに、塩生山は「はぶやま」と呼称する。地元の人達がよく登る山のようだ。
中世には島嶼だったと考えられる。
浪打八幡宮
ところで、親王旧跡から南東へおよそ2キロほどむかったところには浪打八幡宮がある。
親王配流中に、検校職及び神輿三体を拝受したとし、境内奥には宗良親王社が祀られている。
少し長くなるが、現地にあった当社縁起を記す。
現地説明板より
❝詫間郷総鎮守 三豊北の護り
浪打八幡宮
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと) (應神天皇)
帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと) (仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) (神功皇后)
御創建
古社伝によれば推古天皇十二(604)年8月14日 敏達天皇の皇子高村親王この地に行在されし砌八幡神の夢告げあり御託宣に依りて創建せられたり 御神像は敏達帝宸作なり 一に貞観元年又一に延久5年と伝うふ。
拝殿及び本殿を見る。
御由緒
往古より大社にして社領40石属従60余人 詫間・比地・中村・吉津・仁尾にわたる諸村より祀られ「七浦の氏神」と崇められる。
橘元高(長尾大隅守)また国主生駒・京極両家よりの尊崇厚し。
元弘年間宗良親王詫間配流中の御縁により検校職及び神輿三体を拝受す。
明治8年郷社に列格、同40年神饌幣帛料供進神社に指定さる。平成16年創祀1400年記念祭を斎行。同19年本殿拝殿焼失。23年新社殿復興再建天満菅原神社・須田塩竃神社他摂末社35、社領7500坪
境内奥に祀られており、手前に石碑が建つ。
御神徳
いにしえより「荒神」と称され、霊験あらたかにして奇瑞・霊験瞟多し。御神徳は国家安泰・殖産興業・学問文化の発展など広汎に及び家内安全・安産子育て・病気平癒・厄難祓除をはじめ合格祈願・交通安全・社業繁栄など諸願成就の社として遠近より祈願の者絶えず。”
【写真左】宗良親王社 祠形式のものだが、きれいに整備されている。
宗良親王についてはこれまで、千早城などの稿で少し触れているが、説明板にもあるように、後醍醐天皇が隠岐に配流されたとき、彼はこの讃岐・詫間に身を預けられた。
父後醍醐天皇が隠岐に配流されたのが、元弘2年(1332)3月7日とされ、その翌日8日には宗良親王は讃岐へ、そして兄・尊良親王は土佐へ配流された。
父後醍醐天皇が翌年の元弘3年(1333)隠岐から脱出し、京に戻ったのはこの年の6月5日である。そしてその8日後、後醍醐天皇は論功のあった足利尊氏を鎮守府将軍に任じ、ついで護良親王を征夷大将軍に任命した。護良親王は三宮(別説では一宮)で、母は民部卿三位で、北畠師親の娘・資子といわれている。
南朝方として活躍
そして、宗良親王も父後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕が成功した際帰京し、配流される前の天台座主に返り咲くが、建武の新政が失敗し、南北両朝の対立が始まると、還俗して宗良を名乗り、吉野(大和)の南朝方に加わった。
元弘の乱の際、宗良親王の兄・護良親王は金峯山寺の僧兵を味方につけ、吉野山全体を要害化し吉野城として立て籠った。
延元3年・暦応元年(1338)、後の後村上天皇となる七宮・義良(のりよし)親王とともに北畠親房(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)に奉じられ、伊勢の大湊から陸奥国府(陸奥国霊山)へ船で向かうが、船が座礁し遠江(静岡県)に漂着。井伊谷の豪族・井伊氏に身を寄せた。
信濃宮と大草城
その後、尊氏方の高師泰・仁木義長に井伊谷城が落とされると、宗良親王は北に奔り、越後や越中に身を隠し、興国5年・康永3年(1344)には、伊那(信濃国)の豪族で大河原の大草城主・香坂高宗の招きで、現在の長野県大鹿村に入った。
そしてここを南朝方の拠点の一つとして定め、信濃宮と呼ばれるようになる。この場所で文中2年・応安6年(1373)までのおよそ30年間にわたり活躍した。宗良親王の終焉の場所は諸説あるが、当地・信濃宮ともいわれる。
【写真左】大草城所在地 長野県上伊那郡中川村。
登城日 2019年11月4日
大草城は、宗良親王を支えた香坂高宗の居城で、香坂氏は佐久の滋野氏分流。
南北朝時代、天竜川を挟んで北朝方の片桐氏(船山城)、飯島氏(飯島城)の諸族と対峙した。
浪打八幡宮が正しく浪内ではありません。又、長尾大隅守は髙村親王の後裔です。
返信削除拝復 ご指摘ありがとうございました。訂正させていただきます。トミー拝
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