豊田氏館(とよたしやかた)
●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷一ノ瀬
●形態 居館
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田氏
●城主 豊田氏
●遺構 ほとんど消滅
●備考 一ノ瀬城
●登城日 2016年2月10日
◆解説(参考資料 『益田市誌』、HP 『城郭放浪記』、『日本城郭体系』等)
山口県の西部を南北に流れる木屋川(こやがわ)の中流域には豊田町がある。現在下関市と合併しているが、「ホタルと出湯の里」として親しまれている。
豊田氏館は、その木屋川支流の日野川沿いに築かれた館である。
【写真左】豊田氏館跡・その1
西側から見たもので、この石碑の奥にある田圃が館跡といわれている。
現在は土地改良されたため往時の面影はほとんどなくなっているが、この付近にあったといわれる。
石碑には「豊田大領 豊田氏館跡 昭和41年3月建立」と筆耕されている。
大領(だいりょう)とは、大宝元年(701)の大宝律令によってできた郡制に基づく郡司の最高職名で、その下には少領・主政・主帳がある。
因みに、大領の別の呼称としては、「おおみやつこ」というものもあり、管理人の出雲国では延暦17年(798)、同国意宇郡の大領(おおみやつこ)の国造兼任を禁じる、という記録も残されている。
現地の説明板より・その1
“豊田氏の館跡
豊田氏の2代目の輔平・3代輔行等が一ノ瀬に定住し、豊田郡司となった。
大内、厚東氏と並ぶ防長の大豪族の一つである。居館のあった「広畠」は城山の東側のふもとの丘陵地で、すぐ上の山谷を「館ヶ浴」といい、隣地を「オビイ屋敷」といった。”
【写真左】【写真左】豊田氏館跡・その2
同じく西側からみたもので、ここから300m程奥に向かったところには、館ヶ谷があり、椿の名所がある。
また、写真奥の山を越えると南北朝期に当初長門探題側に属した豊田氏が宮方と戦った大嶺(美祢市)に至る。
【写真左】一ノ瀬城遠望
豊田氏館の西側には一ノ瀬城が所在する。別名「豊田城」「松尾山城」「長谷山城」ともいい、豊田氏累代の居城といわれている。一ノ瀬は豊浦郡南部との出入口に当たり、現在の城戸といわれる地名もこのときできたものといわれている(後段参照)。
なお、この日は時間がなく登城していないが、HP『城郭放浪記』氏が当城をアップしておられるので、ご覧いただきたい。
現地の説明板より・その2
“豊田種長追善供養板碑
関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が土着し是れより豊田を名乗る。
中世の豪族として、平安の中期より約300余年豊田を本拠として豊浦郡北部・大津郡にわたって勢力を保ち、一ノ瀬広畠に館を構えた11代伊賀守種貞、12代種長、13代種藤の鎌倉中期より南北朝中期の間は豊田氏の全盛であった。
【写真左】豊田種長追善供養板碑
豊田氏館から少し南に降った位置の道路脇に建立されている。
本碑は、観応3年(1352)種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬されたのちに供養板碑が建てられ、中央の二文字のキーリック(弥陀)カーマン(不動)の二文字の梵字が刻まれ、下方には人名の痕跡がある15,6人の殉死者の名前らしい。
豊田氏の文献は、極めて稀な中にあって重要なものである。
昭和51年3月31日町指定有形文化財に登録された。
平成12年3月
下関市教育委員会”
豊田氏
豊田氏については、残念ながら詳細な記録はあまり残っていない。
説明板・その2に、関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が当地(豊田)に土着して豊田氏を名乗ったと記されている。関白藤原道隆は平安時代中期の公卿で、藤原北家、摂政関白太政大臣藤原兼家の長男である。冷泉天皇から円融・花山、そして一条天皇の4代を補佐した。
【写真左】追善供養板碑脇の石碑
板碑脇には筆耕文字が劣化した石碑が祀られていた。劣化していて判読は困難だが、「本堂……」という文字が読めたので、おそらくこの場所は豊田氏に関わった寺院の一つ長願寺跡を示すものだろう。
因みに、当時一ノ瀬城に向かう道には北・西・南の三方があり、それぞれの道中には、万福寺・明見寺・満願寺(北方側)、勇徳寺・福林寺(西方側)、そして板碑が設置された南方側には、後真院・長谷観音、及び当該地にあった長願寺という寺院が建立されていた。
そしてこれらの寺院は有事の際、召集した軍兵の屯所に充てられた。
そして、この道隆の4世の孫が輔長とあるが、傍証となる具体的な史料も残っていないようだ。ただ、出典ははっきりしないものの、輔長が豊田氏を初めて名乗ったあと、2代輔平は豊田・大津両郡の領主となり、3代輔行は豊田大領、4代輔継は豊田惣領、そして5代種継は再び豊田大領とされている。
次の6代については記録がないためはっきりしないが、『陽明文庫所蔵文書』応安2年(1167)正月21日付の太政官符によれば、豊田種弘が豊田郡大領に補任されていることが記されている。この種弘は輔長から数えて7代目となる。
文永11年(1274)10月、元軍が筑前(九州)に来襲(文永の役)した際、11代伊賀守種貞は、同町一ノ瀬にあった山砦を堅固に修築したといわれている。これが後の一ノ瀬城である。種貞は地元では今でも勇将として語り継がれ、豊田氏といえば、伊賀守がその代名詞となっている。
【写真左】千人塚
追善供養板碑の反対側(西方)の田圃を見ると、畔の奥に千人塚が祀られている。
由来などははっきりしないが、おそらく南北朝期のものだろう。
ところで、霜降城(山口県宇部市厚東末信)を本拠とした厚東氏もまた豊田氏と同じく防長の大内氏をはじめとする豪族の一つであった。
当稿でも少し触れているが、鎌倉執権体制の瓦解にともなって、長門探題北條時直は宮方であった石見の吉見・高津両軍(高津城(島根県益田市高津町上市)参照)からの攻撃を受けることになる。このとき時直は厚東氏及び豊田氏らにその防戦を命じている。正慶2年・元弘3年(1333)3月のことである。
【写真左】追善供養板碑側から一ノ瀬城を遠望する。
写真右側に追善供養板碑があり、左側の田圃の中に千人塚が祀られている。
同年3月29日、両軍は大峰(現:山口県美祢市大嶺町)で対峙した。南側に陣した探題側は厚東武実をはじめ、豊田氏の主だった面々には、豊田胤藤(種藤)・種本・種長らがいた。この時の緒戦は吉見軍の活躍で、厚東武実・豊田種藤を敗走させ、その後高津長幸らの熱心な誘いを受けた厚東氏は宮方(後醍醐天皇派)に恭順の意を表した。
【写真左】大峰周辺
写真は現在の美祢市大嶺町の街並み。
南北朝期には同町を流れる厚狭川(あさがわ)を挟んで武家方と宮方の激しい戦いがあったものと思われる。
なお、豊田氏のその後の動きについてははっきりしない点が多いが、種藤もその後河越安芸守・坂田・右田の諸軍とともに宮方に属したとされている。
●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷一ノ瀬
●形態 居館
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田氏
●城主 豊田氏
●遺構 ほとんど消滅
●備考 一ノ瀬城
●登城日 2016年2月10日
◆解説(参考資料 『益田市誌』、HP 『城郭放浪記』、『日本城郭体系』等)
山口県の西部を南北に流れる木屋川(こやがわ)の中流域には豊田町がある。現在下関市と合併しているが、「ホタルと出湯の里」として親しまれている。
豊田氏館は、その木屋川支流の日野川沿いに築かれた館である。
【写真左】豊田氏館跡・その1
西側から見たもので、この石碑の奥にある田圃が館跡といわれている。
現在は土地改良されたため往時の面影はほとんどなくなっているが、この付近にあったといわれる。
石碑には「豊田大領 豊田氏館跡 昭和41年3月建立」と筆耕されている。
大領(だいりょう)とは、大宝元年(701)の大宝律令によってできた郡制に基づく郡司の最高職名で、その下には少領・主政・主帳がある。
因みに、大領の別の呼称としては、「おおみやつこ」というものもあり、管理人の出雲国では延暦17年(798)、同国意宇郡の大領(おおみやつこ)の国造兼任を禁じる、という記録も残されている。
現地の説明板より・その1
“豊田氏の館跡
豊田氏の2代目の輔平・3代輔行等が一ノ瀬に定住し、豊田郡司となった。
大内、厚東氏と並ぶ防長の大豪族の一つである。居館のあった「広畠」は城山の東側のふもとの丘陵地で、すぐ上の山谷を「館ヶ浴」といい、隣地を「オビイ屋敷」といった。”
【写真左】【写真左】豊田氏館跡・その2
同じく西側からみたもので、ここから300m程奥に向かったところには、館ヶ谷があり、椿の名所がある。
また、写真奥の山を越えると南北朝期に当初長門探題側に属した豊田氏が宮方と戦った大嶺(美祢市)に至る。
【写真左】一ノ瀬城遠望
豊田氏館の西側には一ノ瀬城が所在する。別名「豊田城」「松尾山城」「長谷山城」ともいい、豊田氏累代の居城といわれている。一ノ瀬は豊浦郡南部との出入口に当たり、現在の城戸といわれる地名もこのときできたものといわれている(後段参照)。
なお、この日は時間がなく登城していないが、HP『城郭放浪記』氏が当城をアップしておられるので、ご覧いただきたい。
現地の説明板より・その2
“豊田種長追善供養板碑
関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が土着し是れより豊田を名乗る。
中世の豪族として、平安の中期より約300余年豊田を本拠として豊浦郡北部・大津郡にわたって勢力を保ち、一ノ瀬広畠に館を構えた11代伊賀守種貞、12代種長、13代種藤の鎌倉中期より南北朝中期の間は豊田氏の全盛であった。
【写真左】豊田種長追善供養板碑
豊田氏館から少し南に降った位置の道路脇に建立されている。
本碑は、観応3年(1352)種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬されたのちに供養板碑が建てられ、中央の二文字のキーリック(弥陀)カーマン(不動)の二文字の梵字が刻まれ、下方には人名の痕跡がある15,6人の殉死者の名前らしい。
豊田氏の文献は、極めて稀な中にあって重要なものである。
昭和51年3月31日町指定有形文化財に登録された。
平成12年3月
下関市教育委員会”
豊田氏
豊田氏については、残念ながら詳細な記録はあまり残っていない。
説明板・その2に、関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が当地(豊田)に土着して豊田氏を名乗ったと記されている。関白藤原道隆は平安時代中期の公卿で、藤原北家、摂政関白太政大臣藤原兼家の長男である。冷泉天皇から円融・花山、そして一条天皇の4代を補佐した。
【写真左】追善供養板碑脇の石碑
板碑脇には筆耕文字が劣化した石碑が祀られていた。劣化していて判読は困難だが、「本堂……」という文字が読めたので、おそらくこの場所は豊田氏に関わった寺院の一つ長願寺跡を示すものだろう。
因みに、当時一ノ瀬城に向かう道には北・西・南の三方があり、それぞれの道中には、万福寺・明見寺・満願寺(北方側)、勇徳寺・福林寺(西方側)、そして板碑が設置された南方側には、後真院・長谷観音、及び当該地にあった長願寺という寺院が建立されていた。
そしてこれらの寺院は有事の際、召集した軍兵の屯所に充てられた。
そして、この道隆の4世の孫が輔長とあるが、傍証となる具体的な史料も残っていないようだ。ただ、出典ははっきりしないものの、輔長が豊田氏を初めて名乗ったあと、2代輔平は豊田・大津両郡の領主となり、3代輔行は豊田大領、4代輔継は豊田惣領、そして5代種継は再び豊田大領とされている。
次の6代については記録がないためはっきりしないが、『陽明文庫所蔵文書』応安2年(1167)正月21日付の太政官符によれば、豊田種弘が豊田郡大領に補任されていることが記されている。この種弘は輔長から数えて7代目となる。
文永11年(1274)10月、元軍が筑前(九州)に来襲(文永の役)した際、11代伊賀守種貞は、同町一ノ瀬にあった山砦を堅固に修築したといわれている。これが後の一ノ瀬城である。種貞は地元では今でも勇将として語り継がれ、豊田氏といえば、伊賀守がその代名詞となっている。
【写真左】千人塚
追善供養板碑の反対側(西方)の田圃を見ると、畔の奥に千人塚が祀られている。
由来などははっきりしないが、おそらく南北朝期のものだろう。
ところで、霜降城(山口県宇部市厚東末信)を本拠とした厚東氏もまた豊田氏と同じく防長の大内氏をはじめとする豪族の一つであった。
当稿でも少し触れているが、鎌倉執権体制の瓦解にともなって、長門探題北條時直は宮方であった石見の吉見・高津両軍(高津城(島根県益田市高津町上市)参照)からの攻撃を受けることになる。このとき時直は厚東氏及び豊田氏らにその防戦を命じている。正慶2年・元弘3年(1333)3月のことである。
【写真左】追善供養板碑側から一ノ瀬城を遠望する。
写真右側に追善供養板碑があり、左側の田圃の中に千人塚が祀られている。
同年3月29日、両軍は大峰(現:山口県美祢市大嶺町)で対峙した。南側に陣した探題側は厚東武実をはじめ、豊田氏の主だった面々には、豊田胤藤(種藤)・種本・種長らがいた。この時の緒戦は吉見軍の活躍で、厚東武実・豊田種藤を敗走させ、その後高津長幸らの熱心な誘いを受けた厚東氏は宮方(後醍醐天皇派)に恭順の意を表した。
写真は現在の美祢市大嶺町の街並み。
南北朝期には同町を流れる厚狭川(あさがわ)を挟んで武家方と宮方の激しい戦いがあったものと思われる。
なお、豊田氏のその後の動きについてははっきりしない点が多いが、種藤もその後河越安芸守・坂田・右田の諸軍とともに宮方に属したとされている。
●道隆ー隆家(大宰府権師・権中納言)ー経輔(大宰師・権大納言)ー長房(大宰大弐・周防権守)ー輔長(これより豊田名乗る豊田氏初代)。●12代・種長ー13代・種藤ー14代・種秀、種秀に初め実子がなかったので、種世を養子にするが、その後種家が生まれる。種秀没後、種世と種家が家督争い、実子種家が敗れ、牢浪の身となり、愛媛県松山市二神島に逃れ二神氏を称した。その後河野氏に仕える。(二神水軍)(豊田町誌、豊田藤原子孫系図次第、その他参照)
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