2018年7月17日火曜日

長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

長生寺城(ちょうしょうじじょう)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園
●別名 長正寺城
●高さ H:90m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田種藤
●城主 豊田氏
●遺構 郭・土塁・犬走り等
●備考 神西氏追悼墓碑
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、HP「城郭放浪記」等)
 前稿向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも触れたように、豊田氏が大内氏に対する防衛上の観点から、それまで拠った同町一ノ瀬の一ノ瀬城から豊田盆地の北部側に築いたのが長生寺城である。
 なお、当城は別名、長正寺城とも記録されている。
【写真左】長生寺城遠望・その1
 西側から見たもので、西麓には旧肥中街道に沿った国道435号線が走る。
【写真左】長生寺城遠望・その2
 前稿で紹介した東八幡宮から遠望したもので、北西方向へ直線距離でおよそ900m程の位置に所在する。
 東から南麓にかけて木屋川が流れ、西麓には木屋川の支流・山田川が濠の役目をしていたものと思われる。




大内氏による厚東・豊田両氏攻略

 南北朝期、13代種藤のとき、大内氏は弘世が勢力を広げてきた。この間の流れとしては、陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)の稿で述べているように、弘世は当初北朝方即ち尊氏派に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、足利直冬に属し、さらには南朝方に転じた。
 この間、弘世は霜降城(山口県宇部市厚東末信)の厚東氏を攻略、次の矛先を豊田氏に向けた。延文3年(1358)のことである。
【写真左】長生寺城に向かう。
 写真にみえる道路は国道436号線で、奥の道路脇には「長正司公園 大藤棚」と書かれた看板が見える路地から向かう。


 
 
  この後、大内氏が豊田氏を攻め滅ぼしたという記録が見えるのは、『防長風土注進案』という史料に「…応永年中大内家の為に亡ぼし由古来より申伝候…」とあるのみで、これ以外に詳しい記録は残っていない。

 ただ、向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)の稿で、13代種藤の庶子種治が御幣司に居を構え(東殿)、嫡子種秀が西殿を居館として14代を名乗り、その子・種世が15代を継嗣していることが記録されている。

 そして戦国期に至り、20代房種のとき大内義長(大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)から追放され、弘治2年(1556)4月自決するまで続いている。このことから、おそらく、最後の当主であった房種は、このとき大内氏から離れ、毛利氏に転じようとしていたのだろう。
【写真左】東斜面から上を見上げる。
 この日登城したとき、公園のエリア付近はご覧のように下草が刈られていた。

 ただ長生寺城を示すような案内板はなく、ここからは凡その見当をつけて主郭を目指した。



長生寺城の支城

 ところで、種藤が新たに長生寺城を居城とした際、種藤はこの他に数か所の支城を築いている。配置した場所は何れも当時の街道筋で、大内氏が進軍する可能性のあるルートを事前に予想して築いたものである。

 当時豊田地域で交差していた主な街道は、深川街道・道滝(滝部)街道・山口街道・小月街道・厚狭街道があった。そして、深川街道には大河内の郷に大河内城を、滝部街道には、八道(やじ)と鷹ノ子の境に鷹ノ子城を、萩原から美禰郡口の通路字城四郎峠にも築き、大手となる小月街道の菊川町方面入口付近には関所を設け、城戸とした。

 厚狭街道には稲光に稲光城、また前稿で旧城であった一ノ瀬城を廃止と記しているが、おそらくこの段階では支城として未だ使われていたものと思われる。
【写真左】郭か
 下草が刈られていた一番上部の位置で、おそらく郭として機能していたものと思われる。

 ここから先は整備されていないが、可能な限り上を目指す。
【写真左】帯郭か
 西側にあるもので、左側の一段下がった郭は奥の方(北側)まで繋がっている。
 このまま先に向かう。
【写真左】北の谷へ
 長正寺城は北から伸びてきた尾根の先端部で構成されているが、城域そのものは途中から西に向きを変えた尾根の丘陵先端部に当たる。

 このため、この写真の位置は、西に変えた尾根の北側にある谷に下っていく部分に当たる。
【写真左】上の段
 帯郭の段から上にある段に上がると、前方に低い土塁が奥まで繋がっている。
【写真左】奥に伸びる郭
 上の段から奥へは東方向に伸びている。削平は丁寧な仕上がりだが、その先からは雑木が多いため向かっていない。
【写真左】途中から振り返る。
 北側には最初に見た犬走りがここまで繋がっている。

 この先には向かっていないが、これだけ長いフラットな削平地があることを考えると、居館らしきものもあったのかもしれない。
【写真左】先端部から豊田の街並みを俯瞰する。
 南方を望んだもので、木屋川がこの方向に下り、菊川町に繋がる。中央に見える山は豊ヶ岳(382m)、残念ながら山城ではない。



神西三基の墓

 ところで、長正寺城の登り口付近には「神西三基の墓」が祀られている。神西とは、管理人の地元出雲の神西城(島根県出雲市東神西)の城主であった神西氏のことである。
【写真左】神西三基の墓
右から神西三郎左衛門国通(元通)、中央が小野高通、左が神西景通の墓で、いずれも供養塔と思われる。



 神西氏については、当該城の稿で既に紹介しているが、現地には次のように記されている。

 現地の説明板より

“神西三基の墓

神西三郎左衛門国通(元通)の墓


   戦国時代末期、神西城(出雲市東神西町)第12代城主であった神西三郎左衛門国通(元通)は、尼子氏の重臣として仇敵毛利氏と幾度となく激戦を交わしましたが、元禄9年(1566)、尼子氏の主城富田城が終えんすると一時毛利氏の軍門にくだりました。
 しかし、尼子氏再興に情熱を燃やす国通は、山中鹿之助らとはかり新宮党の尼子誠久の遺児勝久を擁し、わずか3千の兵力で上月城にたてこもりました。攻める毛利方は3万の大軍で城を包囲しました。
 勝算のない籠城戦を強いられた国通らは、勇猛果敢に戦いを挑みましたが、天正6年(1578)7月3日遂に上月城は終えんしました。 


 この時、国通は自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願し、並みいる軍士の前で堂々とみずから命をたったということです。
 平成9年7月6日、終えんの地上月城跡に国通(元通)の追討碑が建立されました。
 碑文は、西尾理弘出雲市長によります。420余年もたち、無償の愛で2千名もの人命を救ったとしてみとめられました。 


神西国通の妻・貴子姫

 彼女は当時国通と共に上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)にあって、国通が自刃する際、夫のあとを追うつもりだったが、国通に生きのびて尼になるように勧められ、乳母と共に京都に逃れ、夫の供養のため読経の生活を送っていた。
【写真左】神西貴子(孝子)姫佛果之塔
 三基の隣には神西国通の妻孝子の仏果塔も建立されている。





 しかし、美人であったがために、織田信長の家臣・不破将監に見初められ、再婚を強要されたが、拒み続け最後は乳母と一緒に桂川の露と消えたという。その後、おさいという下女も二人のあとを追い、誓願寺の貞安上人によって三人の墓が建てられたという。

 因みに、孝子は尼子家臣であった枡形城主森脇市正の姉に当たる。枡形城というのは出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)から意宇川を4キロ下った同町森脇にあった山城である。
【写真左】枡形(山)城遠望
 所在地 島根県松江市八雲町森脇
 南側から見たもの。


小野高通の墓
 雲州 神門郡神西邑 十楽寺開基(手書き) 


 神西家の初代は、鎌倉の御家人小野高通だといわれています。彼は承久の乱(1221)後、新補地頭として神西の地にやってきました。以来12代国通まで350余年、神西家は神西城の城主としてこの地方を治めました。城主は代々三郎左衛門を名乗っています。 

神西12代 

 高通―元通―景通―時景―貞景―清通―惟通―為通―廣通―連通―久通―国通 

神西景通の墓 


上月城終えんの後、母と共に京都に逃れ、その後山口村(豊田町)で帰農したと伝えられます。
          文責 西村酉典(なかよし) 平成10年10月18日”
【写真左】神西城近影
 現在進められている山陰自動車道の延伸工事で、橋脚が神西城の直下(南側)まで敷設され、西に向かって伸びるようだが、城域ではトンネルもしくは、切土による法面の姿も散見されるかもしれない。
 写真:南側にある五輪塔から見た神西城
撮影日 2018年7月。


 以上が現地にあった説明板のおもな内容だが、これを読むと、最終的に貴子が亡くなったあと、嫡男・景通が当地(豊田町)に赴いたということだろう。おそらく彼(景通)をこの豊田町に導いた人物がいたのだろうが、詳しいことは分からない。

0 件のコメント:

コメントを投稿