2009年7月17日金曜日

伊賀・上野城(いが・うえのじょう)・三重県伊賀市上野丸の内

伊賀・上野城

●登城日  2005年11月8日
●別名   白鳳城
●築城主  筒井定次
●築城年  天正13年(1585)
●改修者  藤堂高虎他●指定   国史跡
●その他  廃城年明治4年(1871)、再建造模擬天守(木造1935年模擬)
●形式  平山城

◆解説
 今回取り上げるのは、山城形式ではないが、石垣の見事さや、城造りの名手といわれた藤堂高虎がかかわった伊賀・上野城を取り上げる。
●この場所には元々平楽寺という寺院が建っていたが、天正伊賀の乱で寺院は焼失し、そのあと大和郡山から移ってきた筒井定次が最初に城を築いた。しかし、江戸期に入って、筒井定次は不行状を理由に改易され、代わって伊予・宇和島から藤堂高虎が入り、本格的な城の改修が行われたという。このころは、高虎は徳川方になっており、豊臣討伐を目的とした城造りを計画している。特に石垣を高くして、二の丸を建設した。
 しかし慶長17年(1612)に嵐がやってきて(おそらく台風だろう)、天守が倒壊してしまった。そのご武家諸法度などの制度ができたため、当城も含め新規の築城や、改修はできなくなる。
 
●したがってその後江戸時代の上野城は、外観上も中途半端な城郭として続いて行く。
 明治になると全国的に城郭の取り壊しが始まる。上野城も多くの構造物が取り壊されたという。明治29年(1896)、この惨状を見かねて立ち上がったのが、当地出身の実業家・田中善助で、上野城周辺の整備を行い、公園として再生させる。
●昭和10年(1935)には、衆議院議員・川崎克が、私財を投じて天守を再建させる。昭和42年になると、国の指定をうける。その後当城は「伊賀文化産業城」と命名され、(財)伊賀文化産業協会が管理運営している。
【写真上】天守の前
【写真左】石垣付近


 








【写真左】上野城公園
【写真左】上野城公園で不安?そうなトミー嬢

2009年7月14日火曜日

高遠城(たかとおじょう)跡・長野県上伊那郡高遠町東高遠

高遠城別名兜山城、甲山城

登城日  2007年10月16日
●指定    国指定史跡
●築城期  治承3年(1179)
●築城者  笠原平吾頼直
●高さ    標高800m、比高50~70m
●城主   笠原平吾頼直、木曽義親(高遠太郎)、高遠氏、保科正俊、
       秋山信友、武田勝頼、
       仁科盛信、毛利秀頼、京極高次、その他
●所在地  長野県上伊那郡高遠町東高遠

◆はじめに
 前々稿に続いて「西国」ではなく「東国の山城」紹介となるが、今回の場所は必ずしも、西国それも出雲の中世国人領主と全く関係のないところではなく、むしろ非常に関係のあったところである。
 以前、出雲の三刀屋氏、三沢氏、牛尾氏などを取り上げた際、これら諸氏の元々の出身地が信州を中心とした源氏系であったことを紹介した。そうしたこともあって、今回の高遠城周辺である上伊那も一度は訪れてみたい場所であった。

 さて、毎年春になると、この高遠城を中心とした公園には地元はもちろんのこと、遠く東京や名古屋方面など全国各地から大型バスに乗った多くの観光客が訪れる全国的に有名な桜の名所である。
 そうしたことから、現在では当城の価値が山城としての位置づけよりも、桜の観光地としての方が大きく、山城探訪者がこの時期に訪れると、大変な渋滞と混雑で、じっくりと遺構を見るということはまず困難な状況である。

 こうした事前の情報も知っていたので、探訪した時期は前出の岩村城、苗木城探訪の時で、2007年10月16日である。このときの目的地は山城は当然だが、前から木曽川と並行して走る中山道(19号線)を走ってみたいという希望と、連れ合いの「妻籠」を見たいというリクエストもあり、さらにタイミングよく、前年の2006年2月に、中山道から上伊那に抜ける難所の通称「権兵衛街道(361号線)」の「権兵衛トンネル」が開通したこともあって、それじゃあついでに高遠城へはそんなに時間はかからないだろうということから向かった。
【写真左】高遠城遠望
 高遠湖岸の南にある高遠桜ホテルの宿から見たもので、中央の模擬天守のような建物の後が、高遠城址公園である。
 戦国期は当然ながら、写真に見える堰はなく、したがって高遠湖なる人造湖はなかった。この川は三峰川という名で、ちょうど中央構造線(フォッサマグナ)のラインと重なる。武田軍が攻め入ったルートはこの写真の中央から右にかけて登って行く「杖突街道」側からで、当時としてはかなりの高低差があったものと思われる。なお、信長方が攻め入ったルートは西の「権兵衛街道」側からだが、どちらにしても武田軍と同じような陣取りとなったと思われる。
 なお、後述する仁科盛信を供養した石碑が置かれているのは、この写真の左の山後方にある。後で知ったのだが、この武将の名は、長野県歌「信濃の国」の中にも歌われているという。

◆解説
 当城の形態としては高遠の町の高台に立つ城であるが、山城というより「平山城」といったほうがいいかもしれない。もっとも現在のように城下の町が整備され、登城道も車で行けるような環境になったことあって、城郭の設置高さはあまり感じられないかもしれないが、中世・戦国期にはある程度の切崖や要害施設が機能していたと思われる。

【写真左】高遠城本丸付近

 沿革は上段に主だった記録として載せているが、築城期は治承3年というから、源頼朝が伊豆で挙兵する前年である。ちなみに出雲・尼子氏の居城となった月山冨田城が、初めて築城されたのは、高遠城の築城期より2年前のことで、治承元年(1177)、平宗清とされている。
 戦国期になると、甲斐の武田信玄は天分16年(1547)信濃に侵攻し、謀略によって当城を降し、岩村城の稿でも紹介した重臣・秋山信友に命じて、この城の大改修を行わせている。この時、山本勘助が実際の改修普請の統括責任者ではなかったといわれている。

【写真左】本丸跡その1
この周辺には、信州高遠美術館もある

 高遠城の城主はこの時期からめまぐるしく変わっていく。弘治2年(1556)は改修を行った秋山信友だが、その後信玄の弟や子が城主となっている。
 天正10年(1582)、信玄の五男・仁科五郎盛信と織田信忠の戦いはつとに有名で、信長の長男・信忠は5万の大軍を率いて高遠城に攻め入った。対する仁科側はわずか3千の城兵で、常識的にはこの段階で降伏するところだが、盛信はあえてそれを受け入れず、徹底抗戦した。果せるかな盛信はじめ高遠の城兵はすべて討死した。
 その後の経緯は他の史料に詳しく述べてあるので、省略する。

【写真左】高遠城の下の付近にあった門
たしか、江戸時代のものだったと思う。
【写真左】本丸跡その2
現在の高遠城は、江戸期に近代城郭として相当改修されているようだが、それにしても郭の大きさなどかなりの規模である。

2009年7月10日金曜日

苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木

苗木城(なえぎじょう)

●登城日 2007年10月16日
●所在地 岐阜県中津川市苗木
●別名  霞ヶ城、赤壁城
●遺構  石垣、郭
●築城主 説その1:遠山直兼、広恵寺城を高森山に移築
      説その2:建武年間(1334~35)
●城主  遠山氏、森氏、川尻氏
●指定  国指定(昭和56年)

◆解説
 当城の初期の沿革ははっきりしないところがあって、上段に示した遠山直兼が天文元年(1532)に移築した時期が築城期とされているが、当城の特徴から見ると、もっと古いような気もする。

【写真左】苗木城の石垣








 もともと砦形式の要塞だったものを直兼が、織田信長の支援によって改修・拡張したということらしい。

 そもそもこの地をおさめていた遠山氏は、前稿の岩村城と同じく南北朝時代にすでにこの地で活躍していたことを考えると、築城期はそのころと考えた方がいいと思う(別の史料によれば、後醍醐天皇が建武の新政をおこなった時期、すなわち1334~35年という記録もある)。
【写真左】苗木城













 前稿で取り上げた「岩村城」と同じく、遠山氏一族の居城だが、遠山氏は室町期に入ってから東美濃地方で勢威を張り、七遠山、遠山三人衆などと呼ばれた。この中の三人衆とは、岩村城の岩村、明知城の明知、そして今稿の苗木の遠山氏である。

 戦国時代になると、城主・直兼は岩村城と同じく織田信長の妹をめとり、信長方に属する。しかし、信長が本能寺の変で亡くなると、豊臣方の森長可に攻め落とされ、直兼の養子だった友忠は、家康方を頼って落ち延びる。

 関ヶ原の戦いが勃発すると、友忠の嫡男・友政は当寺苗木城主だった川尻氏(豊臣方)から当城を奪還する。この軍功を家康から認められ、遠山氏は再びこの苗木の領有をすることになり、江戸の末期まで苗木藩を治めていく。

【写真左】天守跡に建つ矢倉
 苗木城の特徴はとにかく岩や巨石の多さと、それを巧みに利用した普請が挙げられれる。

 写真の矢倉は最近復元されたもので、当時こうした形だったかははっきりしないが、おそらくこれに類した木製構造の建物があったのだろう。
【写真左】苗木城本丸から眼下を望む。












【写真左】大矢倉跡

これも地山の岩を利用しながら、石垣をうまく築いたもので、三の丸に当たる。
 








【写真左】本丸跡付近から見た木曽川

 川向うの町は中津川市街。城域全体が岩山でできたような雰囲気があり、そのために本丸付近には余分な雑木も少なく、眺望は極めて良好である。

 意外と現在の山城で四方を望める眺望をもったものは少ないが、その点、苗木城は十分満足させてくれる。
【写真左】本丸の下部分














◆まとめ

●登城したのは、前稿の岩村城登城と同じ2年前で、当時デジカメも少し型が古く、撮影した写真枚数は多くなかった。
 また、撮影のアングルもいま一つのものばかりで、今思うと、もう少し要所を考えて撮ればよかったと少し悔いが残る。

●なお、苗木城も見ごたえのある山城だが、さらによかったのは、麓にある「苗木遠山資料館」である。とにかく苗木城に関する資料の多さ、収蔵品のグレードが予想以上に高く、さらに研究・調査資料の質の高さ等々、数えればきりがない。

 じっくりと調べようとするなら、この資料館で丸一日はかかってしまう。さすがに国の史跡指定を受けるだけのものはある。

 日本三大山城も素晴らしいが、この苗木城は別の意味で感動できる山城である。

2009年7月7日火曜日

岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山

岩村城(いわむらじょう)跡

●登城日  2007年10月16日
●通称    霧ヶ城
★日本三大山城の一つ、標高721m
●城郭構造 梯郭式山城 ●天守構造 なし
●築城主 加藤景廉
●築城年 1185年(文治元年) または1195年(建久6年)
●主な改修者 川尻鎮吉、各務兵庫
●主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
●廃城年 1871年(明治4年)  ●遺構 石垣、郭
●指定文化財 史跡
●再建造物 藩主邸
●所在地 岐阜県恵那市岩村町字城山

【写真左】岩村城の石垣群
一段ごとの高さはさほどないものの、何層にもわたって積み上げられた光景は他の山城とは一線を画すものだ。






★はじめに
 このところ島根・出雲部の山城を連続して投稿していて、なかなか県外の山城紹介に至っていない。
 そこで、今年に入って前稿までが99回ということから、100回目は県外の山城とし、日本三大山城の一つ、岐阜の岩村城を取り上げる。

 ところで、当ブログ名である「西国…」という区域からすると、この岩村城は「西国」とは言えず、むしろ「東国」といったほうがいいかもしれない。しかし、山城探訪に興味を持つものとしては、日本三大山城の一つであるこの岩村城は、他の二城(高取城・備中松山城など)と同じく、一度は登城したいという衝動にかられる山城である。

 ただ、何しろ出雲からこの信州に近い恵那の山奥に行くまでは相当の距離があり、さすがに普段の近在の山城探訪(日帰り)というわけにはいかなかった。事前に当城の麓にあった宿(白壁の岩村城を模した建物)に予約をとっておき、出発日(2007年10月)朝早く出雲を出て、高速を乗り継ぎ、現地の宿に着いたのは意外に早く、3時過ぎだったと思われる。

 あくる日の朝、この宿から登って行った。途中で「クマ出没:注意」との表示があった。こうした表示は事前の心構えとしては有難いが、実際にクマが出てきたら、これはもうどうしようもない。用心棒がわりとして愛犬「トミー嬢」を連れているが、実際に出くわしたら、トミー嬢は、用心棒どころか、我先に逃走すること間違いない「不忠義の犬」である。

 注意表示の話でついでながら、よく断崖絶壁下の道を車で通ると、「落石注意!」という標識を見かける。これも「落石」した段階でぶつかればアウトで、「注意」しようにも、車の運転をしておれば、ほぼ不可避で、「運がなかった」ということだと思っている。

 脱線してしまった。岩村城の登城道は途中の遺構を楽しむため、徒歩によるコースと、汗をかかず車で本丸付近まで行けるコースとがある。クマさんとの出会いは、当然徒歩のコースだが、途中に何箇所か石敷の道があり、雨上がり後の登城は足元が滑るので注意が必要。
 本丸までの時間はどのくらいだったか、2年も前のことなのではっきりと覚えていないが、おそらく2時間程度はかかったと思われる。途中で興味のある遺構が点在していたこともあり、じっくりと見たことや、結構きつい傾斜面もあり、結果として時間を相当費やした。

◆解説
 この山城については、他のサイトや紹介資料で相当説明がされているので、当ブログで改めて紹介する必要もないが、一応記しておきたい。

 冒頭の沿革にもあるように、築城期には2説あり、ひとつは文治元年(1185)であるから、源義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝が諸国に守護・地頭を置いた時期。もう一つは建久6年(1195)とあり、頼朝が征夷大将軍になった建久3年から3年後である。2説ともそれらしい時期に思われるが、どちらにしても鎌倉の開幕期であることは間違いない。


【写真左】岩村城下(町)にある「巌邑城址碑」の公園付近
 巌邑城と銘記されているため、当初この地に同城があったものと思われたが、岩村城の別名であるようだ。
 ただ、この付近は信長勢が岩村城を攻めよせた際に陣取った場所の一つでもあるらしい。


 築城者となっている加藤景兼は頼朝の重臣だが、本人は一度もこの岩村の地には地頭として赴任しておらず、景兼の子・影朝の代になって初めて岩村の地に赴任し、姓も加藤から遠山氏に改姓した。

 下って、戦国期の元亀元年(1570)、遠山氏最後の城主となった景任は、武田信玄に攻められるが、信長の援護で死守する。しかし、翌元亀2年、景任は病没したため、信長が五男の御坊丸を遠山氏の養子とさせる。御坊丸は幼少だったため、景任の未亡人である「おつやの方」(おゆう、またはお直の方とも)が御坊丸に代わって「女城主」として采配を振るったという。なお、この「おつやの方」は信長の叔母に当たる。このこともあって、当城には「女城主」としての秘話が残されている。

 元亀3年(1572)10月、武田信玄は遠江の徳川家康を攻めると同時に、配下の秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、岩村城は標高721mに本丸を頂く山城である。容易に岩村城は落城しなかった。このため信友はおつやの方を説得し、自分の妻に迎えて遠山一族を守ることとした。
【写真左】本丸跡付近から岩村の町を見る
 本丸跡から城下が望める場所はあまりなく、特に成長した樹木が多く、眺望は期待できない。






 天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勢が弱体化した期を図って、信長は岩村城を奪還すべく5か月にもわたる激戦を展開、ついに岩村城は落城した。

 この際、遠山氏の主だったものの命は保障するとの約束を、信長は翻して、信友夫妻(おつやの方)をふくめ5名が、長良川河川敷で逆さ磔(はりつけ)となって処刑されたという。自分の叔母でも殺すという、残虐な行為を行う信長の冷酷な一面が見える。

 その後、織田方の城となり、河尻秀隆が城主となった。この秀隆の時に大規模な改修がなされたといい、現在の岩村城の基礎が出来上がる。

 その後、秀隆は甲斐に移封され、団忠正が城主となるが、3か月後本能寺の変で忠正は戦死。信濃国から森長可が接収、長可没後は森忠政と森氏2代が続く。このときの城代家老・各務兵庫助元正が18年の歳月をかけて現在の岩村城を近代城郭とした。
 その後の経緯については、省略する。
【写真左】岩村城の石垣その1
 岩村城の紹介写真ではよくこの石垣が取り上げられるが、おそらくこの石垣群が整備されたのは織豊期である河尻秀隆が城主となったころと思われる。







【写真左】岩村城の石垣その2

 左側が本丸になり、右にはかなり大きな平坦地がある。現在その場所に売店のようなものが建っている。







【写真左】本丸跡付近
 この場所には、100円か、200円を入れると、最初に歌が流れてくる機械が設置してある。歌っているのは、故人となった演歌歌手・春日八郎で、歌の題名も確か「岩村城」か「女城主」を讃えたものだったと思う。

 この歌を聞いた瞬間、もうずいぶん前だが、春日八郎が、この岩村城や女城主に興味を持っていたことをテレビで見たこと思い出した。

 歌が終わった後は、当城の説明がしばらく続く。現地まで徒歩で登ってきた者にとって、休憩と併せてこうしたものを聞けるのは何となく気が休まる。

 ちなみに、歌までは入っていないが、本丸に説明用のアナウンスが流れる仕組みがあったのは、広島・備後の新高山城にもそうしたものがあったと記憶している。




◆岩村城はその城下町と合わせ観光地としてかなり有名なようだ。また、遠山氏は江戸期に入って、その末裔が、昔テレビでやっていた「遠山の金さん」こと、遠山金四郎とのことで、これもまた興味深い流れがある。

布部要害山城(ふべようがいさんじょう)跡・島根県安来市広瀬町布部

布部要害山城(ふべようがいさんじょう)

●登城日 2007年12月8日
●所在地 安来市 広瀬町 布部
●築城期 中世  ●遺跡種別 城館跡
●築城主 不明
●標高 183m
●別名 布弁城、布部城、一円山・飯ヶ山・古城山
●遺跡の現状 遺構一部破損
●備考 郭、腰廓、堀切、虎口、土塁、竪掘

解説(現地の説明板より)

要害山由来
 要害山は、火山系安山岩で出来ており、別名一円山ともいわれ、標高180mあり、布部は尼子と毛利の天下分け目の戦場となったところで、尼子の武将・森脇市正久仍(ひさより)が陣取った山城の一つである。
【写真左】布部要害山城遠望
 東麓を走る国道432号線からみたもの。










【写真右】説明板の図面
 戦の場所は、当城の他に、3か所でも行われていた。
















 元亀元年(1570)2月14日、毛利輝元率いる14,000の将兵と、尼子勝久率いる武将・山中鹿之助幸盛の7,000の兵が激突した。しかし、多勢に無勢で、尼子方は300の死者を出し、広瀬富田城奪還の夢破れ、ついに山佐方面に総退却せざるを得なかった。

 両軍の戦死者の霊を慰める山中祭は、毎年2月14日に行われ、陣粥がふるまわれる。なお、山頂の祠は、120年前、西の谷から移され、祭神は加具槌の神(いざなぎ いざなみの命の子)で、火の災いを鎮めるように祀ったと古事記は伝えている。地元では、愛宕神社と呼び、8月に神事や、夏まつりの点灯でにぎわう。“

【写真左】要害山山頂部
 上記の説明板と、祠、小屋が設置してある。











【写真左】要害山城から月山富田城方面を見る。














【写真左:上下】要害山城の南にある布部神社。










 上段の説明文と重複するが、「ひろせ史蹟名勝ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編」(月山尼子ロマンの里づくり委員会)によると、もともと布部山(一円山)に愛宕神社があり、「軻遇突智命(かぐとちのみこと)」を祀っていた。

 元亀元年(1570)布部合戦のとき、神社が被害に及んではと、現在地の清和山に奉還されたということらしい。



 この布部山の脇を通る432号線は、戦国時代、大内氏や毛利氏がたびたび月山冨田城攻めの際利用した道で、このルートから攻め入る際には物理的にも上流部にある三沢氏の存在が重要になる。

 尼子氏を南方から攻めるとき、三沢氏が毛利に与していたから成し得たわけで、同氏や三刀屋氏が毛利に降礼をとらなかったら、尼子の滅亡ももう少し遅くなっていたと思われる。

 なお、布部合戦で毛利が勝利したもうひとつの理由の一つとして、地元の「老婆」が毛利方に布部の詳しい山道を教えたこと伝えられているが、なんとなく「できすぎた話」にも思える。


 別の史料によれば、実際には、地元布部の土豪(小藤・小林・安部・椿氏など)を、吉川元春が買収し、その間道を教えてもらったという記録がある。

 この戦いは戦力の大小も関係しているが、毛利方の事前の情報収集(特に地理的なルート)によるところが大きい。
 鹿助は、同合戦の大敗北によって、山佐方面へ逃げる。