2009年7月10日金曜日

苗木城(なえぎじょう)跡・岐阜県中津川市苗木

苗木城(なえぎじょう)

●登城日 2007年10月16日
●所在地 岐阜県中津川市苗木
●別名  霞ヶ城、赤壁城
●遺構  石垣、郭
●築城主 説その1:遠山直兼、広恵寺城を高森山に移築
      説その2:建武年間(1334~35)
●城主  遠山氏、森氏、川尻氏
●指定  国指定(昭和56年)

◆解説
 当城の初期の沿革ははっきりしないところがあって、上段に示した遠山直兼が天文元年(1532)に移築した時期が築城期とされているが、当城の特徴から見ると、もっと古いような気もする。

【写真左】苗木城の石垣








 もともと砦形式の要塞だったものを直兼が、織田信長の支援によって改修・拡張したということらしい。

 そもそもこの地をおさめていた遠山氏は、前稿の岩村城と同じく南北朝時代にすでにこの地で活躍していたことを考えると、築城期はそのころと考えた方がいいと思う(別の史料によれば、後醍醐天皇が建武の新政をおこなった時期、すなわち1334~35年という記録もある)。
【写真左】苗木城













 前稿で取り上げた「岩村城」と同じく、遠山氏一族の居城だが、遠山氏は室町期に入ってから東美濃地方で勢威を張り、七遠山、遠山三人衆などと呼ばれた。この中の三人衆とは、岩村城の岩村、明知城の明知、そして今稿の苗木の遠山氏である。

 戦国時代になると、城主・直兼は岩村城と同じく織田信長の妹をめとり、信長方に属する。しかし、信長が本能寺の変で亡くなると、豊臣方の森長可に攻め落とされ、直兼の養子だった友忠は、家康方を頼って落ち延びる。

 関ヶ原の戦いが勃発すると、友忠の嫡男・友政は当寺苗木城主だった川尻氏(豊臣方)から当城を奪還する。この軍功を家康から認められ、遠山氏は再びこの苗木の領有をすることになり、江戸の末期まで苗木藩を治めていく。

【写真左】天守跡に建つ矢倉
 苗木城の特徴はとにかく岩や巨石の多さと、それを巧みに利用した普請が挙げられれる。

 写真の矢倉は最近復元されたもので、当時こうした形だったかははっきりしないが、おそらくこれに類した木製構造の建物があったのだろう。
【写真左】苗木城本丸から眼下を望む。












【写真左】大矢倉跡

これも地山の岩を利用しながら、石垣をうまく築いたもので、三の丸に当たる。
 








【写真左】本丸跡付近から見た木曽川

 川向うの町は中津川市街。城域全体が岩山でできたような雰囲気があり、そのために本丸付近には余分な雑木も少なく、眺望は極めて良好である。

 意外と現在の山城で四方を望める眺望をもったものは少ないが、その点、苗木城は十分満足させてくれる。
【写真左】本丸の下部分














◆まとめ

●登城したのは、前稿の岩村城登城と同じ2年前で、当時デジカメも少し型が古く、撮影した写真枚数は多くなかった。
 また、撮影のアングルもいま一つのものばかりで、今思うと、もう少し要所を考えて撮ればよかったと少し悔いが残る。

●なお、苗木城も見ごたえのある山城だが、さらによかったのは、麓にある「苗木遠山資料館」である。とにかく苗木城に関する資料の多さ、収蔵品のグレードが予想以上に高く、さらに研究・調査資料の質の高さ等々、数えればきりがない。

 じっくりと調べようとするなら、この資料館で丸一日はかかってしまう。さすがに国の史跡指定を受けるだけのものはある。

 日本三大山城も素晴らしいが、この苗木城は別の意味で感動できる山城である。

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