鳥越城(とりごえじょう)・その1
●所在地 石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町
●指定 国指定史跡(昭和63年9月3日)
●築城期 不明
●築城者 鈴木出羽守
●城主 鈴木出羽守
●高さ 312m(比高130m)
●遺構 郭・堀切・空堀・櫓・礎石建物等
●登城日 2014年6月18日
◆解説(参考文献『石川県中世城館跡調査報告書Ⅲ H18年』等)
鳥越城は北陸の霊峰白山(標高2,702m)を源流とする石川県最大の河川手取川中流域にあって、中世本願寺門徒の拠点とされた山城である。
【写真左】鳥越城鳥瞰図
田村昌弘氏作図の縄張図を参考に描く。
鳥越城は長く伸びた舌陵丘陵の先端部に築かれているが、当時丘陵直下は、東西を流れる手取川や支流・大日川などが天然の濠の役目をしていたものと思われる。
なお、城域はこの図からさらに上(南方)に向かった位置(現釜清水トンネル)まで伸びていたといわれ、総延長は凡そ1,5キロの長大な規模のものであったと考えられている。
【写真左】鳥越城遠望・その1
東麓側の大日川付近から見たもので、写真右側が南方の白山方面に繋がる。
【写真左】鳥越城遠望・その2
先端部を見たもので、手前の大日川はこのまま下って、本流手取川に合流する。
現地の説明板より
“ 讃
五百年前、日本の歴史に、世界の歴史に例のない、農民の心をひとつにしてできた国があった。
これが、加賀「百姓の持たる国」の誕生である。
【写真左】鳥越城跡案内図
現地の案内図に手を加えたもので、追加したものは左側の「前三の丸」だが、この他に尾根南側には「馬場跡」があったとされている。
なお、当城には車で直接向かうことができ、駐車場も完備されている。
天の声、地の声を、わが心とした人々の固い団結は、以来百年に及んでいる。
しかし、歴史は無情である。この国の終末は殉教と云う悲劇の中に幕を閉じることなる。その最後の舞台が、ここ、「鳥越城」である。
いま、悲しい歴史をもつこの里にも、新たな創生が進められている。
それは、四百年前に、先人たちが心をひとつにして、雲霞の如き織田の大軍に、死をも恐れず立ち向かった一向一揆の殉教の精神を讃仰し、そのエネルギーを継承し、新たな鳥越村を築くことでる。
やがてこの里の山河燃ゆる日を念じつつ、先人たちの霊に合掌せん。
加賀一向一揆五百年を記念し
新たな鳥越村の創生を祈りつつ記す。
平成2年8月13日
鳥越村一向一揆まつり実行委員会
鳥越村村長 橋浦 久三
作者 吉田 隆
題字 笠原 一男”
【写真左】駐車場から後三の丸に向かう。
手前の広場が駐車場で、ここから歩いて各遺構に向かう。
写真の右側には下段で示す「あやめが池」がある。
【写真左】あやめが池
鳥越城周辺部にはまとまった水源が確保できた箇所はあまりなかったのだろう。
その中でもこの池は東方の「後三の丸」の谷にあって、発掘調査の時、水を通す砂の地層があって、出口には石積と、パイプの代わりをしていた木樋が検出された。
百姓の持たる国
室町時代、本願寺中興の祖といわれた第8世・蓮如の子である実悟(じつご)が残した『実悟記拾遺』に次のような個所がある。
「…百姓の持たる国のようになり行き候云々」
これは加賀国(石川県)で起こった一向宗の一揆「長享の一揆」のあと、記録されたものである。
【写真左】後三の丸・その1
遺構の配置の中で最北端部にあるもの。
「うしろさんのまる」と呼称されている。当城のなかでは最大の面積を誇る郭で、南側の本丸がある郭群とは空堀を介して独立している。
【写真左】後三の丸・その2
三の丸の一角に小さな郭が付随しているが、この箇所に掘立柱建物跡や排水溝などが検出されている。
位置から考えて、北の守りとしての前線基地であったと考えられる。
応仁・文明の乱がおこったこの時期、京都における内乱は瞬く間に全国に広がった。中でも北陸加賀地方では守護家の家督争いを起点として、国人領主や門徒・農民らが一斉に蜂起した。当初は加賀守護職を巡っての守護家富樫家の家督相続争いであったが、やがてこれに浄土真宗高田派と、本願寺派(一向宗)が加わり、当地の一揆は拡大の一途をたどることになる。
【写真左】空堀
後三の丸のほぼ全周囲を囲繞しているもので、堀としての窪みは殆ど残っていないが、後三の丸をこのラインで最初に防御するものだったと思われる。
この騒乱はその後、一揆勢(土民)らが主導権を握り、武家方を駆逐し、ついに「百姓の持たる国」となった。こうして加賀をはじめ越前や越中の一部は、ほとんど武家方が表に立つことなく、一揆・一向宗門徒らによって国の支配がおよそ100年近くの間にわたって続くことになる。
いわば百姓による自治がしばらく続いたわけだが、こうした土民らによる支配された地域を惣国といい、北陸の他に挙げられるものとしては、近江・三河の一部、さらには惣村レベルでは尾張と伊勢の国境である長島や、紀伊の雑賀などがある。
【写真左】中の丸に向かう。
後三の丸を一通り踏査した後、一旦降りて中の丸方面に向かう。
写真の右下(東)は雑草で覆われているが、南北に長い帯郭がある。また、この写真の左側には後二の丸や本丸と連続する浅い空堀があり、その中途には土橋が設けられている。
柴田(織田)軍との攻防
天正8年(1580)、織田信長は白山麓の本願寺門徒討伐をめざし、柴田勝家にその任を命じた。
同年11月、当時一向一揆の拠点の一つであった加賀・松任城の鏑木氏が勝家らによって謀殺されると、一気に一向宗門徒らは守勢に立たされた。
そして、翌天正9~10年(1581~82)、遂に鳥越城をはじめ白山麓において柴田軍(織田軍)らと壮絶な戦いが繰り広げられた。
鳥越城の城主・鈴木出羽守は白山麓本願寺門徒を引き従え、最期まで徹底抗戦した。
その結果、織田軍らの掃討作戦によって300余人が捕らわれ、手取川の河原で磔刑されたという。
【写真左】本丸西側の礎石建物跡
中の丸や本丸に向かう途中には小規模な郭があるが、この部分に礎石建物跡がある。
発掘時の写真を下段に示す。
【写真左】本丸西側調査時の写真
現地の説明板より
“本丸西側
本丸西側は枡形門前から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる斜面でありました。盛土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられます。本丸建物と本郭の建ち並ぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰郭を臨み、本丸を防衛していた郭と想定されます。”
【写真左】枡形門・その1
すでに中の丸に入っているが、これについては後ほど紹介し、先ずは本丸側に向かう。
この枡形門は城内で唯一石垣で三方を固めているもの。
【写真左】枡形門・その2
本丸門側から振り返ってみたもので、枡形門を抜けると一旦L字型に角度を変え階段を登って本丸門に向かうようになっている。
【写真左】本丸門
ご覧の通り両側には高さ2m余りの土塁が築かれ、柵列を介して防御を固めている。
復元された門だが、おそらく当時の意匠とほぼ同じものだっただろう。
【写真左】本丸・その1
南北に伸びる長方形で、三方に土塁が囲繞する。この中には礎石建物群があるが、6回にわたって建替えされた跡が残る。南西側には激しい戦を物語る焼土層が広がっていたという。出土品としては、石臼・茶臼・鉄釘・銅銭・越前焼の甕(かめ)・擂鉢・漆塗碗など。また、中国製陶器として碗・皿・盃が目立ち、武器類としては鉄砲玉・小刀・鎧断片など多数のものが検出されている。
現地にはこれらの発掘調査時の写真なども掲示されている。
【写真左】井戸跡
冒頭で紹介したあやめが池とは別に本丸内に井戸跡が残る。
鳥越城での戦いは長期にわたる籠城戦があったことから、城内における食糧や水の確保などには最大限の努力が払われたことだろう。
【写真左】本丸・その2
北側から振り返ってみたもので、東側(左)に土塁が残り、その奥には望楼台(櫓台)が見える。中央の門が本丸門。
◎次稿へ
今稿はここまでとして、中の丸や後二の丸など他の遺構については、次稿で紹介したい。
●所在地 石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町
●指定 国指定史跡(昭和63年9月3日)
●築城期 不明
●築城者 鈴木出羽守
●城主 鈴木出羽守
●高さ 312m(比高130m)
●遺構 郭・堀切・空堀・櫓・礎石建物等
●登城日 2014年6月18日
◆解説(参考文献『石川県中世城館跡調査報告書Ⅲ H18年』等)
鳥越城は北陸の霊峰白山(標高2,702m)を源流とする石川県最大の河川手取川中流域にあって、中世本願寺門徒の拠点とされた山城である。
田村昌弘氏作図の縄張図を参考に描く。
鳥越城は長く伸びた舌陵丘陵の先端部に築かれているが、当時丘陵直下は、東西を流れる手取川や支流・大日川などが天然の濠の役目をしていたものと思われる。
なお、城域はこの図からさらに上(南方)に向かった位置(現釜清水トンネル)まで伸びていたといわれ、総延長は凡そ1,5キロの長大な規模のものであったと考えられている。
【写真左】鳥越城遠望・その1
東麓側の大日川付近から見たもので、写真右側が南方の白山方面に繋がる。
【写真左】鳥越城遠望・その2
先端部を見たもので、手前の大日川はこのまま下って、本流手取川に合流する。
現地の説明板より
“ 讃
五百年前、日本の歴史に、世界の歴史に例のない、農民の心をひとつにしてできた国があった。
これが、加賀「百姓の持たる国」の誕生である。
現地の案内図に手を加えたもので、追加したものは左側の「前三の丸」だが、この他に尾根南側には「馬場跡」があったとされている。
なお、当城には車で直接向かうことができ、駐車場も完備されている。
天の声、地の声を、わが心とした人々の固い団結は、以来百年に及んでいる。
しかし、歴史は無情である。この国の終末は殉教と云う悲劇の中に幕を閉じることなる。その最後の舞台が、ここ、「鳥越城」である。
いま、悲しい歴史をもつこの里にも、新たな創生が進められている。
それは、四百年前に、先人たちが心をひとつにして、雲霞の如き織田の大軍に、死をも恐れず立ち向かった一向一揆の殉教の精神を讃仰し、そのエネルギーを継承し、新たな鳥越村を築くことでる。
やがてこの里の山河燃ゆる日を念じつつ、先人たちの霊に合掌せん。
加賀一向一揆五百年を記念し
新たな鳥越村の創生を祈りつつ記す。
平成2年8月13日
鳥越村一向一揆まつり実行委員会
鳥越村村長 橋浦 久三
作者 吉田 隆
題字 笠原 一男”
【写真左】駐車場から後三の丸に向かう。
手前の広場が駐車場で、ここから歩いて各遺構に向かう。
写真の右側には下段で示す「あやめが池」がある。
【写真左】あやめが池
鳥越城周辺部にはまとまった水源が確保できた箇所はあまりなかったのだろう。
その中でもこの池は東方の「後三の丸」の谷にあって、発掘調査の時、水を通す砂の地層があって、出口には石積と、パイプの代わりをしていた木樋が検出された。
百姓の持たる国
室町時代、本願寺中興の祖といわれた第8世・蓮如の子である実悟(じつご)が残した『実悟記拾遺』に次のような個所がある。
「…百姓の持たる国のようになり行き候云々」
これは加賀国(石川県)で起こった一向宗の一揆「長享の一揆」のあと、記録されたものである。
【写真左】後三の丸・その1
遺構の配置の中で最北端部にあるもの。
「うしろさんのまる」と呼称されている。当城のなかでは最大の面積を誇る郭で、南側の本丸がある郭群とは空堀を介して独立している。
【写真左】後三の丸・その2
三の丸の一角に小さな郭が付随しているが、この箇所に掘立柱建物跡や排水溝などが検出されている。
位置から考えて、北の守りとしての前線基地であったと考えられる。
応仁・文明の乱がおこったこの時期、京都における内乱は瞬く間に全国に広がった。中でも北陸加賀地方では守護家の家督争いを起点として、国人領主や門徒・農民らが一斉に蜂起した。当初は加賀守護職を巡っての守護家富樫家の家督相続争いであったが、やがてこれに浄土真宗高田派と、本願寺派(一向宗)が加わり、当地の一揆は拡大の一途をたどることになる。
【写真左】空堀
後三の丸のほぼ全周囲を囲繞しているもので、堀としての窪みは殆ど残っていないが、後三の丸をこのラインで最初に防御するものだったと思われる。
この騒乱はその後、一揆勢(土民)らが主導権を握り、武家方を駆逐し、ついに「百姓の持たる国」となった。こうして加賀をはじめ越前や越中の一部は、ほとんど武家方が表に立つことなく、一揆・一向宗門徒らによって国の支配がおよそ100年近くの間にわたって続くことになる。
いわば百姓による自治がしばらく続いたわけだが、こうした土民らによる支配された地域を惣国といい、北陸の他に挙げられるものとしては、近江・三河の一部、さらには惣村レベルでは尾張と伊勢の国境である長島や、紀伊の雑賀などがある。
【写真左】中の丸に向かう。
後三の丸を一通り踏査した後、一旦降りて中の丸方面に向かう。
写真の右下(東)は雑草で覆われているが、南北に長い帯郭がある。また、この写真の左側には後二の丸や本丸と連続する浅い空堀があり、その中途には土橋が設けられている。
柴田(織田)軍との攻防
天正8年(1580)、織田信長は白山麓の本願寺門徒討伐をめざし、柴田勝家にその任を命じた。
同年11月、当時一向一揆の拠点の一つであった加賀・松任城の鏑木氏が勝家らによって謀殺されると、一気に一向宗門徒らは守勢に立たされた。
そして、翌天正9~10年(1581~82)、遂に鳥越城をはじめ白山麓において柴田軍(織田軍)らと壮絶な戦いが繰り広げられた。
鳥越城の城主・鈴木出羽守は白山麓本願寺門徒を引き従え、最期まで徹底抗戦した。
その結果、織田軍らの掃討作戦によって300余人が捕らわれ、手取川の河原で磔刑されたという。
【写真左】本丸西側の礎石建物跡
中の丸や本丸に向かう途中には小規模な郭があるが、この部分に礎石建物跡がある。
発掘時の写真を下段に示す。
【写真左】本丸西側調査時の写真
現地の説明板より
“本丸西側
本丸西側は枡形門前から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる斜面でありました。盛土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられます。本丸建物と本郭の建ち並ぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰郭を臨み、本丸を防衛していた郭と想定されます。”
【写真左】枡形門・その1
すでに中の丸に入っているが、これについては後ほど紹介し、先ずは本丸側に向かう。
この枡形門は城内で唯一石垣で三方を固めているもの。
【写真左】枡形門・その2
本丸門側から振り返ってみたもので、枡形門を抜けると一旦L字型に角度を変え階段を登って本丸門に向かうようになっている。
【写真左】本丸門
ご覧の通り両側には高さ2m余りの土塁が築かれ、柵列を介して防御を固めている。
復元された門だが、おそらく当時の意匠とほぼ同じものだっただろう。
【写真左】本丸・その1
南北に伸びる長方形で、三方に土塁が囲繞する。この中には礎石建物群があるが、6回にわたって建替えされた跡が残る。南西側には激しい戦を物語る焼土層が広がっていたという。出土品としては、石臼・茶臼・鉄釘・銅銭・越前焼の甕(かめ)・擂鉢・漆塗碗など。また、中国製陶器として碗・皿・盃が目立ち、武器類としては鉄砲玉・小刀・鎧断片など多数のものが検出されている。
現地にはこれらの発掘調査時の写真なども掲示されている。
【写真左】井戸跡
冒頭で紹介したあやめが池とは別に本丸内に井戸跡が残る。
鳥越城での戦いは長期にわたる籠城戦があったことから、城内における食糧や水の確保などには最大限の努力が払われたことだろう。
【写真左】本丸・その2
北側から振り返ってみたもので、東側(左)に土塁が残り、その奥には望楼台(櫓台)が見える。中央の門が本丸門。
◎次稿へ
今稿はここまでとして、中の丸や後二の丸など他の遺構については、次稿で紹介したい。
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