安徳天皇陵墓参考地・横倉山
(あんとくてんのうりょうぼ さんこうち・よこくらやま)
●所在地 高知県高岡郡越知町五味・越知
●高さ 780m前後
●遺構 陵墓、行在所など
●探訪日 2013年12月24日
◆解説(参考サイト「土佐の歴史散歩」越知町編など)
今稿は山城の話題と少し逸れるが、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿で少しふれたように、越知町にある平家落人伝説の残る安徳天皇陵墓参考地を中心に紹介したいと思う。
【写真左】横倉山遠望・その1
東麓の越知町町並みから見たもの。
周辺部の山々に対し、横倉山は特に険しい山容を見せる。
平家落人伝説
平家の滅亡を描いた「平家物語」は、これまで多く語られ、特に壇ノ浦での源氏との戦いで敗北が決定的となったとき、清盛の妻・二位尼時子が孫の安徳天皇に向かって、「これから極楽浄土といういいところに参りましょう」と死を覚悟して海に飛び込む場面などは、無垢の幼帝であったがゆえになおさら読者をして涙を誘うところである。
そして、安徳天皇らの入水に続いて、平家一門の主だった武将も、激しく流れる関門海峡の中に飛び込んだ。ここに栄華を誇った平家一門が終焉することになる。
【写真上】横倉山案内マップ
上が北を示す。文字が小さいため読みにくいが、安徳天皇陵墓参考地を中心としたところまでは、徒歩の道が整備されていて助かる。また、車でも第3駐車場までたどり着けるため管理人のように体力のない者にとってもありがたい。
ただ、時期によっては崩落によって道路が通行止めになっていることもあるようなので、事前に調べておくことが必要。
今回は、車で最高所の「第3駐車場」まで行き、そこから歩いて向かった。
ところで、この船戦(ふないくさ)で平家が滅びることになるのだが、幸か不幸か、入水・自害することができず生き残った武将らがいた。
これら残党はその後各地に四散し、のちに全国に残る「平家落人」伝説として語られることなる。管理人の住む島根県では、以前取り上げた石見の三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)などがあるが、四国地方でよく知られるのは、「かずら橋」で有名な徳島県の祖谷地区(三好市)などが挙げられる。
【写真左】横倉山第3駐車場側登山口
3か所ある駐車場のうち、一番高い位置にある駐車場から向かう。
この位置から約1.3キロほど登っていくと参考地にたどり着く。
今稿でとりあげるのは、そのうち、亡くなったといわれる安徳天皇本人をはじめ、随臣者たちが生き残って逃れた場所である。つまり、壇ノ浦で入水したのは安徳天皇の身代わりであって、本物の帝はこちらに落ち延びたというものである。
【写真左】第3駐車場
12月24日という最も昼の時間が短い日に訪れ、しかも駐車場に着いたのが午後3時40分という時間帯だったが、向かうことにした。
麓では全く雪がなかったのだが、さすがに標高700m辺りになると残雪があった。
そこで、先ずはその経緯を綴った当地の説面板から紹介しておきたい。
現地の説明板より
“安徳天皇陵墓参考地
文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代わりを立てた本隊を下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門は、ひそかに四国に上陸した。
1年数か月の潜幸の後、ここ横倉山に辿り着き終焉の地としたが、正治2年(1200)に御歳23歳で崩御し、この地に奉葬される。
天皇が従臣らと蹴鞠(けまり)をされた所と伝えられ、地元では「鞠ヶ奈呂(まりがなろ)陵墓参考地」ともいう。ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた「御馬場跡」といわれている。
明治16年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。正式には「越知陵墓参考地」。県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。
【写真左】飛騨守景家之墓
しばらく歩いていくと、最初にこの墓が出てくる。
文治3年(1187)8月、安徳天皇に随勤し横倉山へ来た平家一門八十八士の1人という。
随勤した八十八士については後段で紹介しているが、当地に入ったのが文治3年とされているので、丁度義経が頼朝の追討から逃れ、陸奥の藤原秀衡の元に辿りついた年でもある。
平家の栄華盛衰
平清盛が亡くなったのは治承5年(1181)年である。通説では清盛が没した後、平家の凋落が始まったことになっているが、現実には清盛が最も期待をかけていた長男・重盛が、治承3年(1179)に亡くなってからの清盛自身の変化が原因ともいわれている。
自らが築き上げた組織のリーダーは、概ね晩年になると、明晰な予見・判断力に衰えがでてくるものである。有能なリーダーは現役時代から後継者の育成に努め、自らの引き際を冷厳に定めている。
【写真左】杉原神社
飛騨守の墓からさらに進んで行くと、広い削平地が出てくるが、その右側には大杉に守られたかのような神社が現れる。
平家の守護神熊野権現その他を祀り、杉の巨木が多いところから社名・杉原神社となったという。
社殿はこれまで度々改築され、現在残るものは明治30年頃のものという。
【写真左】大杉・南株
当社神木の一つで、幹周り5.92m、推定樹齢500年、高さ51mという。
清盛亡き後、総帥となったのは三男宗盛である。だが、父ほどの才覚・指導力を身に着けることができなかった宗盛にとって、平家存亡の危機を脱するには余りにも荷が重かった。
さらにこのころ既に源氏を中心とした平家打倒の機運が盛り上がり、寿永2年(1183)の北陸における源義仲との俱利伽羅峠の戦いを皮切りに、平家は西へ西へと追われることになった。
【写真左】平家の宮
周辺部にあった従臣たち80余名の墓祠があり、横倉宮の摂社未社として祭礼が行われてきたが、戦後新たに御霊を一つの宮に合祀招霊し、昭和57年10月に新たに建立したもの。
【写真左】平氏の代表的な家紋:揚羽蝶
当社に祀られている随勤した88名の内、横倉山中に埋葬されていた78名の名簿
安芸馬之助能行、源太夫判官李国、中納言律師中快、淡路守清秀、皇后宮亮経正、治部卿の局、新井田紀四郎親清、小松少将有盛、戸瀬宗則、伊賀平内兵衛清家、小松新三位中将資盛、名和太郎廣綱、伊江橋草清、子山吹姫、中村清光、乳母虎岡姫、後藤内貞経、二位若姫、浮巣三郎重親、佐馬守行盛、二位僧都専親、越前三位通盛、桜間之介能遠、備中守師盛、越中次郎兵衛盛継、桜間之介局、能登守教経、海老次郎盛方、讃岐中将時実、兵部少輔正明、大森太郎左衛門義盛、座頭岩見検行、兵部少輔雅明、尾張守清貞、佐府道仙、飛騨太夫判官景高、門脇中納言教盛、正四位大和守基盛、飛騨三郎左衛門景経、片岡太郎経繁、執行能圓、平井衛門尉道廣、上総守忠清、白佐太郎兵衛頼実、平内佐右衛門家長、上総太夫判官忠綱、攝津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、河内判官李国、藤内兵衛尉有則、上総悪七兵衛景清、、真下四郎重直、花山院中納言兼政、橘内左衛門秀康、真野辺次郎、上総五郎兵衛忠光、高橋判官長綱、三河守知度、蔵人太夫業盛、高倉園之助康清、武蔵三郎左衛門有国、粟賀道仙、丹後侍従忠房、山鹿兵衛藤次秀遠、粟賀平次郎、玉の前姫、大和小次郎兵衛高直、蔵人守忠清、滝口時貞、若狭守経俊、黒田五郎兵衛景直、内蔵頭信基、大納言資房、経誦坊阿闍梨祐円、
※平経盛、※平大納言時忠、※平知盛、
※※田口成良
【註】これらの名簿は出典元は明記されていないため、当然ながら公式な記録ではない。
※印の3人については、それぞれ経盛は壇ノ浦にて弟教盛と入水、時忠は文治5年(1189)配流先の能登で生涯を終えている。知盛については「平家物語」にもあるように、壇ノ浦の総指揮をとった武将で、主だった平家一門の入水を見届けたのち、最期に自ら浮かび上がらないよう鎧を二着身に着けて入水したとされる。
※※田口成良:「平家物語」では、成良は壇ノ浦の戦いの最中に平家を裏切り、源氏方に寝返ったとあるが、「吾妻鏡」では捕らわれた平家の中に名がみえ、また別の史料では、安徳天皇を当地横倉山まで案内した人物として、現地にも「田口社」(下段写真参照)が祀られている。
【写真左】安徳帝行在所(あんざいしょ)跡案内図
杉原神社からさらに登っていくと、安徳天皇が仮の住まいとした行在所、すなわち御座所跡がある(下の写真参照)。
【写真左】行在所(あんざいしょ)跡
上図にもあるように、安徳天皇陵墓に向かう道の左側から逸れて、少し上ったところだが、なだらかな谷間の上段部で、奥行50m×幅30m程度の規模を持つ。
谷の下方先端部は人工的に落差を設け、侵入を防止したような跡が見える。かなりの広さと平坦地が確保されているので、宮殿とはいえないまでも5,6間四方の建物が建っていたのではないかと思わせる。
そして、元暦2年・寿永4年(1185)2月、瀬戸内の屋島における戦いでは、支配地域であった四国のほどんども奪われ、1か月後、ついに関門海峡の壇ノ浦にて最後の決戦を迎えることになる。
この場所で戦いが繰り広げられたのは、のちに石見の津和野城主・吉見頼行(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)の祖となる源範頼の働きがあったからである。彼は、壇ノ浦の戦いの前に、九州の諸将を源氏方に引込み、門司海峡の九州側でこのときすでに3万もの軍勢を布陣させていた。このため、平家はこれ以上西下できず、退路を断たれたため止む無くこの壇ノ浦での戦いとなったわけである。
【写真左】田口社
上述した田口成良を祀る社で、行在所のすぐ上に祀られている。
横倉山
壇ノ浦の戦いから1年数か月後、安徳天皇はじめ随従者たちが、当地横倉山に辿りついたとされている。それまでの足取りははっきりしないが、おそらく落ち延びる場所を盛んに探していたことだろう。
ところで、この越知町にある横倉山は、帝が辿りつく前から土佐国唯一の修験道場の霊場として栄えていたという。確かに麓から当山の山容を仰ぎ見ると、その独特の切り立った岩山から容易に人を寄せ付けない姿を見せる。霊場としての遺構も多数残り、保安3年(1122)の経筒や剣などが出土している。
【写真左】横倉宮入口付近
再び本道に戻りさらに上に向かうと、途中で左に脇道があり、そこから急な階段を上ったピークに横倉宮が祀られている。
さて、屋島の戦いが終わった段階で、前述したように四国のほとんどが源氏に支配されたと書いたが、厳密には瀬戸内に面した国々、すなわち、讃岐・阿波・伊予の三国で、土佐国は入っていない。
治承3年(1179)、頼朝から後に「大天狗(おおてんぐ)」と評された後白河法皇は、驕る平家の打倒をめざし転覆を謀った。これに激怒した清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉する事件が起きた。丁度この頃、平家直轄の知行国は30国を越え、荘園は500か所以上にもなったという。まさに絶頂期である。四国における知行国は、前述した三国(讃岐・阿波・伊予)である。
【写真左】横倉宮本殿
現地の説明板より
“横倉宮
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです。
由緒は正治2年(1200)8月8日、安徳天皇は23歳で山上の行在で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年9月8日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祀る。
歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1892)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月23日、天皇崩御750年祭のときに横倉宮と改められた。”
ではなぜ、この段階で土佐国が入っていなかったのだろうか。おそらくそれは土佐国特有の地理的条件がその要因と思われる。
平安期の延長8年(930)から承平4年(934)にかけて土佐国司として赴いた紀貫之の記録があるものの、以前にも紹介したように、頼朝の弟・希義や、土御門上皇などが配流されるなど、いわば陸の孤島としての位置づけがしばらく続いた土地である。従って、清盛も土佐国の知行まで考えていなかったのだろう。
【写真左】「馬鹿試し」付近
横倉宮の脇を奥に進むと、断崖絶壁の目もくらむ場所があり、「馬鹿試し」と呼ばれている箇所がある。途中まで試みたが、早々と手前で恐怖心がわき引き返した。
このことは、後に源氏(頼朝)が鎌倉政権を立ち上げた際、平氏が治めていた知行国を最優先に奪取することになり、その枠外とされた土佐国についてはしばらく緩衝地帯のような状況だったと思われる。そして、1年余り潜幸・流浪していた安徳帝らに、隠遁の場所として、土佐・横倉山を誰か(田口成良?)が導いたのかもしれない。
もっとも、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)で述べたように、安徳天皇らが横倉山に潜幸した段階で、大平氏(藤原氏)が監視を始めていたとすれば、話は大分違ってくることになるが。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地の登り階段
横倉宮から再び本道に戻り、更に上に向かっていくと、いよいよ陵墓参考地の階段が見えてくる。
ここに至るまでも荘厳な雰囲気はあったが、この階段部からはさらにその思いを強くした。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その1
宮内庁所管地のため、一般人は回廊部分は入ることができるが、中央には入れない。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その2
ぐるっと回って右側から見たもの。
凡そ20m四方の大きさで、中には数本の木が生え、4,50cm程度の盛土のような箇所が見える。
【写真左】南麓部遊行寺附近から見上げる。
横倉山の南麓部遊行寺という谷間からさらに上に登っていくと、以前にも紹介した「中大平」「大平」という地区に向かう。
蓮池城の後の城主大平氏(藤原氏)が、この場所で監視していた可能性も考えられるのだが。
(あんとくてんのうりょうぼ さんこうち・よこくらやま)
●所在地 高知県高岡郡越知町五味・越知
●高さ 780m前後
●遺構 陵墓、行在所など
●探訪日 2013年12月24日
◆解説(参考サイト「土佐の歴史散歩」越知町編など)
今稿は山城の話題と少し逸れるが、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿で少しふれたように、越知町にある平家落人伝説の残る安徳天皇陵墓参考地を中心に紹介したいと思う。
【写真左】横倉山遠望・その1
東麓の越知町町並みから見たもの。
周辺部の山々に対し、横倉山は特に険しい山容を見せる。
平家落人伝説
平家の滅亡を描いた「平家物語」は、これまで多く語られ、特に壇ノ浦での源氏との戦いで敗北が決定的となったとき、清盛の妻・二位尼時子が孫の安徳天皇に向かって、「これから極楽浄土といういいところに参りましょう」と死を覚悟して海に飛び込む場面などは、無垢の幼帝であったがゆえになおさら読者をして涙を誘うところである。
そして、安徳天皇らの入水に続いて、平家一門の主だった武将も、激しく流れる関門海峡の中に飛び込んだ。ここに栄華を誇った平家一門が終焉することになる。
【写真上】横倉山案内マップ
上が北を示す。文字が小さいため読みにくいが、安徳天皇陵墓参考地を中心としたところまでは、徒歩の道が整備されていて助かる。また、車でも第3駐車場までたどり着けるため管理人のように体力のない者にとってもありがたい。
ただ、時期によっては崩落によって道路が通行止めになっていることもあるようなので、事前に調べておくことが必要。
今回は、車で最高所の「第3駐車場」まで行き、そこから歩いて向かった。
ところで、この船戦(ふないくさ)で平家が滅びることになるのだが、幸か不幸か、入水・自害することができず生き残った武将らがいた。
これら残党はその後各地に四散し、のちに全国に残る「平家落人」伝説として語られることなる。管理人の住む島根県では、以前取り上げた石見の三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)などがあるが、四国地方でよく知られるのは、「かずら橋」で有名な徳島県の祖谷地区(三好市)などが挙げられる。
【写真左】横倉山第3駐車場側登山口
3か所ある駐車場のうち、一番高い位置にある駐車場から向かう。
この位置から約1.3キロほど登っていくと参考地にたどり着く。
今稿でとりあげるのは、そのうち、亡くなったといわれる安徳天皇本人をはじめ、随臣者たちが生き残って逃れた場所である。つまり、壇ノ浦で入水したのは安徳天皇の身代わりであって、本物の帝はこちらに落ち延びたというものである。
【写真左】第3駐車場
12月24日という最も昼の時間が短い日に訪れ、しかも駐車場に着いたのが午後3時40分という時間帯だったが、向かうことにした。
麓では全く雪がなかったのだが、さすがに標高700m辺りになると残雪があった。
そこで、先ずはその経緯を綴った当地の説面板から紹介しておきたい。
現地の説明板より
“安徳天皇陵墓参考地
文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代わりを立てた本隊を下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門は、ひそかに四国に上陸した。
1年数か月の潜幸の後、ここ横倉山に辿り着き終焉の地としたが、正治2年(1200)に御歳23歳で崩御し、この地に奉葬される。
天皇が従臣らと蹴鞠(けまり)をされた所と伝えられ、地元では「鞠ヶ奈呂(まりがなろ)陵墓参考地」ともいう。ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた「御馬場跡」といわれている。
明治16年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。正式には「越知陵墓参考地」。県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。
【写真左】飛騨守景家之墓
しばらく歩いていくと、最初にこの墓が出てくる。
文治3年(1187)8月、安徳天皇に随勤し横倉山へ来た平家一門八十八士の1人という。
随勤した八十八士については後段で紹介しているが、当地に入ったのが文治3年とされているので、丁度義経が頼朝の追討から逃れ、陸奥の藤原秀衡の元に辿りついた年でもある。
平家の栄華盛衰
平清盛が亡くなったのは治承5年(1181)年である。通説では清盛が没した後、平家の凋落が始まったことになっているが、現実には清盛が最も期待をかけていた長男・重盛が、治承3年(1179)に亡くなってからの清盛自身の変化が原因ともいわれている。
自らが築き上げた組織のリーダーは、概ね晩年になると、明晰な予見・判断力に衰えがでてくるものである。有能なリーダーは現役時代から後継者の育成に努め、自らの引き際を冷厳に定めている。
【写真左】杉原神社
飛騨守の墓からさらに進んで行くと、広い削平地が出てくるが、その右側には大杉に守られたかのような神社が現れる。
平家の守護神熊野権現その他を祀り、杉の巨木が多いところから社名・杉原神社となったという。
社殿はこれまで度々改築され、現在残るものは明治30年頃のものという。
【写真左】大杉・南株
当社神木の一つで、幹周り5.92m、推定樹齢500年、高さ51mという。
清盛亡き後、総帥となったのは三男宗盛である。だが、父ほどの才覚・指導力を身に着けることができなかった宗盛にとって、平家存亡の危機を脱するには余りにも荷が重かった。
さらにこのころ既に源氏を中心とした平家打倒の機運が盛り上がり、寿永2年(1183)の北陸における源義仲との俱利伽羅峠の戦いを皮切りに、平家は西へ西へと追われることになった。
【写真左】平家の宮
周辺部にあった従臣たち80余名の墓祠があり、横倉宮の摂社未社として祭礼が行われてきたが、戦後新たに御霊を一つの宮に合祀招霊し、昭和57年10月に新たに建立したもの。
【写真左】平氏の代表的な家紋:揚羽蝶
当社に祀られている随勤した88名の内、横倉山中に埋葬されていた78名の名簿
安芸馬之助能行、源太夫判官李国、中納言律師中快、淡路守清秀、皇后宮亮経正、治部卿の局、新井田紀四郎親清、小松少将有盛、戸瀬宗則、伊賀平内兵衛清家、小松新三位中将資盛、名和太郎廣綱、伊江橋草清、子山吹姫、中村清光、乳母虎岡姫、後藤内貞経、二位若姫、浮巣三郎重親、佐馬守行盛、二位僧都専親、越前三位通盛、桜間之介能遠、備中守師盛、越中次郎兵衛盛継、桜間之介局、能登守教経、海老次郎盛方、讃岐中将時実、兵部少輔正明、大森太郎左衛門義盛、座頭岩見検行、兵部少輔雅明、尾張守清貞、佐府道仙、飛騨太夫判官景高、門脇中納言教盛、正四位大和守基盛、飛騨三郎左衛門景経、片岡太郎経繁、執行能圓、平井衛門尉道廣、上総守忠清、白佐太郎兵衛頼実、平内佐右衛門家長、上総太夫判官忠綱、攝津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、河内判官李国、藤内兵衛尉有則、上総悪七兵衛景清、、真下四郎重直、花山院中納言兼政、橘内左衛門秀康、真野辺次郎、上総五郎兵衛忠光、高橋判官長綱、三河守知度、蔵人太夫業盛、高倉園之助康清、武蔵三郎左衛門有国、粟賀道仙、丹後侍従忠房、山鹿兵衛藤次秀遠、粟賀平次郎、玉の前姫、大和小次郎兵衛高直、蔵人守忠清、滝口時貞、若狭守経俊、黒田五郎兵衛景直、内蔵頭信基、大納言資房、経誦坊阿闍梨祐円、
※平経盛、※平大納言時忠、※平知盛、
※※田口成良
【註】これらの名簿は出典元は明記されていないため、当然ながら公式な記録ではない。
※印の3人については、それぞれ経盛は壇ノ浦にて弟教盛と入水、時忠は文治5年(1189)配流先の能登で生涯を終えている。知盛については「平家物語」にもあるように、壇ノ浦の総指揮をとった武将で、主だった平家一門の入水を見届けたのち、最期に自ら浮かび上がらないよう鎧を二着身に着けて入水したとされる。
※※田口成良:「平家物語」では、成良は壇ノ浦の戦いの最中に平家を裏切り、源氏方に寝返ったとあるが、「吾妻鏡」では捕らわれた平家の中に名がみえ、また別の史料では、安徳天皇を当地横倉山まで案内した人物として、現地にも「田口社」(下段写真参照)が祀られている。
【写真左】安徳帝行在所(あんざいしょ)跡案内図
杉原神社からさらに登っていくと、安徳天皇が仮の住まいとした行在所、すなわち御座所跡がある(下の写真参照)。
【写真左】行在所(あんざいしょ)跡
上図にもあるように、安徳天皇陵墓に向かう道の左側から逸れて、少し上ったところだが、なだらかな谷間の上段部で、奥行50m×幅30m程度の規模を持つ。
谷の下方先端部は人工的に落差を設け、侵入を防止したような跡が見える。かなりの広さと平坦地が確保されているので、宮殿とはいえないまでも5,6間四方の建物が建っていたのではないかと思わせる。
そして、元暦2年・寿永4年(1185)2月、瀬戸内の屋島における戦いでは、支配地域であった四国のほどんども奪われ、1か月後、ついに関門海峡の壇ノ浦にて最後の決戦を迎えることになる。
この場所で戦いが繰り広げられたのは、のちに石見の津和野城主・吉見頼行(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)の祖となる源範頼の働きがあったからである。彼は、壇ノ浦の戦いの前に、九州の諸将を源氏方に引込み、門司海峡の九州側でこのときすでに3万もの軍勢を布陣させていた。このため、平家はこれ以上西下できず、退路を断たれたため止む無くこの壇ノ浦での戦いとなったわけである。
【写真左】田口社
上述した田口成良を祀る社で、行在所のすぐ上に祀られている。
横倉山
壇ノ浦の戦いから1年数か月後、安徳天皇はじめ随従者たちが、当地横倉山に辿りついたとされている。それまでの足取りははっきりしないが、おそらく落ち延びる場所を盛んに探していたことだろう。
ところで、この越知町にある横倉山は、帝が辿りつく前から土佐国唯一の修験道場の霊場として栄えていたという。確かに麓から当山の山容を仰ぎ見ると、その独特の切り立った岩山から容易に人を寄せ付けない姿を見せる。霊場としての遺構も多数残り、保安3年(1122)の経筒や剣などが出土している。
【写真左】横倉宮入口付近
再び本道に戻りさらに上に向かうと、途中で左に脇道があり、そこから急な階段を上ったピークに横倉宮が祀られている。
さて、屋島の戦いが終わった段階で、前述したように四国のほとんどが源氏に支配されたと書いたが、厳密には瀬戸内に面した国々、すなわち、讃岐・阿波・伊予の三国で、土佐国は入っていない。
治承3年(1179)、頼朝から後に「大天狗(おおてんぐ)」と評された後白河法皇は、驕る平家の打倒をめざし転覆を謀った。これに激怒した清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉する事件が起きた。丁度この頃、平家直轄の知行国は30国を越え、荘園は500か所以上にもなったという。まさに絶頂期である。四国における知行国は、前述した三国(讃岐・阿波・伊予)である。
【写真左】横倉宮本殿
現地の説明板より
“横倉宮
祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです。
由緒は正治2年(1200)8月8日、安徳天皇は23歳で山上の行在で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年9月8日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祀る。
歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治30年(1892)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月23日、天皇崩御750年祭のときに横倉宮と改められた。”
ではなぜ、この段階で土佐国が入っていなかったのだろうか。おそらくそれは土佐国特有の地理的条件がその要因と思われる。
平安期の延長8年(930)から承平4年(934)にかけて土佐国司として赴いた紀貫之の記録があるものの、以前にも紹介したように、頼朝の弟・希義や、土御門上皇などが配流されるなど、いわば陸の孤島としての位置づけがしばらく続いた土地である。従って、清盛も土佐国の知行まで考えていなかったのだろう。
【写真左】「馬鹿試し」付近
横倉宮の脇を奥に進むと、断崖絶壁の目もくらむ場所があり、「馬鹿試し」と呼ばれている箇所がある。途中まで試みたが、早々と手前で恐怖心がわき引き返した。
このことは、後に源氏(頼朝)が鎌倉政権を立ち上げた際、平氏が治めていた知行国を最優先に奪取することになり、その枠外とされた土佐国についてはしばらく緩衝地帯のような状況だったと思われる。そして、1年余り潜幸・流浪していた安徳帝らに、隠遁の場所として、土佐・横倉山を誰か(田口成良?)が導いたのかもしれない。
もっとも、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)で述べたように、安徳天皇らが横倉山に潜幸した段階で、大平氏(藤原氏)が監視を始めていたとすれば、話は大分違ってくることになるが。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地の登り階段
横倉宮から再び本道に戻り、更に上に向かっていくと、いよいよ陵墓参考地の階段が見えてくる。
ここに至るまでも荘厳な雰囲気はあったが、この階段部からはさらにその思いを強くした。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その1
宮内庁所管地のため、一般人は回廊部分は入ることができるが、中央には入れない。
【写真左】安徳天皇陵墓参考地・その2
ぐるっと回って右側から見たもの。
凡そ20m四方の大きさで、中には数本の木が生え、4,50cm程度の盛土のような箇所が見える。
【写真左】南麓部遊行寺附近から見上げる。
横倉山の南麓部遊行寺という谷間からさらに上に登っていくと、以前にも紹介した「中大平」「大平」という地区に向かう。
蓮池城の後の城主大平氏(藤原氏)が、この場所で監視していた可能性も考えられるのだが。
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