龍文寺(りゅうもんじ)
●所在地 山口県周南市大字長穂字門前1075-1
●創建 陶盛政
●開基 不明
●宗派 曹洞宗
●備考 陶氏墓所
●参拝日 2017年1月21日
◆解説(参考文献『宍道町史』等)
洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)の稿で少し紹介しているが、洞雲寺の開祖・金岡用兼(きんこうようけん)が師事したのが、龍文寺第4世であった大庵須益(以下「須益」とする)である。
この龍文寺は、錦川中流部に当たる長穂にあって、以前紹介した須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)から北西方向に約6キロほど登った山間部に所在する。
永享元年(1429)、周防国守護代であった陶氏第5代・盛政が創建したとされる曹洞宗の寺院で、別名「西の永平寺」ともいわれている。
【写真左】龍文寺・山門
平成17年(2005)に再建されたみごとな山門が建つ。
現地説明板・その1
“ 鎮西吉祥山 鹿玉山
龍文寺(りゅうもんじ)
龍文寺は、永享元年(1429)、周防国守護代を務めていた陶盛政が大内持世の命によって創建した古刹で、その後陶氏代々の菩提寺となりました。
本尊の木造釈迦如来坐像は、その銘文によると応安7年(1374)に院什法印という仏師によって造られたもので、昭和59年に市指定文化財(彫刻)に指定されました。また、永正2年(1505)、陶興房が龍文寺蔵僧堂の公用とするために鋳造させた鉄造茶釜は、昭和53年に市指定文化財(工芸品)に指定されました。
さらに、本堂西側の100mばかり離れた杉木立の中に位置する陶氏墓所は、宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基が祀られており、平成17年に市指定文化財(史跡)に指定されました。
周南市教育委員会”
踊りはその後、陶氏追善供養のため、毎年7月7日に舞われ、やがて雨乞い踊りへと変化し、念仏踊りとして現在に至っています。現在、県指定無形民族文化財になっています。
昭和43年4月
周南市教育委員会
寄贈 周南西ロータリークラブ”
このうち、陶氏は晴賢の子長房と貞明が居城であった周防・若山城(山口県周防市福川)で防戦に努めたが自刃したといわれている。また、これとは別に、長房はいち早く若山城を脱出し、菩提寺であったこの龍文寺に立て籠もり、討死したともいわれている。
そして、当院に籠城した長房や貞明、並びに長房の子または晴賢の末弟と呼ばれる鶴寿丸を攻略するために、大内氏から毛利氏へ転じた杉重輔が念仏踊りに紛れて寺に侵入し、攻め滅ぼしたという伝承も残っている。
●所在地 山口県周南市大字長穂字門前1075-1
●創建 陶盛政
●開基 不明
●宗派 曹洞宗
●備考 陶氏墓所
●参拝日 2017年1月21日
◆解説(参考文献『宍道町史』等)
洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)の稿で少し紹介しているが、洞雲寺の開祖・金岡用兼(きんこうようけん)が師事したのが、龍文寺第4世であった大庵須益(以下「須益」とする)である。
この龍文寺は、錦川中流部に当たる長穂にあって、以前紹介した須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)から北西方向に約6キロほど登った山間部に所在する。
永享元年(1429)、周防国守護代であった陶氏第5代・盛政が創建したとされる曹洞宗の寺院で、別名「西の永平寺」ともいわれている。
【写真左】龍文寺・山門
平成17年(2005)に再建されたみごとな山門が建つ。
現地説明板・その1
“ 鎮西吉祥山 鹿玉山
龍文寺(りゅうもんじ)
龍文寺は、永享元年(1429)、周防国守護代を務めていた陶盛政が大内持世の命によって創建した古刹で、その後陶氏代々の菩提寺となりました。
本尊の木造釈迦如来坐像は、その銘文によると応安7年(1374)に院什法印という仏師によって造られたもので、昭和59年に市指定文化財(彫刻)に指定されました。また、永正2年(1505)、陶興房が龍文寺蔵僧堂の公用とするために鋳造させた鉄造茶釜は、昭和53年に市指定文化財(工芸品)に指定されました。
さらに、本堂西側の100mばかり離れた杉木立の中に位置する陶氏墓所は、宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基が祀られており、平成17年に市指定文化財(史跡)に指定されました。
周南市教育委員会”
【写真左】本堂
山門をくぐると、正面には本堂が見える。今年(2017年)1月21日に訪れたが、瀬戸内側の周南市市街地では殆ど雪がなく、当山も雪の心配はないだろうと思っていたのが間違いだった。
国道315号線の栄谷隧道トンネルを過ぎると、途端に景色が一変した。
錦川中流部に当たるのだが、周防国でもこの辺りは中国山地のエリアに入るのだろう。ご覧の通りの雪景色だった。因みにこの付近の標高は350m前後である。
山門をくぐると、正面には本堂が見える。今年(2017年)1月21日に訪れたが、瀬戸内側の周南市市街地では殆ど雪がなく、当山も雪の心配はないだろうと思っていたのが間違いだった。
国道315号線の栄谷隧道トンネルを過ぎると、途端に景色が一変した。
錦川中流部に当たるのだが、周防国でもこの辺りは中国山地のエリアに入るのだろう。ご覧の通りの雪景色だった。因みにこの付近の標高は350m前後である。
陶盛政
陶盛政は陶氏第5代当主である。前稿でも紹介しているが、盛政の父は盛長で、一説では応永17年(1410)に富田保の地頭職に任じられ、その子盛政は永享4年(1432)に周防国の守護代(大内氏)任じられている。
【左図】 陶氏系図
従って、上記の説明板の内容と照合するとその時期については整合していない点が残るが、これは陶氏の主君であった大内氏の家督相続をめぐる戦いがあったからと考えられる。
このころの大内氏では、盛見が亡くなったあと、持世と持盛の間で継嗣を巡って争いが生じた。
【左図】大内氏系図
大内持世
大内氏代27代当主となった人物で、父は25代の義弘である。義弘が応永の乱で足利義満と対立し、畿内で討死する(応永6年:1400)と、弟の盛見が跡を継いだ。その盛見も遠征先の筑前で戦死すると、義弘の子であった持世と持盛の兄弟の間で家督争いが生じた。
永享4年(1432)2月10日、持盛は兄持世を襲撃、豊前国にあった持世は難を逃れて、石見・三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に奔った。1ヶ月後の3月15日、持世は三隅城から周防山口に移った。その2日後、幕府は石見・安芸守護職であった山名時煕に命じて、両国の兵を差出し大内持世を援助させた(『満済准后日記』)。
その後持世が大内家を継ぐことになるが、嘉吉元年(1441)6月24日に起った「嘉吉の乱」(鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)において、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺、このとき義教派であった持世も深手を負い、これがもとで1ヶ月後の7月28日死去した。そして持世の跡を養嗣子の教弘が大内家を継ぐことになる。
【写真左】陶氏墓所に向かう。
陶氏墓所は本堂の左側にあって、背後の山の一角に祀られている。
厳島の戦い その後
宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも述べたように、厳島の戦いで陶晴賢は戦死したが、その後陶氏をはじめ大内軍(義長)を中心とする勢力は暫く毛利氏に対し抵抗を続けた。
現地の説明板・その2
“ 山口県指定文化財
長穂念仏踊(ながおねんぶつおどり)
天文24年(1555)、陶晴賢は厳島の戦いで、毛利元就に敗れ自刃しました。その後、地元に伝わる伝承では、若山城にいた晴賢の子長房と、小次郎は、大内氏家臣の杉重輔(すぎしげすけ)に攻められ、ここ龍文寺に逃れたということです。錦川と険しい山々に囲まれた龍文寺は、天然の要害であったことから、寄せ手は一計を案じ、古くから伝わる周防神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱入しました。このため、時の住職のお諭して、陶氏の一族は自刃したとされています。
陶盛政は陶氏第5代当主である。前稿でも紹介しているが、盛政の父は盛長で、一説では応永17年(1410)に富田保の地頭職に任じられ、その子盛政は永享4年(1432)に周防国の守護代(大内氏)任じられている。
従って、上記の説明板の内容と照合するとその時期については整合していない点が残るが、これは陶氏の主君であった大内氏の家督相続をめぐる戦いがあったからと考えられる。
このころの大内氏では、盛見が亡くなったあと、持世と持盛の間で継嗣を巡って争いが生じた。
【左図】大内氏系図
大内持世
大内氏代27代当主となった人物で、父は25代の義弘である。義弘が応永の乱で足利義満と対立し、畿内で討死する(応永6年:1400)と、弟の盛見が跡を継いだ。その盛見も遠征先の筑前で戦死すると、義弘の子であった持世と持盛の兄弟の間で家督争いが生じた。
永享4年(1432)2月10日、持盛は兄持世を襲撃、豊前国にあった持世は難を逃れて、石見・三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)に奔った。1ヶ月後の3月15日、持世は三隅城から周防山口に移った。その2日後、幕府は石見・安芸守護職であった山名時煕に命じて、両国の兵を差出し大内持世を援助させた(『満済准后日記』)。
その後持世が大内家を継ぐことになるが、嘉吉元年(1441)6月24日に起った「嘉吉の乱」(鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)において、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺、このとき義教派であった持世も深手を負い、これがもとで1ヶ月後の7月28日死去した。そして持世の跡を養嗣子の教弘が大内家を継ぐことになる。
【写真左】陶氏墓所に向かう。
陶氏墓所は本堂の左側にあって、背後の山の一角に祀られている。
厳島の戦い その後
宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも述べたように、厳島の戦いで陶晴賢は戦死したが、その後陶氏をはじめ大内軍(義長)を中心とする勢力は暫く毛利氏に対し抵抗を続けた。
現地の説明板・その2
“ 山口県指定文化財
長穂念仏踊(ながおねんぶつおどり)
天文24年(1555)、陶晴賢は厳島の戦いで、毛利元就に敗れ自刃しました。その後、地元に伝わる伝承では、若山城にいた晴賢の子長房と、小次郎は、大内氏家臣の杉重輔(すぎしげすけ)に攻められ、ここ龍文寺に逃れたということです。錦川と険しい山々に囲まれた龍文寺は、天然の要害であったことから、寄せ手は一計を案じ、古くから伝わる周防神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱入しました。このため、時の住職のお諭して、陶氏の一族は自刃したとされています。
踊りはその後、陶氏追善供養のため、毎年7月7日に舞われ、やがて雨乞い踊りへと変化し、念仏踊りとして現在に至っています。現在、県指定無形民族文化財になっています。
昭和43年4月
周南市教育委員会
寄贈 周南西ロータリークラブ”
このうち、陶氏は晴賢の子長房と貞明が居城であった周防・若山城(山口県周防市福川)で防戦に努めたが自刃したといわれている。また、これとは別に、長房はいち早く若山城を脱出し、菩提寺であったこの龍文寺に立て籠もり、討死したともいわれている。
そして、当院に籠城した長房や貞明、並びに長房の子または晴賢の末弟と呼ばれる鶴寿丸を攻略するために、大内氏から毛利氏へ転じた杉重輔が念仏踊りに紛れて寺に侵入し、攻め滅ぼしたという伝承も残っている。
【写真左】陶氏墓所・その2
【写真左】陶氏墓所・その3
墓石の形態は五輪塔形式のものもあるが、多くは宝篋印塔のものが多い。写真はそのうち、墓石を石で囲ったもの。
【写真左】陶氏墓所・その4
宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基を数えるというから、当山において行われた天文年間の戦いで討死した陶氏残党の墓もこの中にあると思われる。
【写真左】陶氏墓所周辺部
山の斜面に墓所が建立されているが、その手前の道は上の方に繋がり、周回できるコースが造られている。ミニチュア版の遍路路が設定されているようだ。
なお、上部の尾根筋を超えると、ゴルフ場の区域になる。
【写真左】本堂裏
墓所の方から本堂側を見たもので、この斜面も含め龍文寺周辺部は天然の要害を持っていたことから、晴賢の子長房などはこうした箇所を使って抗戦したのかもしれない。
【写真左】本堂の峰瓦家紋
山門の峰瓦にもあるが、左側には毛利氏の家紋があり、右には陶氏(大内氏)の家紋が設置されている。
「念仏踊り」という陶氏追善供養が今日まで続けられていることから考えると、陶氏滅亡後、勝者であった毛利氏の手によって、本院も併せて庇護を受けてきたのだろう。
大庵須益
さて、大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で紹介した大寧寺の第6世でもあった大庵須益(だいあん しゅえき)(以下「須益」とする)は、のちにこの龍文寺に移り、ここで金岡用兼らを育てた。金岡用兼はその後、洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)を創建することになる。
【写真左】大寧寺
旧山門跡付近。山門は天正年間毛利永代家老であった益田藤兼が寄進したもので、寛永17年野火で焼失したが、延宝5年(1677)益田元尭によって再建された。その後藩の庇護もなく、明治末期に倒壊し礎石のみ残る。
参拝日 2019年3月1日
大寧寺歴代世代譜によれば、須益が大寧寺にあったのは、寛正4年(1463)から文明3年(1471)の8年間とされ、その後龍文寺に移ることになる。ただ、須益はその1年後の文明4年に亡くなっているので、当院にあったのはわずか1年ということになる。享年66歳。
須益、出雲国に赴く
ところで、この須益は、生前出雲国に赴き、2,3の寺院を開基したといわれている。
現在知られているそれらの寺院は、雲南市にある長谷寺、松江市宍道町にある豊龍寺、並びに飯南町にある明窓院などである。
(1) 長谷寺(ちょうこくじ)
●所在地 島根県雲南市加茂町三代
出雲観音霊場第8番の札所で、曹洞宗の寺院である。
【写真左】長谷寺本堂
参拝日 2017年2月8日、2016年4月5日、2015年12月9日
現地の縁起より
“…(中略)… 宝徳2年(1450)、長門国深川曹洞宗大寧寺6世大庵須益禅師を招聘して、開基とし法灯連綿現在に至る。以下略”
とある。従って、上述した大寧寺歴代世代譜と照合すると、須益が当院侍従職になっていない時期で、須益は応永13年(1406)生れといわれるので、長谷寺に招聘された時は44歳前後と考えられる。
(2)明窓院(めいそういん)
●所在地 島根県飯南町赤名
【写真左】明窓院
参拝日 2017年2月8日
現地の縁起より
“ 当院は宝徳3年(1451)当山の中本寺なる周防国(山口県)都濃郡長穏村(徳山市)龍文寺第4世大庵須益大和尚の創立にして、第4代瀬戸山城主(衣掛山城とも云う)赤穴美作守幸清は永正11年(1514)逝去せしが、生前殊のほか当院に帰依深く、よってその室を明窓院殿と号し、開基となる。長享元年(1487)逝去。”
長谷寺に招聘された翌年、今度は長谷寺よりさらに南にあった明窓院に赴いて、明窓院を創建していることになる。
(3)豊龍寺(ほうりゅうじ)
●所在地 島根県松江市宍道町白石
【写真左】豊龍寺
参拝日 2017年1月20日
豊龍寺は戦国期尼子氏から離れ、毛利氏に属した国人領主宍道氏の氏寺として知られているが、『宍道町史』によれば、元々慶隆寺と呼ばれ、真言宗寺院であったという。その後15世紀中ごろに、周防国龍文寺4世であった大庵須益が招かれて、開山となり真言宗から曹洞宗への改宗が行われたとされる。
【写真左】豊龍寺の寺紋
お馴染みの佐々木氏の家紋で、当院では「石餅四つ目結」となっている。
このため、この須益による改宗が即豊龍寺の成立と理解され、開山・大庵須益以下を豊龍寺の歴代住職とするとらえ方がなされている。しかし、『宍道町史』によれば、実際にはこのあとも慶隆寺の名が存続していたため、このあたりは検討の余地があるとしている。
いずれにしても、豊龍寺に須益が招かれたのが15世紀中ごろとしていることを考えると、上記二つの寺院と同じころ(宝徳2~3年)と考えられ、須益がおよそ1年の間当地(出雲国)にあって教線を広めていたことが推察される。
【写真左】陶氏墓所・その3
墓石の形態は五輪塔形式のものもあるが、多くは宝篋印塔のものが多い。写真はそのうち、墓石を石で囲ったもの。
【写真左】陶氏墓所・その4
宝篋印塔、五輪塔などの墓石85基を数えるというから、当山において行われた天文年間の戦いで討死した陶氏残党の墓もこの中にあると思われる。
【写真左】陶氏墓所周辺部
山の斜面に墓所が建立されているが、その手前の道は上の方に繋がり、周回できるコースが造られている。ミニチュア版の遍路路が設定されているようだ。
なお、上部の尾根筋を超えると、ゴルフ場の区域になる。
【写真左】本堂裏
墓所の方から本堂側を見たもので、この斜面も含め龍文寺周辺部は天然の要害を持っていたことから、晴賢の子長房などはこうした箇所を使って抗戦したのかもしれない。
【写真左】本堂の峰瓦家紋
山門の峰瓦にもあるが、左側には毛利氏の家紋があり、右には陶氏(大内氏)の家紋が設置されている。
「念仏踊り」という陶氏追善供養が今日まで続けられていることから考えると、陶氏滅亡後、勝者であった毛利氏の手によって、本院も併せて庇護を受けてきたのだろう。
大庵須益
さて、大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で紹介した大寧寺の第6世でもあった大庵須益(だいあん しゅえき)(以下「須益」とする)は、のちにこの龍文寺に移り、ここで金岡用兼らを育てた。金岡用兼はその後、洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)を創建することになる。
【写真左】大寧寺
旧山門跡付近。山門は天正年間毛利永代家老であった益田藤兼が寄進したもので、寛永17年野火で焼失したが、延宝5年(1677)益田元尭によって再建された。その後藩の庇護もなく、明治末期に倒壊し礎石のみ残る。
参拝日 2019年3月1日
大寧寺歴代世代譜によれば、須益が大寧寺にあったのは、寛正4年(1463)から文明3年(1471)の8年間とされ、その後龍文寺に移ることになる。ただ、須益はその1年後の文明4年に亡くなっているので、当院にあったのはわずか1年ということになる。享年66歳。
須益、出雲国に赴く
ところで、この須益は、生前出雲国に赴き、2,3の寺院を開基したといわれている。
現在知られているそれらの寺院は、雲南市にある長谷寺、松江市宍道町にある豊龍寺、並びに飯南町にある明窓院などである。
(1) 長谷寺(ちょうこくじ)
●所在地 島根県雲南市加茂町三代
出雲観音霊場第8番の札所で、曹洞宗の寺院である。
【写真左】長谷寺本堂
参拝日 2017年2月8日、2016年4月5日、2015年12月9日
現地の縁起より
“…(中略)… 宝徳2年(1450)、長門国深川曹洞宗大寧寺6世大庵須益禅師を招聘して、開基とし法灯連綿現在に至る。以下略”
とある。従って、上述した大寧寺歴代世代譜と照合すると、須益が当院侍従職になっていない時期で、須益は応永13年(1406)生れといわれるので、長谷寺に招聘された時は44歳前後と考えられる。
(2)明窓院(めいそういん)
●所在地 島根県飯南町赤名
【写真左】明窓院
参拝日 2017年2月8日
現地の縁起より
“ 当院は宝徳3年(1451)当山の中本寺なる周防国(山口県)都濃郡長穏村(徳山市)龍文寺第4世大庵須益大和尚の創立にして、第4代瀬戸山城主(衣掛山城とも云う)赤穴美作守幸清は永正11年(1514)逝去せしが、生前殊のほか当院に帰依深く、よってその室を明窓院殿と号し、開基となる。長享元年(1487)逝去。”
長谷寺に招聘された翌年、今度は長谷寺よりさらに南にあった明窓院に赴いて、明窓院を創建していることになる。
(3)豊龍寺(ほうりゅうじ)
●所在地 島根県松江市宍道町白石
【写真左】豊龍寺
参拝日 2017年1月20日
豊龍寺は戦国期尼子氏から離れ、毛利氏に属した国人領主宍道氏の氏寺として知られているが、『宍道町史』によれば、元々慶隆寺と呼ばれ、真言宗寺院であったという。その後15世紀中ごろに、周防国龍文寺4世であった大庵須益が招かれて、開山となり真言宗から曹洞宗への改宗が行われたとされる。
【写真左】豊龍寺の寺紋
お馴染みの佐々木氏の家紋で、当院では「石餅四つ目結」となっている。
このため、この須益による改宗が即豊龍寺の成立と理解され、開山・大庵須益以下を豊龍寺の歴代住職とするとらえ方がなされている。しかし、『宍道町史』によれば、実際にはこのあとも慶隆寺の名が存続していたため、このあたりは検討の余地があるとしている。
いずれにしても、豊龍寺に須益が招かれたのが15世紀中ごろとしていることを考えると、上記二つの寺院と同じころ(宝徳2~3年)と考えられ、須益がおよそ1年の間当地(出雲国)にあって教線を広めていたことが推察される。
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