陶氏居館・平城(すえしきょかん・ひらじょう)
●所在地 山口県周南市大字下上字武井
●別名 平城
●高さ 25m
●築城期 南北朝期
●築城者 陶弘政
●城主 陶氏
●遺構 殆ど消滅
●備考 富岡公園
●登城日
◆解説
前稿の陶氏館(山口県山口市陶・正護寺)で述べたように、陶弘政が後に移った居館といわれているのが、今稿で紹介する平城(ひらじょう)とよばれた周南市に所在する同氏居館である。
現在跡地は富岡公園という広場となっており、当時の遺構を思わせるようなものはあまり残っていないが、その周囲には2,3か所の山城が分布し、南北朝期における陶氏の中核的な場所であったことが推測される。
【写真左】陶氏居館
写真は、南側斜面付近で、右側が居館があったところとされている。
居館の南側は畑地になっているが、おそらくこの畑地にも居館に付随した施設(郭等)があったものだろう。
【写真左】陶氏居館跡周辺図
陶氏居館跡の東麓を富田川が南北に流れ、北には城山と海印寺があり、南側には七尾山城が配置されている。
現地の説明板・その1
“陶氏の居館跡
この周辺は現在平城(ひらじょう)と呼ばれています。これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに由来するものです。
陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭(わしず)氏を討つために吉敷郡陶(現・山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
南方の国道2号線付近に七尾山城(ななおやまじょう)、北に上野の城山(うえのじょうやま)、別所城(べっしょうじょう)などがありました。
陶氏2代・弘政のときがいわゆる南北朝の動乱期に当たるが、主君・大内氏は弘世の代である。
霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1の稿でも述べているように、当初大内氏は北朝方に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、直冬に属し、後には南朝方に与し周防守護職に任じられている。そして隣の長門守護職であった厚東氏をも攻略して、同国の守護職も得ることになる。
【写真左】石碑
「陶氏居館址」と記銘された石碑が脇に建立され、その隣には、碑文(説明板・その2)が添えられている。
しかし、その後弘世は正平18年(1363)になると、幕府に降った。その前年の11月、足利義詮は山名氏討伐を図り、次第に武家方の勢力が強まっていた。
因みに、弘世は石見守護職も補せられていたので、石見の益田兼見(七尾城(島根県益田市七尾)・その1参照)なども弘世の命に従い武家方となっている。
陶弘政の動きに関する資料はあまりないが、その名から考えて弘世から偏諱を受けたものだろう。
ところで、大内弘世が幕府に降る前に攻略していたのが、当時幕府側であった鷲頭氏である。この鷲頭氏の本拠地は現在の下松市西豊井付近(殿ヶ浴)といわれ、本稿の陶氏居館地から南東におよそ11キロほど離れた位置に当たる。
【写真左】南側斜面
冒頭の写真とは反対に西側から見たもので、法面はコンクリートで石垣が補修されているが、この中にあるいは館時代の石が残っているかもしれない。
【写真左】東側から見る。
左が南に当る。なお、公園の規模は、目測だが、東西60m×南北30mである。
【写真左】密嚴山 海印禅寺
陶氏居館跡から北に少し歩いて行ったところに海印禅寺という寺があり、陶晴賢の伯父・興明と、晴賢の兄・興昌の供養塔が祀られている。
【写真左】陶興明、興昌の墓
二人の墓以外にも五輪塔など中小の墓石がこの位置に並べられている。
説明板より
“陶 興明
春圃孝英大禅定門
明応4年(1495)2月13日 生年(享年)19歳
陶 興昌
信衣院春翁透初大禅定門
享禄2年(1529)4月23日 生年(享年)25歳”
●所在地 山口県周南市大字下上字武井
●別名 平城
●高さ 25m
●築城期 南北朝期
●築城者 陶弘政
●城主 陶氏
●遺構 殆ど消滅
●備考 富岡公園
●登城日
◆解説
前稿の陶氏館(山口県山口市陶・正護寺)で述べたように、陶弘政が後に移った居館といわれているのが、今稿で紹介する平城(ひらじょう)とよばれた周南市に所在する同氏居館である。
現在跡地は富岡公園という広場となっており、当時の遺構を思わせるようなものはあまり残っていないが、その周囲には2,3か所の山城が分布し、南北朝期における陶氏の中核的な場所であったことが推測される。
【写真左】陶氏居館
写真は、南側斜面付近で、右側が居館があったところとされている。
居館の南側は畑地になっているが、おそらくこの畑地にも居館に付随した施設(郭等)があったものだろう。
【写真左】陶氏居館跡周辺図
陶氏居館跡の東麓を富田川が南北に流れ、北には城山と海印寺があり、南側には七尾山城が配置されている。
現地の説明板・その1
“陶氏の居館跡
この周辺は現在平城(ひらじょう)と呼ばれています。これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに由来するものです。
陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭(わしず)氏を討つために吉敷郡陶(現・山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
南方の国道2号線付近に七尾山城(ななおやまじょう)、北に上野の城山(うえのじょうやま)、別所城(べっしょうじょう)などがありました。
【写真左】富岡公園・その1
陶氏居館であったこの場所に最初小学校が建てられ、その後富岡公園となったようだ。
一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えており、その本拠地が現在の防府市の富海(とのみ)、或いは周南市の古市にあったとされています。
また、近くの海印寺には、陶弘護の次男の興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。
平成16年9月 周南市教育委員会”
現地の説明板・その2
“陶氏居館址碑の文
陶氏は大内氏の流れを汲む右田氏の祖、摂津上盛長5世の孫弘賢が吉敷郡陶村の領主となり、よって陶を氏とした。
2代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い、下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。
居館を大字下上字武井の岡の原に築く。これを平城(ひらじょう)と云う。もと富岡小学校の敷地であった。
平城の南に続いて一段低い所を「にいとん」と云い、即ち新殿の意で陶氏が新館を建てた所と伝えている。
古社上野八幡宮は、正平10年(南朝1355)陶弘政の建立したものと伝えている。上野の城山は、また陶氏の一支城であり、建咲院の裏山にも七尾城を築く。四熊岳(504m)の麓を通り、花河原の西に陶氏の本城若山城(217m)がある。大手門に当たる東南方は、福川に属し、搦手の北面と西南は夜市の地である。”
【写真左】富岡公園・その2
学校のあと公園として改修されているため、殆どこの箇所での遺構は確認できない。
なお、左側には公民館が建っているが、この付近も当時の館跡だったと考えられる。
陶弘政と大内弘世
陶氏居館であったこの場所に最初小学校が建てられ、その後富岡公園となったようだ。
一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えており、その本拠地が現在の防府市の富海(とのみ)、或いは周南市の古市にあったとされています。
また、近くの海印寺には、陶弘護の次男の興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。
平成16年9月 周南市教育委員会”
現地の説明板にあったものを参考にして管理人が作成したもの。
なお、陶氏は大内氏の分流右田氏から分かれたものとされ、弘賢を祖とする。
なお、陶氏は大内氏の分流右田氏から分かれたものとされ、弘賢を祖とする。
現地の説明板・その2
陶氏は大内氏の流れを汲む右田氏の祖、摂津上盛長5世の孫弘賢が吉敷郡陶村の領主となり、よって陶を氏とした。
2代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い、下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。
居館を大字下上字武井の岡の原に築く。これを平城(ひらじょう)と云う。もと富岡小学校の敷地であった。
平城の南に続いて一段低い所を「にいとん」と云い、即ち新殿の意で陶氏が新館を建てた所と伝えている。
古社上野八幡宮は、正平10年(南朝1355)陶弘政の建立したものと伝えている。上野の城山は、また陶氏の一支城であり、建咲院の裏山にも七尾城を築く。四熊岳(504m)の麓を通り、花河原の西に陶氏の本城若山城(217m)がある。大手門に当たる東南方は、福川に属し、搦手の北面と西南は夜市の地である。”
【写真左】富岡公園・その2
学校のあと公園として改修されているため、殆どこの箇所での遺構は確認できない。
なお、左側には公民館が建っているが、この付近も当時の館跡だったと考えられる。
陶弘政と大内弘世
陶氏2代・弘政のときがいわゆる南北朝の動乱期に当たるが、主君・大内氏は弘世の代である。
霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1の稿でも述べているように、当初大内氏は北朝方に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、直冬に属し、後には南朝方に与し周防守護職に任じられている。そして隣の長門守護職であった厚東氏をも攻略して、同国の守護職も得ることになる。
【写真左】石碑
「陶氏居館址」と記銘された石碑が脇に建立され、その隣には、碑文(説明板・その2)が添えられている。
しかし、その後弘世は正平18年(1363)になると、幕府に降った。その前年の11月、足利義詮は山名氏討伐を図り、次第に武家方の勢力が強まっていた。
因みに、弘世は石見守護職も補せられていたので、石見の益田兼見(七尾城(島根県益田市七尾)・その1参照)なども弘世の命に従い武家方となっている。
陶弘政の動きに関する資料はあまりないが、その名から考えて弘世から偏諱を受けたものだろう。
ところで、大内弘世が幕府に降る前に攻略していたのが、当時幕府側であった鷲頭氏である。この鷲頭氏の本拠地は現在の下松市西豊井付近(殿ヶ浴)といわれ、本稿の陶氏居館地から南東におよそ11キロほど離れた位置に当たる。
【写真左】南側斜面
冒頭の写真とは反対に西側から見たもので、法面はコンクリートで石垣が補修されているが、この中にあるいは館時代の石が残っているかもしれない。
【写真左】東側から見る。
左が南に当る。なお、公園の規模は、目測だが、東西60m×南北30mである。
【写真左】密嚴山 海印禅寺
陶氏居館跡から北に少し歩いて行ったところに海印禅寺という寺があり、陶晴賢の伯父・興明と、晴賢の兄・興昌の供養塔が祀られている。
【写真左】陶興明、興昌の墓
二人の墓以外にも五輪塔など中小の墓石がこの位置に並べられている。
説明板より
“陶 興明
春圃孝英大禅定門
明応4年(1495)2月13日 生年(享年)19歳
陶 興昌
信衣院春翁透初大禅定門
享禄2年(1529)4月23日 生年(享年)25歳”
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