多久和城・その2 多久(和)氏など
【写真左】登城途中、下から見た本丸
前稿で多久和城の城主であったと思われる「多久和左京亮」を取り上げたが、この人物の出自も定かでない。
ところで、多久和城関係について調べていたところ、サイト「consultant takuwa online shop」というところに、“多久和姓について”というものがあり、そこに下記のような内容が記されていた。
”多久和”姓について
”多久和”姓とは、かわったものです。しかし、いわれは確かなものです。
すなわち、明治に入り、苗字の使用が認められると、出雲平野・平田の御百姓さんは、その昔、山城・多久和城にかり出された経験より“多久和”姓を名乗るようになったものです。
その事は 平田の実家の古文書に明記されていた事を思い出されます。
実家の祖父多久和新四郎は、多久和城を保存する様に明治・大正時代に動いたときもありました。(以下略) ”
【写真左】本丸跡に設置された祠など
社日社、秋葉社、大神岳社という3つの祠があり、社日社は尼子の関係からと思えるが、他の二つの由来が分からない。
多久和、あるいは多久という人物や地名に多いのは、現在でも旧平田市(現在出雲市)である。確かな資料がないため、これから記す内容は、根拠がほとんどないが、私なりに多久(和)氏関係の動きを想像してみたい。
【写真左】桧ヶ仙城(出雲市平田)麓より桧ヶ仙城遠望
ところで、この新田開発した場所は、現在の斐川町内坂田地域などだが、実は多久和氏そのものも、元は以前に述べたように、現在の滋賀県長浜市にある「坂田」というところからきている可能性が高い。
そのときの主だった一族名としては「松本一族」がある(多久神社縁起より)。
時期はなんともいえないが、おそらく論功行賞などでやってきた鎌倉期(承久の乱、もしくは後醍醐天皇の時代か)ではないだろうか。
どちらにしても、今となっては出自を判定する史料などがないので、繰り返すが、あくまで推測の域を出ない話である。
【写真左】登城途中、下から見た本丸
前稿で多久和城の城主であったと思われる「多久和左京亮」を取り上げたが、この人物の出自も定かでない。
ところで、多久和城関係について調べていたところ、サイト「consultant takuwa online shop」というところに、“多久和姓について”というものがあり、そこに下記のような内容が記されていた。
”多久和”姓について
”多久和”姓とは、かわったものです。しかし、いわれは確かなものです。
すなわち、明治に入り、苗字の使用が認められると、出雲平野・平田の御百姓さんは、その昔、山城・多久和城にかり出された経験より“多久和”姓を名乗るようになったものです。
その事は 平田の実家の古文書に明記されていた事を思い出されます。
実家の祖父多久和新四郎は、多久和城を保存する様に明治・大正時代に動いたときもありました。(以下略) ”
【写真左】本丸跡に設置された祠など
社日社、秋葉社、大神岳社という3つの祠があり、社日社は尼子の関係からと思えるが、他の二つの由来が分からない。
多久和、あるいは多久という人物や地名に多いのは、現在でも旧平田市(現在出雲市)である。確かな資料がないため、これから記す内容は、根拠がほとんどないが、私なりに多久(和)氏関係の動きを想像してみたい。
- まず、冒頭に挙げた多久和右京亮なる人物の先祖は、もともとこの 平田地域の国人領主ではなかったかということ。
- そしてその居城は檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)であり、多久和氏の中の一族が尼子方に属し、尼子清定の時代に知行安堵された。
- その後、多久和城の築城に当たって、実家である 平田・桧ヶ仙城下の農民が駆り出されたのではないだろうか。
- 戦国末期になると、実家である平田・桧ヶ仙城も毛利方の手に落ち、残った家臣らは南の斐川東 部の宍道湖周辺を新田開発したといわれている。
【写真左】桧ヶ仙城(出雲市平田)麓より桧ヶ仙城遠望
ところで、この新田開発した場所は、現在の斐川町内坂田地域などだが、実は多久和氏そのものも、元は以前に述べたように、現在の滋賀県長浜市にある「坂田」というところからきている可能性が高い。
そのときの主だった一族名としては「松本一族」がある(多久神社縁起より)。
時期はなんともいえないが、おそらく論功行賞などでやってきた鎌倉期(承久の乱、もしくは後醍醐天皇の時代か)ではないだろうか。
どちらにしても、今となっては出自を判定する史料などがないので、繰り返すが、あくまで推測の域を出ない話である。
毛利方に滅ぼされた尼子氏の家来が、本名を隠すため渡来人につけてもろったという説もある。古い中国の漢詩辞書には、多久とは平和なこと、多久和とは永久に平和な世の中でありますようにとの訳されいました。
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