三刀屋尾崎城 その3
◆解説(参考:三刀屋町誌)
前稿で取り上げた尼子氏の滅亡(のち山中鹿助らが再興を企てるが)のころ、三刀屋氏や三刀屋郷周辺の動きはおよそ次の通りであった。
三刀屋氏のその後
三刀屋氏は当然地元の三刀屋郷を安堵されるが、このころから三刀屋氏(久扶)は、元就に全幅の信頼を得ていなかったようである。
三刀屋郷の南方にある掛合郷(旧多禰(たね)郷)は、一時元就の嫡男・隆元が駐在していたが、隆元は後に急死し、掛合郷のうち、坂本村を山内通定の家臣・田辺宗左衛門(後の鉄山師・田部長右衛門の一族と思われる)が治め、また殿河内村を井上八郎右衛門が新給地としてあてがわれる。
三刀屋郷の南東部にある多久和郷については、尼子方だった赤穴久清が三刀屋久扶の説得によって毛利方に降った際、その恩賞としてあてがわれる。ただし、この郷の一部に尼子方の支配する部分も残存していたらしく、久清にとっては中途半端な恩給地であったようだ。
【写真左】三刀屋の町にある「三刀屋天満宮」
社伝によれば菅原道真公、太宰府へ配流の途中、先祖・野見宿禰の霊廟に詣でるため当地に数日間滞在したという。公が筑紫にて薨去の後、里人がその徳を慕って小祠を建て梅を植えて祀っていたが、三刀屋城主・諏訪部弾正為弼(10代)が、守護神として城内天神丸に移し祀った。
久扶(14代)まで奉祀していたが、天正16年(1588)改易の際、元天神の地に移し、旧族・村人たちの氏神として奉斎した。(以下略)
熊谷郷は元々三刀屋久扶の祖父・忠扶が明応9年(1500)買取り、大永8年(1528)に尼子経久から改めて安堵された地である。その後一時三刀屋氏の手から離れたことがあったようだが、久扶からの申請により元就から安堵されている。
ただこの支配者については、熊谷新右衛門がもともと治めていたことや、その後元就の家臣・小川勝久に攻め落とされているので、三刀屋氏がこの郷の領有範囲をどこまで確保していたかははっきりしない。
さて、その後山中鹿助らによる尼子再興の動きが始まる。永禄12年(1569)6月、尼子再興の目的のもとに集まった軍勢は約6千といわれる。この中には純粋に尼子に心を寄せる者もいたが、報償目的の者もいたらしく、このため鹿助らはその資金を獲得するため、強盗まがいの行為を繰り返したという。そして、一般的な戦の形態を成した戦いもあったが、後半はほとんどゲリラ的な戦闘行為のくりかえしの様相を呈していた。
三刀屋近郊で行われた主だった戦に、「日登の合戦」と「多久和城の攻防」がある。日登は雲南市木次町にある地区で、永禄12年の暮、この地には毛利方となった三沢氏が詰めていた。そこへ山中鹿助や立原らの尼子再興軍2,000が攻めてくる。その報を聞きつけた三刀屋久扶と市川経芳らの軍が援軍に駆けつけ、最終的には引き分けたという。
ちなみに、三沢氏、三刀屋氏及び市川軍らはいずれも当主本人は、九州を転戦中で、地元出雲の各氏の手勢のみであったことから、善戦した方といえる。
多久和城の攻防については、いずれ当城の投稿の際、改めて記したい。
【写真左】本丸跡にある記念碑
昭和57年に、三刀屋城主の後裔といわれる人(山口県在住)が当地に来られ、先祖の地の発展を祈って多額の寄付をされた。そのことを記した石碑である。
その後の三刀屋氏
さて、すこし端折ってしまうが、尼子軍が完全に滅んだあとの三刀屋氏の動向について少し触れておきたい。
尼子の滅亡後は他の出雲国人領主と同様、毛利氏の配下として活躍する。特に毛利氏ものちに秀吉と和解し、九州征伐に協力する。三刀屋氏に関係する記録を抽出すると、天正14年(1586)の春、秀吉からの要請で、九州征伐を毛利軍が行った際、小倉城攻めの際、苦戦をしいられ、久扶配下の者17人が討死している。
また翌天正15年の春、秀吉自ら九州に下り、直接指揮をとって島津義久を降したが、秋になって、豊前・肥後に一揆がおこり、吉川広家(このころ吉川家は元春、元長父子が亡くなり、元長の弟である広家が跡を継ぐ)が討伐に向かった。このときの軍勢の中に、三刀屋久扶と嫡男・監物がいた。
さて、天正16年7月、毛利三家(輝元・吉川広家・小早川隆景)が、秀吉に謁見するため上洛する。この上洛に際して、三刀屋久扶も同行したようだ。そしてその折、聚楽第で徳川家康に謁見したといわれ、このことが、後に輝元の耳に入り、「久扶に二心あり」と疑われる原因となったといわれている。
そして、最終的には久扶の代に、三刀屋氏が三刀屋郷を追われてしまう。その原因や経緯には様々な説がある。
その一つとして、史実かどうか断定はできないが、「伯耆誌」という江戸時代に著されたものによると、久扶は仏門に帰依して近松と号し、あるとき(天正16~17年)京都に上ったという。それを聞いた黒田如水は、家康に逢うよう勧めた。しかし、久扶は断った。今度は細川幽斎が重ねて要請したので、やむなく会見した。そのことを毛利に密告され、天正18年9月9日、三刀屋を退去したという。
その後、京都に上って吉田に閑居していたが、一時石見銀山に住んだこともあるらしい。その間、家康から8,000石の禄高で誘われたが、これを断り、のちに八条宮の勧めで伯耆会見郡四日市村に来て、ここで亡くなった。墓は安養寺にある。
もう一つの三刀屋氏の動向については、つぎのようなものがある。
【写真左】三刀屋尾崎城の東端にある「梅窓禅院」遠望
当寺は、第11代三刀屋掃部助三郎の妹で、14代弾正久扶の伯母にあたる「梅之姫」が、一門の菩提を弔うため、明応元年(1492)3月、仏門に入り、三刀屋城の麓・案田の後谷の地に草庵を結んだのが始まりである。
現在広島県内には「三刀屋」姓を名乗る人が点在しているが、その先祖のほとんどが同県の大朝町である。大朝町は吉川氏の本拠地である。「三刀屋町誌」の編著者もこのことを非常に重要視しているが、なぜ三刀屋氏がこの地に来たのか、それを解き明かしてくれるものがないため、説明できない。
しかし、著者もこのことについて、三刀屋氏と吉川氏が何らかの関係をもっていたことは間違いないと考える。想像だが、三刀屋氏が三刀屋を追われ(改易され)たあと、毛利氏とは別に吉川氏が間に入って、三刀屋氏の処罰の軽減を行ったのではないか。
吉川氏は、毛利両川の中でも一番出雲に近く、このため出雲との関係はより深いものがある。元就の時代から警戒されていた三刀屋氏が、輝元の時代になってさらに信用を得なくなった理由がいま一つ不明だが、それと対照的な吉川氏の三刀屋氏に対する扱いが想起される。
どちらにしても三刀屋氏の晩年の動向を示す記録がないため、今のところ想像の域を出ない。
【写真上】梅窓禅院の後の山にある「殿様墓」と呼ばれる宝篋印塔
諏訪部氏の墓とも言われているが、はっきりしない。特徴的なのは、写真にあるように、墓そのものをさらに石屋根造りで囲っていることである。
また、この墓のある小山全体に古墳が点在していることもあって、「松本古墳公園」という区域になっている。
◆解説(参考:三刀屋町誌)
前稿で取り上げた尼子氏の滅亡(のち山中鹿助らが再興を企てるが)のころ、三刀屋氏や三刀屋郷周辺の動きはおよそ次の通りであった。
三刀屋氏のその後
三刀屋氏は当然地元の三刀屋郷を安堵されるが、このころから三刀屋氏(久扶)は、元就に全幅の信頼を得ていなかったようである。
三刀屋郷の南方にある掛合郷(旧多禰(たね)郷)は、一時元就の嫡男・隆元が駐在していたが、隆元は後に急死し、掛合郷のうち、坂本村を山内通定の家臣・田辺宗左衛門(後の鉄山師・田部長右衛門の一族と思われる)が治め、また殿河内村を井上八郎右衛門が新給地としてあてがわれる。
三刀屋郷の南東部にある多久和郷については、尼子方だった赤穴久清が三刀屋久扶の説得によって毛利方に降った際、その恩賞としてあてがわれる。ただし、この郷の一部に尼子方の支配する部分も残存していたらしく、久清にとっては中途半端な恩給地であったようだ。
【写真左】三刀屋の町にある「三刀屋天満宮」
社伝によれば菅原道真公、太宰府へ配流の途中、先祖・野見宿禰の霊廟に詣でるため当地に数日間滞在したという。公が筑紫にて薨去の後、里人がその徳を慕って小祠を建て梅を植えて祀っていたが、三刀屋城主・諏訪部弾正為弼(10代)が、守護神として城内天神丸に移し祀った。
久扶(14代)まで奉祀していたが、天正16年(1588)改易の際、元天神の地に移し、旧族・村人たちの氏神として奉斎した。(以下略)
熊谷郷は元々三刀屋久扶の祖父・忠扶が明応9年(1500)買取り、大永8年(1528)に尼子経久から改めて安堵された地である。その後一時三刀屋氏の手から離れたことがあったようだが、久扶からの申請により元就から安堵されている。
ただこの支配者については、熊谷新右衛門がもともと治めていたことや、その後元就の家臣・小川勝久に攻め落とされているので、三刀屋氏がこの郷の領有範囲をどこまで確保していたかははっきりしない。
さて、その後山中鹿助らによる尼子再興の動きが始まる。永禄12年(1569)6月、尼子再興の目的のもとに集まった軍勢は約6千といわれる。この中には純粋に尼子に心を寄せる者もいたが、報償目的の者もいたらしく、このため鹿助らはその資金を獲得するため、強盗まがいの行為を繰り返したという。そして、一般的な戦の形態を成した戦いもあったが、後半はほとんどゲリラ的な戦闘行為のくりかえしの様相を呈していた。
三刀屋近郊で行われた主だった戦に、「日登の合戦」と「多久和城の攻防」がある。日登は雲南市木次町にある地区で、永禄12年の暮、この地には毛利方となった三沢氏が詰めていた。そこへ山中鹿助や立原らの尼子再興軍2,000が攻めてくる。その報を聞きつけた三刀屋久扶と市川経芳らの軍が援軍に駆けつけ、最終的には引き分けたという。
ちなみに、三沢氏、三刀屋氏及び市川軍らはいずれも当主本人は、九州を転戦中で、地元出雲の各氏の手勢のみであったことから、善戦した方といえる。
多久和城の攻防については、いずれ当城の投稿の際、改めて記したい。
【写真左】本丸跡にある記念碑
昭和57年に、三刀屋城主の後裔といわれる人(山口県在住)が当地に来られ、先祖の地の発展を祈って多額の寄付をされた。そのことを記した石碑である。
その後の三刀屋氏
さて、すこし端折ってしまうが、尼子軍が完全に滅んだあとの三刀屋氏の動向について少し触れておきたい。
尼子の滅亡後は他の出雲国人領主と同様、毛利氏の配下として活躍する。特に毛利氏ものちに秀吉と和解し、九州征伐に協力する。三刀屋氏に関係する記録を抽出すると、天正14年(1586)の春、秀吉からの要請で、九州征伐を毛利軍が行った際、小倉城攻めの際、苦戦をしいられ、久扶配下の者17人が討死している。
また翌天正15年の春、秀吉自ら九州に下り、直接指揮をとって島津義久を降したが、秋になって、豊前・肥後に一揆がおこり、吉川広家(このころ吉川家は元春、元長父子が亡くなり、元長の弟である広家が跡を継ぐ)が討伐に向かった。このときの軍勢の中に、三刀屋久扶と嫡男・監物がいた。
さて、天正16年7月、毛利三家(輝元・吉川広家・小早川隆景)が、秀吉に謁見するため上洛する。この上洛に際して、三刀屋久扶も同行したようだ。そしてその折、聚楽第で徳川家康に謁見したといわれ、このことが、後に輝元の耳に入り、「久扶に二心あり」と疑われる原因となったといわれている。
そして、最終的には久扶の代に、三刀屋氏が三刀屋郷を追われてしまう。その原因や経緯には様々な説がある。
その一つとして、史実かどうか断定はできないが、「伯耆誌」という江戸時代に著されたものによると、久扶は仏門に帰依して近松と号し、あるとき(天正16~17年)京都に上ったという。それを聞いた黒田如水は、家康に逢うよう勧めた。しかし、久扶は断った。今度は細川幽斎が重ねて要請したので、やむなく会見した。そのことを毛利に密告され、天正18年9月9日、三刀屋を退去したという。
その後、京都に上って吉田に閑居していたが、一時石見銀山に住んだこともあるらしい。その間、家康から8,000石の禄高で誘われたが、これを断り、のちに八条宮の勧めで伯耆会見郡四日市村に来て、ここで亡くなった。墓は安養寺にある。
もう一つの三刀屋氏の動向については、つぎのようなものがある。
【写真左】三刀屋尾崎城の東端にある「梅窓禅院」遠望
当寺は、第11代三刀屋掃部助三郎の妹で、14代弾正久扶の伯母にあたる「梅之姫」が、一門の菩提を弔うため、明応元年(1492)3月、仏門に入り、三刀屋城の麓・案田の後谷の地に草庵を結んだのが始まりである。
現在広島県内には「三刀屋」姓を名乗る人が点在しているが、その先祖のほとんどが同県の大朝町である。大朝町は吉川氏の本拠地である。「三刀屋町誌」の編著者もこのことを非常に重要視しているが、なぜ三刀屋氏がこの地に来たのか、それを解き明かしてくれるものがないため、説明できない。
しかし、著者もこのことについて、三刀屋氏と吉川氏が何らかの関係をもっていたことは間違いないと考える。想像だが、三刀屋氏が三刀屋を追われ(改易され)たあと、毛利氏とは別に吉川氏が間に入って、三刀屋氏の処罰の軽減を行ったのではないか。
吉川氏は、毛利両川の中でも一番出雲に近く、このため出雲との関係はより深いものがある。元就の時代から警戒されていた三刀屋氏が、輝元の時代になってさらに信用を得なくなった理由がいま一つ不明だが、それと対照的な吉川氏の三刀屋氏に対する扱いが想起される。
どちらにしても三刀屋氏の晩年の動向を示す記録がないため、今のところ想像の域を出ない。
【写真上】梅窓禅院の後の山にある「殿様墓」と呼ばれる宝篋印塔
諏訪部氏の墓とも言われているが、はっきりしない。特徴的なのは、写真にあるように、墓そのものをさらに石屋根造りで囲っていることである。
また、この墓のある小山全体に古墳が点在していることもあって、「松本古墳公園」という区域になっている。
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