城名備山城(きなびやまじょう)
●所在地 島根県雲南市木次町里方●築城期 中世
●築城者 不明(佐世氏か)
●標高 117m
●比高 80m
●遺構 堀切・郭・虎口・井戸等
●登城日 2009年2月28日
◆解説(「日本城郭大系第14巻」等)
前稿「三刀屋尾崎城」の位置から北に向かうと、斐伊川と三刀屋川の合流点に差し掛かる。この位置から北に聳える妙見山の南麓部に設置された山城である。
この城砦については、大分前から存在は知っていたが、中世の山城というよりも、地元の古代の記録である「出雲風土記」に出てくる神話の山としての知名度が高く、登城前は余り期待をしていなかった。
ところが、実際に登城してみると、予想に反し、山城として最低限の遺構を備えたものであった。
【写真左】城名備山城
左の高い位置に本丸がある。
現地の説明板より
“城名備山城跡
この山の名は、奈良時代(710~794)に書かれた出雲風土記に「所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらし おおかみおおなもちのみこと:大国主命)が、八十神(従わぬ多くの神々)を討とうとして城を造られたところから、「城名備(きなひ)山」と名をつけられたとされています。
中世になると、本格的な山城が築かれるようになり、山頂付近には、山城の名残りを留めるいろいろな跡がよく残っており、山城の姿を今日に伝え、木次町の代表的な史跡となっています。
平成14年3月
斐伊活性化協議会”
【写真左】駐車場
斐伊川沿いの西側にある終末処理場の脇から登る道が設置されている。車でこの駐車場まで行ける。
次に、城名備山の尾根伝いに延長された北に聳える妙見山についても、現地の説明板があるので紹介しておく。
“妙見山遺跡
妙見山遺跡は、木次町・三刀屋町公共下水道終末処理施設建設に伴って、平成5~6年に調査された祭祀遺跡で、妙見山から派生して斐伊川を眼下に見下ろすこの尾根上に所在しています。
山岳信仰の舞台となった妙見山遺跡は、その名が示す通り、妙見信仰、すなわち北斗七星を祀る信仰といわれ、中世山岳仏教の参拝地でもありました。
【写真左】堀切
駐車場から歩きだすとすぐにこの堀切が出てくる。2,3回堀切をアップダウンすると、すぐに郭が見えてくる。
平安時代初期、奈良薬師寺の僧・景戒によって記された「日本霊異記」の中で、妙見菩薩に灯明が献じられたとあるように、遺跡からは1万点を超える中世土器が出土しており、この中には灯明皿として使われた杯や、皿が多数含まれています。
掘立柱建物も5棟(推定)確認されており、鉄釘のほか、通常の建物には使われない飾り釘も出土していることから、宗教施設が存在していたと思われます。
また、遺跡内からは、鉄滓(てっさい)や、焼土も見つかっており、この尾根上で宗教施設にともなった小鍛冶が行われていたことも考えられます。
【写真左】第2郭
最初に南北に長い郭がある。長さは2,30m程度か。
時代は平安時代、9世紀から12世紀にまたがっており、この地が長い山岳仏教の修行信仰地として続いていたことをうかがわせます。ことによると、中世には、妙見山と並んで、かつて42もの僧坊があったと伝えられ、木次町字谷、及び寺領地内に所在する「伝室山寺跡」の二つの参拝地が存在してた可能性も考えられ、中世びとの厚い信仰心がうかがわれる貴重な遺跡でもあります。
平成13年12月 木次町教育委員会”
【写真左】第2郭から本丸を見る
第2郭と本丸の段差は2m程度で、階段も設置されているので歩きやすい。
【写真左】本丸その1
現在は東南に向かって開放され、西側は立木が生えているため全体の姿は分からないが、戦の際はほとんど、東南の方に重きを置いていたと思われる。
【写真左】本丸その2
本丸の底面はほぼ平坦になっており、後段に示す西側の下の郭同様、掘立柱の建物があったと考えられる。
【写真左】本丸から西側の下の郭を見る
規模としては、この下の郭が大きいようだ。
位置的にもこの場所が一番重要な位置になる。
向うに見える川は斐伊川だが、戦略的にはこの川が濠の役目を果たしたものと思われる。
【写真左】本丸から南方に三刀屋尾崎城を見る
手前に見える川は、斐伊川の支流・三刀屋川
【写真左】本丸側から北方に妙見山を見る
この日、当山の途中まで登ってみたが、途中から藪こぎになったため、断念した。
●築城者 不明(佐世氏か)
●標高 117m
●比高 80m
●遺構 堀切・郭・虎口・井戸等
●登城日 2009年2月28日
◆解説(「日本城郭大系第14巻」等)
前稿「三刀屋尾崎城」の位置から北に向かうと、斐伊川と三刀屋川の合流点に差し掛かる。この位置から北に聳える妙見山の南麓部に設置された山城である。
この城砦については、大分前から存在は知っていたが、中世の山城というよりも、地元の古代の記録である「出雲風土記」に出てくる神話の山としての知名度が高く、登城前は余り期待をしていなかった。
ところが、実際に登城してみると、予想に反し、山城として最低限の遺構を備えたものであった。
【写真左】城名備山城
左の高い位置に本丸がある。
現地の説明板より
“城名備山城跡
この山の名は、奈良時代(710~794)に書かれた出雲風土記に「所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらし おおかみおおなもちのみこと:大国主命)が、八十神(従わぬ多くの神々)を討とうとして城を造られたところから、「城名備(きなひ)山」と名をつけられたとされています。
中世になると、本格的な山城が築かれるようになり、山頂付近には、山城の名残りを留めるいろいろな跡がよく残っており、山城の姿を今日に伝え、木次町の代表的な史跡となっています。
平成14年3月
斐伊活性化協議会”
【写真左】駐車場
斐伊川沿いの西側にある終末処理場の脇から登る道が設置されている。車でこの駐車場まで行ける。
次に、城名備山の尾根伝いに延長された北に聳える妙見山についても、現地の説明板があるので紹介しておく。
“妙見山遺跡
妙見山遺跡は、木次町・三刀屋町公共下水道終末処理施設建設に伴って、平成5~6年に調査された祭祀遺跡で、妙見山から派生して斐伊川を眼下に見下ろすこの尾根上に所在しています。
山岳信仰の舞台となった妙見山遺跡は、その名が示す通り、妙見信仰、すなわち北斗七星を祀る信仰といわれ、中世山岳仏教の参拝地でもありました。
【写真左】堀切
駐車場から歩きだすとすぐにこの堀切が出てくる。2,3回堀切をアップダウンすると、すぐに郭が見えてくる。
平安時代初期、奈良薬師寺の僧・景戒によって記された「日本霊異記」の中で、妙見菩薩に灯明が献じられたとあるように、遺跡からは1万点を超える中世土器が出土しており、この中には灯明皿として使われた杯や、皿が多数含まれています。
掘立柱建物も5棟(推定)確認されており、鉄釘のほか、通常の建物には使われない飾り釘も出土していることから、宗教施設が存在していたと思われます。
また、遺跡内からは、鉄滓(てっさい)や、焼土も見つかっており、この尾根上で宗教施設にともなった小鍛冶が行われていたことも考えられます。
【写真左】第2郭
最初に南北に長い郭がある。長さは2,30m程度か。
時代は平安時代、9世紀から12世紀にまたがっており、この地が長い山岳仏教の修行信仰地として続いていたことをうかがわせます。ことによると、中世には、妙見山と並んで、かつて42もの僧坊があったと伝えられ、木次町字谷、及び寺領地内に所在する「伝室山寺跡」の二つの参拝地が存在してた可能性も考えられ、中世びとの厚い信仰心がうかがわれる貴重な遺跡でもあります。
平成13年12月 木次町教育委員会”
【写真左】第2郭から本丸を見る
第2郭と本丸の段差は2m程度で、階段も設置されているので歩きやすい。
【写真左】本丸その1
現在は東南に向かって開放され、西側は立木が生えているため全体の姿は分からないが、戦の際はほとんど、東南の方に重きを置いていたと思われる。
【写真左】本丸その2
本丸の底面はほぼ平坦になっており、後段に示す西側の下の郭同様、掘立柱の建物があったと考えられる。
【写真左】本丸から西側の下の郭を見る
規模としては、この下の郭が大きいようだ。
位置的にもこの場所が一番重要な位置になる。
向うに見える川は斐伊川だが、戦略的にはこの川が濠の役目を果たしたものと思われる。
【写真左】本丸から南方に三刀屋尾崎城を見る
手前に見える川は、斐伊川の支流・三刀屋川
【写真左】本丸側から北方に妙見山を見る
この日、当山の途中まで登ってみたが、途中から藪こぎになったため、断念した。
0 件のコメント:
コメントを投稿