2009年4月5日日曜日

三刀屋尾崎城 その1(島根県雲南市三刀屋)

三刀屋尾崎(みとやおさきじょう)


◆登城日 2009年4月11日他
所在地  島根県雲南市三刀屋古城
標高 58m
指定 島根県指定史跡
別名 三刀屋城、尾崎城、天神丸城、
遺構概要 郭群、用水路、水手郭、石塁、土塁、虎口、横矢構、堀切、馬場乗り場、石垣、列石等

◆解説
 前稿まで「三刀屋じゃ山城」(以下「じゃ山城」とする)を取り上げてきたが、今回からその「じゃ山城」より三刀屋川沿いに下った位置にある「三刀屋尾崎城」(以下「尾崎城」とする)を取り上げる。

 二つの城とも三刀屋氏の居城である。 「じゃ山城」の稿で現地に設置された説明板には、「じゃ山城」は、「かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いた…」と記されている。
【写真左】三刀屋川をはさんだ「浄土寺」から見た三刀屋尾崎城遠望










 この文面から解釈すると、「じゃ山城」は戦国末期まで使われていた、という解釈になる。そうなると今回取り上げる「尾崎城」は、その後使われたということになるが、この説明では、解釈の仕方によっては、「じゃ山城は、もともと別にあった本城の支城の位置づけだったが、戦国末期にこのじゃ山城に移り居城とした」という意味にも取れる。

 こうなると一般的に言われている、「前期は、じゃ山城を、後期は尾崎城を使用した」という説と矛盾することになる。常識的に考えて、山城の位置は時代が下るにつれて、下流部へ移る傾向が多いので、やはり今稿の「尾崎城」は戦国末期に三刀屋氏が居城として使っていたと解釈した方がいいと思う。

 もちろん、具体的な資料にかけるため、あくまでも想像のもとに、通説となった内容であり、断定はできない。そこで、あらためて具体的な記録のみを抽出すると次の通りである。
【写真左】三刀屋城近影













、「三刀屋家文書」によると、南北朝期の観応2年(1352)8月、惣領地頭・諏訪部扶重(信恵)が、山名時氏の催促により、南朝方として旗揚げしたときの軍忠状に「出雲国三刀屋郷楯籠 石丸城…」とある。


、永禄6年(1563)、「地王峠の戦い」で、「幅三町ばかりの三刀屋川の下を打ちわたり、八幡の森を妻手(めて)に見て、天神丸を弓手(ゆんて)になして、北の方へぞ向かいける…」と書かれている。



 上記1の石丸城は、「じゃ山城」の別名で、上記2の天神丸は、「尾崎城」の北東先端部のことと思われる。

 ところで、断片的な羅列になるが、室町期に三刀屋氏が記録上出てくるのは、応仁の乱のときである。山陰では出雲の守護・京極持清が東軍で、他の因幡・伯耆・石見などは山名氏の支配下であったことから西軍に属している。当然三刀屋(諏訪部)氏も京極の東軍にあり、勃発した応仁元年(1467)の7月、出雲の国人・赤穴幸清・牛尾五郎左衛門忠清が参戦し、その後三刀屋助五郎が加わった、とある。
【写真左】三刀屋城北方の「峯寺弥山」の尾根から見た当城遠望









 また、応仁の乱の最中である文明2年(1470)に、出雲では手薄になった出雲の守護代・尼子氏(清定)に対して、三沢郷を中心に支配していた国人・三沢対馬守が蜂起する。

このとき三沢氏に加担したのは、多胡宗右衛門尉、山佐五郎左衛門尉、佐方民部丞、飯沼四郎右衛門尉、下笠豊前守、野波次郎右衛門尉、小境四郎左衛門尉といった国人たちである。

 しかし清定に対抗したものの、逆に討伐され、知行を差し押さえられた。このうち、佐方民部丞は三刀屋氏の支族で、伊萱に本拠を置く佐方氏に関係する者だったといわれている。

 このほかにも、尼子氏より古い国人・松田氏などが反乱をおこすものの、鎮圧され次第に尼子氏の支配力が強まっていく。その後、尼子氏は幕府の命を無視するようになったため、文明16年(1484)、三沢・三刀屋・朝山(浅山)・広田・桜井・塩冶・古志などの国人に対し、幕府が追討の命を下し、経久(清定の子)は下野する。しかし、2年後の文明18年に、ふたたび富田城奪回により経久は復帰する。そうした経過を経て、最終的には三刀屋氏も含め主だった出雲国人領主は尼子氏に属する。
【写真左】三刀屋城の案内図









 三刀屋氏の記録については、断片的なものが多く、また宗家と庶子家の記録が混在していることから、今一つ整理ができていない。前述した文明18年の経久による富田城奪回後、しばらくは三刀屋氏も尼子の支配下に入っている。

 大永2年(1522)5月付で、三刀屋対馬守は「三刀屋郷内所々、尾崎・菅原・熊谷上下」を経久から再度安堵されている。その後享禄3年(1530)5月付で、のちの弾正忠扶となる新四郎宛に、経久から「仙導朝山多賀美作守抱地」及び「飯石郡取抱内大原郡稲葉跡」を新給地として与えられている。なお、忠扶は、弘治3年(1557)に尼子義久から「久」の一字をもらって、「久扶」と名乗っているので、今後は久扶とする。

【写真左】三刀屋城本丸下の登城道










 ここでもう一人の三刀屋姓を名乗る人物がいる。それは三刀屋蔵人で、彼は久扶と違って、終始一貫して尼子方に与する人物である。久扶と蔵人の間柄ははっきりしないが、三刀屋氏の一族であることには間違いない。

 天文9年(1540)尼子晴久が一族の反対を押し切って、安芸郡山の毛利元就攻めを敢行する。このとき、三沢為幸、朝山、宍道の各氏に混じって、三刀屋久扶と蔵人が入っている。結果はよく知られたとおりの惨敗で、三沢為幸は討死し、三刀屋久扶も蔵人も命からがら出雲に退却する。
【写真左】本丸付近から三刀屋川、及び三刀屋の町並みを見る











 晴久のこうした判断がのちに出雲国人諸豪からの離反につながり、さらに決定的だったのは、経久が84歳の生涯を終えたことである。その後、山口の大内義隆が出雲遠征を目指すことが分かり、三刀屋久扶、三沢為清、掛合の多賀美作守らは尼子(晴久)を見限り、大内氏に与する。

 天文12年(1543)2月、大内義隆らは、富田月山城を見下ろす京羅木山に陣を構える。周防から同行していた陶隆房(晴賢)は経塚山に、田子兵庫助は、富田八幡山に陣を構えた。

 三刀屋久扶は、三沢・多賀・宍道氏らとともにこの田子の旗下にあった。しかし、この戦いもこう着状態が続き、4月になると、大内方に与していた吉川・三沢・三刀屋・広田・桜井・本城・小笠原・富永・出羽・杉原・久代・江田・池上は次々と離反し、尼子晴久の拠る富田城へ入ってしまった。こうなると大内方は遠来の将兵だけになり、5月7日に総退却を決めるものの、多くの死者を出す。

 なお、大内方にとどまった出雲国人では、宍道遠江正隆、多賀美作守通定の二人がおり、のちに毛利氏が台頭したころに同氏に属している。
【写真左】本丸付近













 その後尼子晴久が亡くなると、出雲の国人たちは再び動揺する。これまで見てきたように、三刀屋氏の動きは、三沢氏とほぼ同様の動きを見せている。両氏の祖が、どちらも信州の出であることからの連帯性がそうさせているのかもしれない。

 両氏は出雲国人の中でもいち早く毛利氏へ再びなびく。このような態度を、赤穴城で城主・久清と袂と分かち、あくまで尼子に与した二人の勇将・森田左衛門、烏田権兵衛は「三刀屋、三沢などは今まで尼子方にありて、明日は大内に降り、また尼子へ戻りて、今また毛利に降り、度々心を変じ、掌を返す反臣なり」と唾棄している。
【写真左】物見櫓から本丸を見る


【写真左】本丸から二の丸方面を見る

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