宇山城(うやまじょう)
●登城日 2008年3月28日
●所在地 雲南市木次町寺領 宇山
●築城期 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺構概要 郭 帯郭 虎口?
●築城主 宇山飛騨守久信
●標高 212m
●遺跡の現状 山林 ●遺構概要郭 帯郭 虎口?
●備考 別名 上宇山城・日登城
◆解説
【写真左】宇山城登山口
この城は木次町寺領というところにあるが、登城口は北側の上宇山というところにある。
写真の位置にあるカーブした広い道に駐車して、ここから徒歩で行く。途中一軒の民家があり、この家の前を通って割と広い林道を登る。
【写真左】登城途中の登り道
登城口から本丸までの距離は1キロもなく、6、700m程度だったと思う。
途中から少し傾斜のついた上り坂になる。下草が刈ってあれば、途中の遺構も確認できたかもしれない。
【写真右】登城途中の標識
距離にすると300メートルぐらいだろうか、少し登り道になり出した所に右の標識があり、この坂の上に本丸跡がある。
【写真左】本丸跡にて
しばらく手入れしていないような下地で、3,40センチ程度の草や笹が茂っていた。
写真のように本丸跡に「宇山飛騨守居城跡」という木製の碑が建っている。
【写真左】本丸跡に建つ祠
なにも銘記されていない祠だが、宇山氏の関係のものだろう。
【写真右】同じく本丸跡にある石像
この場所には、上記の祠とこの石像の二つがあるのみで、あとは草木が多いためよく確認できなかったが、おそらくこれ以外のものはないと思われる。
なお、本丸の大きさはさほど大きくはなく、長さ20~30m程度で、幅が10m前後といったところか。訪れた時期が悪かったのか、雑草の丈がだいぶ伸びていて、周囲の境部分が確認しずらい。
【写真右】本丸跡から見た山
現地では磁石を持ってきていなかったので、確信はないが、おそらく写真のとがった山は、地図で調べると、「室山(260メートル)」という山と思われる。
この山も山城らしい形をしているが、場合によっては山岳信仰としての山だったかもしれない。
【写真左】宇山城を降りたところにある展望台(宇山神社?)からみた宇山城遠景
この場所には何も書いてなかったが、本丸で見た灯籠とよく似た灯籠が同じくこの展望台にあり、また祠もあったことから、この神社は宇山氏を祀ったものと思われる。
規模は小ぶりの部類に入るが、周辺の地形に変化があり、本丸にたどりつくまでには天然の要害を利用した箇所があるようだ。
位置的には以前に紹介した多久和城から、大東の三笠城・牛尾城へ向かう道の途中にある。
また、同じく前に述べた「地王峠・日登の戦い」の際、当城が何らかの役割を果たしていたことは間違いないだろうが、手元にある資料から見る限り、当城の記録は見いだせない。
宇山城主・宇山氏について
※参考文献・新雲陽軍実記:妹尾豊三郎編著)
当城の城主であった宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から別れたとされている。宇山氏が出雲に入った時期は、はっきりとはしていないが、一説には宇山信定(何代目かは不明)のころとされている。ただこの時期は、観応・文和年間で南北朝期争乱のときであるから、なんともいえない。
確証はないが、筆者としてはもっと時代が下った、応永6年(1399)の足利義満が佐々木高詮を出雲守護職に任命したころではないかと思える。
どちらにしても、宇山氏は佐々木氏の嫡流であったことから、戦国期には尼子氏の中でも筆頭家老で、「尼子分限帖」によると、尼子氏の最盛期にはその禄高も18万石という他の一族とは別格の扱いであった。
宇山飛騨守久信は、特に尼子時代の経久、晴久、そして義久の三代にわたって忠勤に励んだ。しかし、晩年は尼子氏の中でも台頭してきた山中鹿助や立原久綱など若い世代と意見があわなくなる。
永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急死する。そのあとを引き継いだのが晴久の嫡男・義久で、当時20歳である。晴久が亡くなった2年後の永禄5年、毛利元就が綿密な計画のもとに出雲侵攻を開始する。
このころから尼子の重鎮であった牛尾豊前守・亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗・湯惟宗・牛尾遠江守幸清らは、続々と元就の陣地である松江の洗骸(荒隈)に投降していく。
衰退していく尼子氏に見切りをつけた判断もあったようだが、若い義久の求心力・人望のなさがそれに拍車をかけていたという見方もされている。
そうした中にあって、宇山飛騨守と中井駿河守だけは投降せず、最後まで尼子氏を支えようとした。ところが、尼子義久の側近に、大塚與三右衛門という奸佞(かんねい)の武士と、角都(かくいち)という座頭がいて、功ある者を妬み、事あるごとに讒言し、それを義久が鵜呑みにするため、非業の最期を遂げるものが相次いでいた。
前段の重鎮が元就に降ったもう一つの理由が、実はこの二人の存在でもあったという。一説にはこの二人は尼子氏滅亡の際、毛利氏から恩賞を受けようとしていたのではといわれている。
結局、義久は奸佞武士・大塚と座頭・角都の言を信用してしまい、宇山飛騨守は討手である大西重兵衛と本田豊前守の前で、不審を晴らすため、無念の自害をする。
しかし自害の前に、彼が訴えた二人の非道を大西・本田両名が悟り、それを義久がやっとこの段階で初めて目覚め、大塚と角都は誅殺された。
義久は、宇山飛騨守と嫡男弥四郎父子を生害させてしまったことを悔やみ、落涙したという。
なお、飛騨守の二男は幼少で、尼子方家臣・真野兵衛尉が介抱して、密かに毛利方陣地・洗骸にいた米原平内兵衛(斐川高瀬城主)に預けられた。このあと米原氏が「宇山」の名を絶やさぬよう取り計らったという。
この処置があったことから、今日でも雲南周辺には「宇山」姓を名乗る人が残っている。
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●遺構概要 郭 帯郭 虎口?
●築城主 宇山飛騨守久信
●標高 212m
●遺跡の現状 山林 ●遺構概要郭 帯郭 虎口?
●備考 別名 上宇山城・日登城
◆解説
【写真左】宇山城登山口
この城は木次町寺領というところにあるが、登城口は北側の上宇山というところにある。
写真の位置にあるカーブした広い道に駐車して、ここから徒歩で行く。途中一軒の民家があり、この家の前を通って割と広い林道を登る。
【写真左】登城途中の登り道
登城口から本丸までの距離は1キロもなく、6、700m程度だったと思う。
途中から少し傾斜のついた上り坂になる。下草が刈ってあれば、途中の遺構も確認できたかもしれない。
【写真右】登城途中の標識
距離にすると300メートルぐらいだろうか、少し登り道になり出した所に右の標識があり、この坂の上に本丸跡がある。
【写真左】本丸跡にて
しばらく手入れしていないような下地で、3,40センチ程度の草や笹が茂っていた。
写真のように本丸跡に「宇山飛騨守居城跡」という木製の碑が建っている。
【写真左】本丸跡に建つ祠
なにも銘記されていない祠だが、宇山氏の関係のものだろう。
【写真右】同じく本丸跡にある石像
この場所には、上記の祠とこの石像の二つがあるのみで、あとは草木が多いためよく確認できなかったが、おそらくこれ以外のものはないと思われる。
なお、本丸の大きさはさほど大きくはなく、長さ20~30m程度で、幅が10m前後といったところか。訪れた時期が悪かったのか、雑草の丈がだいぶ伸びていて、周囲の境部分が確認しずらい。
【写真右】本丸跡から見た山
現地では磁石を持ってきていなかったので、確信はないが、おそらく写真のとがった山は、地図で調べると、「室山(260メートル)」という山と思われる。
この山も山城らしい形をしているが、場合によっては山岳信仰としての山だったかもしれない。
【写真左】宇山城を降りたところにある展望台(宇山神社?)からみた宇山城遠景
この場所には何も書いてなかったが、本丸で見た灯籠とよく似た灯籠が同じくこの展望台にあり、また祠もあったことから、この神社は宇山氏を祀ったものと思われる。
規模は小ぶりの部類に入るが、周辺の地形に変化があり、本丸にたどりつくまでには天然の要害を利用した箇所があるようだ。
位置的には以前に紹介した多久和城から、大東の三笠城・牛尾城へ向かう道の途中にある。
また、同じく前に述べた「地王峠・日登の戦い」の際、当城が何らかの役割を果たしていたことは間違いないだろうが、手元にある資料から見る限り、当城の記録は見いだせない。
宇山城主・宇山氏について
※参考文献・新雲陽軍実記:妹尾豊三郎編著)
当城の城主であった宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から別れたとされている。宇山氏が出雲に入った時期は、はっきりとはしていないが、一説には宇山信定(何代目かは不明)のころとされている。ただこの時期は、観応・文和年間で南北朝期争乱のときであるから、なんともいえない。
確証はないが、筆者としてはもっと時代が下った、応永6年(1399)の足利義満が佐々木高詮を出雲守護職に任命したころではないかと思える。
どちらにしても、宇山氏は佐々木氏の嫡流であったことから、戦国期には尼子氏の中でも筆頭家老で、「尼子分限帖」によると、尼子氏の最盛期にはその禄高も18万石という他の一族とは別格の扱いであった。
宇山飛騨守久信は、特に尼子時代の経久、晴久、そして義久の三代にわたって忠勤に励んだ。しかし、晩年は尼子氏の中でも台頭してきた山中鹿助や立原久綱など若い世代と意見があわなくなる。
永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急死する。そのあとを引き継いだのが晴久の嫡男・義久で、当時20歳である。晴久が亡くなった2年後の永禄5年、毛利元就が綿密な計画のもとに出雲侵攻を開始する。
このころから尼子の重鎮であった牛尾豊前守・亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗・湯惟宗・牛尾遠江守幸清らは、続々と元就の陣地である松江の洗骸(荒隈)に投降していく。
衰退していく尼子氏に見切りをつけた判断もあったようだが、若い義久の求心力・人望のなさがそれに拍車をかけていたという見方もされている。
そうした中にあって、宇山飛騨守と中井駿河守だけは投降せず、最後まで尼子氏を支えようとした。ところが、尼子義久の側近に、大塚與三右衛門という奸佞(かんねい)の武士と、角都(かくいち)という座頭がいて、功ある者を妬み、事あるごとに讒言し、それを義久が鵜呑みにするため、非業の最期を遂げるものが相次いでいた。
前段の重鎮が元就に降ったもう一つの理由が、実はこの二人の存在でもあったという。一説にはこの二人は尼子氏滅亡の際、毛利氏から恩賞を受けようとしていたのではといわれている。
結局、義久は奸佞武士・大塚と座頭・角都の言を信用してしまい、宇山飛騨守は討手である大西重兵衛と本田豊前守の前で、不審を晴らすため、無念の自害をする。
しかし自害の前に、彼が訴えた二人の非道を大西・本田両名が悟り、それを義久がやっとこの段階で初めて目覚め、大塚と角都は誅殺された。
義久は、宇山飛騨守と嫡男弥四郎父子を生害させてしまったことを悔やみ、落涙したという。
なお、飛騨守の二男は幼少で、尼子方家臣・真野兵衛尉が介抱して、密かに毛利方陣地・洗骸にいた米原平内兵衛(斐川高瀬城主)に預けられた。このあと米原氏が「宇山」の名を絶やさぬよう取り計らったという。
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