2009年4月25日土曜日

多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)

多久和城(たくわじょう)その1

●登城日 2008年4月23日
●所在地 雲南市三刀屋町 多久和
●築城期 中世 
●遺跡種別 城館跡
●築城主
●標高 140m
●遺跡の現状 畑地、山林 
●遺構概要 郭7(連郭式) 馬出曲輪 土塁 堀切 縄張り 郭 帯郭 土塁 堀切 虎口

【写真左】多久和城の登城口付近
 昨年(2008年)に登城しているが、地図で見る以上にアクセスに手間取った。カーナビは現地周辺に来たらあまり当てにせず、標識をしっかり見たほうがいい。 もっともこの城の案内標識は、当時(現在もか)ほとんど見なかったので、地元の方に聞きながら向かった記憶がある。
 写真手前は、地元自治会のゲートボール場で、その向こうが右から左へ登る多久和城の登城道である。


◆解説(参考文献『三刀屋町誌』等)
 三刀屋尾崎城から南の方に行くと、多久和という地区がある。この山間の中に多久和城という中規模な山城がある。以下、「三刀屋町誌」等を参考に紹介したい。

 現在合併により雲南市になった旧三刀屋町には、おもだった戦国時代の山城としては、当城や三刀屋城などを含め、約10ヵ所がある。このうち毛利氏の支配下になった段階での禄高は、三刀屋尾崎城の15,000石に次いで、当城は3,500石であったという。
【写真左】登城口その2
 このときは登城道の下草がこのあたりまでは刈ってあった。これから先は杉林の中に入るため、全体に暗い。






 さて、築城期は不明だが、応仁2年(1468)尼子清定の時代に、当時、多久和左京亮が支配していたという。多久和氏がもともとから住んでいた土着の豪族か、尼子家臣団の一人として派遣されていたか不明だ、と「三刀屋町誌」には記してある。

 以前、斐川町の高瀬城の米原氏棟札の稿で取り上げた、「大工・多久某」と何らかの関係があったものと私は思っている(いずれこのことについては取り上げたい)。

 当城の記録としては、落城したことが2回もあったと記されている。1回目は、天文12年(1543)で、このときは毛利方にあった本城常光が短期間のうちに降したという。
 2回目は元亀元年(1570)ごろで、尼子氏がいったん衰退したあと、尼子再興軍が三刀屋城周辺に出没したころである。このときの城主は誰であったかについては、二つの説がある。
 ひとつは、地元歴史家・速水保孝編著「出雲の歴史」によると、多久和山城守といい、もう一つは、「飯石郡誌」によると、高尾久友であるという。
【写真左】登城道その3
 途中から傾斜がきつくなり、しかも所々小さな落石がある。登城口から本丸まではさほど時間はかからず、20分程度だったと思う。




 当城の概要については、三刀屋町誌によると、つぎのように記してある

”山上には200㎡余りの削りならした平地があり、大仙智明権現(大神岳社)と、秋葉社、それに社日の三社が祀られている。左手前方の小高い山が、福谷城で、ここからは、はるかに中野城や、掛合の多賀城も見ることができる。右手前方、森谷の集落の奥地が城番谷で、大倉口下方の小高い山々と共に見張り台が置かれた地であろう。

 城番谷の上手の谷に、勝負迫(しょうぶさこ)と鎧迫(よろいさこ)という地名が残っている。戦いに敗れた落ち武者が、鎧を捨てて逃げたのでその地名があるという。
 大倉口の山上にはおびただしい五輪塚が残り、多久和城攻防の激しさを知ることができる。


 この城は、前面に飯石川が流れ、左右に大倉からの二本の小川と峠谷川が飯石川に注ぐ、下口の峡谷を一旦堰き止めれば、多久和盆地は一面の湖となって城を囲む、前方左右に突き出た段丘上に、防砦壁を設ければ難攻不落の堅城となろう。出雲国の山城の中でもかなり整った馬蹄形状の名城である。


 後方搦め手の中腹に、土地の人が「一計り」と呼ぶかなり広い三角形状の平地がある。自然の山の一部を残して土塁としているが、兵士一人一人を数えるのが面倒で、この地にいっぱい立ち並べて、一隊として編成したとの伝説があるが、ここは搦め手防御の最後の拠点であろう。城兵に給する食料も水も、ここを通って山上に運ばれたであろう。城前方の最も広い調練場跡に通ずる。”(以下略)

【写真左】途中に見えた堀切り
 どちらかといえば、小規模な山城だが、本丸周辺の形状が複雑で、今思えば形状がどういう形だったか判然としない。






 多久和城の名称については、私の記憶違いでなければ、確か地元の市場という地名から、別名「市場城」とも呼ばれていたはずである。
 この脇を通る狭い道(176及び272号線)は旧出雲街道で、戦国期から江戸時代まではこの道が主要道になっている。

【写真左】本丸跡
 三刀屋町誌にもあるように、全体に細長い形で、先端部に祠が設置されている。







 尼子・毛利・大内の時代からたびたびこの道が利用され、特に176号線ルートはそのまま北東に下って行くと、旧大東町を超え八雲・東出雲にたどりつく。この付近に行けば、富田月山城の西山麓・京羅木山へは目と鼻の先である。
 三刀屋尾崎城の位置も主要な地点だが、多久和城はさらに同城を補完する意味からも、戦略的に重要なものであったことが想像できる。



【写真左】本丸跡にある祠
左に、社日社、中央に秋葉社、右に大神岳社。
 本丸跡の周辺は整理されていたので、定期的に地元の方による祭礼などが行われているのだろう

0 件のコメント:

コメントを投稿