2017年6月29日木曜日

美作・医王山城(岡山県津山市吉見)

美作・医王山城(みまさか・いおうやまじょう)

●所在地 岡山県津山市吉見
●別名 祝山城、岩尾山城
●高さ 343m(比高190m)
●指定 津山市指定史跡
●築城期 南北朝期以前
●築城者 上道是次
●城主 上道氏、山名氏、尼子氏(三好氏)、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏
●遺構 郭、堀切、土塁等
●登城日 2011年11月23日、2017年4月1日

◆解説(参考資料 『出雲尼子一族』米原正義著、『日本城郭体系』第13巻、HP『城郭放浪記』等)
 フーテンの寅さんこと、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の最終作品は、1995年12月23日公開された第48作「寅次郎紅の花」である。遺作となったこの映画の冒頭シーンで、中国山地の山深い谷間にある小さな駅が登場する。JR因美線の美作滝尾駅である。
 前稿美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)の麓もこの因美線が走っているが、今稿で紹介する医王山城は、その滝尾駅から北西方向に凡そ1キロほど向かった医王山に築かれている。
【写真左】医王山城遠望
 東側の吉見地区から見たもので、医王山は北西にある標高701mの烏山から南東方向に伸びる細い尾根の先端部にあたり、医王山城の西側は深い谷を形成している。


 管理人が初めて医王山城に登城したのは2011年だった。しかし、その時撮影した写真データをHDに入れたつもりだったのだが、どういうわけか全く入っておらず、少しショックを受けたことを覚えている。それから6年後の今年(2017年)、新しく買い換えて間もないデジカメを首にぶら下げ再度登城した。
【写真左】美作滝尾駅
 文化庁の登録有形文化財で、木造の建物で歴史を感じさせる駅舎である。
 写真の右側には「男はつらいよ ロケ記念碑」の石碑が建立されている。
なお、駅付近の建物の間からも医王山城の姿が確認できる。


現地の説明板より

“中世山城 医王山城跡

 医王山城は、祝山城あるいは岩尾山城とも呼ばれ、標高343mの医王山に築かれた中世の山城です。往古、上道是次が築城したともいわれ、美作から因幡に抜ける街道の要衝の地にあります。南北朝から戦国時代にかけては、山名・赤松・尼子・浦上・毛利等の諸勢力が相次いで美作地方に侵攻して医王山城を支配し、戦乱のさなかにありました。
【写真左】医王山城縄張図
 作図:山形省吾氏。当城の縄張図は登城口付近及び、主郭付近の2か所に設置されている。

 左図は右方向が北を示し、登城口は北東麓にある(赤字の「現在地」)。

 南北に伸びる尾根筋上に凡そ400mにわたって築かれ、北から南にかけて、主郭、二の郭、三の郭が配され、主郭の北側には堀切や畝状竪堀群があり、南端部にも巨大な堀切をはじめ、周辺部に畝状竪堀群が配置されている。


 なかでも、天正8年(1580)には、毛利輝元の命により医王山城に在番していた湯原春綱・小川元政・塩屋元真等の地元国人勢力と、宇喜多・秀吉勢との間で激戦が繰り広げられました。毛利勢は約2年にわたって医王山城を死守し、落城しませんでした。そして、宇喜多勢は撤退しました。
 やがて、備中高松城合戦での毛利・秀吉の和睦により、医王山城は宇喜多領となりましたが、しばらくは毛利勢が籠城していました。

 主郭の石塁や散乱する瓦は、和睦後にも修復がなされたためと考えられ、山城としての重要性を物語っています。
 約400年後、1995年地元の青壮年が中心となって整備を始め、保存会の結成、登山道の整備・遺構の調査等を行い、1997年津山市指定文化財となり現在に至っています。

    医王山城跡保存会
      2009年4月之建”
                 (※下線・管理人による)
【写真左】登城口付近
 登城口付近はご覧の様に、「医王山城跡保存会」という団体によって、説明板や登城用の杖などが設置され、定期的に整備されている。有り難いことだ。
 なお、ここから主郭まではおよそ600m(25分)と表示されている。


上道是次

 医王山城は、往古上道是次が築城したとされている。建武以降の南北朝期には山名氏といわれているので、上道是次はこれ以前に築城したことになる。
 同氏の出自については史料がないため分からないが、姓名から推測するに、現在の岡山市東区のJR山陽本線上道(じょうとう)駅付近、すなわち備前国の出身かもしれない。因みに、この付近は以前紹介した新庄山城(岡山県岡山市竹原)の近くで、さらに東方の赤磐には熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)などがある。南北朝動乱期に至ると山名氏や赤松氏などが美作を巡って争っている。上道氏がそれ以前の領主となれば、承久の乱後新補地頭として下向したとも考えられる。
【写真左】登城途中に設置された橋
 登城道は急峻な東斜面に設置されているため、途中にはこのようなパイプを使った橋が設置されている。





尼子氏美作侵攻

 前稿で紹介した美作・矢筈城でものべたように、出雲・尼子氏が美作国へ侵攻したのは天文年間だが、この当時尼子氏が支配を強めたのは、美作国をはじめ、伯耆・因幡両国もそのとき治めている。

 天文元年(1532)における尼子氏の侵攻ルートは、その両国(伯耆・因幡)側、すなわち北から南下していったものとされている。このとき尼子氏の先陣を務めたのが三好安芸守といわれている。『出雲尼子一族』(米原正義著)に同氏「分限帳」の明細が記載されているが、この中で美作国における知行高は、18万8311石とされている。ただ同書ではこの三好某の名前がないところを見ると、同国の国人衆であった可能性が高い。

 因みに、三好氏以外の地元国人衆で、尼子方についたのは、弓削・原田・植月氏らとなっている。これに対し菅家一族といわれている広戸・皆木らは、細尾城(勝田郡奈義町宮内)に立て籠もり、尼子氏に抗戦した。しかし、この細尾城ものちに尼子氏によって落城させられた。
【写真左】堀切
 下段の写真にもあるように、登城コースは主郭付近から東に伸びる尾根にそって設置されているが、途中で最初の堀切が現われてくる。
【写真左】堀切の位置を示した図
 現地に設置されているもので、左側に「堀切跡」と表記された文字がある。







 その後医王山城は浦上氏が在城したと記録にあるが、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べたように、このころ尼子氏と浦上氏は同盟を結んでいたので、おそらく医王山城を攻略した後は、浦上氏に暫定的に城番を任せていたのだろう。

 しかし、それからおよそ10年後の天文13年(1544)11月、尼子晴久は同氏最強軍団新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の党首・尼子国久及び、宇山飛騨守久信に命じ、兵5千を率いて再び美作に侵攻した。おそらくこれは天文元年の同国侵攻後、地元国人領主(菅家一族ら)によって、再び奪還される状況があったためと思われる。宇山久信は美作・高田城(岡山県真庭市勝山)を攻め、新宮党は岩屋城(岡山県津山市中北上)や、小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)を攻め、さらに医王山城を攻めた。

 なお、伝承では、当時(天文13年)医王山城にあった浦上氏の兵を尼子氏(新宮党)が誅滅し、中腹にある観音堂も焼失したとあり、尼子氏と浦上氏の同盟は一時的なものだったのかもしれない。
【写真左】郭
 この郭も主郭直下にある東尾根上に構築されたもので、この位置から東方が俯瞰できる。
【写真左】郭の位置
 上記郭の位置で、朱色で塗られた箇所。










天正8年前後

 説明板にもあるように、天正8年(1580)における医王山城は、毛利氏(輝元)の支配にあった。そして城番としては、下線でも引いたように湯原春綱・小川元政・塩屋元真などがまかされていたとされる。

 ただ、この中で、湯原春綱は、地元(美作)国人領主ではなく、満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)等でも紹介したように、元は尼子氏に属し、後に毛利氏に帰順した人物である。また、小川元政は幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)でも紹介したように、元亀2年(1571)出雲国における尼子再興軍の戦いにおいて、毛利元就から高瀬城開城(落城)の報告を受けており、彼もまた地元美作の国人領主ではない。おそらく地元国人領主は、後段でも紹介している塩屋元真のみと思われる。

 この時期、宇喜多直家が中心となって医王山城を攻めているが、もともと直家は毛利方についていた。しかし、天正7年(1579)10月30日、直家は織田信長に降服し、秀吉の命によって備前・美作方面の攻略を目指した。
【写真左】主郭・その1
 先ほどの郭を越えてさらに上に登るとすぐにこの主郭にたどり着く。標高343mの頂部に当たる。長径30m×短径20m前後で楕円状の形となっている。

 主だった遺構部はご覧のように綺麗に整備され、気持ちがいい。


 備中高松城攻めのあと、和睦が図られたのは、天正10年(1582)の6月4日であるから、宇喜多勢が医王山城攻めを行った期間は、従って説明板にある2年ではなく、断続的に続けられ3年に及んだと思われる。また、この前年(天正9年)には秀吉が因幡鳥取城を囲み、吉川経家を自刃に追い込んでいる(鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)参照)ので、毛利勢も因幡・美作両国に分散して対応していたことが分かる。
【写真左】主郭・その2
主郭から東方を俯瞰する。
【写真左】主郭・その3:版築土塁
 西側から奥の虎口を挟んで東側に石積による版築土塁が残る。
【写真左】枡形虎口
 主郭の北側に位置しているもので、枡形の跡を残す部分は少ないが、ここから北の尾根に向かう位置には「塩屋城」という別の山城もあり、当時はしっかりとした枡形形状の虎口があったものと思われる。
 なお、二の郭・三の郭に向かうには、この写真でいえば、右側方向になる。
【写真左】「塩屋城跡へ」と書かれた案内板
 主郭の北側に伸びる尾根は一旦下がり、縄張図にもあるように鞍部となった位置に畝状連続竪堀が作られ、北からの連絡を絶つようになっている。

 そこから再び尾根伝いに烏山方面に向かうと、途中でピーク590mの頂部があるが、その位置に塩屋城が築かれている。医王山城の主郭からおよそ900mの位置にあるため、この日は向かっていない。長径100m×短径40m前後の規模を持つ。
 因みに、冒頭で紹介した当城在番者に、「塩屋元真」の名が記載されているので、元真の居城であったかもしれない。
【写真左】二の郭
 主郭の虎口から左に回り込み、南に進むと二の郭がある。
 写真は二の郭から振り返って主郭を見たもの。
【写真左】医王山城から堀坂の砦を俯瞰する。
 二の郭から東を俯瞰すると、加茂川が南に流れているが、その蛇行する位置で向いの山系から伸びる舌陵丘陵が見える。この丘陵に築かれていたのが、「堀坂砦」である。

 冒頭で紹介した医王山城の縄張図を作図した山形省吾氏が平成16年に確認したとされる。

 天正8年湯原春綱が在番していたとき、宇喜多直家らが攻めた際の陣城であったか、又は天正12年(1584)、黒岩吉弘(毛利方で美作・矢筈城の草刈氏重臣)が在番し、宇喜多秀家(美作・日上山城参照)が攻めたときの陣城のいずれかと推測される。
【写真左】二の郭から三の郭へ向かう。
 二の郭には標柱が無くなっていたが、そこから南に向かうと三の郭に繋がる。
 その間は細い郭が続く。特に表示するものはなかったが、おそらく馬場跡であったかもしれない。
【写真左】三の郭・その1
 先ほどの尾根を進んで行くと、開けた場所に出る。三の郭である。
【写真左】三の郭・その2 土塁
 二の郭にも土塁が残るが、三の郭は特に明瞭に残っている。西側に設置されているので、医王山城の南西部からの攻撃を意識したものだろう。
【写真左】石列
 三の郭には東西方向に一列に伸びる石列が残っている。郭の中で区画されもので、段差もほとんどないため、何の目的で設置されたのか分からない。あるいは礎石かもしれない。
 このあと、さらに尾根伝いに南に下がっていく。
【写真左】石垣
 三の丸から南に向かうには、東側斜面に設置された犬走りのような道を通るが、その途中で右側斜面に明瞭な石垣が残る。
【写真左】最南端の郭
 かなりまとまった規模の郭で、標識らしきものがあったが、文字が薄れて読めなかった。奥に見える樹木の先は切崖となって、その下には下段で紹介する大堀切をはじめ、畝状竪堀群が控える。
【写真左】大堀切・その1
 主郭の北側にある堀切がどの程度のものか分からないが、南側では最大の規模のもの。
 この位置から堀切底部まで10m近くあるかもしれない。急峻である。
【写真左】大堀切・その2
 堀切底部に倒木などがあり、そのスケール感は写真ではいま一つ感じられないが、見ごたえがある。

 写真右側が主郭から伸びてきた尾根の先端部で、その上に先ほどの郭が控える。
 堀切の先はそれぞれ竪堀となって下に伸びている。
【写真左】「畝状連続竪堀群」の看板
 堀切を超えると、ご覧の看板が設置してある。
上掲した大堀切の延長(竪堀)で囲まれた南側斜面には竪堀が6本あり、その他、大堀切の西側竪堀の北側にも6本構築されている。
【写真左】畝状竪堀の一つ
 この斜面自体で十分傾斜がついているが、それでも密度の濃い竪堀が配置されている。

 印象としては、毛利氏が在城したころのものと想像される。

2017年6月7日水曜日

美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)・その2

美作・矢筈城(みまさか・やはずじょう)・その2


●所在地 岡山県津山市加茂町山下矢筈山
●別名 高山城、高山南城、草刈城
●高さ 756m
●築城期 天文元年(1532)~2年(1533)
●築城者 草刈衡継
●城主 草刈衡継、景継
●指定 岡山県指定史跡
●遺構 郭・土塁・堀切・石垣等
●登城日 2014年9月20日、2016年3月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)

東郭群(古城)

 前稿に続いて、矢筈城を取り上げるが、今稿では古城といわれる東郭群を中心に紹介したい。東郭群の特徴として最初に挙げられるものは、本丸の東に大きな切込みを介し、小筈といわれる峰で形を成す矢筈の姿だが、遺構の面から言えば、巨大な竪堀と北の尾根に配置された長大な馬場跡なども特筆される。
【写真左】矢筈城遠望
 北側からみたもので、この方向からは主として東郭群が見える。

【写真左】東郭群(古城)縄張図
 矢筈城の全体図のうち、東郭群のみ抜粋したもので、前稿の西郭群から東に向かって行くと、この東郭群がある。

 主だったものとしては、東端部の本丸をはじめとして、二の丸、三の丸があり、北に伸びる尾根筋には長大な馬場がある。

 そして、二の丸の東側には170m前後に伸びる巨大な竪堀がある。
【写真左】4,5回の尾根のアップダウンが続く。
 西郭群の堀切を抜けると、暫く尾根伝いに進むが、全体に尾根の標高は両城(新城・古城)に比べ30m前後低い位置となる。
【写真左】細尾根
 途中でかなり狭まった尾根がある。見方によっては中規模な「土橋」にも見える。
 前方右後方に古城(東郭群)の姿が見える。
【写真左】三の丸手前の郭
 東郭群の城域に入った。この郭には特記されたものはないが、幅は狭いものの、長径は三の丸と同規模のもの。
【写真左】土塁
 上掲した郭の西南側には小規模な土塁が残る。
【写真左】いよいよ三の丸に向かって登る。
 三の丸へ向かうこの始点から再び傾斜のついた登り坂となる。
【写真左】三の丸・その1
 長径20~30mほどのもので、幅は最大で10m弱の規模。
【写真左】三の丸・その2 L字型石塁
 三の丸の南側に構築されたもの。
 おそらくこの位置に大きな岩塊があり、それを加工したものと思われる。
 このあと、さらに上にある二の丸を目指す。
【写真左】二ノ丸
 三の丸から二ノ丸までの距離は、少し長く、長い登り勾配の尾根を進む。
 奥行50m×幅20m前後の規模を持つもので、三の丸や後段の本丸よりも規模が大きい。
【写真左】巨大な竪堀
 二ノ丸の北端部に切り込まれているもので、わずか1本だが、管理人がこれまで登城した800か所余の山城の中でも最大・最長の竪堀といえる。長さは170m前後はあるだろう。

 しかもこの竪堀側斜面は急峻であり、幅、深さとも大きく、上から見ると、ほぼ垂直に見える。
 なお、この竪堀の左(西側)には、少し降りた位置に土蔵郭など小規模な郭を介して、さらに北に伸びる尾根に、長大な馬場が控えている。残念ながら、こちらの方に下りると、再び元に戻る体力に自信がなかったため、探訪していない。

【写真左】南側の腰郭
 二ノ丸の南側には幅4m前後で二の丸と並行して伸びる腰郭がある。

 なお、この位置に岡山県自然保護条例に基づき指定された「矢筈山郷土自然保護地域」の看板が設置されている。
 広葉樹や針葉樹など天然林が良好に保存され、特に小筈側にはゲンカイツツジが自生しており、日本では生息の東限であるといわれ、植物学的にも貴重なものとされている。
【写真左】本丸へ向かう。
 二の丸を一通り見たあと、いよいよ最後の直登で本丸に向かう。

 冒頭の北側から遠望した写真でもわかるように、距離は短いものの、厳しい傾斜角である。
【写真左】本丸・その1
 休憩もとらず一気に登ると、ご覧の展望。
【写真左】本丸・その2
 本丸の一画には「高山(矢筈)城跡 昭和44年3月31日指定」と筆耕された石碑が建っている。





 また、現地には以下の内容の説明板が設置してある。

“岡山県指定記念物(史跡)

 矢筈城跡(高山城跡)

 ここは、標高756mの矢筈山の山頂にある矢筈城(高山城)の本丸跡です。
 津山藩士の正木輝雄は、その著書『東作誌』の中で、本丸について「東西15間、南北6間、矢筈山の嶺に在り、古(いにしえ)は四方へ掛作り有りと云う」と記しています。

【上図】矢筈城想像図
 現地に設置されているもので、遺構部分のみ残し、他はカットして転載している。


 ここに建っていた建造物は、山頂の部分から周囲がはみ出して、四方へ掛作りをしなければならないような大規模なものであったと伝えられています。
 本丸のあった場所は「大筈」、そのすぐ東側にある谷をはさんで向いあう一段低い場所が「小筈」と呼ばれています。
 山麓から眺めると、頂上がV字型に窪み、矢の末端の弓の弦(つる)にかける部分の形に似ているところから「矢筈城」と呼ばれています。
   平成20年3月
     津山市教育委員会”
【写真左】本丸から北東方面を眺望する。
 中央の谷を流れるのが加茂川で、この川に沿って登っていくと因幡国(鳥取県)に繋がる。
【写真左】JR美作河井駅付近
 冒頭の案内図でも紹介したように、本丸の北側直下には因美線が走り、美作河井駅がある。また、この写真の中央右には後段で紹介する草刈景継墓所がある。
【写真左】西方を見る。
 ほぼ中央に平らな山が見えるが、おそらく鏡野町の奥津ゴルフ倶楽部だろう。
【写真左】西麓側を見る。
 矢筈城の北麓から西麓にかけては、JR因美線や県道6号線などが走っている。
【写真左】南麓側を見る。
 本丸の南側は雑木などに覆われ視界は良くないが、谷側に林道が見えた。

 なお、小筈の方へ向かう道もあるようだが、殆ど垂直に近い崖のようなので断念した。もっとも、本丸に辿りついてから左足のふくらはぎに違和感を覚えていたのもその理由で、案の定下山途中の新城(西郭群)附近で、こむら返りを起こしてまい、登城口に戻るまで随分と難儀した。



草刈景継墓所

前記したように矢筈城の北麓には城主草刈景継の墓所がある。

 現地説明板より
“岡山県指定史跡 矢筈城跡(高山城跡)

附伝 草刈景継墓所

 矢筈城(高山城)の本丸を真正面にのぞむ、津山市加茂町山下の葵谷にある矢筈城第2代城主の草刈景継の墓所です。
 現在の墓碑は、江戸時代の寛政年間(1789~1801)に山下の小原氏一族によって建立されたもので、それまでは現在の墓碑の背後にある自然石が墓碑として用いられていました。
 寛政年間に建てられた現在の墓碑には、理相院殿前矢筈城主天心智觀大居士という景継の法名と、天正3年4月27日の日付、そして草刈三郎左衛門尉藤原景継の俗名が刻まれています。
【写真左】矢筈城案内図
 この案内図は矢筈城のもう一つの登城口である北麓側に設置されているもので、同図下方が北を示す。

 因みに、こちらの登城口はちょうどJR因美線の美作河合駅南にあり、川の北岸には後段で紹介する草刈景継墓所や、少し下ると草刈氏居館跡といわれる「内構え」などがある。


 この墓碑銘は、河井の福善寺の住職であった紋龍上人の筆に成り、これを和泉国(現在の大阪府南部)の住人であった長久という者が刻んだと伝えられています。
 天正12年(1584)に、第3代城主の草刈重継が矢筈城を退城した後も、この草刈景継墓所は、小原氏をはじめとする地元の人々によって、現在に至るまで大切に守り伝えられています。
     津山市教育委員会”
【写真左】草刈景継の墓碑
 参拝日 2014年9月20日
【写真左】小原九郎兵衛の墓
 景継の墓碑隣には小原氏の墓も建立されている。

 小原氏の出自は不明だが、おそらく元は草刈氏の家臣だったのかもしれない。




内構(うちがまえ)

 草刈氏が麓で居館としていた場所で、上掲した案内図にもあるように、矢筈城の西郭群の中にある成興寺丸側郭段を下りた位置にある。
【写真左】内構と奥に矢筈城を遠望する。
 内構跡の右側(西側)は砕砂置き場になっている。
【写真左】内構の看板
 当時この居館から成興寺丸の方に向かう登城道が整備され、城主をはじめ家臣達が往来していたものと思われる。
【写真左】石垣の段
 麓側から加茂川方面を見たもので、右側に石垣の段が残る。その奥は竹林に覆われているが、区画された中小の段が残るので、それぞれ建物が建っていたものと思われる。