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2018年1月11日木曜日

敦賀城(福井県敦賀市結城町)

敦賀城(つるがじょう)

●所在地 福井県敦賀市結城町
●形態 平城
●築城期 天正11年(1582)
●築城者 蜂屋頼隆
●城主 蜂屋頼隆、大谷吉継、結城氏
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2015年10月24日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 敦賀城は、現在の敦賀市結城町を中心とした位置に築かれたという。築城者は当時羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が天正11年(1583)に築いたといわれている。
【写真左】敦賀城・その1
 下段でも述べているように、敦賀城跡としての遺構は殆ど残っていない。

 写真は城域の北西部に建立されている真願寺付近。



蜂屋頼隆

 蜂屋頼隆はもともと織田信長に仕えており、天正8年(1580)3月、10年にも及ぶ大坂石山本願寺合戦が和睦したあと、翌9年には和泉国領地のため、織田信張と共に岸和田城に入城している。
【写真左】真願寺入口
 HP『城郭放浪記』氏が2006年10月に訪れた写真では、この門の両側には塀があり、その右側には、「大谷吉継 敦賀城跡」と筆耕された石碑が建立されていたが、管理人が今回(2015年10月24日)訪れたときには、既に塀は取り壊され、石碑もなくなっていた。




 その後、本能寺の変により秀吉に属した頼隆は、秀吉の命により敦賀の花城山城に入城したという。

 この花城山城というのは、敦賀市の西方を流れる井ノ口川の西岸にある通称鉢山(高さ100m弱)に築かれていた山城で、もともとこの城は、天正3年織田信長によって敦賀郡を与えられた武藤舜秀がこの城に拠っていた。

 そしてその後、岸和田から移った蜂屋頼隆が敦賀城を築いたとされる。その後、頼隆は九州征伐などに従軍しているが、天正17年(1589)9月25日病没した。
【写真左】真願寺墓地
 西側から見たもので、墓地が並ぶ。











大谷吉継

 蜂屋頼隆が死去してから3か月後の同年(天正17年)12月、新たな敦賀城主として入城したのは大谷吉継である。

 ただ、吉継が敦賀城に在城したのは極めて短い期間で、この年の11月にはすでに秀吉が、北条氏討伐のため諸大名に出陣の命を出し、秀吉自身も翌年(天正18年)3月には出立していることから、入城してから実質2か月程度ではなかったかと考えられる。

 しかし、吉継の敦賀城時代に残る史料を整理してみると、山論の裁許や、年貢の収納、都市計画(下町整備)など具体的な民政に関わったことが判明している。おそらく、これらの事績は吉継在城時はもちろんのこと、その後留守にしていた時でも、地元敦賀に残っていた家臣達に適切な指示を出していたことからだろう。
【写真左】北側を流れる川・その1
 おそらく当時の濠跡だったと思われ、この川(赤川)は手前に流れて、東側の敦賀港に食い込んだ船着場に繋がる。







敦賀城

 敦賀城の遺構は残念ながら殆ど残っていない。位置的には、北側の敦賀港に極めて近い場所にあり、また伝承によれば、現在の結城町を中心として南北500m、東西300mの範囲にあったということから、いわゆる海城または水軍城としての形態をもったものだったと考えられる。

 敦賀城の城主であった大谷吉継が関ヶ原の戦いで破れ自刃したあと、城将として留守を預かっていた蜂屋将監によって、東軍方に城は引き渡され、徳川家康の次男であった結城秀康によって代官が派遣されていたが、元和2年(1616)一国一城令によって城は破却された。

 敦賀城の所在地の一つである現在の結城町という町名も、この結城秀康の姓から命名されたものである。
【写真左】北側を流れる川・その2
 左側が真願寺。なお、この写真の奥に向かうと、西側を流れる黒河川に至る。


 帰宅してから分かったのだが、敦賀城跡を示すものは、真願寺から南東に向かった現在の敦賀西小学校の東側の通りに石碑があり、また、真願寺の西方にある来迎寺の表門は、敦賀城の中門であったという。


◎関連投稿
 大谷吉継の墓・陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町山中32)

2018年1月5日金曜日

玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)

玄蕃尾城(げんばおじょう)

●所在地 福井県敦賀市刀根・滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾
●別名 内中尾山城
●指定 国指定史跡
●高さ 439m
●遺構 土塁・空堀・郭等
●築城期 不明(天正11年(1582)か)
●築城者 柴田勝家
●城主 柴田勝家
●登城日 2015年10月24日

◆解説(参考文献「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編等)
  玄蕃尾城については賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)の稿で直接その名を示していないが、天正11年(1583)における賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が越前北ノ庄を出立したあと、最初に陣を構えた場所である。
 当城は福井県敦賀市と滋賀県長浜市との県境にある標高439mの柳ケ瀬山に築かれている。
【写真左】空堀
 南側が大手になるが、最初の郭の西側にやや屈曲させながら伸びる空堀。







現地の説明板より

“国指定史跡
  玄蕃尾(内中尾山)城跡   文部省
 指定年月日 平成11年7月13日
 所在地及び地域
   福井県敦賀市刀根60号字外ヶ谷5番の1
        〃     69号字小唐子6番
   滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾624番の1・636番
        〃              字内谷773番
        〃              字坂手819番・820番
 指定面積  158.772平方メートル(台帳面積)

【写真左】登城口付近
 福井県側の柳ケ瀬街道を東進し、滋賀県と境をなす柳ケ瀬トンネルに入る直前に、柳ケ瀬山(中尾山)西麓を南に向かう谷筋を道なりに進むと、数台駐車できるスペースがある。
 ここに車を停め、登城開始する。この位置から玄蕃尾城までは凡そ700m前後となる。


指定理由(説明)
 玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県の柳ケ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ヶ岳の合戦(天正11年・1583)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の漂式遺跡として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。

  平成11年11月1日  敦賀市教育委員会
               余呉町教育委員会”

【写真左】玄蕃尾城方面と、行市山砦方面との分岐点
 暫くすると尾根ピークにたどり着くが、この位置が久々坂峠(刀根越え)といわれる箇所で、左側に向かうと玄蕃尾城へ(残り500m)。

 右側の尾根筋を南に3.5キロほど向かうと、行市山砦(ぎょういちやまとりで)にたどり着く。
 行市山砦は、東野行一(行市)が砦を築いたといわれているが、賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の佐久間盛政が城将を務めた。



柴田勝豊

 本能寺の変後、羽柴秀吉は山崎の戦いにおいて明智光秀を降し、主君信長亡き後、尾張清洲において、信長の嗣子を決め、さらに重臣たちによる遺領処分を協議するという、いわゆる清州会議が行われた。天正10年(1582)6月27日のことである。

 このとき、この会議の出席者の一人であった柴田勝家は、その2年前に一向一揆を平定した加賀国及び越前国と併せ、この会議において長浜を含む北近江3郡を領した。そして、これらの領地を治めるために、勝家は北近江の押さえとして長浜城に甥の柴田勝豊を守将として入れた。

【写真左】城域手前付近
 先ほどの尾根分岐点から傾斜がきつくなり、九十九折れしながら高度を上げていく。途中でけたたましい鳴き声がし出した。
 上を見ると木の枝に猿の群れが見える。大分興奮しているようで、あわただしく動き回っている。驚いたのは猿の方ではなく、我々二人なのだが、しばらくすると谷底の方へ移動していった。
 城域はもう少し先になるが、この付近から綺麗に整備されている。



 柴田勝豊は、越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)でも述べたように、天正4年(1576)に越前に丸岡城を築いている。彼は勝家の姉の子といわれ、後に勝家の養子となっている。

 勝家についてはこれまでのところ、後に信長の妹・お市と結ばれるまで独身であったということになっているが、詳細は不明である。どちらにしても、実子がなく、自らの後継ぎを養子として迎えたことはごく自然な流れである。
 しかし養子として迎えたのは勝豊だけではななかった。勝家にはもう一人の姉(妹とも)がおり、彼女は佐久間盛次の妻となり、勝政を生んだ。この勝政も同じく勝家の養子となっている。二人とも血のつながった甥であったが、理由は不明だが勝家は勝政を優遇し、勝豊には冷淡であったという。

【写真左】玄蕃尾城の概要図
 現地に設置されているもので、長径(南北)に凡そ300m、短径(東西)150mの規模を持つ。

 城域の入口は南側にあり、大手口となり、尾根筋に沿って北に伸びていくが、中央にほぼ方形の主郭を置き、南北に大小の郭を連郭状に配置している。
 また主だった郭には二つ以上の虎口を有し、城内を連絡している。




 天正10年12月、すなわち賤ヶ岳の戦いが始まる4ヶ月前の前哨戦となるが、秀吉はこの勝豊が拠る長浜城を攻めた。勝豊はこの戦いで大谷吉継の調略もあり、殆ど防戦することなく城を明け渡し、秀吉に寝返った。この行動に至った背景には、それまでの勝家に対する恨みも根底にあったのかもしれない。


幾何学的縄張と築城期

 さて、玄蕃尾城は現地に設置してある概要図を見ても分かるように、各郭や土塁・空堀などが直線的な構図で構成されていることである。特に主郭や北側の郭などは二辺は直線で構築され、郭群の配置構成もバランスがとれ、俯瞰しても幾何学的縄張で一種の造形美さえも醸し出している。

 さらに特筆されるのは、主郭の北東隅には天守台の痕跡があることである。この箇所は約11m四方あり、主郭より1.5m高く、その下には礎石が検出されていることから2,3階の天守があったと推測されている。
【写真左】南虎口 大手口
 南側の入口付近で、左側には空堀が奥まで続き、右側には西側と東側に腰郭が付随している。




 ところで、当城は「極めて限定された時期の城郭」とされている。この限定の意味するところは、その使用期間が賤ヶ岳の戦いが行われた天正11年の一時期ということからだと思われるが、件の「天守台」の存在や、精緻な縄張を見る限り、築城時期はもう少し遡る必要があるように思える。といのも、これだけの普請をするためには、とても1年程度では竣工できないのではないかと考えられるからである。
【写真左】虎口郭の土塁
 現地名「虎口郭」と呼称されている郭で、南北に長く三角形の形状をしている。周囲はなだらかな傾斜となった土塁が囲繞している。



 また、玄蕃尾城の位置は南方の久々坂峠及び、北方の椿坂峠を結ぶ尾根上の中間点に当たり、築城期についても、賤ヶ岳の戦い直前とは別に、室町期に地元の柳ケ瀬秀行が築城、又は越前朝倉氏の家臣で前稿の越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)城主・疋壇久保が築城した等々諸説があるため、なお一考を要するのではないかと思われる。
【写真左】東虎口付近
 最初の虎口郭の中を北に進むと、次の虎口郭があるが、ここで一旦左に折れ、そのあと右に進む。
 
【写真左】虎口郭・攻撃用大手郭
 この箇所の虎口郭は幅は10mにも満たないが、長さは30m前後ある。
 現地には攻撃用大手郭(出撃拠点)と表示されている。
 ここで陣を何列かに編隊し向かう場所としたのだろう。
【写真左】主郭の方へ向かう。
 上記の郭から北に向かうと、右に折れるが、その右側には「馬出郭」と呼ばれる小さな郭が土塁で囲まれている(下段の写真参照)。
【写真左】馬出
 主郭の南虎口部分に接している箇所で、規模は大きなものでないので、主郭に陣を張った城将など限られた者たちの馬が置かれていたのだろう。
【写真左】主郭南の馬出との連絡路
 左側がさきほどの馬出部分で、ここから右に向かうと主郭に繋がる。
 奥の堀は主郭の西南角から始まる長大な空堀。
【写真左】主郭・その1
 南側虎口から北方向を見たもので、ほぼ方形の形態となっている。
 左側の開口部はその奥にあるもう1つの馬出郭への入口で、そこからさらに左に向かうと、後段で紹介する搦手郭・兵站基地(虎口郭)に繋がる。


【写真左】主郭・その2
 西側から東方向を見たもので、奥に土塁が見え、その右側に虎口が覗く。
 また左側にある樹木の向背に櫓台(天守台)が見える。
【写真左】櫓台(天守台)
 およそ11m四方の規模。
主郭の北東隅に設けられているもので、既述したように天守台があったとされている。


【写真左】礎石
 櫓台の天端にはご覧の様な礎石が残る。この日踏査した限りでは、このほかに長方形のものがあり、天守台を設けていたとすれば、最低でも4ヵ所あるはずだが、他の2か所は確認できなかった。
【写真左】北側の馬出
 先ほどの櫓台から東に土塁・空堀を直接越えて、東側に下りると、南端部にある張出郭(見張台)から伸びた通路に出る。ここから再び主郭の北側にあたる細い郭(通路)を進むと、前述した馬出郭がある。
【写真左】馬出から主郭を見る。
 主郭の北西隅にある虎口で、この位置から見ると、主郭から2m以上の高低差がある。
【写真左】搦手郭・虎口部
 馬出から西に狭い虎口を通り抜けると、当城最大の郭である搦手郭がある。
【写真左】搦手郭
 ほぼ長方形だが、北西隅はやや曲線となっており、西から北にかけて土塁が囲繞し、北東端で虎口を設け、東側に再び土塁がほぼ直線で構成されている。
【写真左】空堀・その1
 搦手郭側のものだが、玄蕃尾城の主だった郭はほとんどこのような精度の高い空堀で構成されている。
空堀・その2


【写真左】玄蕃尾城から東麓を走る国道365号線を俯瞰する。
 玄蕃尾城からの眺望は、残念ながら周辺の樹木が生い茂っているためよくないが、一部東側に東麓を走る国道365号線、即ち北国街道が見える。
 左に行くと、椿坂峠へ繋がり、さらに北上すると栃ノ木峠で越前国(福井県)に至る。また、右に行くと木之本に至る。


その他の遺構
 
 このほか、東側にある張出郭(見張台)、外周部の腰郭群なども紹介したいところだが、割愛させていただく。
 どちらにしても、陣城としては他に類をみない見事なもので、しかも定期的に管理清掃が行き届いていることから、山城ファンとしては必見の城郭である。

2017年12月18日月曜日

越前・疋壇城(福井県敦賀市疋田)

越前・疋壇城(えちぜん・ひきたじょう)

●所在地 福井県敦賀市疋田
●別名 疋田城
●史跡 福井県指定史跡
●高さ 90m(比高20m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 疋田久保
●城主 疋田氏
●登城日 2015年10月24日

◆解説
 越前・疋壇城は別名疋田城とも呼ばれ、現在の敦賀市を南北に流れる笙の川(しょうのかわ)中流沿いに築かれた丘城である。
【写真左】疋壇城
 主郭跡に設置された石碑
 近年まで「西愛発小学校」が建っていた場所の一角に残る郭跡で、現地には「天守台跡」の標柱も設置されている。

 

現地の説明板より

“史跡 疋壇城跡
    昭和29年12月3日 福井県指定

 疋壇城は、文明年間(室町時代 1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれた。
 疋田の地は、柳ケ瀬越・塩津越・梅津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防御拠点としての役割を果たした。また、古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。

【写真左】疋壇城配置図
 国道8号線と161号線が交わる個所に設置された「愛発の歴史散歩」というタイトルの案内図だが、大分色が劣化していたため、管理人によって加筆修正している。

 疋壇城は北陸本線と国道161号線に挟まれた箇所にある。この図では中央に疋壇城があり、その東麓には国道161号線と8号線が交わり、北(上)に行くと敦賀市街へ、161号線を南に行くと滋賀県高島市へ、また8号線を右に行くと、途中で東方へは柳ケ瀬街道(140号線)、8号幹線を南下すると滋賀県長浜市に繋がる。因みに、柳ケ瀬街道をさらに分岐して南に向かうと、柴田勝家が拠った
玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)がある。


 元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、天筒山城・金ケ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣した。
 しかし、天正元年(1573)8月に再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、城も破却された。
 それからここに400有余年、今も石塁や濠跡が名残りをとどめ、周辺にのこる城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。
   平成26年11月25日 
      敦賀市教育委員会”
【写真左】「疋壇城跡」の案内標識
 R161号線から枝分かれした旧道(西近江路)を南下していくと、右側にこの案内板がある。

 おそらくこの辺りから下段で紹介している「愛発関」があったものと思われる。


愛発関(あらちのせき)

 疋田城すぐ近くには、往古愛発関(あらちのせき)といわれる関所があった。これは奈良時代から平安時代初期に設置された古代三関(さんげん又は、さんかん)の一つで、因みに他は東海道の鈴鹿関、及び東山道の美濃不破関である。

 このうち、不破関は最も有名なもので、岐阜県不破郡関ヶ原町松尾にあり、比定地も確定し、敷地一角には「不破関資料館」なども建っている。もう一つの鈴鹿関については近年まで比定地が確定していなかったが、三重県亀山市関町新所の観音寺公園で北辺の城壁と見られる遺構が発見されたらしく、ほぼ確定しつつあるという。
【写真左】階段を上がる。
 以前は「西愛発小学校」という学校が建っていたようで、この階段も当時の通用門の一つだったかもしれない。

 ここからおよそ10m程登ったところに学校(疋壇城)がある。


 これに対し、越前の愛発関については、今のところ比定地は完全に確定していない。しかし、越前と近江を結ぶ古代から中世にかけての街道である三本の街道、即ち現在の「西近江路」(R161)、「塩津街道」(R8 )並びに福井県道・滋賀県道140号線(敦賀柳ケ瀬線)の三本が最終的に合流するこの疋田がもっともその候補地として絞られ、具体的にはこの位置(疋壇城東麓部周辺)とされている。
【写真左】北側の段を見る。
 階段の途中から左側(北側)を見たもので、学校などが建っていたことや、周囲には植林された木立があるため、当時の遺構は把握しにくいが、この付近も郭段らしきものがあったものと思われる。


恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)

 古代の関所とされるこの三関で、最も有名な事件として知られるのが、奈良時代におきた藤原仲麻呂の乱、通称「恵美押勝の乱」である。

 詳細は省くが、天平宝字2年(764)9月、太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ときの女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)及び道鏡と対立し、軍事力を以て政権を奪い取ろうとした事件で、押勝は近江で捕えられ敗死した。この乱で、愛発関で官軍(天皇方)と押勝方との激しい戦いが繰り広げられた。
【写真左】説明板
 階段を登りきるとご覧の説明板が設置されている。平成26年の日付があるので、最近設置されたようだ。






疋壇城

 さて、文明年間に築城されたとされる今稿の疋壇城付近は、既述したように、こうした古代から越前と近江両国を結ぶ重要な交通の要衝であったことは、中世に至っても変わらなかった。

 当城は、朝倉氏の将・疋壇対馬守久保が文明年間に築城したという。丁度応仁の乱のころで、主君は朝倉孝景のときと考えられる。一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)でも述べているが、文明3年(1471)5月21日、孝景は東軍方に降り、越前守護職を補任されているので、ほぼ同時期に越前の南の押さえとして、疋壇対馬守久保が築城したものと思われる。
【写真左】広場(旧校庭)
 現在ゲートボール場のような広場となっているが、当時の校庭だったと思われる。

 奥にはJR北陸本線が走っている。左方向が滋賀県長浜市に、右方向は敦賀市へ向かう。
 おそらくこの辺りも城域だったと考えられる。
【写真左】天守台登り口
 広場の西側に登り口の一つがある。写真の右上付近が主郭(本丸)があったとされる箇所。
【写真左】天守台
 長径(東西)30m×短径(南北)15mほどの規模で、この箇所は整備されている。
【写真左】畑地
 現在主郭付近にはご覧の様な畑地が広がる。
【写真左】石垣
 天守台(主郭)付近から北に向けて2,3段の高低差があり、段の境目にはこうした石垣が残っている。

 当時のものか断定はできないが、野面積みで、中には大きな石も使用されている。
【写真左】北側から見る。
 奥に見えるのが天守台の高台で、手前に畑が伸びているが、この辺りにも屋敷などがあったのかもしれない。
【写真左】空堀・その1
 天守台の西側には南北に伸びる空堀跡と思われる箇所が確認できる。
 現在底部は畑となっており、その右(西)に大きな土塁が残り、その西をJR北陸本線が走っている。
【写真左】空堀・その2
 上の箇所からさらに南に向かった位置
【写真左】西端部
 左側にJR北陸本線が走り、田圃を介して右に疋壇城(空堀)が控える。

 写真奥に向かうと敦賀市街に繋がる。
【写真左】西側から見る。
 鉄道側から見たもので、手前の田圃の先には空堀があり、その奥に天守台が配置されている。
【写真左】「南城 踏切 1」の標識
 鉄道の南側にはご覧の様な標識が掛けられている。

 おそらくこの辺りに出城の一つ「南城」があったものと思われる。
【写真左】広場から天守台を見る。
 旧西愛発小学校グランドから北に天守台を見たもので、現在は削平されているが、天守台(主郭)を防御する郭段などの遺構があったものと思われる。




その他の史跡

 冒頭の配置図にも書かれているが、この付近には、疋壇城に関係したといわれる史跡が点在している。
 一つは、「戦国時代武将の墓」といわれているもので、国道8号線と161号線が交差する手前の、8号線の北側斜面に五輪塔が数点残る。
 もう一つは、そこから北に向かった谷の奥野という地区にある宗昌寺にも宝篋印塔形式のものが祀られている。残念ながら、疋壇城を登城したこの日は、件の箇所を訪れていないが、他のサイトで紹介されているので、ご覧いただきたい。

2015年2月20日金曜日

越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)

越前・丸岡城(まるおかじょう)

●所在地 福井県坂井市丸岡町霞町1
●別名 霞ヶ城
●指定 天守(国重要文化財)
●築城期 天正4年(1576)
●廃城年 明治4年(1871)
●築城者 柴田勝豊
●城主 本多氏、有馬氏
●形態 連郭式平山城、独立式望楼型2重3階
●登城日 2014年6月16日

◆解説
 越前・丸岡城(以下「丸岡城」とする)は、現存天守では最古の建築様式をもつ平山城である。

 昨年(2014年)6月に当城を含め北陸地方を探訪した際、最初に訪れたのがこの丸岡城である。当地に着いたのが、夕方の5時前だったこともあり、登城できるのか不安だったが、なんとか天守まで登ることができた。
【写真左】丸岡城
 現存する12天守の中では、小ぶりな部類に入るが、漆喰と木製の壁をバランスよく配置したデザインは管理人の嗜好に合う。



現地の説明板より

“丸岡城の今昔
 丸岡城の歴史は、柴田勝家の養子(甥ともいわれる)である柴田勝豊が、織田信長の一向一揆の征伐後の1575年に丸岡町豊原の山に城を築いたときから始まります。でもその時の城は、城とはいっても一時しのぎの砦のようなものだったと考えられます。
【写真左】案内図
 現地に設置されているもので、中央に丸岡城があり、その周りが霞ヶ城公園となっている。

 丸岡城の南東には城主一族の1人有馬家墓所がある高岳寺があり、その西には本多家墓所の本光院、そしてそこから西に向かったところには、後段で紹介する中野重治生家跡や、新田義貞墓所がある称念寺が図示されている。


 勝豊は翌年の1576には、「まるこの岡」に移って本格的に築城をはじめました。これが丸岡城です。これは、やがて国内の統一が進み、戦のための城より、領内を治めるための意味を持つ城となっていきました。
【写真左】登り階段付近
 右の階段を上がると丸岡城に繋がる。左の建物は歴史民俗資料館だが、この日は既に閉館時間を過ぎていたため、入館していない。



 勝豊以降、丸岡城の主は、柴田勝家滅亡後に丹羽長秀家臣の青山修理亮宗勝に替わりました。

 そして関ヶ原合戦後結城秀康が越前国主として福井城に入ると、丸岡城主は秀康の家老の今村掃部助盛次になりましたが、結城秀康の子である松平忠直の時代になって、家老の本多伊豆守富正と今村掃部助盛次間での争いが起き、それに破れて改易となった盛次に替わって、1613年、城主になったのが本多成重でした。
【写真左】天守前の緑地
 当城の周辺部は公園として整備されている。天守閣以外の遺構はほとんど公園整備のためほとんど残っていないようだ。



 以後、丸岡城は本多家(43,000石)が4代、有馬家(50,000石)が8代の城主を経て、明治維新をむかえました。

 城郭や城下町は、本多家の時代、成重から三代重昭の間に完成したとされています。丸岡城天守閣の建築年は定かでありませんが、勝豊の時代か、遅くとも成重の時代までには建てられていたようです。現存する天守としては、日本で最も古い様式を残しています。”
【写真左】伝説「人柱お静」
説明板より

"これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。

 お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は〝お静の涙雨″と呼び、小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしおお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。”


 説明板にもあるように、築城者は柴田勝家の甥・勝豊とされ、天正4年(1576)に築かれた。従って、前稿の北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目)築城の翌年、すなわち織田信長が安土城を築いた年と同じである。
【写真左】再現模型
 当時の様子を再現したものだが、内濠は五角形の形をなし、天守郭部分の規模に比べ、かなり大きなものだったことが分かる。


日本一短い手紙

 ところで、管理人にとって、丸岡城について最初に知るきっかけとなったのは、
 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
で有名になった、「日本一短い手紙」からである。

 これは、徳川家康の家臣・本多重次(しげつぐ)が、のちに丸岡城主となる息子・本多成重に宛てた手紙である。天正3年(1575)、当時三河の長篠の戦(長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)参照) に従軍していた重次が、妻に宛てた手紙で、文中の「お仙」というのは、成重の幼名・仙千代のことである。
【写真左】1階部分
 中に入るとご覧のような展示物が掲示されていてる。

 丸岡城が他の現存天守と根本的に違う点は、通し柱が使われていないことである。
 1階部分で上階(2,3階)の荷重を全て支える構造のため、特に1階では多数ある柱のうち、6本の柱が大きく、これと連結された巨大な梁が横たわり、当時としては特異な設計だったと考えられる。


 手紙が差しだされた時期を考えると、重次の妻はまだ三河国にいたころで、丸岡城や越前国と直接の繋がりはないが、その後慶長18年(1613)に「お仙」すなわち、成重が丸岡城主になったことからこの手紙が、丸岡城と併せて知られることになったのだろう。
【写真左】2階に上がる階段
 急勾配で蹴上高が高い。階段というより梯子に近い。








 丸岡城主になって間もない、翌慶長19年(1614)、成重らは越前国主・松平忠直に従い大阪冬の陣に出陣する。晩年、忠直が改易(元和9年・1623)になった際、幕府に召し返されるなど不運が続くが、寛永元年(1624)、譜代大名となって城下町の建設に尽力した。
【写真左】天守閣から丸岡の街並みを見る。
 丸岡城の高さはあまり高くないが、周囲も全体に平坦地が多く、遮るものがなく、当時は城下と併せ、所領地の大半がこの場所から俯瞰できたものと思われる。



中野重治と太閤さんまい

 さて、話は変わるが、当地丸岡町は戦前戦後にかけて活躍したプロレタリア作家・中野重治の生誕地でもある。場所は同町一本田という丸岡城から西に1キロ余り向かったところだが、残念ながら管理人は今回訪れていない。

 重治の妻は、個性的な演技で特に老婆役で一世を風靡した名女優・原泉である。二人とも既に故人だが、この原泉は島根県松江市の出身で、実は管理人の遠い縁戚にあたる。
【写真左】側面を見る。
 壁には狭間や石落としなどが見える。









 ところで、重治の生誕地である一本田には、「太閤さんまい」と呼ばれる中野家墓地がある。この名の由来は、太閤検地の際、先祖が検地でやってきた担当武士らに対し、いろいろと便宜を図ったことから、その礼として土地を与えられたという。
【写真左】石垣
 野面積み形式となっている。
 この中で「人柱」として「お静」さんが眠っているということだろうか。





 ちなみに「さんまい」はおそらく「三昧」の字をあてるものだろうが、北陸地方では「さんまい」は「火葬場」もしくは「墓地」といった意味があるので、太閤検地の際、最初からこの土地の使用目的を墓地として決めたうえで与えたものだろう。
【写真左】マルクスブルク城・丸岡城姉妹城提携調印記念の石碑
 1989年4月、ドイツのラインラント=ブファルツ州ブラウバッハにあるマルクスブルク城と姉妹城の提携を結んでいる。