2016年4月30日土曜日

正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)

正霊山城(しょうりょうさんじょう)

●所在地 岡山県井原市芳井町吉井
●別名 正雪山城
●指定 井原市指定史跡
●高さ H:110m(比高60m)
●築城期 不明
●築城者 藤井好重か
●城主 藤井能登守広玄
●遺構 郭・堀切
●登城日 2014年12月10日及び、2016年4月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』、HP「備中国 後月郡 井原」、サイト『城郭放浪記』等)
  正霊山城は、別名「正雪山城」とも呼ばれ、旧備中国後月郡芳井町吉井に所在する標高100m余りの小規模な城砦である。
【写真左】正霊山城遠望・その1
 南側から見たもので、2016年4月12日登城したときのもの。
 なお、下段の説明板では当城の標高を50mとしているが、実際には110m余の高さである。
【写真左】正霊山城遠望・その2
 西側から見たものだが、この写真は晩秋の12月(2014年)に撮ったもの。







現地の説明板

“正霊山城跡
 標高50mのところにあり、本丸跡は東西約15m、南北約55mの回字型です。
 本丸北側に二重の堀切がある他、武者走り、礫石を貯えた土倉跡や、南北に大手門があった跡が残っています。

 文明2年(1470)ごろ戦乱を避け、藤井氏一族は中山城主河合重行を頼り、西吉井坂本の有井城に居住後、次第に勢力を広げ、正霊山城を築きました。
 藤井皓玄は正霊山城を本拠地として、井原、大江、高屋と勢力を広げ、永禄12年(1569)、毛利氏の神辺城を攻略しましたが、まもなく追われ、大島(現笠岡市)で討たれたといわれています。

      井原市指定史跡
      指定年月日 平成17年3月
           井原市教育委員会”
【写真左】登城道
 当城直下には駐車スペースはないので、麓にある井原市芳井支所の駐車場に停めて、そこから歩いて向かう。
 登城口は上記写真の正面に見える民家の裏側にあり、簡易舗装された歩道を進むと、すぐに分岐した登り道があるので、そのまま登っていく。
 登城したこの日、散り始めた桜の木の足元には芝桜が色鮮やかな装いで出迎えてくれた


藤井氏
 
 正霊山城の築城者は藤井好重といわれている。この藤井氏については、当地備中井原荘に下向してきた時期や、出自についても諸説があり、今一つ確定したものはないが、元は下野国又は播磨国にあった小山氏の庶流ではないかともいわれており、この系譜から藤井小四郎が現れ、その子政秀が藤井氏の祖となったともされている。そして、当地(井原荘)に下向した時期については南北朝期ではないかともいわれているが定かでない。
【写真左】腰郭
 南側の中段にはかなり広い郭が残っている。現在そこには朽ち果てた小屋が建っているが、奥に地蔵が祀られているので、堂宇だったかもしれない。
 また、説明板の内容からすると、この郭付近に南側の大手門があったと思われる。


 南北朝期の備中国は細川氏が守護職として任じられるが、応仁の乱を過ぎると、細川氏の支配力は弱まり、庄氏や石川氏などが台頭するようになる。藤井氏はおそらくそうした当時の支配者と微妙な力関係を維持しながら戦国期を迎えたのだろう。
【写真左】本丸を目指す。
 先ほどの郭から本丸までの比高は凡そ15m前後で、九十九折しながら向かう。前回(2014年)探訪した際は、この付近は藪化していて登ることは出来なかったが、今回は整備されていて登ることができた。


藤井皓玄尼子再興軍

 戦国時代でその名を馳せた城主としては、藤井皓玄(こうげん)が知られている。彼については既に神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)でも述べたように、一時は神辺城の城主となっている。
【写真左】神辺城
 2007年登城時のもの









 神辺城の城主については、当稿でも述べたように、嘉吉年間に山名氏によって築かれて以来、山名理興が天文7年(1538)ごろまで務めている。その後、天文12年から大内氏に攻められ続け、18年(又は19年)遂に落城、理興は逃亡することになる。しかし、その後大内氏の滅亡によって、毛利氏が継承すると、その傘下に入っていた理興は再び神辺城主に返り咲いた。
【写真左】本丸に向かう途中から腰郭を見る。
 西側付近は少し低くなっているようで、その一画には祠が祀られている。






 弘治3年(1557)理興が死去すると、家老であった杉原盛重(尾高城(鳥取県米子市尾高)参照)が城主となるが、これに異を唱えていたのが藤井皓玄である。
 理興が城主であった当時、筆頭家老は杉原左衛門太夫興勝で、皓玄は次席家老であった。そして、盛重は毛利氏から推挙された四番家老であった。このため、皓玄は三番家老であった大江田隼人亮らと共にこれを不服とし、正霊山城も捨てて京に上った。弘治3年(1557)のことである。
【写真左】本丸・その1
 東西15m×南北55mの楕円型のもので、平滑に仕上げられている。
【写真左】本丸・その2
 東南端から南側を俯瞰したもので、麓には井原市芳井支所の建物が見える。
 また、正霊山城の東麓を流れる小田川がその東側に見える。




 皓玄らが京に上ってから9年後の永禄9年(1566)11月、出雲の尼子氏の居城月山富田城が毛利氏の手によって落城した。尼子氏の遺臣山中鹿助らはその後再興をめざすべく、一旦京に赴いた。

 京には既に神辺城を盛重(毛利氏)に奪い取られた皓玄が潜伏していた。そこへ同じく毛利氏によって富田城から放逐された鹿助らが下野してくることになる。両者は打倒毛利氏という共通の目的を以て一味同心し、永禄12年(1569)再び動き出した。
【写真左】本丸・その3
 北側から南方を見たもので、左(東側)の側面は険しい切崖となっており、東麓を流れる小田川が天然の濠の役目をしていたものと思われる。


 丁度この頃、毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、出雲・備中両国は手薄の状態であった。 同年6月18日、皓玄は藤井六郎左衛門・佐藤庄三郎・寺地又兵衛・藤代五郎入道ら旧臣500余騎を率いて神辺城を攻めた。

 一方、尼子再興軍は、6月23日、鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国より島根半島に上陸、忠山城(島根県松江市美保関町森山)に陣を構えた。

 藤井皓玄による神辺城攻撃と、鹿助らによる出雲奪還がほぼ同時期に開始されたことは、救援に駆けつける毛利氏を分断させる狙いが読み取れ、また大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)との連携も含めたかなり綿密な計画があったものと推察される。

◎関連投稿
此隅山城・その1(兵庫県豊岡市出石町宮内)
【写真左】本丸北端部
 本丸の北に向かうと、次第に幅が狭くなり、その先は断ち切られている。
 写真は一旦下がった先に伸びる細い尾根で、手前には下段で紹介する二条の堀切が構築されている。
 尾根の右側には小田川が見える。
【写真左】正霊山城から北に延びる尾根
 西側から見たものだが、ご覧の通り、北端部にある二条の堀切から更に北向って細長い小丘が連続しているが、その先で一旦途切れている。

 中心部に社が祀られているが、当時はこの辺りも城域として北を扼する物見台のようなものがあったのかもしれない。



神辺城攻防と皓玄自刃

 皓玄による神辺城攻略に対し、当城を守備していた毛利方はわずか30余騎で、近在にあった一部の者が支援に駆けつけたものの、あえなく落城した。
 落城の報は直ちに九州にあった元就の耳に入ったが、毛利軍は大友氏との交戦中であるため、主力部隊を神辺城に向かわせることは出来なかった。このため、備後国に残っていた楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)の楢崎豊景、大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)の村上祐康、比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉隆亮らに神辺城奪還を命じた。
【写真左】一条目の堀切
 右側が本丸にあたるが、堀切底部から本丸天端までは8m前後あり、鋭角に削り取られている。




 同年8月3日、神辺城の麓には、事前に瀬戸内の航路を使って元就側から調達されていたのだろう、毛利方による神辺城奪還のために多くの鉄砲が配備された。

 号砲一発から始まった戦いは、その後矢継ぎ早に放たれ7日まで続いた。さすがの皓玄もこの猛攻に耐えきれず、当城を脱出、東方の権現山を伝って、旧領地であった備中高屋方面に逃亡を図ったが、追手に行く手を阻まれ、已む無く南進し浅口郡に向かった。
【写真左】藤井皓玄の墓

所在地:岡山県笠岡市西大島
探訪日:2019年10月20日

 笠岡湾の東方に聳える御嶽山の北西麓の谷間に大正2年に建立されている。



 そして、西大島(笠岡市)の石砂まできたとき、細川下野守道董(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)配下の者に襲われ、ついに自刃した。
【写真左】二条目の堀切
 一条目の隣にも堀切があるが、こちらは埋まったせいか深さは浅い。


【写真左】砦跡か
 正霊山城から西方に見えたもので、独立した小丘の上に現在公園のようなものが見える。

 下山した後、井原市芳井支所の職員の方に訊ねたが、よく分からないとのことだった。文献などには何も記録されていないが、何らかの城砦施設があったように思われる。
【写真左】成福寺(福成寺)
 正霊山城から西方約2キロほど向かったところには古刹・成福寺が建立されている。

 この付近は、初期の藤井氏が入植し勢力を拡大した本拠地といわれ、近くにあるもう一つの寺院重玄寺には藤井氏累代の墓があるという。
 残念ながらこの日は重玄寺の方は参拝できなかった。

 成福寺には岡山県指定重要文化財となっている不動明王立像が残されている。
説明板より

“成福寺の不動明王立像
 岡山県指定重要文化財

 吉井山成福寺は天平11年(739)に行基菩薩が開いたと伝えられる真言宗の古刹で、近世初期には西吉井・天神山一帯に数か寺の支院を持つ本坊寺院として地方文化の向上に寄与してきた。
 本尊の不動明王立像は、全体がふくよかな童形の立像で檜材の一木造りである。高さは88.2cm。胸飾、持物、岩座など諸所に補修の跡が確認されるが、面相や裳の処理に古い様式が見られ、平安時代末から鎌倉時代頃に製作されたものと考えられている。昭和30年には岡山県の重要文化財に指定された。
 なお同像は秘仏であるが、12年に一度不動明王が守り本尊となる酉年の元旦のみ御開帳される。
 平成17年3月
   井原市教育委員会”

雪舟終焉の地

 ところで、旧重玄寺が所在した場所は、現在地より山の方に入ったところだが、この付近も含めた場所は、室町期の画聖・雪舟終焉の地の一つとも言われている。因みに、他の場所としては、以前とりあげた石見の稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)跡なども挙げられている。

2016年4月24日日曜日

牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)

牛の皮城(うしのかわじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町大町
●高さ H:233m(比高150m)
●築城期 不明
●築城者 森光氏
●城主 森光氏
●遺構 北郭群・南郭群、畝状竪堀群・郭・堀切等
●登城日 2016年4月12日

◆解説(参考文献「平成25年度ひろしまの遺跡を語る 城館研究最前線 資料集」より事例報告Ⅱ 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹、「日本城郭体系第13巻」等)

  牛の皮城は、前稿雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも紹介したように、御調方面に進出した三吉氏の家臣の一人、森光(守光)氏の居城とされている。所在地は雲雀城の麓を流れる御調川を北東方向へ約2.5キロほど下った同町大町というところにある。
 築城期などは不明だが、おそらく雲雀城と同じく、三吉氏の家臣森光氏が当地に入った15世紀末頃と推察される。
【写真左】牛の皮城遠望
 北側から見たもので、手前(右)に北郭群があり、その奥に南郭群が見える。
 なお、この写真は登城口に繋がる道ではなく、駐車した墓地に向かう道である。
 登城口はこの写真では右側に当たる。


北郭群・南郭群と畝状竪堀群

 当城の縄張りで特徴的なこととしては、第一に、南方の頂部に独立した郭群を配し、さらにそこから北に180m程下った尾根上の軸線にも独立した郭群を配していること、第二には、何よりも双方の郭群には夥しい数の畝状郭群が周囲に張り巡らされていることである。
【写真左】牛の皮城 鳥瞰図
 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹氏の資料を基に描いたもの。

 主だった遺構は描いたつもりだが、南郭群の南斜面にある畝状竪堀群は、角度的に描けなかった。



 西側には現在中国横断自動車道尾道線(以下「尾道道」とする)が走っているが、この道路建設工事に伴い、平成15年から18年にかけて発掘調査が行われ、その報告が平成26年1月11日、(公財)広島県教育事業団によって発表されている。概略は次の通りである。
【写真左】登城口
 現地には案内標識などは設置されていないが、北郭群の北端部に入口がある。
 なお、この写真には写っていないが、右側には尾道道の橋脚が建っている。




(1)北郭群

 南東側最高所(H:166m)から北西側(H:145m)にかけて1郭・2郭・3郭・4郭・5郭と郭段が続く。このうち、4郭だけは極めて小さなもので、3郭と5郭の連絡道的な位置づけとなっている。
【写真左】畝状竪堀群・その1
 北郭群の5郭、すなわち最北端の郭段に設置された畝状竪堀で、写真では2条しか見えないが、この左右にも中小の竪堀が控えている。


 畝状竪堀群では、5ヵ所の郭のうち、北端にあるのが5郭だが、この郭の先には放射線状に14か所の畝状竪堀が配置されている。このうち西側では尾道道のため、一分消滅しているようだが、調査当時の写真を見ると、竪堀間の間隔が狭いこともあり、まるで南米の「アスカの地上絵」のようにも見える。
【写真左】畝状竪堀群・その2
 北郭群の3郭から1郭にかけて東斜面に残る個所で、長さは短いものの、堀幅は広い。
【写真左】2郭付近
 北郭群の南方に配置されている1郭及び2郭の頂部から見たもので、二つの郭附近からは尾道道や西麓部の大町の集落が俯瞰できる。

 なお、2郭の西斜面には、一本のかなり長い竪堀があったようだが、尾道道設置のため消失しているようだ。
 写真は、2郭の西端部から北方を見たもの。



(2)南郭群

 北郭群の突起した1郭から南東方向に伸びる尾根を100m程進んで行くと、南郭群に入る。最初に見えてくるのが、尾根中心部に小さく突き出した小郭で、南郭群のいわば入口となる個所となる。おそらくこの箇所には監視を兼ねた番所のようなものがあったと推察される(下段写真「小郭」参照)。
【写真左】竪堀と堀切
 北郭群の1郭(最南端)の南側にあるもので、ここから左の尾根に向かうと、南郭群に繋がる。
 ここには2条の畝状竪堀及び堀切が配置され、南郭群と遮断する意図が読み取れる。

 なお、登城道はこの写真の下から登っていくコースとなっているが、急傾斜のため部分的に階段が設置されている。
 このあと、尾根伝いに南に進み南郭群に向かう。
【写真左】南郭群に入る。
 北郭群から南郭群に向かう道は、尾根道となっている。道は殆ど手つかず状態なので、藪コギや倒木などがあり、歩きにくいが、南郭群に入りかけると、少し開けてくる。



 北郭群が北西から南東の方位に長軸を撮っているのに対し、南郭群は90度変えて、北東から南西に長軸をとっている。

  主郭は最高所となるH:230mの位置に、長径30m×短径20m前後の方形平坦地を備え、その南東斜面には上段の斜面に10か所の畝状竪堀を配し、さらに下段の斜面には長さ20~30mの規模を持つ竪堀が3本単独に走る。
【写真左】小郭
 南郭群の領域に入るとすぐに右手に独立した小郭が見える。
 長径8m×短径5mほどの小規模なものだが、おそらくここが見張的な役割を持っていたものと思われる。
 このあと、辛うじて残る踏み跡を進むと、次第に東側を進むことになる。



 また、東斜面にも大小の竪堀が6本配置され、主郭の南西部に付属する腰郭の下段には、北側から幅10~20mの帯郭が取り巻き、その南西端にはさらに2段の腰郭が付属している。
 この腰郭の先は斜面が少し緩いためか、尾根を横断するような長い竪堀(堀切)が2本並行して並ぶ。
【写真左】竪堀
 南郭群の東・南斜面にもまとまった畝状竪堀群が構築されている。
 このうち東斜面では、上段部に平均して10~20mの長さの竪堀があり、さらにこれらの中から3本の竪堀が下段に延びている。写真は、その下段にも延長している竪堀を上から見たもの。
【写真左】東南部の竪堀から上を目指す。
 畝状竪堀群を横断していったのだが、いつまでも主郭方面に向かう道が見つからないため、この付近の竪堀から強引に上を目指した。
 しかしトライしたものの、上に向かうまともな道が見つからず、再び中断部まで降り、そのまま外周を時計廻りに進んだ。
【写真左】主郭から3段目の郭
 結局、北側から入って東に廻り、西側の腰郭の南斜面から強引に登ってこの郭にたどり着いた。
 当城最大の規模を持つ郭で、幅広い帯郭の形態を持つ。

 写真の右側が主郭方面になるが、直近の切崖は主郭の真下にある腰郭のもの。左側の郭から更に西には2段の腰郭が付随している。
【写真左】主郭方面を見上げる。
 勾配はさほどないものの、高低差は10m前後ある。ここから直登できないこともないが、まともな道は更にこの郭を回り込んだ北西部に設置してある。
 先ずはこの郭の西端部まで進んでみる。
【写真左】西端部
 この先も余り整備されていないため、写真では判然としないが、西麓の集落などが見える。
 なお、このまま尾根筋を下っていくと、二条の竪堀と、尾根中心部を軸とする竪堀がある。
【写真左】井戸跡か
 主郭の西側まで回り込んで行くと、郭幅は狭くなっていくが、その終点部にご覧のような大きな窪みが見える。
 長径5m前後のもので、大分埋まってはいるが、おそらく井戸跡だろう。
 この場所から上を見ると、崩れてはいるものの九十九折の廃道らしきものが見えたので、ここから主郭を目指す。
【写真左】主郭下の腰郭へ向かう。
 大量の枯葉があるため、分かりにくいが、登り道の脇には土留め用の石積跡も散見された。
【写真左】腰郭
 主郭直下にある小規模な郭で、奥行8m×幅7m前後のもの。
 左側が主郭方向になる。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
 腰郭から北東方向に主郭が控えており、比高差は凡そ8m前後。登り道は矢印で示したように、踏み跡がよく残っており、勾配は多少あるものの、周りの木に捕まりながら簡単に登れる。
【写真左】主郭
 雑木林のような光景だが、地面の方は平滑に仕上げられている。
【写真左】土塁
 主郭の外周部のうち、北郭群方向(北西方向)の位置には高さ50cm程度の土塁が残る。
 
 この場所には薄い紫色の綺麗な花がたくさん咲いている。
【写真左】真っ直ぐに伸びた竪堀
 主郭の縁付近も殆ど熊笹などで覆われているが、北側の一画だけ開放された箇所があり、その位置から下を見ると、一直線に竪堀が伸びている。
 前述したように、上段の竪堀と、下段の竪堀が連続している箇所のようだ。
【写真左】福成寺にある五輪塔群
 牛の皮城の西麓には城主森光氏の菩提寺といわれる福成寺がある。

 当院の墓地には五輪塔・宝篋印塔などの墓石が一画にまとめられているが、おそらく森光氏一族のものだろう。
【写真左】福成寺から牛の皮城を見る。
 墓地から東の方を見上げると、尾道道を介して牛の皮城が遠望できる。

2016年4月11日月曜日

雲雀城(広島県尾道市御調町市)

雲雀城(ひばりじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町市
●高さ 210m(比高120m)
●築城期 嘉吉3年(1443)
●築城者 土倉夏平(小早川氏一族)
●城主 土倉氏、池上氏
●遺構 堀切・郭・井戸・土壇等
●登城日 2014年11月28日

◆解説(参考文献「御調町史」等)
  雲雀城は北方の三次・世羅方面から南下してきた旧石見銀山街道(R184号線)と、東方の府中市街から西進してきた旧山陽道(R486号線)が合流する御調町(尾道市)の市という地区にあって、御調川と、その支流諸原川の間に挟まれた雲雀山に築かれている。
【写真左】雲雀城遠望・その1
 北側から見たもので、2015年3月に撮影したもの。
 この時期に見ると尾根筋の形がよく分かる。
【写真左】雲雀城遠望・その2
 この写真は、麓からさらに北に向かった公園から撮ったもの。
 2014年11月28日撮影





現地説明板・その1(赤字・管理人による)

“雲雀城址
 御調町域で成立の古い山城は、大塔の撰場城(千羽ヶ城)で、仁野の善福寺の過去帳に、嘉吉2年(1442)に大道庄官藤原時実が築城したとある。ついで嘉吉3年(1443)には、小早川氏の一族の土倉夏平が、交通の要衝で、この地の経済的中心地である市(いち)を眼下に望むこの雲雀山に築城している。しかし、この時点での小早川氏の支配はあまり長く続かず、退去したようである。
【写真左】雲雀城址 実測図
 この図は、北麓にある「道の駅クロスロードみつぎ」に置いてあったものだが、図中の北を示す方位は実際とは大分違う。

 この図でいえば、北西方向を示す角度が実際の北となる。



 この雲雀城に本格的に入ってきたのは、三吉氏の家臣の池上氏である。三吉氏は、近江国から双三郡八次村(現三次市)に来住した地頭で、鎌倉・室町時代を通じて勢力を伸張し、明応年間(1492~1501)に南下して世羅・御調に勢力を扶植し、有力家臣を各地に配置していった。
 御調町域関係では、市の雲雀(山)城の池上氏、大町の牛皮城の森光(守光)氏、丸門田の丸山城の上里氏がそれである。
【写真左】登城道
 今回は北麓の道の駅に車を停め、そこから歩いて向かった。
 尾道市御調支所と北麓の間にある狭い道を進み、一旦東側まで廻ると、神社下に出る。そこに「雲雀城 ⇒」の標識があるので、それに従って進む。
 写真は神社の北側に差し掛かった箇所。


 雲雀(山)城は、市の町並みの南西にそびえるこの雲雀山(227m)の山頂を中心に築かれて、御調町域の主要通路を含む地域を見渡すことができる。
 山頂の削平地に、本丸があり、その南に深さ約20m、幅約3mの堀切(空堀)があり、北側に二の丸やその帯曲輪、東に出丸や井戸曲輪があり、土塁の跡や堀切・竪堀などが見られる。城主は平素は山麓の居館にいたが、それは市頭に近いところにあったと推測され、麓の本照寺付近の可能性が大きいと考えられる。
【写真左】空堀
 出丸に向かう途中に設置されたもので、北側からの侵入を防ぐために設けられている。
 この説明板にも書かれているように、斜面を垂直に掘ったものなので、ここでは竪堀となる。



 当城には明応2年(1493)に三吉氏の家臣池上丹羽守が城主として入り、この地を統治した。のちに池上氏は、尼子晴久の勢力下にあった天文13年(1544)、旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や、丸山城主上里氏とともに参加している。”
【写真左】出丸・その1
 北東部に配されているもので、本丸までの高さからすると凡そ1/3の位置になる。
 郭が2段で構成され、上段に社が祀られている。
【写真左】出丸・その2
 上段に祀られた社で、この奥に本丸に向かう道がある。







池上・森光・上里氏
 
 雲雀城が築かれたのは説明板にもあるように、嘉吉2年及び同3年にそれぞれ、大道庄官藤原時実、小早川氏の一族の土倉夏平と記されているが、本格的に築城したのは三吉氏の家臣であった池上氏とされている。そしてほぼ同じ時期に、東方にあった大町に牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)を森光氏が、西方の丸門田には上里氏が丸山城を築城している。
【写真左】井戸郭
 出丸から本丸に向かう道は次第に険しく、狭くなり、油断していると滑落する箇所も多くなる。

 途中で本丸の北側直下となる斜面には井戸が設けられ、「井戸郭」と命名してあるが、実際は郭というほどの平坦な箇所はほとんどなく、直径1m×深さ30cm程の岩をくりぬいた箇所がある。

 この日は殆ど水がなく、当時もさほど湧きあがるほどの水は出なかったと思われるが、水の手としては重要な場所だったと思われる。


 これら三氏は何れも当時三吉氏の家臣で、特に丸山城築城の上里氏は、戦国期に尾関山城(広島県三次市三吉町)の城番を任された上里氏と同じ系譜である。

 ところで、三吉氏が御調方面へ進出した理由について、具体的な史料は残されていないが、冒頭でも述べたように、御調川沿いは古代から水田地帯として条里制が敷かれ、東西南北を走る街道があり、交通の要衝であったことが最も大きな理由であったと考えられる。その際、併せて御調に至る途中の世羅方面にも勢力を扶植したとされている。
【写真左】二の丸へ向かう。
 井戸郭から二の丸に向かうには、一旦東側に回り込み、そこから枯葉で覆われた急勾配の斜面をよじ登る。

 管理人はいつも専用の杖を携帯しているが、この日ばかりは殆ど役に役に立たなかった。むしろ要所では両手を使って登る場面が多く、杖が邪魔になるほどだった。


 さて、三吉氏の家臣であった池上氏は、明応3年(1493)池上丹波守が当地を支配してから暫くすると、やがて出雲の尼子経久の勢力下に入った。その時期についての具体的な史料は見当たらないが、天文年間の初期と思われ、その後天文13年(1544)7月28日、尼子晴久が備後国三吉城(比叡尾山城か)の三吉広隆を攻めているが、このとき件の三氏(池上・森光・上里)が尼子方に属していたと考えられる。
【写真左】二の丸到着
 短い距離だが、久しぶりにスリル満点の険しい道だった。
 
 連合いからは何度も途中で「この道は違うでしょう?!」や「帰りたいコール」を連発された。
 二の丸に到着した途端、心身ともにどっと疲れが出た。

奥に本丸の切崖が見える。
【写真左】二の丸
 二の丸は冒頭で示した図でも分かるように、北から東面にかけて、10~20m前後の幅を保ち、本丸側を凡そ100m前後に亘って囲繞している。

 底面はかなり平滑に仕上がっている。

 このあと、本丸側に向かう。
【写真左】本丸南下の帯郭
 二の丸側から西方向に登っていくと、最初に見える郭で、本丸の長径とほぼ同じ長さを持つが、幅が3m前後と細いので、犬走りとしての役目もあったものと思われる。
【写真左】本丸東下の腰郭
 前記の帯郭と連絡されたより少し高い位置に構築されたもので、東西10mの奥行を持つ。
 写真左側面が本丸の切崖になる。
【写真左】石積
 先ほどの帯郭から本丸に向かう箇所に残るもので、大分崩れてはいるが人為的に積み上げられたもの。
【写真左】主郭
 東西に長径30m余×南北短径10m前後の規模を持つ。
 写真は、東側から西方向を見たもので、奥には高さ2m程度の土壇が配されている。
【写真左】土壇
 主郭の西端部にあるもので、よく見ると東面は石積の跡が残る。
 奥行は5m前後で、さらにその先を行くと、大堀切が断ち切られている。
【写真左】大堀切
 土壇の西端部から見下ろしたもので、大型のものである。

 土壇からはほぼ垂直になっているため、直接降りることは危険なため、一旦南側斜面に降りて、堀切の南端部までトラバースする。
【写真左】大堀切
 南側の斜面は急傾斜でしかも枯葉が堆積していることから、西進しようにも度々足元が救われ、やっとの思いで最初の堀切にたどり着く。
 尾根を深く断ち切った迫力満点の堀切である。
【写真左】堀切から本丸を見上げる。
 これまで登城した中でも3本の指に入る見事な堀切で、規模は深さ20m×幅3m。

 断ち切った傾斜面は険しく、直接この斜面をよじ登ることはできなかった。おそらく当時の状況をそのまま残している箇所だろう。
【写真左】竪堀
 この堀切から西に登り尾根筋に立つと、南北に数本の竪堀が見える。

 南北の斜面そのものが急傾斜なので、これだけでも十分だが、さらに竪堀が付けられている。
【写真左】堀切を介して東方に本丸を見る。
 手前の樹木があるため全体が見えないが、本丸土壇の北側が見える。








本照寺

 雲雀城の東麓には池上氏が関わった本照寺という寺院がある。そしてその後ろには池上氏代々の墓地が祀られている。
【写真左】本照寺













現地の説明板

“雲雀城と本照寺

(中略)

 照源寺を石原谷に再興したのも池上因幡守と伝え、さらに城の下になべかむり、日親上人を開基として永正元年(1504)に本照寺を建立している。諸書によってその説を異にし、天正11年池上丹後守菩提所となすとか、文安元年日親開基、天正13年池上因幡再建などとまちまちであるが、江戸時代焼けたことは間違いなく、その時に古文書を焼失して資料を失っている。現在の建物はその後に建立されたもので、大イチョウのみが昔の面影を伝えている。
【写真左】池上氏の墓地に向かう。
 本殿の裏にあって、一番高いところに建立されている。



 寺の背後に池上氏代々の墓地というのがあるが、これは雲雀城二の丸にあったものを境内に移したものだという。
 室町時代の特色をもついかにも城主のものとしてうなづける。
 大形の五輪石塔を中心に10数基の苔むした墓石は、兵乱の昔を物語っています。

   昭和56年11月
  御調町教育委員会
  御調町文化財保護委員会”
【写真左】池上氏墓石群

















現地の説明板より

“池上城主 墓所

天正12年甲申8月28日 正壽院殿玉翁道仙日築大居士
  城主 池上刑部少輔七郎殿
天正8年庚辰6月15日 正連院妙安日翁大姉
     池上刑部少輔七郎殿室

天正19年辛卯2月8日 院殿奇格梅香日持大居士
  城主 池上久太郎殿
文禄4年己未9月11日 只心院殿妙相代恵日如大姉
   池上久太郎殿 室

慶長6年辛丑9月10日 遠城院殿遠本日到大居士
   城主 池上周満中殿
梅上院殿 壽日香大姉
   池上周満中殿室

慶長10年己巳7月10日 池上院殿周覚了頼日義大居士
   城主 池上因幡守殿

昭和56年11月
 御調町教育委員会
 御調町文化財保護委員会”

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