正霊山城(しょうりょうさんじょう)
●所在地 岡山県井原市芳井町吉井
●別名 正雪山城
●指定 井原市指定史跡
●高さ H:110m(比高60m)
●築城期 不明
●築城者 藤井好重か
●城主 藤井能登守広玄
●遺構 郭・堀切
●登城日 2014年12月10日及び、2016年4月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』、HP「備中国 後月郡 井原」、サイト『城郭放浪記』等)
正霊山城は、別名「正雪山城」とも呼ばれ、旧備中国後月郡芳井町吉井に所在する標高100m余りの小規模な城砦である。
【写真左】正霊山城遠望・その1
南側から見たもので、2016年4月12日登城したときのもの。
なお、下段の説明板では当城の標高を50mとしているが、実際には110m余の高さである。
【写真左】正霊山城遠望・その2
西側から見たものだが、この写真は晩秋の12月(2014年)に撮ったもの。
現地の説明板
“正霊山城跡
標高50mのところにあり、本丸跡は東西約15m、南北約55mの回字型です。
本丸北側に二重の堀切がある他、武者走り、礫石を貯えた土倉跡や、南北に大手門があった跡が残っています。
文明2年(1470)ごろ戦乱を避け、藤井氏一族は中山城主河合重行を頼り、西吉井坂本の有井城に居住後、次第に勢力を広げ、正霊山城を築きました。
藤井皓玄は正霊山城を本拠地として、井原、大江、高屋と勢力を広げ、永禄12年(1569)、毛利氏の神辺城を攻略しましたが、まもなく追われ、大島(現笠岡市)で討たれたといわれています。
井原市指定史跡
指定年月日 平成17年3月
井原市教育委員会”
【写真左】登城道
当城直下には駐車スペースはないので、麓にある井原市芳井支所の駐車場に停めて、そこから歩いて向かう。
登城口は上記写真の正面に見える民家の裏側にあり、簡易舗装された歩道を進むと、すぐに分岐した登り道があるので、そのまま登っていく。
登城したこの日、散り始めた桜の木の足元には芝桜が色鮮やかな装いで出迎えてくれた。
藤井氏
正霊山城の築城者は藤井好重といわれている。この藤井氏については、当地備中井原荘に下向してきた時期や、出自についても諸説があり、今一つ確定したものはないが、元は下野国又は播磨国にあった小山氏の庶流ではないかともいわれており、この系譜から藤井小四郎が現れ、その子政秀が藤井氏の祖となったともされている。そして、当地(井原荘)に下向した時期については南北朝期ではないかともいわれているが定かでない。
【写真左】腰郭
南側の中段にはかなり広い郭が残っている。現在そこには朽ち果てた小屋が建っているが、奥に地蔵が祀られているので、堂宇だったかもしれない。
また、説明板の内容からすると、この郭付近に南側の大手門があったと思われる。
南北朝期の備中国は細川氏が守護職として任じられるが、応仁の乱を過ぎると、細川氏の支配力は弱まり、庄氏や石川氏などが台頭するようになる。藤井氏はおそらくそうした当時の支配者と微妙な力関係を維持しながら戦国期を迎えたのだろう。
【写真左】本丸を目指す。
先ほどの郭から本丸までの比高は凡そ15m前後で、九十九折しながら向かう。前回(2014年)探訪した際は、この付近は藪化していて登ることは出来なかったが、今回は整備されていて登ることができた。
藤井皓玄と尼子再興軍
戦国時代でその名を馳せた城主としては、藤井皓玄(こうげん)が知られている。彼については既に神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)でも述べたように、一時は神辺城の城主となっている。
【写真左】神辺城
2007年登城時のもの
神辺城の城主については、当稿でも述べたように、嘉吉年間に山名氏によって築かれて以来、山名理興が天文7年(1538)ごろまで務めている。その後、天文12年から大内氏に攻められ続け、18年(又は19年)遂に落城、理興は逃亡することになる。しかし、その後大内氏の滅亡によって、毛利氏が継承すると、その傘下に入っていた理興は再び神辺城主に返り咲いた。
【写真左】本丸に向かう途中から腰郭を見る。
西側付近は少し低くなっているようで、その一画には祠が祀られている。
弘治3年(1557)理興が死去すると、家老であった杉原盛重(尾高城(鳥取県米子市尾高)参照)が城主となるが、これに異を唱えていたのが藤井皓玄である。
理興が城主であった当時、筆頭家老は杉原左衛門太夫興勝で、皓玄は次席家老であった。そして、盛重は毛利氏から推挙された四番家老であった。このため、皓玄は三番家老であった大江田隼人亮らと共にこれを不服とし、正霊山城も捨てて京に上った。弘治3年(1557)のことである。
【写真左】本丸・その1
東西15m×南北55mの楕円型のもので、平滑に仕上げられている。
【写真左】本丸・その2
東南端から南側を俯瞰したもので、麓には井原市芳井支所の建物が見える。
また、正霊山城の東麓を流れる小田川がその東側に見える。
皓玄らが京に上ってから9年後の永禄9年(1566)11月、出雲の尼子氏の居城月山富田城が毛利氏の手によって落城した。尼子氏の遺臣山中鹿助らはその後再興をめざすべく、一旦京に赴いた。
京には既に神辺城を盛重(毛利氏)に奪い取られた皓玄が潜伏していた。そこへ同じく毛利氏によって富田城から放逐された鹿助らが下野してくることになる。両者は打倒毛利氏という共通の目的を以て一味同心し、永禄12年(1569)再び動き出した。
【写真左】本丸・その3
北側から南方を見たもので、左(東側)の側面は険しい切崖となっており、東麓を流れる小田川が天然の濠の役目をしていたものと思われる。
丁度この頃、毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、出雲・備中両国は手薄の状態であった。 同年6月18日、皓玄は藤井六郎左衛門・佐藤庄三郎・寺地又兵衛・藤代五郎入道ら旧臣500余騎を率いて神辺城を攻めた。
一方、尼子再興軍は、6月23日、鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国より島根半島に上陸、忠山城(島根県松江市美保関町森山)に陣を構えた。
藤井皓玄による神辺城攻撃と、鹿助らによる出雲奪還がほぼ同時期に開始されたことは、救援に駆けつける毛利氏を分断させる狙いが読み取れ、また大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)との連携も含めたかなり綿密な計画があったものと推察される。
◎関連投稿
此隅山城・その1(兵庫県豊岡市出石町宮内)
【写真左】本丸北端部
本丸の北に向かうと、次第に幅が狭くなり、その先は断ち切られている。
写真は一旦下がった先に伸びる細い尾根で、手前には下段で紹介する二条の堀切が構築されている。
尾根の右側には小田川が見える。
【写真左】正霊山城から北に延びる尾根
西側から見たものだが、ご覧の通り、北端部にある二条の堀切から更に北向って細長い小丘が連続しているが、その先で一旦途切れている。
中心部に社が祀られているが、当時はこの辺りも城域として北を扼する物見台のようなものがあったのかもしれない。
神辺城の攻防と皓玄の自刃
皓玄による神辺城攻略に対し、当城を守備していた毛利方はわずか30余騎で、近在にあった一部の者が支援に駆けつけたものの、あえなく落城した。
落城の報は直ちに九州にあった元就の耳に入ったが、毛利軍は大友氏との交戦中であるため、主力部隊を神辺城に向かわせることは出来なかった。このため、備後国に残っていた楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)の楢崎豊景、大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)の村上祐康、比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉隆亮らに神辺城奪還を命じた。
【写真左】一条目の堀切
右側が本丸にあたるが、堀切底部から本丸天端までは8m前後あり、鋭角に削り取られている。
同年8月3日、神辺城の麓には、事前に瀬戸内の航路を使って元就側から調達されていたのだろう、毛利方による神辺城奪還のために多くの鉄砲が配備された。
号砲一発から始まった戦いは、その後矢継ぎ早に放たれ7日まで続いた。さすがの皓玄もこの猛攻に耐えきれず、当城を脱出、東方の権現山を伝って、旧領地であった備中高屋方面に逃亡を図ったが、追手に行く手を阻まれ、已む無く南進し浅口郡に向かった。
【写真左】藤井皓玄の墓
所在地:岡山県笠岡市西大島
探訪日:2019年10月20日
笠岡湾の東方に聳える御嶽山の北西麓の谷間に大正2年に建立されている。
そして、西大島(笠岡市)の石砂まできたとき、細川下野守道董(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)配下の者に襲われ、ついに自刃した。
【写真左】二条目の堀切
一条目の隣にも堀切があるが、こちらは埋まったせいか深さは浅い。
【写真左】砦跡か
正霊山城から西方に見えたもので、独立した小丘の上に現在公園のようなものが見える。
下山した後、井原市芳井支所の職員の方に訊ねたが、よく分からないとのことだった。文献などには何も記録されていないが、何らかの城砦施設があったように思われる。
【写真左】成福寺(福成寺)
正霊山城から西方約2キロほど向かったところには古刹・成福寺が建立されている。
この付近は、初期の藤井氏が入植し勢力を拡大した本拠地といわれ、近くにあるもう一つの寺院重玄寺には藤井氏累代の墓があるという。
残念ながらこの日は重玄寺の方は参拝できなかった。
成福寺には岡山県指定重要文化財となっている不動明王立像が残されている。
説明板より
“成福寺の不動明王立像
岡山県指定重要文化財
吉井山成福寺は天平11年(739)に行基菩薩が開いたと伝えられる真言宗の古刹で、近世初期には西吉井・天神山一帯に数か寺の支院を持つ本坊寺院として地方文化の向上に寄与してきた。
本尊の不動明王立像は、全体がふくよかな童形の立像で檜材の一木造りである。高さは88.2cm。胸飾、持物、岩座など諸所に補修の跡が確認されるが、面相や裳の処理に古い様式が見られ、平安時代末から鎌倉時代頃に製作されたものと考えられている。昭和30年には岡山県の重要文化財に指定された。
なお同像は秘仏であるが、12年に一度不動明王が守り本尊となる酉年の元旦のみ御開帳される。
平成17年3月
井原市教育委員会”
雪舟終焉の地
ところで、旧重玄寺が所在した場所は、現在地より山の方に入ったところだが、この付近も含めた場所は、室町期の画聖・雪舟終焉の地の一つとも言われている。因みに、他の場所としては、以前とりあげた石見の稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)跡なども挙げられている。
●所在地 岡山県井原市芳井町吉井
●別名 正雪山城
●指定 井原市指定史跡
●高さ H:110m(比高60m)
●築城期 不明
●築城者 藤井好重か
●城主 藤井能登守広玄
●遺構 郭・堀切
●登城日 2014年12月10日及び、2016年4月12日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』、HP「備中国 後月郡 井原」、サイト『城郭放浪記』等)
正霊山城は、別名「正雪山城」とも呼ばれ、旧備中国後月郡芳井町吉井に所在する標高100m余りの小規模な城砦である。
【写真左】正霊山城遠望・その1
南側から見たもので、2016年4月12日登城したときのもの。
なお、下段の説明板では当城の標高を50mとしているが、実際には110m余の高さである。
西側から見たものだが、この写真は晩秋の12月(2014年)に撮ったもの。
現地の説明板
“正霊山城跡
標高50mのところにあり、本丸跡は東西約15m、南北約55mの回字型です。
本丸北側に二重の堀切がある他、武者走り、礫石を貯えた土倉跡や、南北に大手門があった跡が残っています。
文明2年(1470)ごろ戦乱を避け、藤井氏一族は中山城主河合重行を頼り、西吉井坂本の有井城に居住後、次第に勢力を広げ、正霊山城を築きました。
藤井皓玄は正霊山城を本拠地として、井原、大江、高屋と勢力を広げ、永禄12年(1569)、毛利氏の神辺城を攻略しましたが、まもなく追われ、大島(現笠岡市)で討たれたといわれています。
井原市指定史跡
指定年月日 平成17年3月
井原市教育委員会”
【写真左】登城道
当城直下には駐車スペースはないので、麓にある井原市芳井支所の駐車場に停めて、そこから歩いて向かう。
登城口は上記写真の正面に見える民家の裏側にあり、簡易舗装された歩道を進むと、すぐに分岐した登り道があるので、そのまま登っていく。
登城したこの日、散り始めた桜の木の足元には芝桜が色鮮やかな装いで出迎えてくれた。
藤井氏
正霊山城の築城者は藤井好重といわれている。この藤井氏については、当地備中井原荘に下向してきた時期や、出自についても諸説があり、今一つ確定したものはないが、元は下野国又は播磨国にあった小山氏の庶流ではないかともいわれており、この系譜から藤井小四郎が現れ、その子政秀が藤井氏の祖となったともされている。そして、当地(井原荘)に下向した時期については南北朝期ではないかともいわれているが定かでない。
【写真左】腰郭
南側の中段にはかなり広い郭が残っている。現在そこには朽ち果てた小屋が建っているが、奥に地蔵が祀られているので、堂宇だったかもしれない。
また、説明板の内容からすると、この郭付近に南側の大手門があったと思われる。
南北朝期の備中国は細川氏が守護職として任じられるが、応仁の乱を過ぎると、細川氏の支配力は弱まり、庄氏や石川氏などが台頭するようになる。藤井氏はおそらくそうした当時の支配者と微妙な力関係を維持しながら戦国期を迎えたのだろう。
【写真左】本丸を目指す。
先ほどの郭から本丸までの比高は凡そ15m前後で、九十九折しながら向かう。前回(2014年)探訪した際は、この付近は藪化していて登ることは出来なかったが、今回は整備されていて登ることができた。
藤井皓玄と尼子再興軍
戦国時代でその名を馳せた城主としては、藤井皓玄(こうげん)が知られている。彼については既に神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)でも述べたように、一時は神辺城の城主となっている。
【写真左】神辺城
2007年登城時のもの
神辺城の城主については、当稿でも述べたように、嘉吉年間に山名氏によって築かれて以来、山名理興が天文7年(1538)ごろまで務めている。その後、天文12年から大内氏に攻められ続け、18年(又は19年)遂に落城、理興は逃亡することになる。しかし、その後大内氏の滅亡によって、毛利氏が継承すると、その傘下に入っていた理興は再び神辺城主に返り咲いた。
【写真左】本丸に向かう途中から腰郭を見る。
西側付近は少し低くなっているようで、その一画には祠が祀られている。
弘治3年(1557)理興が死去すると、家老であった杉原盛重(尾高城(鳥取県米子市尾高)参照)が城主となるが、これに異を唱えていたのが藤井皓玄である。
理興が城主であった当時、筆頭家老は杉原左衛門太夫興勝で、皓玄は次席家老であった。そして、盛重は毛利氏から推挙された四番家老であった。このため、皓玄は三番家老であった大江田隼人亮らと共にこれを不服とし、正霊山城も捨てて京に上った。弘治3年(1557)のことである。
【写真左】本丸・その1
東西15m×南北55mの楕円型のもので、平滑に仕上げられている。
【写真左】本丸・その2
東南端から南側を俯瞰したもので、麓には井原市芳井支所の建物が見える。
また、正霊山城の東麓を流れる小田川がその東側に見える。
皓玄らが京に上ってから9年後の永禄9年(1566)11月、出雲の尼子氏の居城月山富田城が毛利氏の手によって落城した。尼子氏の遺臣山中鹿助らはその後再興をめざすべく、一旦京に赴いた。
京には既に神辺城を盛重(毛利氏)に奪い取られた皓玄が潜伏していた。そこへ同じく毛利氏によって富田城から放逐された鹿助らが下野してくることになる。両者は打倒毛利氏という共通の目的を以て一味同心し、永禄12年(1569)再び動き出した。
【写真左】本丸・その3
北側から南方を見たもので、左(東側)の側面は険しい切崖となっており、東麓を流れる小田川が天然の濠の役目をしていたものと思われる。
丁度この頃、毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、出雲・備中両国は手薄の状態であった。 同年6月18日、皓玄は藤井六郎左衛門・佐藤庄三郎・寺地又兵衛・藤代五郎入道ら旧臣500余騎を率いて神辺城を攻めた。
一方、尼子再興軍は、6月23日、鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国より島根半島に上陸、忠山城(島根県松江市美保関町森山)に陣を構えた。
藤井皓玄による神辺城攻撃と、鹿助らによる出雲奪還がほぼ同時期に開始されたことは、救援に駆けつける毛利氏を分断させる狙いが読み取れ、また大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)との連携も含めたかなり綿密な計画があったものと推察される。
◎関連投稿
此隅山城・その1(兵庫県豊岡市出石町宮内)
【写真左】本丸北端部
本丸の北に向かうと、次第に幅が狭くなり、その先は断ち切られている。
写真は一旦下がった先に伸びる細い尾根で、手前には下段で紹介する二条の堀切が構築されている。
尾根の右側には小田川が見える。
【写真左】正霊山城から北に延びる尾根
西側から見たものだが、ご覧の通り、北端部にある二条の堀切から更に北向って細長い小丘が連続しているが、その先で一旦途切れている。
中心部に社が祀られているが、当時はこの辺りも城域として北を扼する物見台のようなものがあったのかもしれない。
神辺城の攻防と皓玄の自刃
皓玄による神辺城攻略に対し、当城を守備していた毛利方はわずか30余騎で、近在にあった一部の者が支援に駆けつけたものの、あえなく落城した。
落城の報は直ちに九州にあった元就の耳に入ったが、毛利軍は大友氏との交戦中であるため、主力部隊を神辺城に向かわせることは出来なかった。このため、備後国に残っていた楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)の楢崎豊景、大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)の村上祐康、比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉隆亮らに神辺城奪還を命じた。
【写真左】一条目の堀切
右側が本丸にあたるが、堀切底部から本丸天端までは8m前後あり、鋭角に削り取られている。
同年8月3日、神辺城の麓には、事前に瀬戸内の航路を使って元就側から調達されていたのだろう、毛利方による神辺城奪還のために多くの鉄砲が配備された。
号砲一発から始まった戦いは、その後矢継ぎ早に放たれ7日まで続いた。さすがの皓玄もこの猛攻に耐えきれず、当城を脱出、東方の権現山を伝って、旧領地であった備中高屋方面に逃亡を図ったが、追手に行く手を阻まれ、已む無く南進し浅口郡に向かった。
【写真左】藤井皓玄の墓
所在地:岡山県笠岡市西大島
探訪日:2019年10月20日
笠岡湾の東方に聳える御嶽山の北西麓の谷間に大正2年に建立されている。
そして、西大島(笠岡市)の石砂まできたとき、細川下野守道董(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)配下の者に襲われ、ついに自刃した。
【写真左】二条目の堀切
一条目の隣にも堀切があるが、こちらは埋まったせいか深さは浅い。
【写真左】砦跡か
正霊山城から西方に見えたもので、独立した小丘の上に現在公園のようなものが見える。
下山した後、井原市芳井支所の職員の方に訊ねたが、よく分からないとのことだった。文献などには何も記録されていないが、何らかの城砦施設があったように思われる。
【写真左】成福寺(福成寺)
正霊山城から西方約2キロほど向かったところには古刹・成福寺が建立されている。
この付近は、初期の藤井氏が入植し勢力を拡大した本拠地といわれ、近くにあるもう一つの寺院重玄寺には藤井氏累代の墓があるという。
残念ながらこの日は重玄寺の方は参拝できなかった。
成福寺には岡山県指定重要文化財となっている不動明王立像が残されている。
説明板より
“成福寺の不動明王立像
岡山県指定重要文化財
吉井山成福寺は天平11年(739)に行基菩薩が開いたと伝えられる真言宗の古刹で、近世初期には西吉井・天神山一帯に数か寺の支院を持つ本坊寺院として地方文化の向上に寄与してきた。
本尊の不動明王立像は、全体がふくよかな童形の立像で檜材の一木造りである。高さは88.2cm。胸飾、持物、岩座など諸所に補修の跡が確認されるが、面相や裳の処理に古い様式が見られ、平安時代末から鎌倉時代頃に製作されたものと考えられている。昭和30年には岡山県の重要文化財に指定された。
なお同像は秘仏であるが、12年に一度不動明王が守り本尊となる酉年の元旦のみ御開帳される。
平成17年3月
井原市教育委員会”
雪舟終焉の地
ところで、旧重玄寺が所在した場所は、現在地より山の方に入ったところだが、この付近も含めた場所は、室町期の画聖・雪舟終焉の地の一つとも言われている。因みに、他の場所としては、以前とりあげた石見の稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)跡なども挙げられている。