2010年4月27日火曜日

勝山城(鳥取県鳥取市気高町勝見)

勝山城(かつやまじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市気高町勝見
●登城日 2008年2月29日
●築城期 興国年間(1340~46)
●築城者 首藤氏
●形式 山城
●城主 首藤豊後守、(尼子豊後守正久)
●標高 80m(比高60m)

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 「鹿野城」から北へ3,4キロむかったJR山陰線浜村駅の南にみえる安寧山という小山に築城されている。
【写真左】勝山城配置図
 「西国三十三所観音霊場めぐり」という図が掲示され、本丸、二の丸、三の丸の配置は書かれているものの、勝山城そのものの遺構については、ほとんど触れていない。

 西方を大手とし、東麓にある長泉寺側が搦手となっていた。現在は写真にもあるように、城址公園として整備されたため、遺構はかなり改変されたようで、山城ファンにとっては、あまり見るべきものがない。

 記録によれば、本丸は東西55m、南西14mのいびつな形状で、北にある二の丸は、方15間(約27m)、二の丸の南にある三の丸は、北西・南東約18mなどであったという。
【写真左】入口付近
 山城として確認できる唯一の看板


 築城者とされている首藤氏は、興国年間に山名氏に随従して因幡国に入り、当地を領し築城されたといわれている。
 この後の内容について、「日本城郭大系14巻」(以下「14巻」とする)によれば、
 「永禄年間(1558~70)、出雲尼子氏の、部将尼子豊後守正久が、伯耆を経て因幡に侵入し、勝山城を落城させて、首藤氏に代わって城主となった。
 とある。この記事の元となった出典が、「因幡志」、「因伯古城跡図志」「勝見名跡志」「気高町誌」とあるので、この中のいずれかの史料からの孫引きと思われるが、文中の尼子豊後守正久という人物については、他の尼子氏関係史料にほとんど見えない。
【写真左】本丸跡の公園
 平坦な公園となって、遺構跡を表示するものなどは全くない。
 永禄年間という時期を考えると、尼子晴久の晩年(永禄3年没)で、その後は、嗣子・義久の代頃になる。
 しかもこの時期に尼子氏が因幡に侵入するような勢いはなく、むしろ守勢に立たされていた時期である。
 さらに、「14巻」では、
 「ついで、天正(1573~92)のはじめ、羽柴(豊臣)秀吉の命を受け鹿野城の亀井新十郎が、近隣の諸城を攻めたが、勝山城は堅固で容易に落とすことができなかった。ある時、亀井新十郎は謀をめぐらし、気高町宝木の奥の坂本集落の「化(けば)の河原」に人数を伏せておいた。村人がこのことを勝山城に知らせたので、尼子正久は兵を率いてそれを攻めた。その隙に亀井新十郎は一隊を率いて勝山城を攻め、これを落としたといわれている
 とある。
【写真左】西端部より日本海を見る。
 本丸跡の西端部だが、この角度の眺望はまずまずである。
 亀井新十郎(玆矩)が、そもそも尼子方(正久)の立てこもる城に攻め入るということ自体が、矛盾した話である。 以上のことから、「14巻」の勝山城に関するこうした逸話は、後世になって創作された話としておきたい。

2010年4月26日月曜日

亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)

亀井玆矩の墓(かめいこれのり のはか)

●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町寺内 武蔵山「明星ヶ鼻」
●探訪日 2010年4月26日

◆解説

 前稿で記したように、「譲傳寺」のある鹿野町今市の北隣である、寺内の武蔵山南端部「明星ヶ鼻」といわれる丘陵地に、亀井玆矩の墓が建立されている。 なお、玆矩を、「これより」ともいっていたようだ。
 ところで、玆矩の戦歴や業績については、これまで多くの文献などで紹介されているので、本稿では詳細は省略させていただく。

 さて、玆矩は同地鹿野城において病没しているので、遺骨も当然この墓地に埋葬されていると思われるが、玆矩の墓所としては、この他に、

(1)島根県鹿足郡津和野町後田
(2)京都市左京区の金戒光明寺黒谷墓地(金光院)
 の2カ所がある。
【写真左】墓所入口付近
 この写真手前に狭い道があり、数軒の家が並んでいる。車1台分しか通れないので、駐車はこの場所から西に降りた県道198号線の支線当たりに停めた。

 この地区は田仲(田中氏15代の石碑も付近にあった)という地区で、玆矩が青年時代にこの場所を住居としていたことから、同地の奥にある武蔵山の山頂に墓地を建立し、その位置からは南東方向に鹿野城が見えるようにしたという。

 写真にある鳥居を含め、特に左側は広く、緩やかな斜面となっており、おそらくこの位置に玆矩の住居があったものと思われる。
 墓所はこの鳥居をくぐり、途中から武蔵山斜面を登る道を向かう。
【写真左】鳥居右に設置された石碑
 「大井手用水路開鑿四百年記念」と刻文されている。
 慶長7年(1602)、玆矩は、因幡国最大の大河・千代川にそそぐ二本の支流(智頭川・八東川)それぞれの合流点上流に、取水堰を設け、1,200町歩の灌漑水路網を整備した。

 また、この鳥居はその恩恵を受けている大井手土地改良区の皆さんが、最近まで倒壊していたのを平成5年に再建したという。
 甲冑を覆い戦場を走駆していた戦国武将のイメージとは、また違った彼の偉功を覚える。
【写真左】墓所に向かう階段部
 当時の施工のものか分からないが、幅員が非常に広く、まるで城山に向かう道のようである。
【写真左】亀井玆矩の墓・その1
 現地に着くまでは、五輪塔か宝篋印塔形式のものと想像していたが、御覧の通り全く形式の違う墓石である。

 石積三段の構成で、基礎部分の一辺は7,8mもあるだろうか。非常に堅固な造りである。
【写真左】その2
 この部分の高さは2m前後はあるだろう。

譲傳寺(鳥取県鳥取市鹿野町今市)

譲傳寺(じょうでんじ)

●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町今市39
●探訪日 2010年4月24日
●宗派 曹洞宗

◆解説
 前稿でも紹介したが、今稿では亀井玆矩が菩提寺とした譲傳寺を取り上げる。
【写真左】譲傳寺門前
 周辺には、温泉(鹿野温泉)公園、温泉病院、老健施設といった保養施設が立ち並んでいる。




 当院寺伝によれば、応安5年(1372)笑厳宥誾が、最初に当院から1キロ登った古仏谷の山中に寺を建て、毫王山抱月寺と号した。そして、この抱月寺を拠点として、因幡の曹洞宗を広めていったという。

 天正9年(1581)、当地の領主として入部した亀井玆矩は、仏教にも熱心であったが、抱月寺が山奥であり、道が険しいため、同寺の和尚と相談の結果、現在の場所に移設し、名称も小林山譲傳寺と改めた。そして、当寺を菩提寺と定めた。
【写真左】譲傳寺境内
 右の建物が本堂である。










 なお、鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)の稿でも記したように、当寺の裏山には城跡あったことが知られており、鹿野城の初期に支城のような役割を果たしていたのではないかと思われる。
【写真左】本堂屋根に見える家紋
 当然ながら近江源氏佐々木氏一族の「目結紋」で、玆矩の趣味もあったのだろうか、朱色で彩色されている。







【写真左】亀井家一族の墳墓・その1
 譲傳寺の境内右側(北側)の北丘に亀井家一族の墳墓が祀られている。

 説明板によると、玆矩は譲傳寺を建立した際、一族の供養塔をここに設置した。



 全部で五基あり、内容は次の通り。なお、玆矩本人の墓は、この場所ではなく、次稿で取り上げることにする。

1、湯(亀井)永綱(玆矩実父)
    永禄12年(1569)7月17日討死
(これは、以前取り上げた島根県出雲市佐田町の「高櫓城」での、城主熊谷信正と尼子勢の戦いが、同年7月に行われたので、この時戦死したものと思われる。)
 戒名 芳林善誉大居士
※おそらく上写真の中央のものが、亀井永綱のものと思われる。

2、玆矩実母(多胡辰敬の娘)
 戒名不詳 五輪塔

3、玆矩の長男(母:亀井秀綱の二女)
  幼名 鬼太郎 7歳天逝
 戒名 魁玄智雄禅童子
【写真左】その2
 全体にどの五輪塔も大型であるが、右端のものは特に巨大で、高さは優に2mはあるだろう。





4、松平玄蕃頭忠清(徳川家康の甥:三州吉田城主:玆矩次室の娘時子の聟)
  慶長17年(1612)4月20日没
 戒名 機叟勝全大居士

5、不詳
 戒名 孤月妙圓禅定尼
【写真左】墳墓の周辺部
 北側の尾根先端部に当該墓地があるが、この尾根筋には旧道が残っている。しかもこの道は、最終的に譲傳寺を囲むように、南側の丘陵地まで伸びている。

 このことから、これらも含め、前稿で記したように、譲傳寺裏山が城跡であったことを考慮すると、すでにこの付近も当時の城域範囲であった可能性が高い。


【写真左】譲傳寺遠望

鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)

鹿野城(しかのじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
●登城日 2010年4月24日
●築城期 不明
●築城主 志加奴氏(鹿野氏)
●標高/比高 200m/140m
●城主 志加奴氏、山名氏、亀井氏、池田氏
●形式 山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭等
●別名 志加奴城、鹿奴城、王舎城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」その他)
旧気高郡鹿野町にあった山城(平山城)で、特に有名な城主としては、これまで度々紹介してきた山中鹿助の義兄弟でもあった亀井玆矩・通称新十郎である。

写真左】鹿野城遠望
 当城西麓側、鹿野小学校付近から撮ったもので、天守台は写真の妙見山(最高所)に設置されていた。




 鹿野城のある鹿野町鹿野は、現在の鳥取市の西部に当たり、北部の日本海側より3,4キロ南方に入った谷間に開かれた城下町である。

 築城期は不明だが、「鹿野小誌」によると、築城者は橘氏というから、平安期にはすでに同氏が土着し、国人領主となっていたと思われる。

写真左】鹿野城跡公園案内図
 亀井玆矩の時代に大幅な改築が行われた。当時の主だった施設の規模は次の通り。
本丸 天守12m四方、詰の丸15m×5.5m
二の丸 11m×7m
三の丸 21m×19m
西の丸 39.5m×19m

また、内堀の外にも出丸を築き外堀をめぐらした。
 図にある中学校の敷地なども当時の城跡である。



 鹿野城の歴史を概括すると、次の三つの時期に整理できる。

(1)南北朝・室町初期時代

 室町時代初期、因幡守護だった山名氏の家臣として志加奴(しかぬ)氏が仕えたという。明徳2年(1391)、山名氏清・満幸の強大な勢力を恐れた将軍・足利義満が、巧妙な策を弄して同氏を陥れようとした。

 これに対し、山名氏が挙兵し、上洛したいわゆる「明徳の乱」があるが、その際、討死した氏清と共に「志加奴七郎」という武将の名も見える。
【写真左】登城口付近
 上記の案内図では右側(西側)に駐車場(東西に分かれて設置されている)があり、そこから中腹にある城山神社の鳥居をくぐり、階段を登るコースと、写真にみえる左側の坂道を登っていくコースがある。 途中で両道は繋がり、城山神社へ向かうコースになる。



(2)天文年間

 天文12年(1543)出雲の尼子晴久は、伯耆・因幡両国を一気に攻め落とそうと押し入った。このとき、天神山城の山名氏は、因幡国西端部で、阻止すべく、日本海側の大崎城と、鹿野城に拠った。
 大崎城は、ほとんど一戦も交えず陥落し、残った鹿野城には、城将・志加奴入道がわずか三百の手兵で応戦・激闘したが、あえなく自刃した。
【写真左】郭跡
 登城口から坂道コースを通ると、すぐに北側に突き出た郭が見える。特に表示板のようなものがないので、具体的にどんな用途のものだったかわからないが、場合によっては矢倉が設置されていたかもしれない。
 写真の左側下には駐車場があり、右側には中学校のグランドがある。


(3)亀井氏時代

 天正8年(1580)、24歳のとき鹿野城の城番に任ぜられ、翌年鳥取城攻めの功労が認められ、気多郡13,800石を与えられ、鹿野城主となったのが、冒頭で述べた亀井玆矩である。

 その後、関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、高草郡24,200石を加増された。玆矩は慶長14年正月に家督を嗣子・政矩に譲り、同年4月には、さらに久米・河村両郡から5,000石の加増があり、合わせて43,000石の所領となった。 なお、玆矩は慶長17年正月26日、鹿野城において病没した。享年56歳。
 その後、政矩は元和3年(1617)幕府の命によって、石見国津和野に移封、三本松城主となった。

【写真左】西の丸御殿跡
 現地の説明板より

西の丸御殿跡

 鹿野城跡の山城部分の曲輪の中で、一番広い曲輪であり、入口(東の山側)付近に井戸があったという。曲輪の西半には、南北七間半(約16m)、東西八間(約17m)に礎石の配列が残っている。

 これは、初代藩主亀井玆矩の隠居所(西の丸)の跡といわれ、本瓦葺の書院造りの殿舎が建てられ、また海外の珍奇の材で一室を構えたという「唐木御殿」もここにあったのだろう。”

【写真左】城山神社本殿
 当社延喜(説明板より)

城山神社(しろやまじんじゃ)
 祭神は須佐之男命。亀井氏在城中は、城内鎮謹の神社として祀られました。

 社殿は精緻を極め、彫刻も見事なものです。また祭礼は文化10年(1813)から、古式を守り伝えて今に至り、祭礼および獅子舞は、県の無形民族文化財に指定されています。

 毎年4月第1日曜日から三日間公開されています。”
 この設置場所も、元は曲輪だった可能性がある。
【写真左】本殿その2
 外側の建物は平成20年に竣工している。写真にある社殿を保護するために、「鞘がけ」と拝殿建替をしたとある。

 明治に造られたようだが、彫刻は全面にわたって力強く、しかも優美である。







【写真左】城山神社から北麓の鹿野町町並みを見る。
 写真にある池は元の水堀跡。









【写真左】本丸直下の郭
 山の配置上、鹿野城は北東部に突き出した稜線上に造られ、写真に見えるこうした腰郭状の段が、天守台までに4段程度構成されている。いずれも三角形の形状で、小規模な山城の割に、郭の面積は広い。
 これは、北東部の鳥取城を意識したためと思われる。





【写真左】天守台直下
 上記の郭からすぐ西に設置されているのが、天守台跡だった主郭である。
 高さは4m前後だろうか。









【写真左】天守台跡
 下の図面のように、ほぼ正方形の形状で、礎石跡が確認できる。










【写真左】天守台基礎図
 上段で記したように、約10m四方の礎石列の外側2mに14m四方の外側線と、その基底部に根石が残っており、14m四方の石垣の上に、本瓦葺、入母屋造りの三層の建物がそびえていたという。














【写真左】天守台跡から、北西部にある譲傳寺を見る。
 譲傳寺は、次稿で取り上げる予定だが、亀井玆矩の菩提寺とされている。
 また、同寺の背後にある山は、元城跡のあったところで、右側の突き出した丘陵上には、亀井家一族の墳墓が建立されている。






【写真左】鹿野城跡公園
 手前が元の内堀で、奥の橋の向こうが外堀になっている。
 なお、写真右側の内堀と外堀の間には、鹿野中学校の校舎などが建っている。

2010年4月23日金曜日

私部城(鳥取県八頭郡八頭町市場)

私部城跡(きさいちじょうあと)

●所在地 鳥取県八頭郡八頭町市場
●登城日 2008年7月5日
●築城年 不明(室町時代前期か)
●築城者 因幡毛利氏
●城主 毛利貞元、毛利豊元、山名宗詮、牛尾大蔵、大坪一之等
●別名 市場城、私都城、紀佐市城
●標高/比高 260m/120m

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 前稿「妙見山城」の西麓を走る若桜街道を南下し、八頭町に入り、若桜街道から東に枝分かれした麻生国府線(県道282号線)を南東方向に向かうと、市場という地区にぶつかる。
 同線は私都川と並行して流れているが、この川の南に突き出した山に私部城がある。当地である私部(きさいち)は、私都とも書く。
【写真左】私部城遠望
 北西方向から見たもので、右側の山を越えると若桜街道に出る。左の谷を進みさらに途中で北に分岐した道を登っていくと、兵庫県境にある扇ノ山(1309m)に繋がる。

 またそのまままっすぐ向かうと、やはり若桜の方に出る。 後段で示すように、山中鹿助らが度々若桜鬼ヶ城と往来する際に使用したコースは、おそらくこの左側の谷から、山志谷(やましだに)を越えて若桜に繋がる岩美八東線(37号線)だったと思われる。


 この地域は室町期から度々、但馬守護であった山名氏と抗争を続けてきた所である。当地の国人領主だった因幡毛利氏は、八東郡に本拠を置いた矢部氏らと組み、山名氏の介入を阻止し続けている。
 その後、永禄年間になると、因幡毛利氏は山名氏と和睦をしているが、それもつかの間で、出雲の尼子氏や、安芸の毛利氏などが入ってくると、めまぐるしく状況が変化していった。
【写真左】登城口付近に設置してある私部城の説明図
 詳細な図である。図の脇に書かれている内容を読むと、昭和56年4月から58年4月まで、10数回現地を踏査し、作図したとある。

 当城の規模は、南北600m、東西400mとあり、伝承では、遺構名として、本丸、馬場が平、玄蕃が平があったという。


 「陰徳太平記」では、矢倉、一の城戸、甲の丸、三の曲輪、門前、という名称が記されていたという。
 それにしても、この図を見たとたん、あまりの郭の数の多さに驚いた。確かに、10数回も踏査しなければ、これだけの遺構を確認はできないだろう。


山中鹿助の動き

 山中鹿助が一旦因幡を離れ、再び当地に入ってきたのは、天正元年(1573)の暮れである。この当時、因幡では吉川元春が在陣し、因幡の主要な領地を押さえていた。元春は因幡の平穏を見届けると、同年10月初旬、一旦陣を引き上げ富田城へ帰還した。
【写真左】同図右下に図示された私部城附近の他の城跡配置図
 中央部に私部城があり、右側に大坪城が示されている。私部城の上部(西側麓)に、殿屋敷というところがあるので、当時はこの場所に住まいをしていたということだろう。


 すると、この機を見ていた鹿助らは、明くる天正2年正月、最初に鳥取城を攻めた。しかし、失敗し、次に狙いを定めたのがこの私部城だった。

 記録によると、私部城を攻めたのは正月5日となっているので、鹿助の変わり身の早さには驚く。基本的に彼の戦法は、大軍を率いて攻めるというより、ゲリラ的な手法が多いようだ。
【写真左】登城口付近
 上記説明図板の前の道路(道は狭い)を挟んで、反対側に登城口がある。
 なお、駐車場は説明板の左側に普通車2台程度確保できるスペースがある。ただ、1台はすでに地元の人の車が駐車してあるので、実質1台である。


 ところで、私部城のある市場地区より手前に、大坪という地区がある。今では全く標識もなく、単なる小山にみえるが、当時この場所に私部城の前城として大坪城が構築されていた。別名「鷲が城」ともいう。

 おそらく、鹿助が私部城を陥れる際には、当城でも前哨戦が行われたと思われる。

 さて、私部城での戦いでは、当時牛尾大蔵姫路玄蕃が立てこもっていた。三の丸を守備していた姫路玄蕃は、鹿助らの軍に追いやられ、本丸まで後退したものの、勝敗はつかず、鹿助は一旦兵を引き揚げたとある。おそらく別の場所へ向かう必要が出てきたものと思われる。
【写真左】登城路
 上記集落を過ぎてすぐに写真にある角に突き当たる。ここから左に折れて行くと、次第に登り坂になっていく。




 その後、3月になると、私部城には大坪一之が入ってくる。 その後の経緯については、諸説がいろいろあり、詳細ははっきりしないが、大坪一之は途中から私部城を出てしまっている。

 天正3年(1575)春になると、鹿助や尼子勝久らは若桜鬼ヶ城に入城、また亀井新十郎(玆矩)を大将として、山名藤四郎、横道源介、森脇市之正らは、この私部城に入り、二城とも尼子方の手中になった。

【写真左】かえる岩
 この写真の位置に来るまでに、数カ所の郭段が構成されている。
 このユーモラスな岩を見た時、思わず笑ってしまった。自然が作り上げたものだが、山中鹿助らが当城にいた戦国期、武将や将兵らもこの岩を見て、おそらく、同じように笑いが出たかもしれない。



 当然、毛利方としてもそれらを奪取しなければならない。当初、毛利方として山名豊国と牛尾大蔵にその任務が下った。
 しかしなかなか落ちず、時間がかかったものの、森脇、横道らが降参し、再び私部城は毛利方の手におちた。
 若桜鬼ヶ城にあった尼子勝久らは、私部城の落城を知り、しかも毛利方が次第に因幡国を包囲し始めたことから、尼子方は短期の内に因幡から一旦引き揚げた。

 どちらにしても、このころの因幡の情勢は日々刻々と変化した動きであったことや、鹿助の神出鬼没な行動について、記録も断片的なものしかなく、実際はこれ以上の多様な動きがあったものと思われる。
【写真左】途中の郭
 上記したように、当城の郭の数は極めて多く、ある程度の写真を撮っていくと、どのあたりのものだったかわからなくなる。
 記憶に間違いがなければ、「玄蕃ガ平」といわれる当城最大の郭だと思われる。

【写真左】本丸下の郭から、本丸側の石垣跡を見る。
 石積み遺構は全体に崩れた個所が多く、原形を留めている部分は少ない。

 なお、本丸跡の写真も撮っているが、現地はほとんど整理されておらず、雑木笹竹の繁茂した風景のため、割愛させていただく。
【写真左】堀切
 下山途中にみえた堀切。堀切などもこの個所以外に多数あると思われるが、時間がないため確認していない。

【写真左】登城途中から国府町方面を見る。
 本丸からは眺望は全く望めないが、途中の郭付近から北西方向に眺望が確保されている。
 この写真の中央部奥が、国府町や、鳥取市街方面にあたる。

妙見山城(鳥取県鳥取市杉崎)

妙見山城(みょうけんやまじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市杉崎
●登城日 2008年11月30日
●築城期 不明(天正年間か)
●城主 秋里玄蕃充
●遺構 郭等
●形式 平山城

◆解説(参考文献「日本城郭大系 14巻」等)

 所在地は、前稿の甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)から、南西方向に約2キロ余り向かった杉崎という地区にある。
 JR因美線の津ノ井駅からいえば、北東約600m向かった位置に、こんもりとした丘が見える場所である
【写真左】妙見山城の南西麓にある「深相寺」という寺院の入口 この写真の手前左側に杉崎神社に向かう道があり、そこから登っていく。




 標高の低さ(比高50m程度か)から考えると、山城というより平城に近いものだが、南麓部の傾斜はかなり角度をもっているので、要害性も多少は加味された城砦と思われる。

 ただ、後段で紹介する杉崎神社付近の平坦地などを見ると、屋敷跡としての施設もあったのではないかと思わせる遺構も認められる。
【写真左】杉崎神社入口の鳥居
 おそらく、妙見山城が廃城された段階で、当城もしくは、秋里氏を祀るため当社が建立されたのではないかと考えられるが、史料を持ち合わせていないので何とも言えない。

 当城に向かう道は、この道しか他になかったように思われる。




 「日本城郭大系14巻」によると、天正の初め、高草郡秋里(鳥取市秋里)の城主・秋里玄蕃充が、山中鹿助が因幡国に侵入した際、与力としてここに築城し、武田高信に対峙した。

 その後、秋里氏は、豊臣秀吉が鳥取城攻めを行った際は、吉川経家側鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)参照)に属した。その段階で当城は廃城になったといわれている。

【写真左】杉崎神社本殿
 本殿は小規模なものの、境内は広い。









 秋里玄蕃充は、前稿甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)で紹介した今木山城主・秋里左馬充と同族と思われ、地どりから考えて、今木山城の西方地域の支城として使用された可能性が高い。

 なお、同じく前稿で紹介した「杉崎の亥子山(猪ノ子山)」城については、「因幡志」によると、天文年間(1547年頃)、別所弾正が在城したと、あるが、おそらくこの亥子山城とは、この妙見山城のことと思われる。
 
写真左】境内周囲の竹藪
 現在は御覧のような状態だが、北西部を中心として、数カ所の段丘が認められるので、あるいは土塁跡だったかもしれない。
【写真左】下山途中に見えた五輪塔と石碑
 妙見山城を南麓から下って、幹線道路に入る途中に見えたものだが、左側のものは小規模ながら五輪塔と思われる。石碑の刻文は判読が困難なため、内容が分からない。

2010年4月21日水曜日

甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)

甑山城(こしきやまじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市国府町町屋
●登城日 2010年3月5日
●標高 110m(比高80m)
●遺構 主郭、竪堀、郭等
●築城期 南北朝初期ごろ
●城主 平貞泰、西垣長兵衛、山中鹿助

◆解説(参考文献「国府町誌」、「日本城郭大系14巻」新人物往来社、等)

 甑山城のある国府町は、その名が示す通り、当時の因幡国に国府が置かれたことに由来している。現在、鳥取市と合併しているが、大古・中世の頃は、この地域が因幡地方の中心地であったようだ。
 当然重要な史跡も多く、武内宿禰を祀る因幡一の宮・宇倍神社や、古代当地を治めていた豪族・因幡伊福部氏の伊福吉部徳足比売墓跡などもある。その他掲載写真でも紹介しているが、因幡国庁跡や、甑山の麓には最近できた因幡万葉歴史館などもある。
【写真左】甑山城遠望
 南西麓から撮ったもので、底の深いお椀を逆さにしたような形である。







 さて、甑山城については断片的な記録しか残っていない。先ず本丸跡に設置された説明板によって概説しておく。

甑山(こしきやま)  (国府町町屋)


写真左】登城路
 登城口は、当城の西麓の谷奥に墓地があり、その付近から案内板が表示されている。

 一旦尾根鞍部まで行き、そこから南北に分岐しているので、南の尾根伝いに向かう。写真はその尾根筋の途中で、本丸まで400mの地点。


 甑山にはいろいろな伝説がある山です。例えば、武内宿禰が因幡国に攻め入ったとき、この山に甑を据えて食べ物を蒸し、兵をねぎらった。その「こしき」にちなんで甑山と名づけられたとか、あるいは、大昔、岡益のタタラ大名(明)神が甑山と、今木山をモッコになってここまで来たが、担い棒が折れて、この地に置き去りにしたというような伝説です。

 しかし、最も有名なのは山城です。建武4年(1337)、平因幡守貞泰が要害として甑山城を守備していますし、天正元年(1573)には、山中鹿助鳥取城主武田高信との合戦のとき、陣取った城です。

 武田高信は、五百の兵でこの城を攻め落とそうとしましたが、美歎(みたに)川や国府川の天然の濠に囲まれた甑山城を攻め落とすことができず、逆に失敗し、鳥取城に逃げ帰ったということです。
 この合戦は「たのも崩れ」と呼ばれており、8月1日、八朔(はっさく)の日であったのでそう言われています。”
【写真左】途中に見えた五輪塔のような石造物
 険峻な南側の峰に、北側から伸びた尾根が繋がっている形状だが、このあたりから郭や、竪堀の遺構が点在している。写真はその内の郭に見えた五輪塔のようなもの。



 このころの因幡国は、初期の領主であった山名氏と、山名氏の元家臣であった武田高信鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)参照)が対立し、武田高信は鳥取久松山の鳥取城主になり、山名氏はそれを奪回すべく、武田氏と攻防を繰り返していた。

 武田高信が久松山(鳥取城)を手にすることができたのは、背後に毛利元就の支援があったからである。一方、山名氏は高信に追いやられ、豊数がその後病死すると、そのあとを弟の豊国が山名氏を引き継いだ。
【写真左】途中に見えた塹壕のような遺構
 長さ10m程度で、深さは1mぐらいのものだが、これは戦国期のものでなく、昭和の太平洋戦争当時、地元で訓練のために造られたものとされている。



 元亀3年(1572)山中鹿助は、尼子再興を目指し浦富の桐山城を奪取し、その後この甑山城に入った。
 鹿助の狙いは、毛利の支援を受けている久松山の武田高信を降すことである。また、山名豊国にとってもその目的は同じだった。ただ、間接的には豊国も毛利氏の援護を必要としていた。
【写真左】本丸直近部
 甑山城の独特の地形である屹立した主郭を中心とする部分は、全周囲が急峻な切崖状態を構成している。ただ、北部から繋がる尾根のコースからは、多少その角度を緩和させている。

 接続部手前に小規模な郭を置き、すぐ先には東西に竪堀を置き、以後左右に屈折しながら急坂の道を登っていく。主郭周囲には不規則ながら同心円状に幅の狭い郭が巻きついている。



 この間の動きについて、「陰徳太平記」によれば、鹿助は元亀3年、丹後から船で因幡巨濃郡岩本に着岸し、日々屋(日野の旧地名)に居住し、浦富桐山の城を修理して居城とし、やがて法美郡国府の甑山に立てこもるに至った。その後近辺の国人領主で、味方するものは懐け、敵対するものは戦いして、当時武田氏に与していた今木の法華寺(秋里氏)、杉崎の亥子山、岩倉の尺山などの各城主も味方につけた、と記している。
【写真左】本丸跡に建つ展望台
 主郭付近の規模はおおむね10m四方の大きさで、写真にあるように展望台が設置されている。眺望は西方から北方が確保されているが、東方は雑林で遮られている。

 なお、この展望台の南から東にかけて、L字状の溝が残っている。これも先ほどの塹壕のような痕跡と見られるので、やはり戦時中(昭和)の訓練のために施工されたものだろう。また、南から東にかけての帯曲輪が数段明確に残っているが、西方にも1,2段あるように見えた。


 因幡国の覇権をめぐって武田方と、山名方に分かれた状況下でもあったことから、他の国人領主としては、一時的に与することはあっても、常に戦況の変化に応じて、いつでも鞍替えするというような考えだった。
【写真左】本丸跡展望台から北方に久松山(鳥取城)を見る。
 展望台からは写真のように、鳥取城を見ることができる。ただ手前の山が大分遮っているので、久松山の上部のみしか確認できない。



 そこへ、カリスマ的存在として、因幡国にもその名が広まっていた鹿助の登場である。
 前記したように、鹿助の元に馳せ参じた者は少なくなかった。

 同年(元亀3年)8月、久松山の武田高信は、500余騎で甑山城を攻めた。しかし、要害堅固な当城は戦う前から困難が伴い、ほどなく攻めから転じて、敗走するはめになった。しかも、前掲した隣の今木山城主・秋里左馬允が、鹿助の援護に入ったため、武田軍は大崩れとなって鳥取城に逃げ帰った。
【写真左】展望台から北西に鳥取市街・袋川を見る。
 袋川は千代川の支流で、5,6キロ先で合流し、日本海に注ぐ。




 その後、合戦場は鳥取城へと移っていくことになった。これ以後の動きについては、いずれ鳥取城を取り上げる際に紹介したいと思う。

【写真左】展望台から「因幡国庁跡」を見る。
 写真中央の田圃の中にぽつんと残っている。後方の山は、南北朝期に山城としても使われたという伝承の残る「面影山」。
【写真左】今木山遠望

 今木山は、前記したように秋里左馬充が居城とした山城でもある。当日は時間がなく断念したが、いずれ機会があったら登城してみたい。

 なお、現地の因幡万葉歴史館に当山の由来が記された説明板があったので転載しておく。

今木山

 国府平野にある甑山・今木山・面影山は、因幡三山と呼ばれています。今木山は法花寺集落の東南にあり、高さ約89mの山で、古代に海を渡って新しく来た人(帰化人)が住んでいたとされ、今来の山ともいわれて親しまれてきました。

万葉集に次の歌があります。

 藤波の散らまく惜しみ ほととぎす 
        今木の丘を鳴きて越ゆなり
               (読み人知らず)
平成11年  国府文化協会”