福王寺の五輪塔・宝篋印塔
(ふくおうじのごりんとう・ほうきょういんとう)
●所在地 岡山県真庭市蒜山中福田252
●探訪日 2010年4月5日
●創建 平安時代初期(延喜元年:901)
●祭神本尊 薬師如来
●宗派 真言宗御室派
◆解説(参考文献「『蒜山の文化財第4集』、『蒜山の文化財』平成17年版」、サイト「真言宗御室派東光山瑠璃院 福王寺」等)
今稿は山城ではないが、前稿「徳山屋敷」のあった場所より3キロほど東方にある古刹・福王寺を取り上げる。
当院については、やはり昨年11月19日に取り上げた「蒜山・徳山の五輪塔群」の紹介の際、末尾に少し触れているが、今回やっとその場所を突き止め、探訪したので改めて報告したい。
【写真左】福王寺の境内・本堂
中国49薬師霊場第4番札所。
所在地は国道482号線より北側の脇道を入った中福田というところにある。
侵入口の道路は大変に狭いので、場合によっては、手前の空地(小学校跡地か)に停めた方がいいかもしれない。
写真中央にある建物が本堂で、この中に真庭市指定文化財の天井絵がある。また多数の五輪塔はその左側墓地にある。上部の建物は鐘撞堂。
当院の沿革
延喜元年(901)、菅原道真が九州へ左遷されるとき、彼の盟友で仁和寺の高層・弥宗が、故あって本尊(薬師如来)を伴い、この地に白雲山西念寺を建てる。
文明13年(1481)、美作国守護職・山名刑部少輔清成、山王権現社を建立し鎮守とする。大永年間(1521~27)、局地的豪雨による洪水が発生し、本堂等流失、以後現在地へ移転・再建し「東光山福王寺」とする。
五輪塔群
昭和56年、当院の西側斜面を墓地改修工事していたとき、約250体の五輪塔が出土。それ以来、蒜山各地から出土した五輪塔をこの場所に祀るようになり、現在500体以上の数を数える。
年代は鎌倉時代から江戸時代までのものといわれている。その中の最も大きいものは、宇喜多秀家の正室といわれた「豪姫」のものもある。
【写真左】多数の五輪塔群
この場所右側は一般の墓地になっており、五輪塔群は後部法面に並べてある。
【写真左】宇喜多秀家の正室・豪姫の五輪塔
宇喜多秀家については、つい最近NHKのテレビで放送されたが、朝鮮の役で功をあげ、秀吉から五大老の一人に任じられた武将である。
その後、関ヶ原の役で、西軍であったため、同氏は改易され、一旦薩摩の島津氏に匿われたものの、島津氏が徳川方に下ったため、秀家は家康側に引き渡され、慶長11年(1606)八丈島に流罪となった。
正室だった豪姫は、前田利家の四女だったが、秀吉の養女としてかわいがられ、15歳のとき秀家に嫁いだ。その後、八丈島に流罪となった夫と離別させられ、再び生まれ故郷金沢に戻ったものの、許可を得て、八丈島の秀家に食料を送り続けたといわれている。そして寛永11年(1634)に61歳で亡くなっている。
写真の左にある石碑には、地元・蒜山の伝えられている「大宮踊りの振付の師なり」と刻文されている。一時期、秀家は美作・備前を領有しているので、このころの出来事だったと思われる。ただ、豪姫が踊りの振付をしたとあるが、むしろ派手好みだった秀家が振付をしたのでは、と思いたくなる。
宝篋印塔
地元の参考文献である「蒜山の文化財」等や、当院のサイトにも載っていないが、「豪姫」の五輪塔の隣に大型の宝篋印塔が建っている。
【写真左】宝篋印塔
脇にある石碑には、この墓を「藤原藤房の墓」とし、次のように記してある。
“藤原藤房の墓
元弘2年(1332)後醍醐天皇隠岐に配せられ給う 明けて3年伯耆名和長年を首領として美作の輩とも挙げて天皇を船上山に迎え奉る。
当時、福王寺が軍議の密会所にあてられた。
天皇の重臣藤原藤房が建武中興後宮を辞して当山に寄寓して世を去っている。
これらの事柄は口碑の伝えるところであり、現代史家の意見と合致している。この塔建立の当時は、美作の国は北朝方支配地で藤房の刻銘を見送ったと思われる。昭和56年春境内より出土、此の處に移す。
昭和63年11月吉日 この前に建てる”
藤原藤房については、諸説あり、特に晩年の動向がはっきりしない。一説には現在の茨城県土浦に配流され、当地で没したというのもあり、また別説では同県笠間市で没したというのもある。こうした事例は多くあり、今のところどれが真実かわからない。
その他
当院にはこのほかに、本堂の天井絵があり、地元の文人・安田覧水(らんすい)によって寛政9年に描かれている。
【写真左】五輪塔の後山にある堀切のような個所
五輪塔の後には比高20~30mの丘が控えているが、その入口付近に御覧のような大きな開口部が見えた。
踏面は土木機械のような痕跡があるが、堀切跡のようにも見える。
下の写真は、その丘に上がった部分だが、先端部が幅の広い土塁状の跡を残している。
想像だが、このあたり一帯が城砦もしくは、合戦跡のようにも思える。ただ、地元の史料(文化財)には、そのような記述は見当たらない。
【写真左】五輪塔の背後の丘頂部から東方に「粟住城」を見る
この写真に見える山の中で、おそらく一番高い山と思われるが、蒜山最大の山城「粟住城(あわずみじょう)」がある。
南北延長300m、標高605mの規模をもち、津山城築城の際、この山から建材を運び出したという。
いずれ登城してみたい山城だ。
(ふくおうじのごりんとう・ほうきょういんとう)
●所在地 岡山県真庭市蒜山中福田252
●探訪日 2010年4月5日
●創建 平安時代初期(延喜元年:901)
●祭神本尊 薬師如来
●宗派 真言宗御室派
◆解説(参考文献「『蒜山の文化財第4集』、『蒜山の文化財』平成17年版」、サイト「真言宗御室派東光山瑠璃院 福王寺」等)
今稿は山城ではないが、前稿「徳山屋敷」のあった場所より3キロほど東方にある古刹・福王寺を取り上げる。
当院については、やはり昨年11月19日に取り上げた「蒜山・徳山の五輪塔群」の紹介の際、末尾に少し触れているが、今回やっとその場所を突き止め、探訪したので改めて報告したい。
【写真左】福王寺の境内・本堂
中国49薬師霊場第4番札所。
所在地は国道482号線より北側の脇道を入った中福田というところにある。
侵入口の道路は大変に狭いので、場合によっては、手前の空地(小学校跡地か)に停めた方がいいかもしれない。
写真中央にある建物が本堂で、この中に真庭市指定文化財の天井絵がある。また多数の五輪塔はその左側墓地にある。上部の建物は鐘撞堂。
当院の沿革
延喜元年(901)、菅原道真が九州へ左遷されるとき、彼の盟友で仁和寺の高層・弥宗が、故あって本尊(薬師如来)を伴い、この地に白雲山西念寺を建てる。
文明13年(1481)、美作国守護職・山名刑部少輔清成、山王権現社を建立し鎮守とする。大永年間(1521~27)、局地的豪雨による洪水が発生し、本堂等流失、以後現在地へ移転・再建し「東光山福王寺」とする。
五輪塔群
昭和56年、当院の西側斜面を墓地改修工事していたとき、約250体の五輪塔が出土。それ以来、蒜山各地から出土した五輪塔をこの場所に祀るようになり、現在500体以上の数を数える。
年代は鎌倉時代から江戸時代までのものといわれている。その中の最も大きいものは、宇喜多秀家の正室といわれた「豪姫」のものもある。
【写真左】多数の五輪塔群
この場所右側は一般の墓地になっており、五輪塔群は後部法面に並べてある。
【写真左】宇喜多秀家の正室・豪姫の五輪塔
宇喜多秀家については、つい最近NHKのテレビで放送されたが、朝鮮の役で功をあげ、秀吉から五大老の一人に任じられた武将である。
その後、関ヶ原の役で、西軍であったため、同氏は改易され、一旦薩摩の島津氏に匿われたものの、島津氏が徳川方に下ったため、秀家は家康側に引き渡され、慶長11年(1606)八丈島に流罪となった。
正室だった豪姫は、前田利家の四女だったが、秀吉の養女としてかわいがられ、15歳のとき秀家に嫁いだ。その後、八丈島に流罪となった夫と離別させられ、再び生まれ故郷金沢に戻ったものの、許可を得て、八丈島の秀家に食料を送り続けたといわれている。そして寛永11年(1634)に61歳で亡くなっている。
写真の左にある石碑には、地元・蒜山の伝えられている「大宮踊りの振付の師なり」と刻文されている。一時期、秀家は美作・備前を領有しているので、このころの出来事だったと思われる。ただ、豪姫が踊りの振付をしたとあるが、むしろ派手好みだった秀家が振付をしたのでは、と思いたくなる。
宝篋印塔
地元の参考文献である「蒜山の文化財」等や、当院のサイトにも載っていないが、「豪姫」の五輪塔の隣に大型の宝篋印塔が建っている。
【写真左】宝篋印塔
脇にある石碑には、この墓を「藤原藤房の墓」とし、次のように記してある。
“藤原藤房の墓
元弘2年(1332)後醍醐天皇隠岐に配せられ給う 明けて3年伯耆名和長年を首領として美作の輩とも挙げて天皇を船上山に迎え奉る。
当時、福王寺が軍議の密会所にあてられた。
天皇の重臣藤原藤房が建武中興後宮を辞して当山に寄寓して世を去っている。
これらの事柄は口碑の伝えるところであり、現代史家の意見と合致している。この塔建立の当時は、美作の国は北朝方支配地で藤房の刻銘を見送ったと思われる。昭和56年春境内より出土、此の處に移す。
昭和63年11月吉日 この前に建てる”
藤原藤房については、諸説あり、特に晩年の動向がはっきりしない。一説には現在の茨城県土浦に配流され、当地で没したというのもあり、また別説では同県笠間市で没したというのもある。こうした事例は多くあり、今のところどれが真実かわからない。
その他
当院にはこのほかに、本堂の天井絵があり、地元の文人・安田覧水(らんすい)によって寛政9年に描かれている。
【写真左】五輪塔の後山にある堀切のような個所
五輪塔の後には比高20~30mの丘が控えているが、その入口付近に御覧のような大きな開口部が見えた。
踏面は土木機械のような痕跡があるが、堀切跡のようにも見える。
下の写真は、その丘に上がった部分だが、先端部が幅の広い土塁状の跡を残している。
想像だが、このあたり一帯が城砦もしくは、合戦跡のようにも思える。ただ、地元の史料(文化財)には、そのような記述は見当たらない。
【写真左】五輪塔の背後の丘頂部から東方に「粟住城」を見る
この写真に見える山の中で、おそらく一番高い山と思われるが、蒜山最大の山城「粟住城(あわずみじょう)」がある。
南北延長300m、標高605mの規模をもち、津山城築城の際、この山から建材を運び出したという。
いずれ登城してみたい山城だ。
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