妙見山城(みょうけんやまじょう)
●所在地 鳥取県鳥取市杉崎
●登城日 2008年11月30日
●築城期 不明(天正年間か)
●城主 秋里玄蕃充
●遺構 郭等
●形式 平山城
◆解説(参考文献「日本城郭大系 14巻」等)
所在地は、前稿の甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)から、南西方向に約2キロ余り向かった杉崎という地区にある。
JR因美線の津ノ井駅からいえば、北東約600m向かった位置に、こんもりとした丘が見える場所である。
【写真左】妙見山城の南西麓にある「深相寺」という寺院の入口 この写真の手前左側に杉崎神社に向かう道があり、そこから登っていく。
標高の低さ(比高50m程度か)から考えると、山城というより平城に近いものだが、南麓部の傾斜はかなり角度をもっているので、要害性も多少は加味された城砦と思われる。
ただ、後段で紹介する杉崎神社付近の平坦地などを見ると、屋敷跡としての施設もあったのではないかと思わせる遺構も認められる。
【写真左】杉崎神社入口の鳥居
おそらく、妙見山城が廃城された段階で、当城もしくは、秋里氏を祀るため当社が建立されたのではないかと考えられるが、史料を持ち合わせていないので何とも言えない。
当城に向かう道は、この道しか他になかったように思われる。
「日本城郭大系14巻」によると、天正の初め、高草郡秋里(鳥取市秋里)の城主・秋里玄蕃充が、山中鹿助が因幡国に侵入した際、与力としてここに築城し、武田高信に対峙した。
その後、秋里氏は、豊臣秀吉が鳥取城攻めを行った際は、吉川経家側(鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)参照)に属した。その段階で当城は廃城になったといわれている。
【写真左】杉崎神社本殿
本殿は小規模なものの、境内は広い。
秋里玄蕃充は、前稿甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)で紹介した今木山城主・秋里左馬充と同族と思われ、地どりから考えて、今木山城の西方地域の支城として使用された可能性が高い。
なお、同じく前稿で紹介した「杉崎の亥子山(猪ノ子山)」城については、「因幡志」によると、天文年間(1547年頃)、別所弾正が在城したと、あるが、おそらくこの亥子山城とは、この妙見山城のことと思われる。
【写真左】境内周囲の竹藪
現在は御覧のような状態だが、北西部を中心として、数カ所の段丘が認められるので、あるいは土塁跡だったかもしれない。
【写真左】下山途中に見えた五輪塔と石碑
●所在地 鳥取県鳥取市杉崎
●登城日 2008年11月30日
●築城期 不明(天正年間か)
●城主 秋里玄蕃充
●遺構 郭等
●形式 平山城
◆解説(参考文献「日本城郭大系 14巻」等)
所在地は、前稿の甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)から、南西方向に約2キロ余り向かった杉崎という地区にある。
JR因美線の津ノ井駅からいえば、北東約600m向かった位置に、こんもりとした丘が見える場所である。
【写真左】妙見山城の南西麓にある「深相寺」という寺院の入口 この写真の手前左側に杉崎神社に向かう道があり、そこから登っていく。
標高の低さ(比高50m程度か)から考えると、山城というより平城に近いものだが、南麓部の傾斜はかなり角度をもっているので、要害性も多少は加味された城砦と思われる。
ただ、後段で紹介する杉崎神社付近の平坦地などを見ると、屋敷跡としての施設もあったのではないかと思わせる遺構も認められる。
【写真左】杉崎神社入口の鳥居
おそらく、妙見山城が廃城された段階で、当城もしくは、秋里氏を祀るため当社が建立されたのではないかと考えられるが、史料を持ち合わせていないので何とも言えない。
当城に向かう道は、この道しか他になかったように思われる。
「日本城郭大系14巻」によると、天正の初め、高草郡秋里(鳥取市秋里)の城主・秋里玄蕃充が、山中鹿助が因幡国に侵入した際、与力としてここに築城し、武田高信に対峙した。
その後、秋里氏は、豊臣秀吉が鳥取城攻めを行った際は、吉川経家側(鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)参照)に属した。その段階で当城は廃城になったといわれている。
【写真左】杉崎神社本殿
本殿は小規模なものの、境内は広い。
秋里玄蕃充は、前稿甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)で紹介した今木山城主・秋里左馬充と同族と思われ、地どりから考えて、今木山城の西方地域の支城として使用された可能性が高い。
なお、同じく前稿で紹介した「杉崎の亥子山(猪ノ子山)」城については、「因幡志」によると、天文年間(1547年頃)、別所弾正が在城したと、あるが、おそらくこの亥子山城とは、この妙見山城のことと思われる。
【写真左】境内周囲の竹藪
現在は御覧のような状態だが、北西部を中心として、数カ所の段丘が認められるので、あるいは土塁跡だったかもしれない。
【写真左】下山途中に見えた五輪塔と石碑
妙見山城を南麓から下って、幹線道路に入る途中に見えたものだが、左側のものは小規模ながら五輪塔と思われる。石碑の刻文は判読が困難なため、内容が分からない。
トミー様へ。
返信削除初めまして。マツケン(40歳男)と申します。わざわざ鳥取市杉崎までの訪問お疲れ様です。私は現在大阪府八尾市に住んでいますが、月に1回は最低2泊3日で杉崎の南側に当たる桂木の家に帰っており、今月の盆休みも8月10日~16日の間も鳥取に帰っていました(ただし内2泊3日は両親の隠居先である米子市泊です。足を伸ばして出雲大社や松江城にも行ってきました。大阪生まれの私の息子が大の島根県好き、松江城大好きですので、トミーさんと同じ山陰人として嬉しいです)しかし近所にこのような「妙見山城」というものがあったとは、全く知りませんでした。8月11日(水)は自転車で因幡三山である面影山や今木山に行きましたが、面影山は登山道が分からず途中で登山中止、今木山も神社入り口で犬に吠えられ退散でした。代わりとしてJR因美線西側にある大路山や中腹にある墓地までの階段を登って「何とか登山」したつもりです。もうひとつの因幡三山である甑山にもこの秋登山しようかなと考えています。トミー様の城址探索文を読むと、本当に「ふるさと再発見」の心境であり、心が洗われる思いです。今後も様々な探索大いに期待しています。
マツケン様へ
返信削除拙ブログ笑覧頂き、ありがとうございます。また御丁重なコメント、恐縮です。
妙見山城は、ブログにも書いているように一見すると山城には見えない小丘ですが、南方の八頭町付近から北に伸びる山並みの北端部にあたることから、戦略的には城砦として必要な場所だったことが分かります。
御存じと思いますが、因幡三山も実は山城です。ただ面影山は南北朝期といわれています。面影山、今木山、そして大路山も山城で、いつか登城したいと思っています。大路山には「比丘尼屋敷跡」というのがあるそうですが、時代ははっきりしません。
山城の登城時期としては夏は避けた方がいいと思います。ほとんどブッシュ状態で、蚊の大群、マムシ、そして何よりも高温多湿で体力消耗が半端ではありません。
また、この間石見の山の中を探訪していたところ、クマの子供に遭遇しました。近年山の管理が放棄された関係で、クマも命がけで食糧の確保のため降りてきているようです。
くれぐれもご注意ください。
体力と時間の許す限り、近在の山城を徘徊しようと思っています。
今後とも御笑覧のほどよろしくお願いします。
トミー拝