2010年4月12日月曜日

徳山屋敷跡(岡山県真庭市蒜山西茅部)

徳山屋敷跡(とくやまやしきあと)

●所在地 岡山県真庭市蒜山西茅部
●登城日 2010年4月5日及び2013年6月10日
●標高 450m前後
●規模 200m~250m
●築城期 南北朝後期
●築城者 徳山将監広照
●遺構 郭、堀切等

◆解説(参考文献「蒜山の文化財:蒜山文化財保護委員会等編)
 これまで何度もその脇を車で通っていながら、全く知らなかった山城・居館跡である。

 所在地は、米子自動車道の蒜山インターチェンジ直下にあり、ちょうど料金所を抜け、ぐるっと左に旋回し国道482号線との交差点に行くまで左手方向にみえる丘である。

 今までその景色は何度も見ていたが、この丘は、てっきり高速道路を造る際に出てきた余分な残土を積み上げたものだと思っていた。
【写真左】徳山屋敷跡遠望
 北側に走る国道482号線側から撮ったもので、手前は土地改良された田圃。写真右奥には、蒜山ICの料金所がある。

 南北に郭を構成し、中央に中型の堀切を残している。この写真では見難いが、右側にも堀切跡がある。



 今年になって、東方にある蒜山郷土博物館を訪れた際、「蒜山の文化財」という冊子を手にしたところ、当城の紹介が載っており、少なからず驚いた。

◎城主・徳山氏

 同冊子によると、城主徳山氏は蒜山地域の地頭職を代々務めた一族であるという。初代の徳山将監広照は、赤松氏配下の武将岩倉春時の家老職であった。美作守護山名時氏の攻撃によって、岩倉氏が滅亡した際、子の右馬丞(うまのじょう)と共に山名氏に帰順、一時紀州(現:和歌山県)に移り住む。

 しかし、明徳年間(1390~94)に山名氏に代わって赤松氏が再び美作守護に返り咲いたので、再び将監父子も当地・蒜山に帰ってくる。

 以来、徳山氏は戦国時代まで美作の国人として、この地方で一代勢力をなした。江戸期になると帰農し、山中タバコの販売や鉄山経営などを手掛け、上福田村の庄屋、中庄屋を務めるなど山中地方屈指の地主となった。

 また、徳山屋敷から南方に聳える波作利城(はさりじょう)(※)の城主岩倉氏が、冬季になると山頂の城から降りて、この屋敷に滞在したという伝承も残っている。
【写真左】さらに近付いて北側から見たもの
 郭の高さは現在7~8m程度だが、当時は右側にある田圃も城域と思われ、もう1,2段程度の郭があったものと思われる。

 なお、写真を撮った位置には小川が流れているが、これは岡山三大河川の一つ、旭川で当時はこの川が水堀の役目をしていたものと思われる。

(※)波作利城
 現在の「ひるぜんベアバレースキー場」の東麓にあった山城で、西峰の丸山から北東部に伸びた岩倉山の北麓部に築城されていたという。いずれ機会があったら探訪してみたい。

【写真左】東側に廻って撮った堀切
 屋敷跡とされているが、これだけはっきりとした郭や堀切を構成しているので、山城と定義した方がいいように思われる。

 想像だが、城域はこれらを含め、料金所や国道482号線と交差する位置付近まで城砦施設があったと思われる。



 なお、この屋敷跡地のすぐ近くに、道の駅「風の家」があり、昨年11月19日投稿で10数基の五輪塔群を紹介している。

 このことから、おそらく、これらは徳山氏一族のものと思われる。ただ、当初からこの位置にあったかは疑問に思え、高速道路の工事や、周辺の土地改良工事のため移設した可能性が高い。


追加写真

 2013年6月10日、近くのハーブ園に行く途中に、当城の看板が道路脇にあったのを見つけたので、追加しておきたい。
【写真左】説明板
 内容は、既述したものとほとんど変わりないため、転記は省略させていただく。
【写真左】遠望
 時節がら草丈が伸びてあまりいい写真ではないが、高くなった郭段の形は確認できる。

 なお、この写真は南側から撮ったものだが、蒜山ハーブガーデンハービルに向かう道の途中にある。

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