姫倉城(ひめくらじょう)
●所在地 高知県香南市香我美町岸本
●築城期 不明
●高さ 68.3m(比高60m)
●城主 姫暮氏、桑名丹後(長宗我部氏)等
●遺構 土塁、郭
●備考 土御門上皇歌碑・仙跡碑、こどもの森公園・月見山
●登城日 2013年8月4日
◆解説
姫倉城は高知県の旧香我美町(現香南市)にあって、安芸氏の武将姫倉氏の居城とされている。
位置的には、戦国期土佐の雄となった長宗我部氏の居城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)と、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の間にあることから、両氏による戦いがもっとも激しくなったところといわれている。
【写真左】姫倉城遠望
姫倉城の南端部を国道55号線と、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が走り、その南(左側)は土佐湾(太平洋)の長い海岸線が伸びる。
写真は東側の国道55号線沿いのコンビニから撮ったもの。
現地の説明板より
“史跡の森(姫倉城跡)
大忍荘は南北朝期から熊野新宮の領地で、戦国時代一部を除いて安芸氏の勢力下に入り、姫倉城は安芸の武将・姫倉右京の居城であった。
長宗我部元親の大忍討入りの時、長宗豊前が奪取して、姫倉豊前守と称した。天正14年、豊前守が九州戸次川で討死すると、嫡子太郎右衛門があとをついだ。
元親は天正の頃、家臣の持城の破壊を命じ、以来400年の幕を下ろすこととなった。
香我美町教育委員会”
【写真左】配置図
姫倉城(月見山)は、「四国のみち」という四国全土を歩く自然歩道のルートにも含まれているが、この図では上部に月見山が描かれている。
なお、中央部の香宗川岸に「香宗城」が描かれているが、別名「香宗我部城」といわれ、香宗我部氏の居城とされている。管理人は訪れていないが、小さな八幡宮が祀られている。
【写真左】月見山こどもの森総合案内板
姫倉城のある月見山は北側から伸びる細長い尾根上に築かれ、北側から「わんぱくの森」「つどいの森」などのエリアが設けられている。
このうち姫倉城は下段に示す「土御門上皇歌碑」がある「史跡の森」の中に位置づけされている。
ただ、この図には姫倉城の名称は入っておらず、最下段に書かれている「シバ広場・スベリ台」あたりになる。
姫倉氏と長宗我部氏
姫倉氏が仕えた主君は安芸氏である。安芸氏については、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)でも紹介したように、戦国時代になると土佐七雄の一人とされ、国虎は土佐一条家の房元の娘を娶り覇を唱えた。
長宗我部氏が土佐の制圧を開始して、さらに勢力を強めることになったきっかけは、以前紹介した本山氏の拠る朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)の攻略である。
【写真左】登城口
公園は南側から向かう道と、東側奥の駐車場から歩いて向かう道の二つがあるが、この日は後者のほうから向かったため、公園内をやや下りながら歩いていくとご覧の看板が見える。
ここから歩いて2,3分で城域に入る。
このころは朝倉城主・本山氏と、長宗我部氏の力は拮抗しており、両者とも土佐湾岸の掌握を目論んでいた。これは、具体的には浦戸湾岸地域を支配することによって、海上権益を得て土佐東西への足掛かりをつくるためであった。
【写真左】登城道
公園になったため、当時の登城道ではないと思われるが、雰囲気は十分に感じられる。
写真右側が既に中心部になる。
特に山岳部に本拠をもっていた本山氏などはこの狙いが強く、朝倉城を手中におさめていた同氏にとってもっとも重要な場所となっていた。
しかし、永禄6年に長宗我部氏が当城から本山氏を追放し、長宗我部氏がこの地域を抑えた。ここから長宗我部氏の土佐東西に侵攻する基礎ができた。
さて、東方侵略の一つである姫倉城攻めの際、長宗我部軍は陸路も使ったと思われるが、主だった隊はおそらく軍船を利用したのだろう。現在、姫倉城の南端部は太平洋の荒波が直接打ち寄せてはいないが、当時は殆ど海岸部の絶壁にあったものと思われる。
【写真左】二の丸か
最初に現れるのが主郭の北側に設けられた2幅10m前後の規模を持つ帯郭状のもので、二の丸的な位置づけのものと思われる。
この正面に本丸(主郭)が控える。
夏場のため草丈が長く伸びあまりいい条件ではなかった。
【写真左】さらに上にある本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
予想通りここも雑草が繁茂し、遺構の状況としては芳しくないが、凡その形状は確認できる。
直径凡そ15m前後の円形をなし、周囲には高さ1m前後の土塁が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
土塁を写しているつもりだが、これでは分からないかもしれない。
また、周囲の立木も南側を伐採すれば、土佐湾・太平洋が俯瞰でき、当時の状況がより把握できたかもしれない。
【写真左】再び二の丸へ降りる。
本丸の北西端には少し開口部があり、そこから階段と梯子状の通路が設置してある。大分古びた梯子を注意しながら降りる。
この位置での二の丸と本丸の比高差は約6,7m位だが、南(海側)はやはり敵からの侵入を意識していたのだろう、切崖状の箇所が多くみられた。
土御門上皇歌碑
ところで、姫倉城は北側から南の土佐湾岸沿いまで南に延びる月見山の先端部に当たるが、当城から尾根筋に北に向かうと、土御門上皇の歌碑が建立されている。
土御門上皇については、これまで、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)などで紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土御門上皇仙跡碑
裏には「大正11年3月 高知縣香美郡」と刻銘されている。
現地の説明板より
“土御門上皇土佐遷幸と歌碑建立の経緯
1221年(承久3年)後鳥羽上皇(82代天皇)が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げるも幕府によって鎮圧された「承久の乱」によって、父君、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ、弟の順徳上皇(84代天皇)は、佐渡の国(新潟県)へ、そして、土御門上皇(83代天皇)は、土佐の国、のちに阿波の国(徳島県)へ配流となった。
この事件以降公家政権は、急速に衰え幕府の優位は決定的となる政治史上画期的な事変であった。
【写真左】歌碑入口付近
北側から向かう位置で、公園内を南北に縦断する道の一角にある。
土御門上皇は、事変の局外者で後鳥羽上皇の倒幕を誅止したほどで幕府も処分する考えはなかったが、上皇は、一人都に留まることを心苦しく思われ、自らが願い出て土佐遷幸が決定した。
土御門上皇は、承久3年10月10日、供の者を従え香川県綾歌郡松山村に上陸、四国山脈、丹治川を超え、土佐に入国、そして、現四万十市蕨岡字天皇山に入った。
その後、畑(幡多郡)は小国にて御封米難で守護も困難とのことから、約6ヶ月後の承久4年5月に阿波の国に移られる途上、しばしの間、月見山多聞院常楽寺(現宝憧院)に皇居を構え、月見山で月を眺めし故、山号を月見山と申し、また当時「脇の磯の北、常楽寺の南腹にいかにももののふのふたりし老木の松があり、この松(延命松という)の上の月影を愛でされたと言われている。
【写真左】歌碑付近から南東方向を俯瞰する。
現在月見山から眺望できる箇所は周囲の木立のため余り多くないが、おそらく上皇もこの景色を眺めたことだろう。
土佐湾に突出した手結岬が見える。
土御門上皇の「土御門院御集」に掲載されている
「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず」
の和歌は、上皇が京の都を偲んで詠まれた常楽寺滞在中の作と言われる。
ここ、月見山山上には、上皇滞在を記念して大正11年(1922)「香美郡会」が発起となり当時の高知県知事「阿部亀彦」の揮毫による「土御門上皇仙跡碑」が建てられている。
【写真左】歌碑設置付近
月見山全体がこうした公園などに改変されたため、姫倉城としての遺構は南端部のみしか残ってないが、細長い尾根と東麓部の急峻さを見れば、現在の公園ほとんどが姫倉城の城域として構成されていた可能性が高い。
しかし、上皇が詠まれた歌碑はなく、有志より建立の話が持ち上がり、地元岸本でも、この和歌は歴史的にも関係の深い岸本ほか5ヵ村を鏡野になぞらえ「香我美町」と命名をしたと香我美町史に謳われていることから、地元有志も賛同、平成21年7月10日実行委員会を結成、同年11月3日(文化の日)を歌碑建立除幕式と定め、活動を行った結果、565名におよぶ人々から浄財を得ることができ、和歌は、京都の「財団法人 冷泉家時雨亭文庫」のご好意により重要文化財「土御門院御集」の筆跡から拡大彫刻することが許され、予定通り11月3日に完成の運びとなったものであります。
以上
平成22年4月3日
月見山土御門上皇歌碑建立実行委員会”
●所在地 高知県香南市香我美町岸本
●築城期 不明
●高さ 68.3m(比高60m)
●城主 姫暮氏、桑名丹後(長宗我部氏)等
●遺構 土塁、郭
●備考 土御門上皇歌碑・仙跡碑、こどもの森公園・月見山
●登城日 2013年8月4日
◆解説
姫倉城は高知県の旧香我美町(現香南市)にあって、安芸氏の武将姫倉氏の居城とされている。
位置的には、戦国期土佐の雄となった長宗我部氏の居城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)と、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の間にあることから、両氏による戦いがもっとも激しくなったところといわれている。
【写真左】姫倉城遠望
姫倉城の南端部を国道55号線と、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が走り、その南(左側)は土佐湾(太平洋)の長い海岸線が伸びる。
写真は東側の国道55号線沿いのコンビニから撮ったもの。
現地の説明板より
“史跡の森(姫倉城跡)
大忍荘は南北朝期から熊野新宮の領地で、戦国時代一部を除いて安芸氏の勢力下に入り、姫倉城は安芸の武将・姫倉右京の居城であった。
長宗我部元親の大忍討入りの時、長宗豊前が奪取して、姫倉豊前守と称した。天正14年、豊前守が九州戸次川で討死すると、嫡子太郎右衛門があとをついだ。
元親は天正の頃、家臣の持城の破壊を命じ、以来400年の幕を下ろすこととなった。
香我美町教育委員会”
【写真左】配置図
姫倉城(月見山)は、「四国のみち」という四国全土を歩く自然歩道のルートにも含まれているが、この図では上部に月見山が描かれている。
なお、中央部の香宗川岸に「香宗城」が描かれているが、別名「香宗我部城」といわれ、香宗我部氏の居城とされている。管理人は訪れていないが、小さな八幡宮が祀られている。
【写真左】月見山こどもの森総合案内板
姫倉城のある月見山は北側から伸びる細長い尾根上に築かれ、北側から「わんぱくの森」「つどいの森」などのエリアが設けられている。
このうち姫倉城は下段に示す「土御門上皇歌碑」がある「史跡の森」の中に位置づけされている。
ただ、この図には姫倉城の名称は入っておらず、最下段に書かれている「シバ広場・スベリ台」あたりになる。
姫倉氏と長宗我部氏
姫倉氏が仕えた主君は安芸氏である。安芸氏については、前稿土佐・安芸城(高知県安芸市土居)でも紹介したように、戦国時代になると土佐七雄の一人とされ、国虎は土佐一条家の房元の娘を娶り覇を唱えた。
長宗我部氏が土佐の制圧を開始して、さらに勢力を強めることになったきっかけは、以前紹介した本山氏の拠る朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)の攻略である。
【写真左】登城口
公園は南側から向かう道と、東側奥の駐車場から歩いて向かう道の二つがあるが、この日は後者のほうから向かったため、公園内をやや下りながら歩いていくとご覧の看板が見える。
ここから歩いて2,3分で城域に入る。
このころは朝倉城主・本山氏と、長宗我部氏の力は拮抗しており、両者とも土佐湾岸の掌握を目論んでいた。これは、具体的には浦戸湾岸地域を支配することによって、海上権益を得て土佐東西への足掛かりをつくるためであった。
【写真左】登城道
公園になったため、当時の登城道ではないと思われるが、雰囲気は十分に感じられる。
写真右側が既に中心部になる。
特に山岳部に本拠をもっていた本山氏などはこの狙いが強く、朝倉城を手中におさめていた同氏にとってもっとも重要な場所となっていた。
しかし、永禄6年に長宗我部氏が当城から本山氏を追放し、長宗我部氏がこの地域を抑えた。ここから長宗我部氏の土佐東西に侵攻する基礎ができた。
さて、東方侵略の一つである姫倉城攻めの際、長宗我部軍は陸路も使ったと思われるが、主だった隊はおそらく軍船を利用したのだろう。現在、姫倉城の南端部は太平洋の荒波が直接打ち寄せてはいないが、当時は殆ど海岸部の絶壁にあったものと思われる。
【写真左】二の丸か
最初に現れるのが主郭の北側に設けられた2幅10m前後の規模を持つ帯郭状のもので、二の丸的な位置づけのものと思われる。
この正面に本丸(主郭)が控える。
夏場のため草丈が長く伸びあまりいい条件ではなかった。
【写真左】さらに上にある本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
予想通りここも雑草が繁茂し、遺構の状況としては芳しくないが、凡その形状は確認できる。
直径凡そ15m前後の円形をなし、周囲には高さ1m前後の土塁が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
土塁を写しているつもりだが、これでは分からないかもしれない。
また、周囲の立木も南側を伐採すれば、土佐湾・太平洋が俯瞰でき、当時の状況がより把握できたかもしれない。
【写真左】再び二の丸へ降りる。
本丸の北西端には少し開口部があり、そこから階段と梯子状の通路が設置してある。大分古びた梯子を注意しながら降りる。
この位置での二の丸と本丸の比高差は約6,7m位だが、南(海側)はやはり敵からの侵入を意識していたのだろう、切崖状の箇所が多くみられた。
土御門上皇歌碑
ところで、姫倉城は北側から南の土佐湾岸沿いまで南に延びる月見山の先端部に当たるが、当城から尾根筋に北に向かうと、土御門上皇の歌碑が建立されている。
土御門上皇については、これまで、土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)などで紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土御門上皇仙跡碑
裏には「大正11年3月 高知縣香美郡」と刻銘されている。
現地の説明板より
“土御門上皇土佐遷幸と歌碑建立の経緯
1221年(承久3年)後鳥羽上皇(82代天皇)が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げるも幕府によって鎮圧された「承久の乱」によって、父君、後鳥羽上皇は隠岐の国(島根県)へ、弟の順徳上皇(84代天皇)は、佐渡の国(新潟県)へ、そして、土御門上皇(83代天皇)は、土佐の国、のちに阿波の国(徳島県)へ配流となった。
この事件以降公家政権は、急速に衰え幕府の優位は決定的となる政治史上画期的な事変であった。
【写真左】歌碑入口付近
北側から向かう位置で、公園内を南北に縦断する道の一角にある。
土御門上皇は、事変の局外者で後鳥羽上皇の倒幕を誅止したほどで幕府も処分する考えはなかったが、上皇は、一人都に留まることを心苦しく思われ、自らが願い出て土佐遷幸が決定した。
土御門上皇は、承久3年10月10日、供の者を従え香川県綾歌郡松山村に上陸、四国山脈、丹治川を超え、土佐に入国、そして、現四万十市蕨岡字天皇山に入った。
その後、畑(幡多郡)は小国にて御封米難で守護も困難とのことから、約6ヶ月後の承久4年5月に阿波の国に移られる途上、しばしの間、月見山多聞院常楽寺(現宝憧院)に皇居を構え、月見山で月を眺めし故、山号を月見山と申し、また当時「脇の磯の北、常楽寺の南腹にいかにももののふのふたりし老木の松があり、この松(延命松という)の上の月影を愛でされたと言われている。
【写真左】歌碑付近から南東方向を俯瞰する。
現在月見山から眺望できる箇所は周囲の木立のため余り多くないが、おそらく上皇もこの景色を眺めたことだろう。
土佐湾に突出した手結岬が見える。
土御門上皇の「土御門院御集」に掲載されている
「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず」
の和歌は、上皇が京の都を偲んで詠まれた常楽寺滞在中の作と言われる。
ここ、月見山山上には、上皇滞在を記念して大正11年(1922)「香美郡会」が発起となり当時の高知県知事「阿部亀彦」の揮毫による「土御門上皇仙跡碑」が建てられている。
【写真左】歌碑設置付近
月見山全体がこうした公園などに改変されたため、姫倉城としての遺構は南端部のみしか残ってないが、細長い尾根と東麓部の急峻さを見れば、現在の公園ほとんどが姫倉城の城域として構成されていた可能性が高い。
しかし、上皇が詠まれた歌碑はなく、有志より建立の話が持ち上がり、地元岸本でも、この和歌は歴史的にも関係の深い岸本ほか5ヵ村を鏡野になぞらえ「香我美町」と命名をしたと香我美町史に謳われていることから、地元有志も賛同、平成21年7月10日実行委員会を結成、同年11月3日(文化の日)を歌碑建立除幕式と定め、活動を行った結果、565名におよぶ人々から浄財を得ることができ、和歌は、京都の「財団法人 冷泉家時雨亭文庫」のご好意により重要文化財「土御門院御集」の筆跡から拡大彫刻することが許され、予定通り11月3日に完成の運びとなったものであります。
以上
平成22年4月3日
月見山土御門上皇歌碑建立実行委員会”