2013年12月17日火曜日

日和佐城(徳島県海部郡美波町日和佐浦445-1))

日和佐城(ひわさじょう)

●所在地 徳島県海部郡美波町日和佐浦445-1 城山城園内
●築城期 室町時代か
●築城者 日和佐肥前守
●別名 渭津城
●高さ 標高65m
●遺構 ほとんど消滅
●備考 城山公園(模擬天守) 日和佐勤労者野外活動施設
●登城日 2013年11月17日

◆解説
 前稿上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)から南に30キロ余り南下し、太平洋岸の入り組んだ海岸部に入ると、先の合併で新しく美波町となった旧日和佐町がある。この町には、四国霊場として有名な23番札所薬王寺がある。
 日和佐城は、この薬王寺から日和佐川・奥潟川河口を挟んで東方に聳える小山に築かれた山城である。当城の北麓から東に目を転ずると、風光明媚な太平洋の海岸部を俯瞰できる。
【写真左】日和佐城遠望
 奥潟川を挟んで西側から見たもの。
 左に進むと、日和佐港(太平洋)に出る。






 本丸跡に建っている模擬天守に、当城の概要を紹介した詳細な資料があったので、抄出しておく。

 現地の資料より

“「日和佐城と城主について」

 日和佐川の清流をこえて、北は日和佐の町並み東には黒潮洗う太平洋を見下ろし、また、西には名刹「医王山・薬王寺」の瑜祇塔(ゆぎとう)と相対する景勝の地に建っているのが日和佐城であります。

 この地は古来より城山と呼ばれており、今から440年ほど前の戦国時代といわれた室町後期、元亀・天正の頃の日和佐肥前守の居城の跡であるといわれております。
【写真左】模擬天守入口付近
 この位置まで整備された道が続き、手前には広い駐車場がある。







 阿波の国村誌には「日和佐壘地、城山と称す地位三段最も高きところ40間、東西14間、南北22間、石垣所々に散在」と記されております。

 中世末期の山城として水陸の要害の地であり、城の構えは守備に必要な柵や石垣の簡単な建物であったと思われ、今日のような天守閣の存在はありませんでした。

 室町幕府の末期において、日和佐にも郷村を中心として武力をたくわえ、中世の争乱の世に生きた土豪的武士団として、日和佐肥前守、濱隠岐守、日和佐和泉守との三説があるが、元亀・天正のはじめに日和佐に拠ったのは、日和佐肥前守であることが、日和佐肥前守の先祖である日和佐掃部助廣康が、長享2年(1488)に日和佐領主として書いた文書が子孫である高知赤岡に居住した濱家に所蔵されている。
【写真左】駐車場付近
 模擬天守側から南方を見たもので、この先からさらに高くなった尾根が続いている。






 日和佐肥前守は、ここを根拠地として阿波の守護であった細川真之を助けて、荒田野(阿南市)に出陣して軍功をたてております。

 天正3年(1575)海部郡に侵攻した土佐の長宗我部軍に対処することとなり、その主将香宗我部親泰の起請文を受け降伏したのが、天正5年11月17日のことでありました。

 当時、阿波は三好氏が勢力を誇っており、日和佐肥前守は主君である細川家再興のために三好氏を討つという共通の利害に長宗我部氏の武力を必要としたのであります。

 翌、6年9月12日には、長宗我部元親の起請文を受け忠節を誓っておりますが、日和佐肥前守はそれ以後記録上から姿を消しており、後継者となった城主は肥後守(ママ:肥前守か)の弟と推定される日和佐権頭であります。

 権頭は主君細川家の再興を願い、長宗我部軍に従いますが、その願いもむなしく、細川真之が天正10年丹生谷奥(旧鷲敷町)で亡ぶに至り、浪人となり大阪天満に蟄居した記録が残っていおります。
【写真左】模擬天守
 以前は資料館のような建物だったようだが、現在はめぼしい資料はあまりなく、展望台の用途としてのみ使われているようだ。



 長宗我部元親は、天正10年四国制覇を成し遂げますが、その後、羽柴秀吉の四国征伐に敗れ、土佐一国に退去を余儀なくされます。
 そのおり、元親は以前より見込んでいた日和佐権頭を連れて高知に帰っております。

 以後、権頭は日和佐姓から濱の姓を名乗り土佐赤岡を中心に郷村発展の基を築いております。
【写真左】展望台から日和佐湾・太平洋を見る。











 その後、江戸時代に入り、阿波に入国した蜂須賀家政もまた、権頭に諸奉行格として列せる旨の書面を送り日和佐帰参を勧めており、そこで権頭は四子のうち二子を連れて日和佐に帰り、日和佐の込潟(薬王寺の麓)に居を構え、近世を通じて重要な地方行政に参画しているのであります。
 このように、濱家は土佐、阿波両藩主より重用されたのであります。

 元日和佐城主である日和佐氏(濱氏)は、単に武勇の士だけでなく、時代的な才腕と声望が高かったことが窺われるのであります。”

【写真左】展望台から薬王寺を見る。












長宗我部氏の阿波侵攻

 長宗我部氏が阿波南部を攻略し始めたのは、天正3年(1575)の末ごろといわれている。最初に攻め入ったのが、土佐国に隣接する海陽町の海部城である。

 さらに北上して日和佐に入るが、説明板にもあるように、日和佐氏は当時阿波国の実質上の盟主となっていた三好長治に敵対しており、元の主君である細川真之を支援していたといわれている。
 
 ただ、上掲の資料とは別に、現地に祀られている城山神社由来記に書かれた内容と整合しない部分があり、なんとも判断がつかない。参考のため、関係個所のみ抜粋しておく。
【写真左】城山神社
 模擬天守のある敷地の一角に小規模な祠が祀られている。








“城山神社 由来記

 当地は、平安時代に「和射郷」の中心となり、鎌倉室町時代にわたり「日和佐庄」と呼び、安土・桃山時代(天正初期 1570年代)にこの地の豪族日和佐の後裔、日和佐肥前守が長宗我部勢の侵攻を防ぐため、標高60mのこの地に城を築いたとされている。

 天正5年頃、長宗我部勢の侵攻により落城し、日和佐肥前守一族は、軍門に下ったが住民はこの地を城山と呼び、また日和佐城址として親しんできた。当時は当時は東西が14間、南北が22間あり石垣も処々、昔を偲ばせるものもあったが、今は新日和佐城となっている。……(以下略)”
【写真左】薬王寺山門
 四国霊場の一つで、参拝者の人影が絶えることがない。









 日和佐氏に関する戦国期の史料は余り残っていないようだが、当城が海に面した実質上「海城」であったことを考えると、水軍城主としての面も持ち合わせていたと考えられる。
【写真左】薬王寺から日和佐城を遠望する。

1 件のコメント:

  1. 濵隠岐守が水軍だったと言われていますので、何か関係ありと思われます。親戚?

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