土佐・安芸城(とさ・あきじょう)
●所在地 高知県安芸市土居
●別名 安芸(安喜)土居
●築城期 延慶2年(1309)頃
●築城者 安芸親氏
●城主 安芸国虎、長宗我部氏、五藤氏等
●形態 平山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭
●高さ 40m
●指定 安芸市指定史跡
●登城日 2013年8月4日
◆解説
土佐・安芸城は、高知県の東部安芸市を流れる安芸川の中流土居にある平山城で、築城したのは安芸親氏といわれている。
【写真左】土佐・安芸城遠望
西側から見たもので、独立した小丘陵地に築かれている。このため、城館としては小規模なものである。
現地の説明板より
“安芸城跡 市指定史跡
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の1人で、戦国時代には土佐七雄の1人といわれた。
城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門は枡形の広場もみられる。
【写真左】案内図
安芸城跡には歴史民俗資料館、書道美術館などが建ち、また南側には武家屋敷などがある。
また、安芸城の北西2キロほど行ったところには、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の生家もある。
戦国時代の末、永禄12年(1569)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びた。
その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣・五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
安芸市教育委員会”
【写真左】濠
当城の全周には濠が巡らされていたが、現在は特に南側が土塁とともに整備され、見事な景観を保持している。
安芸氏
安芸氏の出自については諸説紛々あるが、壬申の乱(672年)で配流された蘇我赤兄の後裔といわれている。
当城の築城期が延慶元年といわれているので、花園天皇のころである。またこのころ、幕府が伊予国の河野氏に対し、当時熊野灘で出没していた海賊を討伐するよう命じているので、土佐湾を指呼する安芸氏にとっても何らかの関わりもあったのだろう。
【写真左】入口付近
大手門と思われる箇所で、現在残る土塁部の石垣などはおそらく山内一豊時代の重臣・五藤氏のころのものだろう。
室町期に至ると、土佐国は細川吉兆家が守護職となり、安芸氏はその守護代としてしばらく続くことになる。応仁の乱の際は東軍である細川勝元に加勢し、その当時安芸氏分家の畑山氏から養嗣子として入っていた元信や、その子元康が戦死し一族が途絶えかけたが、元信の実弟元盛が兄に代わって本家安芸氏に入り、安芸氏を再興させた。
【写真左】安喜(安芸)土居内外細図
江戸時代後期に作成されたといわれる絵図で、左上が安芸城になる。
江戸時代となってからは山内氏の家臣・五藤氏が城下町として整備しているが、下段にも示すように、城下には武家屋敷がほとんどで、商人たちの建物はこのエリアには入れていなかった。
【写真左】安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区範囲図
“安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区
土居廓中(かちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐に入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五か所の土居に家老または重臣を置きました。
【写真左】武家屋敷付近
当時の道幅のまま残っている。
代表的な屋敷として、野村家のものがあり、写真にはないが、一般公開をしている。
本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指し、この五か所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成されました。
その一つ、土居廓中は、安芸土居に置かれた五藤氏の城下町です。城下は、武家地にみで構成され、町人地は2キロメートルほど南の安芸浦や土居廓中までの街道沿いに形成されました。
土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に伝えています。
昭和49年(1974)に地元住民により結成された「ふるさと土佐土居廓中保存会」が主体的に保存に取り組んできたこの歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。”
【写真左】岩崎彌太郎生家
安芸城から北西に向かった一の宮という地区にあり、一般公開されている。
探訪したこの日も猛暑で、いささかバテ気味になった。入口付近には屋台風の喫茶店があり、注文したソフトクリームが実にうまく、ここから安芸城をしばらく遠望することができた。
●所在地 高知県安芸市土居
●別名 安芸(安喜)土居
●築城期 延慶2年(1309)頃
●築城者 安芸親氏
●城主 安芸国虎、長宗我部氏、五藤氏等
●形態 平山城
●遺構 石垣、土塁、堀、郭
●高さ 40m
●指定 安芸市指定史跡
●登城日 2013年8月4日
◆解説
土佐・安芸城は、高知県の東部安芸市を流れる安芸川の中流土居にある平山城で、築城したのは安芸親氏といわれている。
【写真左】土佐・安芸城遠望
西側から見たもので、独立した小丘陵地に築かれている。このため、城館としては小規模なものである。
現地の説明板より
“安芸城跡 市指定史跡
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の1人で、戦国時代には土佐七雄の1人といわれた。
城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門は枡形の広場もみられる。
【写真左】案内図
安芸城跡には歴史民俗資料館、書道美術館などが建ち、また南側には武家屋敷などがある。
また、安芸城の北西2キロほど行ったところには、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の生家もある。
戦国時代の末、永禄12年(1569)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、安芸氏は滅びた。
その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣・五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構えた。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
安芸市教育委員会”
【写真左】濠
当城の全周には濠が巡らされていたが、現在は特に南側が土塁とともに整備され、見事な景観を保持している。
安芸氏
安芸氏の出自については諸説紛々あるが、壬申の乱(672年)で配流された蘇我赤兄の後裔といわれている。
当城の築城期が延慶元年といわれているので、花園天皇のころである。またこのころ、幕府が伊予国の河野氏に対し、当時熊野灘で出没していた海賊を討伐するよう命じているので、土佐湾を指呼する安芸氏にとっても何らかの関わりもあったのだろう。
【写真左】入口付近
大手門と思われる箇所で、現在残る土塁部の石垣などはおそらく山内一豊時代の重臣・五藤氏のころのものだろう。
室町期に至ると、土佐国は細川吉兆家が守護職となり、安芸氏はその守護代としてしばらく続くことになる。応仁の乱の際は東軍である細川勝元に加勢し、その当時安芸氏分家の畑山氏から養嗣子として入っていた元信や、その子元康が戦死し一族が途絶えかけたが、元信の実弟元盛が兄に代わって本家安芸氏に入り、安芸氏を再興させた。
【写真左】安喜(安芸)土居内外細図
江戸時代後期に作成されたといわれる絵図で、左上が安芸城になる。
江戸時代となってからは山内氏の家臣・五藤氏が城下町として整備しているが、下段にも示すように、城下には武家屋敷がほとんどで、商人たちの建物はこのエリアには入れていなかった。
戦国時代の大永6年(1526)、安芸氏と同じく土佐一雄のひとつで、西隣に勢力を誇っていた香宗我部氏を破り、さらに元盛の曾孫になる国虎の代になると、当時同国盟主とされた土佐一条氏と縁戚関係を結び、隆盛を極めることになる。ただ、このころから長宗我部氏の台頭もあり、次第に領地境界を巡って同氏との紛争が起き始めた。
最終的には説明板にもあるように、永禄12年(1569)長宗我部元親は安芸城を攻めることになるが、安芸城内にいた譜代の主だった家臣らが元親に内応したため、国虎は自害の道を選んだ。
その後、長宗我部元親は香宗我部氏の家督を継いだ実弟の親泰を当城に送りこんだ。
【写真左】土塁
濠を隔て城域を囲繞する石積みの土塁で、高さは約3m前後のもの。
一豊時代の五藤氏が築いたものといわれている。
【写真左】毒井戸跡
現地の説明板より
“永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。
敵に背後を突かれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。
この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。
以来、この毒井戸は、安芸落城を早めた原因の一つとして、今に語り伝えられている。”
【写真左】登城口付近
城域の東側に登城口がある。平山城であるので、2,3分で主郭にたどり着く。
【写真左】中段南側の郭
主郭を中心にして南北に郭段が2,3段連続する構成で、特徴的なものはないが、東の安芸川側である切崖はさすがに意を用いている。
【写真左】主郭附近
上掲の郭からさらに上に登ると、外観から想像する以上に規模の大きい主郭が現れる。
最大の平坦地が長径30m程度あり、そこから下の写真にもあるように、南にも数段の郭が連続する。
【写真左】主郭南端部
主郭を南に向かうと、1.5m程度低くなった段があり、さらに南に行くにしたがって幅が狭くなり、急峻な切崖が濠に落ちている。
【写真左】藤崎神社
五藤家を祀る神社で、東麓に建立されているが、次のような由来が記されている。
“藤崎神社
元亀元年(1570)、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られた。重臣の為浄(ためきよ)は、その矢を抜こうとするがなかなか抜けず、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み、矢を抜き取った。
慶長6年(1601)、土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けた。武功のきっかけとなった鏃(やじり)は五藤家の家宝となり、為浄がはいていたわらじは、藤崎神社のご神体となったと伝えられる。
安芸市教育委員会”
安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区【写真左】土塁
濠を隔て城域を囲繞する石積みの土塁で、高さは約3m前後のもの。
一豊時代の五藤氏が築いたものといわれている。
【写真左】毒井戸跡
現地の説明板より
“永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。
敵に背後を突かれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。
この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。
以来、この毒井戸は、安芸落城を早めた原因の一つとして、今に語り伝えられている。”
【写真左】登城口付近
城域の東側に登城口がある。平山城であるので、2,3分で主郭にたどり着く。
【写真左】中段南側の郭
主郭を中心にして南北に郭段が2,3段連続する構成で、特徴的なものはないが、東の安芸川側である切崖はさすがに意を用いている。
【写真左】主郭附近
上掲の郭からさらに上に登ると、外観から想像する以上に規模の大きい主郭が現れる。
最大の平坦地が長径30m程度あり、そこから下の写真にもあるように、南にも数段の郭が連続する。
【写真左】主郭南端部
主郭を南に向かうと、1.5m程度低くなった段があり、さらに南に行くにしたがって幅が狭くなり、急峻な切崖が濠に落ちている。
【写真左】藤崎神社
五藤家を祀る神社で、東麓に建立されているが、次のような由来が記されている。
“藤崎神社
元亀元年(1570)、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られた。重臣の為浄(ためきよ)は、その矢を抜こうとするがなかなか抜けず、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み、矢を抜き取った。
慶長6年(1601)、土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて、五藤家に安芸を預けた。武功のきっかけとなった鏃(やじり)は五藤家の家宝となり、為浄がはいていたわらじは、藤崎神社のご神体となったと伝えられる。
安芸市教育委員会”
安芸城のエリアは、赤線で囲んだところで、指定史跡となっている。
城砦の規模は概ね南北250m×東西100mと、南北に長い。
また、その東麓を安芸川が流れているが、その対岸には北から伸びた横山という弓状の細い丘陵部がある。
地取りとしてはむしろこちらの方が、理想的に思えるが、当時こちらにも安芸城を補完する施設(支城、船溜まり、屋敷跡など)があったものと考えられるが、遺構の記録はないようだ。
この図と併せて、伝統的建造物保存地区についての説明が次のように記されている。
“安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区
土居廓中(かちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐に入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五か所の土居に家老または重臣を置きました。
【写真左】武家屋敷付近
当時の道幅のまま残っている。
代表的な屋敷として、野村家のものがあり、写真にはないが、一般公開をしている。
本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことを指し、この五か所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成されました。
その一つ、土居廓中は、安芸土居に置かれた五藤氏の城下町です。城下は、武家地にみで構成され、町人地は2キロメートルほど南の安芸浦や土居廓中までの街道沿いに形成されました。
土居廓中には、武家屋敷が並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和初期にかけての建物が残り、狭い通りに沿って石溝や生垣、塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に伝えています。
昭和49年(1974)に地元住民により結成された「ふるさと土佐土居廓中保存会」が主体的に保存に取り組んできたこの歴史的な町並みは、安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区とされ、平成24年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。”
【写真左】岩崎彌太郎生家
安芸城から北西に向かった一の宮という地区にあり、一般公開されている。
探訪したこの日も猛暑で、いささかバテ気味になった。入口付近には屋台風の喫茶店があり、注文したソフトクリームが実にうまく、ここから安芸城をしばらく遠望することができた。
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