2012年7月27日金曜日

田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)

田丸城(たまるじょう)

●所在地 三重県度会郡玉城町田丸
●築城期 延元元年(1336)
●築城者 北畠親房
●城主 田丸直昌・愛州忠行・久野氏など
●形態 平山城
●別名 玉丸城
●指定 三重県指定史跡
●登城日 2012年4月17日

◆解説
 今稿でとりあげる城砦は、西国(地方)の山城ではなく、畿内・伊勢(三重県)に所在する城砦・田丸城を取り上げる。
【写真左】田丸城
 西側から見たもの。












 戦国時代、織田信長の次男信雄のときに行われた大改造が、現在残っている田丸城の姿で、当時は、北の丸・二の丸・三の丸をおき、本丸には天守閣が建っていたというから、父が築いた安土城と同じく近世城郭としての様式が備わっていたものと考えられる。


現地の説明板より

“三重県指定 史跡 田丸城跡
 指定年月日 昭和28年5月7日
 史跡の総面積 166,000㎡


 沿革
 田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。
 南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
【写真左】城内案内図
 現地の説明板に添付されたもので、少し文字が薄いため分かりずらいが、北側から「北の丸」「本丸(天守台)」「二の丸」が南北に配列されている。下方が北を示す。


 西側は幅の狭い郭段が続き、切崖状の側面が多く、東側は現在中学校などの施設が建ち、当時の遺構は大分消滅している。


 室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として、伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。


 江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
  平成7年3月   玉城町”
【写真左】富士見門(長屋門)
 城内には8か所の門があったという。

現地説明板より


“(中略)…三の丸(現在の玉城中学校校庭付近)には冠門(御成門)と富士見門があった。御成門は三の丸御殿へ、富士見門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門であった。この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和59年3月、町がこれを譲り受け現在地に移築復元したものである。(後略)”
【写真左】三の丸跡
 東側の箇所で、現在玉城中学校の校舎が建っている。








北畠親房(ちかふさ)

 築城者は北畠親房といわれている。親房についてはこれまで断片的にとりあげているが、南北朝期後醍醐天皇の重臣として活躍した「三房」の一人である。ちなみに残りの二人は、吉田定房及び萬里小路(までのこうじ)宣房である。
【写真左】本丸虎口付近
 この右側を上ると天守台がある。










  北畠氏は村上源氏の流れを組む。後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を相当前から計画していたようで、正中2年(1325)他の諸族と同じく、帝は大胆な人事を行った。本来なら親房などは権大納言どまりであるが、大納言まで上りつめている。

 しかし、元徳2年(1330)、世良親王が病によって19歳で夭逝、養君として仕えていた親房は髪をおろし出家した。この後しばらく親房の活動は目立ったものはない。しかし、建武の政権が成立すると親房は長子・顕家とともに奥州に下り、奥羽経営に当たった。親房は後醍醐天皇を支えた一人ではあったが、基本的に帝に対しては批判的な面も持っていた。このことは、子である顕家も同じであった。
【写真左】本丸と天守台
 手前の本丸の北側には天守台の石垣が見える。








  延元元年(建武3年:1336)5月25日、兵庫湊川にて新田義貞救援のため下向した楠木正成は、足利尊氏と激闘の末敗れ自刃した。後醍醐天皇はこのため、再び叡山に逃れた。石清水八幡宮に陣した尊氏の下には、持明院統の花園・光厳上皇及び、豊仁(ゆたひと)親王が赴いた。ここに天皇家は分裂、事実上の南北朝時代が始まることになる。

 10月、尊氏は叡山の後醍醐天皇に使者を送り、両統迭立を条件に京への帰還を申入れした。尊氏は、このとき「新田義貞の讒言によって勅勘(ちょくかん:天皇の咎め)を蒙ったまでで、義貞を滅ぼし讒言を晴らそうとしたまでである」
 とその正当性を主張したという。後醍醐天皇が尊氏のこうした考えを聞き入れたかどうかはっきりしないものの、叡山から下山し帰京するという情報をきいた新田義貞は、当然ながら激怒した。
【写真左】天守台
 奥行15m×幅10m前後の規模で、周囲には高さ1.5m前後の石積みが囲む。







 尊氏からの帰京依頼を受け入れた後醍醐天皇ではあったが、その先に展望が開けないことを予想し、皇太子の恒良親王に譲位し、この新帝を義貞に預け越前に下向させ、宗良親王と北畠親房を伊勢に、中院定平を河内に派遣させ、さらには九州へ懐良親王を下して(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)、事前の態勢を整えた。田丸城はこのとき築城されている。

 果たせるかな、帝の帰京後まっていたのは、花山院での幽閉であった。さらには直義の指示によって神器を取り上げられ、11月2日新帝への神器授受の儀式が行われた。
【写真左】二の丸
 本丸の南側には二の丸が控える。
規模はかなり広い。

【写真左】吉野金峯山寺蔵王堂
 所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山
吉野には後醍醐天皇陵や、吉野朝宮跡がある。






 同年12月21日、後醍醐は京を脱出、吉野に逃れた。その計画は当時伊勢にあった親房が立てたものといわれている。南朝の本拠は吉野であるが、この吉野を中心に北西には楠木勢が河内・和泉・堺へと支配を伸ばし、瀬戸内にも続く。また東へは伊賀・伊勢へと繋がる。親房が吉野という天然の要害を持つ場所を選んだのも、その後の南北朝争乱をある程度予想していたのかもしれない。
【写真左】二の丸虎口付近
 田丸城の南端部に当たる位置で、この坂を下ると、三の丸(中学校)へ繋がる。







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霧山城・その1 詰城跡(三重県津市美杉町下多気字上村)
霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)
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2012年7月24日火曜日

麻口城(香川県三豊市高瀬町下麻)

麻口城(あさぐちじょう)

●所在地 香川県三豊市高瀬町下麻
●別名 朝日山城
●高さ 標高238m
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤出羽守長頼
●登城日 2012年3月20日

◆解説
 香川県の西方三豊市(みとよし)高瀬町にある朝日山に築かれた山城で、現在「朝日山森林公園」という施設となっており、残念ながら明確な遺構はほとんど残っていない。
 当城に関する記録はあまり残っていないが、現地の模擬天守風の資料館には、城主であった近藤出羽守のことが記されている。
【写真左】麻口城遠望・その1
撮影日 2017年12月24日
西南麓を走る県道23号線から見たもの。
【写真左】麻口城遠望・その2
 朝日山はお椀をかぶせたような独立峰で、讃岐地方にはこうした山系が多い。







資料館の展示より

“武田五兵衛と岩瀬池


 乙女の人柱という大きな犠牲での所産、勝間池は天文元年の大洪水による決壊以後は築かれず、百姓は苦しんだ。
 それに代わる岩瀬池を築造したのは、上高瀬の郷士武田五兵衛である。
 五兵衛は今の岩瀬池の地・阿魔谷をその最適地と考え、麻口城主近藤出羽守長頼に願い出た。その地は長頼の兄大西覚養ゆかりのものであったが、元亀3年(1572)、その許しを得た。
 しかし、時は戦国の世、土佐長宗我部軍が讃岐に侵攻し、五兵衛も長頼に従い戦ったが敗れ、一族ことごとく討死した。
【写真左】朝日山森林公園案内図
 公園が出来たのは昭和63年5月14日とのこと。園内には1,000本の桜が植えられ、キャンプ場・芝スキー・ウォーキングコースなどが設置されている。

 頂部には模擬天守風の資料館と、伊勢朝日山本宮・大師堂なども建立されている。



 五兵衛は岩瀬池築造の悲願を思い生き永らえ、戦乱治まるとその工事に着手した。
 大変な難工事ではあったが、ひたすら神仏の加護を祈りつつ文禄元年(1592)、ついに完成した。
 その後、寛永年間(1630年ごろ)西島八兵衛の改築、昭和初期の堤防かさ上げなどの大修築で堤長118m、水深18m、周囲6.3km、水掛上下勝間、上・下高瀬、新名の5ヶ村を潤す県有数の大池となり、さらに近年香川用水も導入によりその効用を増している。”
【写真左】公園内散歩道
 麓から公園駐車場まで専用道路がつながり、そこからは歩いて登っていく。








近藤氏と大西氏

 上記の史料は戦国末期の出来事のようだが、文中にある城主・近藤出羽守長頼は、阿波の白地城主・大西覚養(用)の弟となっている。

ところで、白地城の大西氏の祖は、実は近藤氏といわれている。
前稿の崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)で紹介した保元の乱(1156)の6年前、すなわち久安6年(1150)、阿波の白地城は近藤京帝が築城している。そしてこのとき築城者であった京帝は、名を近藤から「大西」と改姓している。(田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)参照)
【写真左】伊勢朝日山本宮
 朝日山の頂部は規模が大きく、なだらかになっているため、前述したようにさまざまな建物が建っている。




 このころの近藤氏や大西氏が時の中央政権とどのようにかかわっていたのか分からないが、讃岐国が瀬戸内海に面していることや、久安2年(1146)には平清盛がすでに安芸守に任命され、着々と西国を支配下に置き始めていることを考えると、このころ近藤氏なども平家の支配下に入っていた可能性が高い。

 そして、戦国期に麻口城主として大西氏の祖である近藤氏の名が残っていることを考えると、当地(三豊)には同氏が相当前から在住していたことがうかがわれる。
【写真左】模擬天守風の資料館
 無人だが自由に入ることができる。館内には地元の歴史を記録した手作り風の史料などが展示されている。
 また、3階からは眼下に眺望が開ける。


 また、麻口城から南南東へ2キロほど登ったところにある岩瀬池の地・阿魔谷が、大西覚養ゆかりの地とされていることを踏まえると、大西氏(近藤氏)は阿波の池田の白地という吉野川中流域から、西讃岐までを支配していたのではないかと考えられる。
【写真左】大麻山遠望
 北東方向に見える山で、この山を右に進むと琴平山に繋がる。








近辺の城砦

この資料館にはこのほか当地周辺にあったという城砦についても、下段のように記されている。

“今から450年の昔、時は戦国の世、各地の豪族は自分の領地を守るため、きそって城を築いた。
 これらは山城と呼ばれ、規模も小さいものが多く、高瀬町でも麻城・勝間城・爺神城・土井城など、三豊観音寺地区に40近くが伝えられている。
 どれも守りやすい山の上にあり、数段の平坦地・石塁・土塁・空堀・のろし台跡、泉や水ため、城跡にかかわる地名や伝説などを持っている。
【写真左】麻城遠望
撮影日 2017年12月24日
 麻口城の東方2,6キロの位置にある城砦で、戦国時代近藤出羽守国久の居城。

 天正年間、土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻において落城、国久も討死した。
 いずれ当城についても改めて紹介したい。


 朝日山の周辺にも、小城谷・ゴーロ(写真③)などの地名のほか、水ため状の石積み(水の手曲輪写真①竪堀状の地裂(写真②)などがあることから、麻口城跡と伝えられた。
【写真左】右側写真①「水の手曲輪」、左側上写真②「竪堀」、左側下写真③「ゴーロ」









 資料館建設の事前に調査も行ったが残念ながら学術的にそれを明確化することはできなかった。
 それにしても、山上からの眺望のすばらしいこと、南は麻・二の宮・勝間が眼下に、高瀬三豊・観音寺の村々は一望のうち、東には象頭・大麻の山からはるか阿讃の山々が、北の方にはかすかに瀬戸内大橋、岡山側の四ツ目トンネルも見える。
【写真左】天夢殿
 この場所からは北方を中心として眺望が開ける。











 戦国の武将でなくても、ここに城を築きたい情念がわく。この思いが今この資料館を一見名城丸亀城にもまがう城とした。いうならば夢の城・昭和の城である。
 この館がいこい・ふれあい・祈りの場となり、のぞみ溢れる歓声が山いっぱいにこだますることを願わずにはいられない。”

◎関連投稿

2012年7月22日日曜日

崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)

崇徳天皇 白峯陵(すとくてんのう しらみねのみささぎ)

●所在地 香川県坂出市青海町
●備考 白峰寺
●参拝日 2012年3月20日

◆解説
 今稿は少し「山城」とは逸れるが、現在放映されているNHKの大河ドラマ「平清盛」でも登場した崇徳天皇の墓所を取り上げたい。
【写真左】崇徳天皇 白峯陵
 他の天皇陵と同じく宮内庁管轄のもので、一般人は中には入れない。







 ところで、今回の大河ドラマはよくある既存の歴史小説などを原作としたものでなく、藤本有紀氏の脚本をもとに製作されている。

 もっとも、『平家物語』をはじめとする当時の文学的あるいは軍記史料などは当然参考にされていると思われる。

 放映が始まりだしたころは、物語の展開が時間の制約もあって聊か誇張されたきらいもあったが、保元の乱が勃発し出したころ、すなわち崇徳天皇が関わったこの事件ごろから中身が充実し、出演者の演技力も増してきているように思える。
【写真左】白峯寺全図
 本堂をはじめ阿弥陀堂・金堂など多くの堂が建つ。
 白峯陵は西側にあって、その東隣には頓証寺殿がある。


【写真左】白峯寺・その1
 山門付近
 2年後の平成26年には「崇徳天皇850年忌」及び、「当山開創1200年記念法要」と記した看板がある。






崇徳天皇

 テレビで放映されているので、詳細は省くが保元元年(1156)7月、独裁的な君主であった鳥羽院が死去すると、信西(しんぜい)ら院の近臣たちは、それまで不満を持っていた左大臣藤原頼長と崇徳上皇に圧力を加え、挙兵に追い込んだ。保元の乱である。
この乱が起こる当時の対立軸を見ると、天皇家・摂関家、そして武士たちそれぞれ一族内での対立でもあった。

            (後白河側)     (崇徳上皇側)
  • 天皇家   後白河天皇  VS     崇徳上皇
  • 摂関家   藤原忠通    VS     藤原頼長
  • 平氏     平清盛        VS     平忠正
  • 源氏     源義朝      VS     源為義・為朝

【写真左】白峯寺・その2










 この乱に至ったきっかけは、頼長の動きである。次第に後白河側から攻められてきたため、急きょ頼長が崇徳上皇と結んだといわれている。

 頼長は武士を召集するさい、崇徳上皇を奉じておかなければ、馳せ参じるものがいないと踏んでいたのではないかと考えられる。

 さて、讃岐に配流された崇徳院(上皇)は、仏教に深く帰依したといわれているが、一方で生前の供養にと作成した写本を京の寺に納めてほしい旨を朝廷に出したところ、後白河院が「呪詛が込められている」として拒否、これに怒った崇徳院は、舌を噛み切って大魔縁となって、夜叉のような姿になったとの話も残るが、これは後世の創作だろう。
【写真左】白峯陵入口付近
 玉砂利の道を進み、階段を上った所にある。









 参考までに、現地には白峯寺と併せ「崇徳天皇御廟所」について碑文が残っている。かなり長文になるが抄出しておく。

現地の説明板より

崇徳天皇御廟所
四国第81番霊場(別格本山)綾松山 白峯寺 略縁起


当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、弘仁6年(815)当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井(あかい)を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしという。次いで貞観2年(860)10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に耀き異香四周に薫じたので、国司の耳に入り、これを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検していると白髪の老翁が現れて曰く「吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり。この山は七仏法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に仏堂を建て、仏法を興隆せん。かの流木は補陀洛山のいかだなり。」との御神託あり。乃ち流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として仏堂を創建せられた。
【写真左】五輪塔群
 白峯寺境内の一角にご覧のような五輪塔群が並んでいる。
 崇徳天皇に随従していた者か分からないが、かなりの数になる。




その後、保元元年(1156)保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に3か年、のち府中鼓が丘木丸殿(木丸殿御所)に移り6か年、都合9年間配所の月日を過ごされて、長寛2年(1164)旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。


然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武将も恐れ崇め奉り、御府荘園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、或いは法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を尽くされ、特に第100代の後小松帝は、御廟に「頓証寺」の御追号勅額を奉掲して、尊崇の意を表された。また仁安元年神無月の頃、歌聖西行は、四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。
即ち


松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな


西行涙を流して御返歌に


よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせむ


と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
その他、崇徳院御笛の師参りて奉った歌、或いは平大納言時忠卿廟参の砌、奉納せられたる詩歌の序文等は縁起に詳しく載せられている。抑々往時は塔頭21ヶ坊を数え、長日不断の勤行渓々に谺して殷盛を極めていたが、度々祝融、兵火の災いに遭うも藩侯生駒家、松平家の外護によって再建維持され、明治維新の変革を経て現況を保持している。
【写真左】白峯寺付近から瀬戸内を見る。
 崇徳天皇も毎日この景色を眺めていたことと思われる。




 又、当寺は拾芥抄諸寺の部にも載せられており、万葉集に所謂玉藻よし讃岐の国は国柄か見れどもあかぬ神がらか…と世々の集に載せられる所の名所唯此の松山の辺りに相双ぶ如くである。
八雲御抄等に此の国の名所が詳述せられており、この松山の名所古跡であることが理解されるであろう。


雲井御所
(白峯寺縁起)    崇徳院御製
こゝもまた あらぬ雲井となりにけり 空行月の影にまかせて


松山
(新古今)       崇徳院
松山や 波に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな


(白峯縁起)     崇徳院
浜千鳥 あとは都にかよへども 身は松山にねをのみぞなく


白峯
(山家集)     西行
よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ


松ヶ浦
(後拾遺)   中納言定頼
松山の 松の浦風吹きよせば 忍びて拾へ恋忘貝”


(頓証寺御楽百首)   正三位公禓
あかずみる 木末の宮は白峯の 雲さへおなじ花の夕ばへ


(同三十首)    九條植通公
立つゝく 霞に雪は白峯の 外いづれかよそに見るらん”

◎関連投稿
久礼田城(高知県南国市久礼田字中山田)
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)
麻口城(香川県三豊市高瀬町下麻)
天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)
勝賀城(香川県高松市鬼無町)

2012年7月21日土曜日

勝賀城(香川県高松市鬼無町)

勝賀城(かつがじょう)

●所在地 香川県高松市鬼無町
●築城期 承久年間(1219~22)
●築城者 香西資村
●城主 香西氏
●高さ 364m
●指定 高松市指定史跡
●遺構 土塁等
●登城日 2012年3月19日

◆解説
 勝賀城は、高松市の西方勝賀山に築かれた山城で、広い山頂部を土塁を駆使して配置した本丸と、くい違い虎口を巧みに設けた遺構が残る。
【写真左】勝賀山城遠望
 南東部から見たもので、美しい形の山である。










現地の説明板より・その1(麓)

“勝賀城跡
   昭和55年8月6日高松市指定
   (高松市鬼無町・香西西町・植松町)


 勝賀山(標高364m)山頂には、鎌倉時代から戦国時代の約360年間、笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠に活躍した香西氏歴代の城跡があります。
 広い山頂には頑丈な土塁によって守られた本丸(東西40m、南北60m)を中心に、二の丸、三の丸を形造り、難攻不落の名城をうかがわせてくれます。
 現在も、巧妙な縄張(設計)とともに、普請(土木工事)の様子がよくわかる貴重な中世の山城として、高松市の史跡に指定されました。
     高松市教育委員会”
【写真上】鳥瞰図
 上記案内板の上部に添付されていたもので、勝賀城の支城などとしては、


  1. 佐料城
  2. 作山城
  3. 藤尾城
  4. 植松城
  5. 芝山城
などが図示されている。

現地の説明板より・その1(本丸跡)

“史跡 勝賀城跡
     昭和55年8月6日高松市指定


 中世の讃岐国の豪族香西氏は、阿野・香川郡など中讃を本拠として18代360余年にわたり栄え、その間、山麓の佐料に居館を構え天険の地、勝賀山頂に勝賀城を築き要害城としていた。


 この城跡は、山頂のほぼ平坦地に土塁を主体とする喰い違い虎口、郭、堀切などの様子をよく残し、その保存状態も良好であり、豪族香西氏の城郭遺構の中でも代表的なものであるとともに、中世山城の研究にとっても貴重な史跡である。
    高松市教育委員会”
【写真左】登城道
 登城口は数か所あるようだが、この日は南側の段々畑の一角から向かった。なお、この斜面は傾斜はあるものの、中腹部まで幅の狭い畑が階段状に作られている。


 登城道は全体に九十九折のコースは少ないため、息が荒くなり、何度か休憩しながら向かった。


香西氏(こうざいし)


 説明板にもあるように、香西氏は西国の多くの領主がそうであったように、承久の乱(1221年)の戦功により当時の香川・綾(阿野)地域の郡司に任じられた香西資村を祖としている(別説もあり)。

 室町期に至ると、前稿「十河城(香川県高松市十川東町)」でも紹介した十河氏と同じく、幕府管領であった細川氏の臣下となった。
【写真左】最初の鞍部
 南側から伸びる尾根と合流する位置で、ここから右に旋回し、尾根筋を辿りながら向かう。







 東麓には平時の住まいであった居城・佐料城を置き、北方に面した瀬戸内の湊を使って盛んに貿易も行った。また、そのころから村上水軍や塩飽水軍などとも協調を図り、城下及び湊は大いに栄えたという。

 勝賀山城における戦いの史料は手元に所収していないが、おそらく讃岐・伊予の領主たちがそうであったように、南北朝期には当城もその役割を果たしたものと思われる。
【写真左】尾根筋から頂上部を見る。
 登城道はご覧の通り踏み跡がしっかり残り、多くの人が登っているようだ。

 この付近から眼下に五色台や瀬戸内、及び高松市街地が見えてくる。



 天正3年(1575)になると、長宗我部元親が讃岐に侵入を開始するが、このとき勝賀山城の北東麓の藤尾山に藤尾城を築き抗戦したが、最期は長宗我部氏と和睦を結び、同氏の傘下となった。

 その後、豊臣秀吉による四国征伐が天正13年(1585)に始まると、香西氏は敗れ、長宗我部氏も最終的に秀吉の停戦条件をのみ降伏した。
 勝賀城の廃城はこのときの香西氏敗北と同時期だったと思われる。
【写真左】頂部手前の「折れひづみ」といわれる個所
勝賀城の頂部は本丸を二重の土塁で囲繞し、北側に二の丸・三の丸を配している。




主だった遺構を示す概略図が表示されていたので、下段に示す。

【写真左】概略図
 全体に南北に長く構成されたもので、最高所に本丸を置き、西側は二重の土塁を配置している。

 本丸は歪ながら四角形をなし、東側の本丸木戸(大手門)から入るようになっている。本丸の北側には、三の丸と二の丸が並列して置かれ、北側からの侵入を意識した配置となる。登城ルートの一つである北側コースの区域には、不明確な遺構ながら数段の郭や、堀切跡らしき痕跡も認められる。
【写真左】本丸の西側土塁
 南側から見たもので、この土塁の左側にも空堀を介して、さらにもう一段の低い土塁が残る。
【写真左】石祠
 本丸の中に設置されているもので、香西氏を祀ったものだろう。

 なお、本丸を中心としたこの場所は、最近立木を伐採したようで、非常に見通しが良くなっている。
【写真左】本丸東側の土塁
 北側からみたもので、本丸木戸が手前にある。

 この辺りは土塁の幅が広くなっている。
【写真左】本丸木戸
 左側が本丸で、右側の一段下がった辺りが大手門となり、その奥に三の丸が控える。
【写真左】二の丸付近
 本丸から北にある二の丸・三の丸は、ご覧のようにほとんど手入れがされていないため、藪コギ状態だが、区画の段差はおおむね踏査すると理解できる。
【写真左】本丸より北西方面を見る
 この麓を高松坂出道路が走り、その奥に見える陸続きの小山は紅峰(H:245m)で、さらに左側に少し見える突端部は五色台。
【写真左】勝賀山より西方を見る。
西方には、四国82番札所・根香寺がある。また、さらに西に向かうと、同81番札所・白峯寺があり、近接には「崇徳天皇陵」がある。
【写真左】勝賀城遠望
 南方の高松空港付近から見たもので、この角度からみると、頂部に大きな本丸が構成されていることが想像できる。



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十河城(香川県高松市十川東町)

十河城(そごうじょう)

●所在地 香川県高松市十川東町
●築城期 南北朝時代
●築城主 十河吉保
●城主 十河存保・存之・長宗我部親武等
●遺構 本丸・空堀・堀切
●指定 高松市指定史跡
●形態 平城・城館
●登城日 2012年3月20日

◆解説
 今稿は久しぶりに讃岐国(香川県)の城郭を取り上げることにする。
 現在十河城跡には称念寺という十河氏ゆかりの寺院が建ち、残念ながら城郭遺構はほとんど失われている。
【写真左】十河城跡(称念寺)













現地の説明板より

“十河城跡
 南北朝時代から桃山時代まで約230年間十河氏の居城だった。
 西に池、東は断崖、南に大手があった。十河氏は景行天皇の末流で山田郡を領した。


 三好長慶の弟一存が養子に入り、鬼十河と恐れられ、讃岐一円を制した。その養子存保が、長宗我部軍35,000とこの城で戦った。
 のち秀吉から2万石に封ぜられたが、九州で戦死し廃城となった。
 寺があるのは本丸跡である。”
【写真左】山門付近
 東側に南北に走る県道30号線から左側に入る狭い道があり、そのまままっすぐに向かうとこの山門が見える。


 ただ全体に周辺は狭い道が多く、時間帯によっては対向車とすれ違う時注意が必要だ。




十河氏(そごうし)

 築城者及び代々の城主であった十河氏については、これまで長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)や、東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)でも少し触れているが、伝承によれば、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族といわれている。
【写真左】五輪塔群
 境内南側に見えたものだが、明記されたものがないためわからない。
 おそらく十河氏一族のものだろう。



 平安末期に至ると、伊予・讃岐・阿波といった瀬戸内区域は平家の知行国として治められ、おそらくその頃は十河氏も平氏の傘下に入っていたものと思われる。そして、南北朝から室町期にかけて当地は細川氏の支配が及び、十河氏を含め植田党も同氏に従っていく。
 
 戦国期に至ると、三好氏と連合し、守護代であった香西氏などと抗争をつづけた。そして、十河景滋の嫡子金光が早逝すると、阿波の三好元長の四男・又四郎(一存)が、実兄・三好長慶の命によって景滋の養子となり、十河氏の家督を継ぎ、十河一存(かずまさと称した。
【写真左】境内の西側
 当院の墓地は概ね裏の西側に集まっている。階段状になっており、その先にはかなり大きなため池がある。


 なお、帰宅してから分かったのだが、この場所から50m先に「十河一存・存保の墓所」というのがあるようだ。ただ、墓石そのものは当時の形式(宝篋印塔・五輪塔)ではなく、後年(近年か)建立されたもののようだ。



 一存は兄長慶を常に支え、永禄3年(1560)には岸和田城主にも任じられた。しかし、翌4年有馬温泉で松永久秀(弾正)と湯治中に急死した。一説では一存は久永とは不仲であったこともあり、久永による暗殺との話も残っている。
【写真左】北東部から見る
 称念寺(十河城)とその周辺は、ごらんのような2,3m程度の段差があり、要害性はほとんど認められない。


 平城もしくは、「土居」lといわれるような形態のものだったのだろう。




十河存保(まさやす)


 説明板にもあるように、存保は一存が急死したあと養子として家督を継いでいる。実父は三好長慶の弟・義賢である。
【写真左】戸次河原合戦跡に建立された石碑
所在地 大分県大分市中戸次


 探訪したのは2008年12月だったため、記憶がはっきりしないが、長宗我部信親の墓があまりにも立派なものだったため、十河存保の墓の確認はしていない。このため、写真には撮っていない。
 この写真は当時大分県知事だった平松氏の謹書によるもので、慰霊碑である。



 「長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)」でも紹介したように、秀吉による島津・九州征伐の際、豊後(大分県)戸次川の戦いで、長宗我部信親・仙石秀久らと参戦したが、軍艦であった仙石秀久の無謀な作戦により、信親と共に討死した。享年33歳。

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温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷)


温湯城(ぬくゆじょう)その3



◆解説(参考文献『石見町誌』等)
今稿では温湯城陥落と、その後の動きについて触れておきたい。
【写真左】温湯城遠望
 手前が江川で、温湯城の麓から流れてきた会下川が合流する。


 写真右が下流方向で、この川を下ると、後述する日和(邑南町)の「日和城(金比羅山城)」に繋がる。



温湯城の陥落と毛利氏の伸張

弘治3年(1557)、吉川元春は小笠原討伐のため、上出羽の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)に入城し、翌年になると元就自らも当地に赴き、本陣を置いた。このとき付き随った主な部将は、次の通りである。
  • 安芸  熊谷信直・天野元定
  • 備後  杉原盛重
  • 石見  出羽元実・福屋隆兼・益田藤兼・佐波秀連
これに対し、小笠原氏を支援していた尼子方は、出雲佐田町の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)は、尼子晴久の部将宇山久信・湯惟宗・牛尾幸清とともに、下出羽の別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)を前線基地として、小笠原氏の領内である高見・八色石・布施・村之郷付近に布陣した。
【写真左】別当城遠望

2月27日、毛利方は阿須那方面から布施の攻撃によって、小笠原陣営を分断、同氏の食糧基地でもあった村之郷などは元春によって占拠された。この勢いをかって、小笠原氏の本城・温湯城攻撃を攻撃しようとしたが、元就がそれを一旦制止させた。

それは、当時小笠原方で武勇に優れた日和の城(邑智郡邑南町日和大釜谷)主・寺本伊賀守が、温湯城攻めをしている間に、毛利方の食糧補給地である上出羽を陥れる可能性があると踏んだからである。
このため、毛利方は先ずは日和城の寺本を落とし、その後温湯城攻めとすることとなった。

“日和落去こそ肝要に候へ、先々是非ともに芸備の衆融けられ候て然るべく候、このまま河本へ取り懸り、はたと然るべからず候(毛利家文書、及川「毛利元就」所収)”
【写真左】日和城遠望
 邑南町日和大釜谷にあって、別名「金刀比羅山城」ともいわれている。


 未登城だが、ときどき参考にさせていただいているリンク・サイト「島根県邑南町(旧・石見町)の城」の「ひさびさ氏」が詳細な写真を紹介されているので、ご覧いただきたい。


 築城期:鎌倉期、築城者:大庭氏(三宅氏)
 H496m(比高176m)、本丸(25m×40m)


こうして、日和城攻めは、元春の家臣・杉原盛重が主力となって攻入り、寺本を降した。このとき、小笠原長雄も、温湯城から一旦寺本支援のため日和に向かっている。「石見町誌」では日和城が陥落したのは、3月25日とされている。
その後、小笠原氏は同年(弘治3年)5月2日、日和で戦っている記録が残る。これは、陥落した日和城を奪還するため小笠原長智・市川三郎丞を出撃させたものだったが、城主寺本伊賀守が、降伏後毛利氏に属し、逆に小笠原氏の攻撃を阻止した。このため、小笠原氏は次第に劣勢を強いられることになっていく。
【写真左】吉川陣所跡
 日和城の東方には吉川元春が陣したといわれる陣所跡の「大谷山城」が見える。



5月上旬、日和城を落とした後、元就は石西から益田貴兼・周布元兼を催促し、隆元・隆景らが石見に入り、上出羽において元春軍と合流、同月20日、ついに温湯城をめがけて全軍が攻撃態勢を敷くことになった。

同月、元春は先ず向城として温湯城の南方奥山と、小栖山に城塞を築いた。隆元は、これと並行して二ツ山から布施の笠取山に陣を移動、向城が完成すると、元春は奥山に、隆景は小栖山へ着陣した。そして、当時小笠原氏の支城となっていた旧本拠城の「赤城」を元春らが攻めた。24日、赤城猛攻の元春軍の前に城兵はなす術もなく、夜陰に乗じて温湯城に逃げ込んだ。25日、ついに御大・元就が笠取山に着陣、目標は温湯城のみとなった。
【写真左】江川(江の川)
 川本と久座仁を跨ぐ橋付近から見たもので、写真奥の山は尼子方が陣した「仙岩寺山城」
 この付近も大きく蛇行した箇所で、流れが速い。

 石見・安芸・備後地方の山城探訪をするたびに、大小の溪谷を流れる多くの小川が、江の川へ注いでいることを知る。西国地方で旧三国を跨いで流れる川は、ひょっとしてこの江の川だけかもしれない。あらためて大河であることを痛感させられる。


 もっとも、流域面積の割に川岸部に平地(平野)部が少なく、山間部に居住するものにとって恩典が少ない川ではあるが、山陽から山陰を往来する際の重要な河川交通として往古から利用されてきた。
 このため、広島県の三次市から日本海に注ぐ江津までの間にある町は、河湊として栄えた。

 毛利元就が石見征服を成し遂げたのも、この江の川による水運が大きな要素を占めていたことは間違いないだろう。まさに、水を制するものが勝利するという典型である。


長雄の拠る温湯城は完全に孤立無援となった。石見に救援に駆けつけた尼子氏の時期は7月5日とされている。入国後所々で毛利方と戦っていたが、折悪くこのころ江川は大雨のため川が増水し、温湯城の対岸側からの渡河を諦め、一旦下流部の福屋隆兼の松山城をせめた後、その周辺からの渡河地点を確保しようとしたが、毛利方にここでも阻止され、結局包囲を解いて温泉津から大田へと撤退した。

これによって、温湯城の陥落は時間の問題となった。8月に入ると、小笠原氏の糧道の一つである飲料水の取水口が、南麓の矢谷で毛利方によって占拠され断たれてしまった。そして同月16日、全周囲から毛利方の猛攻撃を受け、25日、長雄は小早川隆景を介して、毛利元就に降服を願い出た。


長雄に対する処分

石見国にあって、もっとも執拗に毛利方に抗戦を続けた長雄である。当然ながら、元春・隆景は誅滅すべしといったが、元就はどういうわけか、二人の意見を退け、長雄には温湯城から少し下ったところにある、江川北岸の甘南備寺に隠居させた。そして旧領(江川以南)は没収したものの、福屋氏の領地であった井田・波積を与え、福屋には替地を与えた。
【写真左】甘南備寺
 石見霊場第11番札所
 真言宗室生山 甘南備寺
 天平18年(749)創建


縁起より

“(前略)当山は戦国時代以前は渡りの山(甘南備寺山)の山頂台地に諸伽藍を配置していたが、元亀年間の大火災により大手は焼失、また明治維新後の浜田地震により現在の位置に移築した経緯がある。

 また当山は300有余年にわたり温湯城及び丸山城主小笠原氏の戦勝祈願寺であったことから、奉納された佐々木高綱の大鎧(国指定重要文化財)備前長船兼光の太刀、鎌倉二代将軍源頼家の写経、その他武具や古代仏具などの宝物が現存し展示している。(後略)”

こうした元就の処置が後に、福屋隆兼の憤怒を惹起させ、毛利氏に対する反逆へと繋がっていく。