十河城(そごうじょう)
●所在地 香川県高松市十川東町
●築城期 南北朝時代
●築城主 十河吉保
●城主 十河存保・存之・長宗我部親武等
●遺構 本丸・空堀・堀切
●指定 高松市指定史跡
●形態 平城・城館
●登城日 2012年3月20日
◆解説
今稿は久しぶりに讃岐国(香川県)の城郭を取り上げることにする。
現在十河城跡には称念寺という十河氏ゆかりの寺院が建ち、残念ながら城郭遺構はほとんど失われている。
【写真左】十河城跡(称念寺)
現地の説明板より
“十河城跡
南北朝時代から桃山時代まで約230年間十河氏の居城だった。
西に池、東は断崖、南に大手があった。十河氏は景行天皇の末流で山田郡を領した。
三好長慶の弟一存が養子に入り、鬼十河と恐れられ、讃岐一円を制した。その養子存保が、長宗我部軍35,000とこの城で戦った。
のち秀吉から2万石に封ぜられたが、九州で戦死し廃城となった。
寺があるのは本丸跡である。”
【写真左】山門付近
東側に南北に走る県道30号線から左側に入る狭い道があり、そのまままっすぐに向かうとこの山門が見える。
ただ全体に周辺は狭い道が多く、時間帯によっては対向車とすれ違う時注意が必要だ。
十河氏(そごうし)
築城者及び代々の城主であった十河氏については、これまで長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)や、東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)でも少し触れているが、伝承によれば、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族といわれている。
【写真左】五輪塔群
境内南側に見えたものだが、明記されたものがないためわからない。
おそらく十河氏一族のものだろう。
平安末期に至ると、伊予・讃岐・阿波といった瀬戸内区域は平家の知行国として治められ、おそらくその頃は十河氏も平氏の傘下に入っていたものと思われる。そして、南北朝から室町期にかけて当地は細川氏の支配が及び、十河氏を含め植田党も同氏に従っていく。
戦国期に至ると、三好氏と連合し、守護代であった香西氏などと抗争をつづけた。そして、十河景滋の嫡子金光が早逝すると、阿波の三好元長の四男・又四郎(一存)が、実兄・三好長慶の命によって景滋の養子となり、十河氏の家督を継ぎ、十河一存(かずまさ)と称した。
【写真左】境内の西側
当院の墓地は概ね裏の西側に集まっている。階段状になっており、その先にはかなり大きなため池がある。
なお、帰宅してから分かったのだが、この場所から50m先に「十河一存・存保の墓所」というのがあるようだ。ただ、墓石そのものは当時の形式(宝篋印塔・五輪塔)ではなく、後年(近年か)建立されたもののようだ。
一存は兄長慶を常に支え、永禄3年(1560)には岸和田城主にも任じられた。しかし、翌4年有馬温泉で松永久秀(弾正)と湯治中に急死した。一説では一存は久永とは不仲であったこともあり、久永による暗殺との話も残っている。
【写真左】北東部から見る
称念寺(十河城)とその周辺は、ごらんのような2,3m程度の段差があり、要害性はほとんど認められない。
平城もしくは、「土居」lといわれるような形態のものだったのだろう。
十河存保(まさやす)
説明板にもあるように、存保は一存が急死したあと養子として家督を継いでいる。実父は三好長慶の弟・義賢である。
【写真左】戸次河原合戦跡に建立された石碑
所在地 大分県大分市中戸次
探訪したのは2008年12月だったため、記憶がはっきりしないが、長宗我部信親の墓があまりにも立派なものだったため、十河存保の墓の確認はしていない。このため、写真には撮っていない。
この写真は当時大分県知事だった平松氏の謹書によるもので、慰霊碑である。
「長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)」でも紹介したように、秀吉による島津・九州征伐の際、豊後(大分県)戸次川の戦いで、長宗我部信親・仙石秀久らと参戦したが、軍艦であった仙石秀久の無謀な作戦により、信親と共に討死した。享年33歳。
◎関連投稿
虎丸城(香川県東かがわ市与田山)
河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)
昼寝城(香川県さぬき市多和)
●所在地 香川県高松市十川東町
●築城期 南北朝時代
●築城主 十河吉保
●城主 十河存保・存之・長宗我部親武等
●遺構 本丸・空堀・堀切
●指定 高松市指定史跡
●形態 平城・城館
●登城日 2012年3月20日
◆解説
今稿は久しぶりに讃岐国(香川県)の城郭を取り上げることにする。
現在十河城跡には称念寺という十河氏ゆかりの寺院が建ち、残念ながら城郭遺構はほとんど失われている。
【写真左】十河城跡(称念寺)
現地の説明板より
“十河城跡
南北朝時代から桃山時代まで約230年間十河氏の居城だった。
西に池、東は断崖、南に大手があった。十河氏は景行天皇の末流で山田郡を領した。
三好長慶の弟一存が養子に入り、鬼十河と恐れられ、讃岐一円を制した。その養子存保が、長宗我部軍35,000とこの城で戦った。
のち秀吉から2万石に封ぜられたが、九州で戦死し廃城となった。
寺があるのは本丸跡である。”
【写真左】山門付近
東側に南北に走る県道30号線から左側に入る狭い道があり、そのまままっすぐに向かうとこの山門が見える。
ただ全体に周辺は狭い道が多く、時間帯によっては対向車とすれ違う時注意が必要だ。
十河氏(そごうし)
築城者及び代々の城主であった十河氏については、これまで長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)や、東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)でも少し触れているが、伝承によれば、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族といわれている。
【写真左】五輪塔群
境内南側に見えたものだが、明記されたものがないためわからない。
おそらく十河氏一族のものだろう。
平安末期に至ると、伊予・讃岐・阿波といった瀬戸内区域は平家の知行国として治められ、おそらくその頃は十河氏も平氏の傘下に入っていたものと思われる。そして、南北朝から室町期にかけて当地は細川氏の支配が及び、十河氏を含め植田党も同氏に従っていく。
戦国期に至ると、三好氏と連合し、守護代であった香西氏などと抗争をつづけた。そして、十河景滋の嫡子金光が早逝すると、阿波の三好元長の四男・又四郎(一存)が、実兄・三好長慶の命によって景滋の養子となり、十河氏の家督を継ぎ、十河一存(かずまさ)と称した。
【写真左】境内の西側
当院の墓地は概ね裏の西側に集まっている。階段状になっており、その先にはかなり大きなため池がある。
なお、帰宅してから分かったのだが、この場所から50m先に「十河一存・存保の墓所」というのがあるようだ。ただ、墓石そのものは当時の形式(宝篋印塔・五輪塔)ではなく、後年(近年か)建立されたもののようだ。
一存は兄長慶を常に支え、永禄3年(1560)には岸和田城主にも任じられた。しかし、翌4年有馬温泉で松永久秀(弾正)と湯治中に急死した。一説では一存は久永とは不仲であったこともあり、久永による暗殺との話も残っている。
【写真左】北東部から見る
称念寺(十河城)とその周辺は、ごらんのような2,3m程度の段差があり、要害性はほとんど認められない。
平城もしくは、「土居」lといわれるような形態のものだったのだろう。
十河存保(まさやす)
説明板にもあるように、存保は一存が急死したあと養子として家督を継いでいる。実父は三好長慶の弟・義賢である。
【写真左】戸次河原合戦跡に建立された石碑
所在地 大分県大分市中戸次
探訪したのは2008年12月だったため、記憶がはっきりしないが、長宗我部信親の墓があまりにも立派なものだったため、十河存保の墓の確認はしていない。このため、写真には撮っていない。
この写真は当時大分県知事だった平松氏の謹書によるもので、慰霊碑である。
「長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)」でも紹介したように、秀吉による島津・九州征伐の際、豊後(大分県)戸次川の戦いで、長宗我部信親・仙石秀久らと参戦したが、軍艦であった仙石秀久の無謀な作戦により、信親と共に討死した。享年33歳。
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