岩村城(いわむらじょう)跡
●登城日 2007年10月16日
●通称 霧ヶ城
★日本三大山城の一つ、標高721m
●城郭構造 梯郭式山城 ●天守構造 なし
●築城主 加藤景廉
●築城年 1185年(文治元年) または1195年(建久6年)
●主な改修者 川尻鎮吉、各務兵庫
●主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
●廃城年 1871年(明治4年) ●遺構 石垣、郭
●指定文化財 史跡
●再建造物 藩主邸
●所在地 岐阜県恵那市岩村町字城山
【写真左】岩村城の石垣群
一段ごとの高さはさほどないものの、何層にもわたって積み上げられた光景は他の山城とは一線を画すものだ。
★はじめに
このところ島根・出雲部の山城を連続して投稿していて、なかなか県外の山城紹介に至っていない。
そこで、今年に入って前稿までが99回ということから、100回目は県外の山城とし、日本三大山城の一つ、岐阜の岩村城を取り上げる。
ところで、当ブログ名である「西国…」という区域からすると、この岩村城は「西国」とは言えず、むしろ「東国」といったほうがいいかもしれない。しかし、山城探訪に興味を持つものとしては、日本三大山城の一つであるこの岩村城は、他の二城(高取城・備中松山城など)と同じく、一度は登城したいという衝動にかられる山城である。
ただ、何しろ出雲からこの信州に近い恵那の山奥に行くまでは相当の距離があり、さすがに普段の近在の山城探訪(日帰り)というわけにはいかなかった。事前に当城の麓にあった宿(白壁の岩村城を模した建物)に予約をとっておき、出発日(2007年10月)朝早く出雲を出て、高速を乗り継ぎ、現地の宿に着いたのは意外に早く、3時過ぎだったと思われる。
あくる日の朝、この宿から登って行った。途中で「クマ出没:注意」との表示があった。こうした表示は事前の心構えとしては有難いが、実際にクマが出てきたら、これはもうどうしようもない。用心棒がわりとして愛犬「トミー嬢」を連れているが、実際に出くわしたら、トミー嬢は、用心棒どころか、我先に逃走すること間違いない「不忠義の犬」である。
注意表示の話でついでながら、よく断崖絶壁下の道を車で通ると、「落石注意!」という標識を見かける。これも「落石」した段階でぶつかればアウトで、「注意」しようにも、車の運転をしておれば、ほぼ不可避で、「運がなかった」ということだと思っている。
脱線してしまった。岩村城の登城道は途中の遺構を楽しむため、徒歩によるコースと、汗をかかず車で本丸付近まで行けるコースとがある。クマさんとの出会いは、当然徒歩のコースだが、途中に何箇所か石敷の道があり、雨上がり後の登城は足元が滑るので注意が必要。
本丸までの時間はどのくらいだったか、2年も前のことなのではっきりと覚えていないが、おそらく2時間程度はかかったと思われる。途中で興味のある遺構が点在していたこともあり、じっくりと見たことや、結構きつい傾斜面もあり、結果として時間を相当費やした。
◆解説
この山城については、他のサイトや紹介資料で相当説明がされているので、当ブログで改めて紹介する必要もないが、一応記しておきたい。
冒頭の沿革にもあるように、築城期には2説あり、ひとつは文治元年(1185)であるから、源義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝が諸国に守護・地頭を置いた時期。もう一つは建久6年(1195)とあり、頼朝が征夷大将軍になった建久3年から3年後である。2説ともそれらしい時期に思われるが、どちらにしても鎌倉の開幕期であることは間違いない。
【写真左】岩村城下(町)にある「巌邑城址碑」の公園付近
巌邑城と銘記されているため、当初この地に同城があったものと思われたが、岩村城の別名であるようだ。
ただ、この付近は信長勢が岩村城を攻めよせた際に陣取った場所の一つでもあるらしい。
築城者となっている加藤景兼は頼朝の重臣だが、本人は一度もこの岩村の地には地頭として赴任しておらず、景兼の子・影朝の代になって初めて岩村の地に赴任し、姓も加藤から遠山氏に改姓した。
下って、戦国期の元亀元年(1570)、遠山氏最後の城主となった景任は、武田信玄に攻められるが、信長の援護で死守する。しかし、翌元亀2年、景任は病没したため、信長が五男の御坊丸を遠山氏の養子とさせる。御坊丸は幼少だったため、景任の未亡人である「おつやの方」(おゆう、またはお直の方とも)が御坊丸に代わって「女城主」として采配を振るったという。なお、この「おつやの方」は信長の叔母に当たる。このこともあって、当城には「女城主」としての秘話が残されている。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は遠江の徳川家康を攻めると同時に、配下の秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、岩村城は標高721mに本丸を頂く山城である。容易に岩村城は落城しなかった。このため信友はおつやの方を説得し、自分の妻に迎えて遠山一族を守ることとした。
【写真左】本丸跡付近から岩村の町を見る
本丸跡から城下が望める場所はあまりなく、特に成長した樹木が多く、眺望は期待できない。
天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勢が弱体化した期を図って、信長は岩村城を奪還すべく5か月にもわたる激戦を展開、ついに岩村城は落城した。
この際、遠山氏の主だったものの命は保障するとの約束を、信長は翻して、信友夫妻(おつやの方)をふくめ5名が、長良川河川敷で逆さ磔(はりつけ)となって処刑されたという。自分の叔母でも殺すという、残虐な行為を行う信長の冷酷な一面が見える。
その後、織田方の城となり、河尻秀隆が城主となった。この秀隆の時に大規模な改修がなされたといい、現在の岩村城の基礎が出来上がる。
その後、秀隆は甲斐に移封され、団忠正が城主となるが、3か月後本能寺の変で忠正は戦死。信濃国から森長可が接収、長可没後は森忠政と森氏2代が続く。このときの城代家老・各務兵庫助元正が18年の歳月をかけて現在の岩村城を近代城郭とした。
その後の経緯については、省略する。
【写真左】岩村城の石垣その1
岩村城の紹介写真ではよくこの石垣が取り上げられるが、おそらくこの石垣群が整備されたのは織豊期である河尻秀隆が城主となったころと思われる。
【写真左】岩村城の石垣その2
●登城日 2007年10月16日
●通称 霧ヶ城
★日本三大山城の一つ、標高721m
●城郭構造 梯郭式山城 ●天守構造 なし
●築城主 加藤景廉
●築城年 1185年(文治元年) または1195年(建久6年)
●主な改修者 川尻鎮吉、各務兵庫
●主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
●廃城年 1871年(明治4年) ●遺構 石垣、郭
●指定文化財 史跡
●再建造物 藩主邸
●所在地 岐阜県恵那市岩村町字城山
【写真左】岩村城の石垣群
一段ごとの高さはさほどないものの、何層にもわたって積み上げられた光景は他の山城とは一線を画すものだ。
★はじめに
このところ島根・出雲部の山城を連続して投稿していて、なかなか県外の山城紹介に至っていない。
そこで、今年に入って前稿までが99回ということから、100回目は県外の山城とし、日本三大山城の一つ、岐阜の岩村城を取り上げる。
ところで、当ブログ名である「西国…」という区域からすると、この岩村城は「西国」とは言えず、むしろ「東国」といったほうがいいかもしれない。しかし、山城探訪に興味を持つものとしては、日本三大山城の一つであるこの岩村城は、他の二城(高取城・備中松山城など)と同じく、一度は登城したいという衝動にかられる山城である。
ただ、何しろ出雲からこの信州に近い恵那の山奥に行くまでは相当の距離があり、さすがに普段の近在の山城探訪(日帰り)というわけにはいかなかった。事前に当城の麓にあった宿(白壁の岩村城を模した建物)に予約をとっておき、出発日(2007年10月)朝早く出雲を出て、高速を乗り継ぎ、現地の宿に着いたのは意外に早く、3時過ぎだったと思われる。
あくる日の朝、この宿から登って行った。途中で「クマ出没:注意」との表示があった。こうした表示は事前の心構えとしては有難いが、実際にクマが出てきたら、これはもうどうしようもない。用心棒がわりとして愛犬「トミー嬢」を連れているが、実際に出くわしたら、トミー嬢は、用心棒どころか、我先に逃走すること間違いない「不忠義の犬」である。
注意表示の話でついでながら、よく断崖絶壁下の道を車で通ると、「落石注意!」という標識を見かける。これも「落石」した段階でぶつかればアウトで、「注意」しようにも、車の運転をしておれば、ほぼ不可避で、「運がなかった」ということだと思っている。
脱線してしまった。岩村城の登城道は途中の遺構を楽しむため、徒歩によるコースと、汗をかかず車で本丸付近まで行けるコースとがある。クマさんとの出会いは、当然徒歩のコースだが、途中に何箇所か石敷の道があり、雨上がり後の登城は足元が滑るので注意が必要。
本丸までの時間はどのくらいだったか、2年も前のことなのではっきりと覚えていないが、おそらく2時間程度はかかったと思われる。途中で興味のある遺構が点在していたこともあり、じっくりと見たことや、結構きつい傾斜面もあり、結果として時間を相当費やした。
◆解説
この山城については、他のサイトや紹介資料で相当説明がされているので、当ブログで改めて紹介する必要もないが、一応記しておきたい。
冒頭の沿革にもあるように、築城期には2説あり、ひとつは文治元年(1185)であるから、源義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝が諸国に守護・地頭を置いた時期。もう一つは建久6年(1195)とあり、頼朝が征夷大将軍になった建久3年から3年後である。2説ともそれらしい時期に思われるが、どちらにしても鎌倉の開幕期であることは間違いない。
【写真左】岩村城下(町)にある「巌邑城址碑」の公園付近
巌邑城と銘記されているため、当初この地に同城があったものと思われたが、岩村城の別名であるようだ。
ただ、この付近は信長勢が岩村城を攻めよせた際に陣取った場所の一つでもあるらしい。
築城者となっている加藤景兼は頼朝の重臣だが、本人は一度もこの岩村の地には地頭として赴任しておらず、景兼の子・影朝の代になって初めて岩村の地に赴任し、姓も加藤から遠山氏に改姓した。
下って、戦国期の元亀元年(1570)、遠山氏最後の城主となった景任は、武田信玄に攻められるが、信長の援護で死守する。しかし、翌元亀2年、景任は病没したため、信長が五男の御坊丸を遠山氏の養子とさせる。御坊丸は幼少だったため、景任の未亡人である「おつやの方」(おゆう、またはお直の方とも)が御坊丸に代わって「女城主」として采配を振るったという。なお、この「おつやの方」は信長の叔母に当たる。このこともあって、当城には「女城主」としての秘話が残されている。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は遠江の徳川家康を攻めると同時に、配下の秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、岩村城は標高721mに本丸を頂く山城である。容易に岩村城は落城しなかった。このため信友はおつやの方を説得し、自分の妻に迎えて遠山一族を守ることとした。
【写真左】本丸跡付近から岩村の町を見る
本丸跡から城下が望める場所はあまりなく、特に成長した樹木が多く、眺望は期待できない。
天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勢が弱体化した期を図って、信長は岩村城を奪還すべく5か月にもわたる激戦を展開、ついに岩村城は落城した。
この際、遠山氏の主だったものの命は保障するとの約束を、信長は翻して、信友夫妻(おつやの方)をふくめ5名が、長良川河川敷で逆さ磔(はりつけ)となって処刑されたという。自分の叔母でも殺すという、残虐な行為を行う信長の冷酷な一面が見える。
その後、織田方の城となり、河尻秀隆が城主となった。この秀隆の時に大規模な改修がなされたといい、現在の岩村城の基礎が出来上がる。
その後、秀隆は甲斐に移封され、団忠正が城主となるが、3か月後本能寺の変で忠正は戦死。信濃国から森長可が接収、長可没後は森忠政と森氏2代が続く。このときの城代家老・各務兵庫助元正が18年の歳月をかけて現在の岩村城を近代城郭とした。
その後の経緯については、省略する。
【写真左】岩村城の石垣その1
岩村城の紹介写真ではよくこの石垣が取り上げられるが、おそらくこの石垣群が整備されたのは織豊期である河尻秀隆が城主となったころと思われる。
【写真左】岩村城の石垣その2
左側が本丸になり、右にはかなり大きな平坦地がある。現在その場所に売店のようなものが建っている。
この場所には、100円か、200円を入れると、最初に歌が流れてくる機械が設置してある。歌っているのは、故人となった演歌歌手・春日八郎で、歌の題名も確か「岩村城」か「女城主」を讃えたものだったと思う。
この歌を聞いた瞬間、もうずいぶん前だが、春日八郎が、この岩村城や女城主に興味を持っていたことをテレビで見たこと思い出した。
この歌を聞いた瞬間、もうずいぶん前だが、春日八郎が、この岩村城や女城主に興味を持っていたことをテレビで見たこと思い出した。
歌が終わった後は、当城の説明がしばらく続く。現地まで徒歩で登ってきた者にとって、休憩と併せてこうしたものを聞けるのは何となく気が休まる。
ちなみに、歌までは入っていないが、本丸に説明用のアナウンスが流れる仕組みがあったのは、広島・備後の新高山城にもそうしたものがあったと記憶している。
◆岩村城はその城下町と合わせ観光地としてかなり有名なようだ。また、遠山氏は江戸期に入って、その末裔が、昔テレビでやっていた「遠山の金さん」こと、遠山金四郎とのことで、これもまた興味深い流れがある。
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