八木・土城(やぎ・どじょう)
●所在地 兵庫県養父市八鹿町下八木
●別名 八木古城
●築城期 平安後期(11世紀半ば)
●築城者 閉伊四郎頼国
●城主 朝倉高清・重清(八木氏祖~400年)、別所孫右衛門重棟・吉治
●指定 国指定史跡
●高さ 409m
●遺構・規模 全長370m、郭15か所、堀切・土塁・枡形虎口等
●登城日 2013年5月5日
◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)
但馬国(兵庫県)の八木城及び八木・土城についてはこれまで3回も登城を試みるも、付近に駐車場を確保することができず、そのたびに管理人にとって、辛酸を味わってきた城砦で、今年になってやっと近くの公民館にその場所があることが分かり、登城することができた山城である。
今稿では先ず、最初に築かれた八木・土城の方を取り上げることにする。
【写真左】八木・土城及び八木城遠望
両城への登城道は現在東麓部を始点とする「下八木登山道」と、南麓部の「中八木登山道」及び「上八木登山道」の三通りあるようだが、この日は最も分かりやすく、負担の少ない「下八木登山道」から向かった。
閉伊(へい)四郎頼国
八木・土城の築城者は閉伊四郎頼国といわれている。口承によれば、康平6年(1063)源頼義の「前九年の役」(1051~1062)で勲功のあった頼国が、頼義から但馬国を賜り八木の地に築いたのが八木・土城の始まりといわれている。
【写真左】「城下町八木散策絵地図」
駐車はこの地図に記されている「下八木公民館」の駐車場を利用させていただいた。
「前九年の役」は、陸奥(東北)の俘囚安倍頼時が永承6年(1051)起こした反乱に対し、陸奥守に任じられた頼義が、その後9年の歳月をかけて鎮圧した乱である。
この結果、東北の支配者が安倍氏から清原氏に代わっていくことになる。頼義は「前九年の役」が終結した翌年(康平6年・1063)、この戦いを祈念し相模由比郷に鶴岡八幡宮を建立した。
【写真左】八木城跡登山口
前述した「下八木登山道」の入口で、3コースのうちもっとも緩やかな登城道である。
なお、今稿は「八木・土城」の紹介となるので、登城口から「八木城」までの関係写真は次稿で改めて紹介することにしたい。従って、後段は八木・土城のみの写真紹介となる。
因みに、この年の11月3日、石見国では東北の支配者となった清原氏の一族・清原頼行が、現在の石見銀山北方にあった久利郷の郷司職に任命されている(「平安遺文990号」)。この後、石見清原氏は、頼行を祖として石見久利氏を名乗ることになる。
【写真左】八木城から八木・土城へ向かう。
この写真は、八木城の主郭西端部にある堀切だが、ここから約200m程北西方向に尾根伝いに登っていく。
さて、八木・土城の築城者といわれる閉伊氏は、陸奥国閉伊郡の出身といわれている。先の東北震災があった現在の岩手県の中央部太平洋岸に面した上・下閉伊郡・遠野市・宮古市・釜石市に当たる。
そして、閉伊氏は八木・土城を本拠城として、館を構え、以後約130年当地を支配していった。しかし、建久5年(1194)ごろより、日下部氏を祖とする朝倉高清が、頼国の後裔・十郎行光を攻め滅ぼし、高清は新たに土城の東方に城を構えた。これが現在の八木城の基礎となる。なお、朝倉高清については、既に但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)の稿で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土橋のような尾根道
八木城と八木・土城の主郭間の距離はおよそ500mとされているが、途中には写真にみえるような土橋遺構みられるものがある。
【写真左】急坂を登る。
城域に入る直前にはかなり急峻な箇所が約100m近く続く。九十九折でないため、少し息が切れる。
【写真左】最初の郭
八木・土城の特徴はほぼ直線状に延びる尾根上に築かれた14段の郭群で構成され、そのうち先端部で、Y字状に南西方向に約70m延びる尾根にも郭3段が接続されている。
写真の郭は最初に見えるもので、長径30m×短径20mほどのもの。
ここから少し右に向きを変え、ほぼ真っ直ぐに主郭に向かって郭段が連続していく。
【写真左】最初の郭段
尾根直線部には主郭に至るまでに11段の郭が連続し、常に左側(南側・国道9号線側)にはご覧のような土塁が主郭まで繋がる。
【写真左】当城の最大規模を持つ郭
直線部の尾根に設けられた郭の中でもっとも長大なもので、長さ約50m前後を測る。なお、幅については概ね10~15mである。
また、この郭の土塁のほぼ中央部には一段下げた箇所があり、南側から直接入っていく箇所が認められる。
【写真左】窪地
5番目から6番目の郭には中央部に窪みが認められ、簡単な柵が設置されている。
特に標記されていないため特定できないが、井戸跡の可能性がある。
【写真左】6段目から7段目の郭付近
各段の比高差は3~4m程度で次第に高くなっていくが、特にこの辺りからは長径は短いものの、比高差が大きくなる。
写真奥には主郭直近の郭に設置された外枡形虎口(次の写真参照)が見えてくる。
【写真左】外枡形虎口
主郭直近の郭(№5)に設けられたもので、資料によれば、この遺構は築城期の平安後期(南北朝期とも)のものではなく、次稿で予定している東方に設置された「八木城」の詰の城として、織豊期に新たに施工されたものという。
【写真左】主郭直近の郭
枡形虎口のある郭で、その奥には高さ4m程度の切崖を越えた主郭が見える。
【写真左】主郭
規模は16m×12mの楕円形で、奥の東端から北端部には高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】主郭から振り返って郭群を見る。
ご覧の通りほぼ真っ直ぐな尾根筋に郭が続いている。
このあと、頂部の主郭から今度は反対側に下る尾根に向かう。
【写真左】主郭北側の郭
主郭の南~西~北にかけては小規模な帯郭が取り巻いているが、その下段にはご覧の腰郭がある。
この辺りは余り整備されていないが、更に尾根を下る。
【写真左】堀切
八木・土城に残る唯一の堀切で、北西部からの侵入をここで阻止する。
現在は大分埋まっているが、尾根の規模から考えると、当時は相当大規模なものだったと考えられる。
【写真左】木立から今滝寺を見る。
堀切付近から少し見えたもので、北側の谷筋には、八木氏の菩提寺であった今滝寺の建物がかすかに見える。
●所在地 兵庫県養父市八鹿町下八木
●別名 八木古城
●築城期 平安後期(11世紀半ば)
●築城者 閉伊四郎頼国
●城主 朝倉高清・重清(八木氏祖~400年)、別所孫右衛門重棟・吉治
●指定 国指定史跡
●高さ 409m
●遺構・規模 全長370m、郭15か所、堀切・土塁・枡形虎口等
●登城日 2013年5月5日
◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)
但馬国(兵庫県)の八木城及び八木・土城についてはこれまで3回も登城を試みるも、付近に駐車場を確保することができず、そのたびに管理人にとって、辛酸を味わってきた城砦で、今年になってやっと近くの公民館にその場所があることが分かり、登城することができた山城である。
今稿では先ず、最初に築かれた八木・土城の方を取り上げることにする。
【写真左】八木・土城及び八木城遠望
両城への登城道は現在東麓部を始点とする「下八木登山道」と、南麓部の「中八木登山道」及び「上八木登山道」の三通りあるようだが、この日は最も分かりやすく、負担の少ない「下八木登山道」から向かった。
閉伊(へい)四郎頼国
八木・土城の築城者は閉伊四郎頼国といわれている。口承によれば、康平6年(1063)源頼義の「前九年の役」(1051~1062)で勲功のあった頼国が、頼義から但馬国を賜り八木の地に築いたのが八木・土城の始まりといわれている。
【写真左】「城下町八木散策絵地図」
駐車はこの地図に記されている「下八木公民館」の駐車場を利用させていただいた。
「前九年の役」は、陸奥(東北)の俘囚安倍頼時が永承6年(1051)起こした反乱に対し、陸奥守に任じられた頼義が、その後9年の歳月をかけて鎮圧した乱である。
この結果、東北の支配者が安倍氏から清原氏に代わっていくことになる。頼義は「前九年の役」が終結した翌年(康平6年・1063)、この戦いを祈念し相模由比郷に鶴岡八幡宮を建立した。
【写真左】八木城跡登山口
前述した「下八木登山道」の入口で、3コースのうちもっとも緩やかな登城道である。
なお、今稿は「八木・土城」の紹介となるので、登城口から「八木城」までの関係写真は次稿で改めて紹介することにしたい。従って、後段は八木・土城のみの写真紹介となる。
因みに、この年の11月3日、石見国では東北の支配者となった清原氏の一族・清原頼行が、現在の石見銀山北方にあった久利郷の郷司職に任命されている(「平安遺文990号」)。この後、石見清原氏は、頼行を祖として石見久利氏を名乗ることになる。
【写真左】八木城から八木・土城へ向かう。
この写真は、八木城の主郭西端部にある堀切だが、ここから約200m程北西方向に尾根伝いに登っていく。
さて、八木・土城の築城者といわれる閉伊氏は、陸奥国閉伊郡の出身といわれている。先の東北震災があった現在の岩手県の中央部太平洋岸に面した上・下閉伊郡・遠野市・宮古市・釜石市に当たる。
そして、閉伊氏は八木・土城を本拠城として、館を構え、以後約130年当地を支配していった。しかし、建久5年(1194)ごろより、日下部氏を祖とする朝倉高清が、頼国の後裔・十郎行光を攻め滅ぼし、高清は新たに土城の東方に城を構えた。これが現在の八木城の基礎となる。なお、朝倉高清については、既に但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)の稿で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土橋のような尾根道
八木城と八木・土城の主郭間の距離はおよそ500mとされているが、途中には写真にみえるような土橋遺構みられるものがある。
【写真左】急坂を登る。
城域に入る直前にはかなり急峻な箇所が約100m近く続く。九十九折でないため、少し息が切れる。
【写真左】最初の郭
八木・土城の特徴はほぼ直線状に延びる尾根上に築かれた14段の郭群で構成され、そのうち先端部で、Y字状に南西方向に約70m延びる尾根にも郭3段が接続されている。
写真の郭は最初に見えるもので、長径30m×短径20mほどのもの。
ここから少し右に向きを変え、ほぼ真っ直ぐに主郭に向かって郭段が連続していく。
【写真左】最初の郭段
尾根直線部には主郭に至るまでに11段の郭が連続し、常に左側(南側・国道9号線側)にはご覧のような土塁が主郭まで繋がる。
【写真左】当城の最大規模を持つ郭
直線部の尾根に設けられた郭の中でもっとも長大なもので、長さ約50m前後を測る。なお、幅については概ね10~15mである。
また、この郭の土塁のほぼ中央部には一段下げた箇所があり、南側から直接入っていく箇所が認められる。
【写真左】窪地
5番目から6番目の郭には中央部に窪みが認められ、簡単な柵が設置されている。
特に標記されていないため特定できないが、井戸跡の可能性がある。
【写真左】6段目から7段目の郭付近
各段の比高差は3~4m程度で次第に高くなっていくが、特にこの辺りからは長径は短いものの、比高差が大きくなる。
写真奥には主郭直近の郭に設置された外枡形虎口(次の写真参照)が見えてくる。
【写真左】外枡形虎口
主郭直近の郭(№5)に設けられたもので、資料によれば、この遺構は築城期の平安後期(南北朝期とも)のものではなく、次稿で予定している東方に設置された「八木城」の詰の城として、織豊期に新たに施工されたものという。
【写真左】主郭直近の郭
枡形虎口のある郭で、その奥には高さ4m程度の切崖を越えた主郭が見える。
【写真左】主郭
規模は16m×12mの楕円形で、奥の東端から北端部には高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】主郭から振り返って郭群を見る。
ご覧の通りほぼ真っ直ぐな尾根筋に郭が続いている。
このあと、頂部の主郭から今度は反対側に下る尾根に向かう。
【写真左】主郭北側の郭
主郭の南~西~北にかけては小規模な帯郭が取り巻いているが、その下段にはご覧の腰郭がある。
この辺りは余り整備されていないが、更に尾根を下る。
【写真左】堀切
八木・土城に残る唯一の堀切で、北西部からの侵入をここで阻止する。
現在は大分埋まっているが、尾根の規模から考えると、当時は相当大規模なものだったと考えられる。
【写真左】木立から今滝寺を見る。
堀切付近から少し見えたもので、北側の谷筋には、八木氏の菩提寺であった今滝寺の建物がかすかに見える。