2013年8月14日水曜日

八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)

八木・土城(やぎ・どじょう)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町下八木
●別名 八木古城
●築城期 平安後期(11世紀半ば)
●築城者 閉伊四郎頼国
●城主 朝倉高清・重清(八木氏祖~400年)、別所孫右衛門重棟・吉治
●指定 国指定史跡
●高さ 409m
●遺構・規模 全長370m、郭15か所、堀切・土塁・枡形虎口等
●登城日 2013年5月5日

◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)

 但馬国(兵庫県)の八木城及び八木・土城についてはこれまで3回も登城を試みるも、付近に駐車場を確保することができず、そのたびに管理人にとって、辛酸を味わってきた城砦で、今年になってやっと近くの公民館にその場所があることが分かり、登城することができた山城である。

 今稿では先ず、最初に築かれた八木・土城の方を取り上げることにする。
【写真左】八木・土城及び八木城遠望
 両城への登城道は現在東麓部を始点とする「下八木登山道」と、南麓部の「中八木登山道」及び「上八木登山道」の三通りあるようだが、この日は最も分かりやすく、負担の少ない「下八木登山道」から向かった。


閉伊(へい)四郎頼国

  八木・土城の築城者は閉伊四郎頼国といわれている。口承によれば、康平6年(1063)源頼義の「前九年の役」(1051~1062)で勲功のあった頼国が、頼義から但馬国を賜り八木の地に築いたのが八木・土城の始まりといわれている。
【写真左】「城下町八木散策絵地図」
 駐車はこの地図に記されている「下八木公民館」の駐車場を利用させていただいた。



 「前九年の役」は、陸奥(東北)の俘囚安倍頼時が永承6年(1051)起こした反乱に対し、陸奥守に任じられた頼義が、その後9年の歳月をかけて鎮圧した乱である。

 この結果、東北の支配者が安倍氏から清原氏に代わっていくことになる。頼義は「前九年の役」が終結した翌年(康平6年・1063)、この戦いを祈念し相模由比郷に鶴岡八幡宮を建立した。
【写真左】八木城跡登山口
 前述した「下八木登山道」の入口で、3コースのうちもっとも緩やかな登城道である。

 なお、今稿は「八木・土城」の紹介となるので、登城口から「八木城」までの関係写真は次稿で改めて紹介することにしたい。従って、後段は八木・土城のみの写真紹介となる。


 因みに、この年の11月3日、石見国では東北の支配者となった清原氏の一族・清原頼行が、現在の石見銀山北方にあった久利郷の郷司職に任命されている(「平安遺文990号」)。この後、石見清原氏は、頼行を祖として石見久利氏を名乗ることになる。
【写真左】八木城から八木・土城へ向かう。
 この写真は、八木城の主郭西端部にある堀切だが、ここから約200m程北西方向に尾根伝いに登っていく。


 さて、八木・土城の築城者といわれる閉伊氏は、陸奥国閉伊郡の出身といわれている。先の東北震災があった現在の岩手県の中央部太平洋岸に面した上・下閉伊郡・遠野市・宮古市・釜石市に当たる。

 そして、閉伊氏は八木・土城を本拠城として、館を構え、以後約130年当地を支配していった。しかし、建久5年(1194)ごろより、日下部氏を祖とする朝倉高清が、頼国の後裔・十郎行光を攻め滅ぼし、高清は新たに土城の東方に城を構えた。これが現在の八木城の基礎となる。なお、朝倉高清については、既に但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)の稿で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】土橋のような尾根道
 八木城と八木・土城の主郭間の距離はおよそ500mとされているが、途中には写真にみえるような土橋遺構みられるものがある。
【写真左】急坂を登る。
 城域に入る直前にはかなり急峻な箇所が約100m近く続く。九十九折でないため、少し息が切れる。
【写真左】最初の郭
 八木・土城の特徴はほぼ直線状に延びる尾根上に築かれた14段の郭群で構成され、そのうち先端部で、Y字状に南西方向に約70m延びる尾根にも郭3段が接続されている。
 写真の郭は最初に見えるもので、長径30m×短径20mほどのもの。
 ここから少し右に向きを変え、ほぼ真っ直ぐに主郭に向かって郭段が連続していく。
【写真左】最初の郭段
 尾根直線部には主郭に至るまでに11段の郭が連続し、常に左側(南側・国道9号線側)にはご覧のような土塁が主郭まで繋がる。
【写真左】当城の最大規模を持つ郭
 直線部の尾根に設けられた郭の中でもっとも長大なもので、長さ約50m前後を測る。なお、幅については概ね10~15mである。

 また、この郭の土塁のほぼ中央部には一段下げた箇所があり、南側から直接入っていく箇所が認められる。
【写真左】窪地
 5番目から6番目の郭には中央部に窪みが認められ、簡単な柵が設置されている。

 特に標記されていないため特定できないが、井戸跡の可能性がある。
【写真左】6段目から7段目の郭付近
 各段の比高差は3~4m程度で次第に高くなっていくが、特にこの辺りからは長径は短いものの、比高差が大きくなる。
 写真奥には主郭直近の郭に設置された外枡形虎口(次の写真参照)が見えてくる。
【写真左】外枡形虎口
 主郭直近の郭(№5)に設けられたもので、資料によれば、この遺構は築城期の平安後期(南北朝期とも)のものではなく、次稿で予定している東方に設置された「八木城」の詰の城として、織豊期に新たに施工されたものという。
【写真左】主郭直近の郭
 枡形虎口のある郭で、その奥には高さ4m程度の切崖を越えた主郭が見える。
【写真左】主郭
 規模は16m×12mの楕円形で、奥の東端から北端部には高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】主郭から振り返って郭群を見る。
 ご覧の通りほぼ真っ直ぐな尾根筋に郭が続いている。
 このあと、頂部の主郭から今度は反対側に下る尾根に向かう。
【写真左】主郭北側の郭
 主郭の南~西~北にかけては小規模な帯郭が取り巻いているが、その下段にはご覧の腰郭がある。
 この辺りは余り整備されていないが、更に尾根を下る。
【写真左】堀切
 八木・土城に残る唯一の堀切で、北西部からの侵入をここで阻止する。
 現在は大分埋まっているが、尾根の規模から考えると、当時は相当大規模なものだったと考えられる。
【写真左】木立から今滝寺を見る。
 堀切付近から少し見えたもので、北側の谷筋には、八木氏の菩提寺であった今滝寺の建物がかすかに見える。


2013年8月9日金曜日

伊賀道城(山口県柳井市日積)

伊賀道城(いかじじょう)

●所在地 山口県柳井市日積
●別名 琴石山城・事能要害
●高さ 545m
●築城期 不明(戦国時代)
●築城者 毛利氏か
●城主 高井土佐守・堅田氏、吉村備後守
●遺構 郭・堀切・柱穴等
●登城日 2013年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 前稿冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)のある周東町からさらに437号線を南下し、柳井市に入り、JR山陽本線沿いに進むと、やがて右手に形の良い山が見えてくる。現在琴石グリーンパークという森林公園に整備されている琴石山である。

 琴石山は標高545mで、そこから北西にのびる尾根・琴石山縦走路を進み、三ヶ嶽峠を越え1.5キロほどさらに向かうと三ヶ岳(487m)がある。地元では多くの人に親しまれている登山コースでもある。
【写真左】伊賀道城遠望
 南西麓から見たもの。
 中央部の最高所が本丸で、その右には二の丸、左側のピークは三の丸。





現地の説明板より

“史跡 琴石山城跡
 琴石山は、標高545.5mの山で山頂には、弥山様や妙見様が祀られていて、ここからは四方の眺望が絶景です。
 また、昭和50年には「山口の自然100選」の第1位に選ばれています。
【写真左】配置図
 登城ルートとしては南西麓から伸びる林道と、東麓から向かう二つのコースがあるようだ。
 この日は南西麓である「林道白潟線」という道を使って北側の駐車場に停め、そこから向かった。


 琴石城跡は、約450年前の戦国時代、毛利氏が、防長制圧にあたって、豊後の大友氏の妨害侵攻に備えた山城です。

 城主は高井氏あるいは堅田氏といわれています。頂上部が本丸跡です。頂上から東へ下りた狭い尾根が二の丸と呼ばれ、ここの岩盤には、柵列や小屋組みをしたと考えられる直径25cm、深さ20cm前後の柱穴を数個確認することができます。
【写真左】登山道始点
 駐車場から少し下った所に登城始点がある。地元では大分親しまれている山(城)のせいか、道も整備され歩きやすい。
 ここから本丸まで700mとある。


 また、本丸へ上がる尾根のくびれた部分には、東の堀切跡が残っています。頂上から西へ急な尾根道を下ったくびれた部分にも、西の堀切跡が残っています。さらに西へ尾根筋を下ったところ
に南に張り出した平坦な尾根があり、西の丸とよばれています。
【写真左】眼下に柳井市を見る。
 変化にとんだ道を進むと途中から左手に安芸灘や周防大島、伊予灘が見えてくる。


 本丸・二の丸・西の丸とよばれている郭のほかに、数か所の郭が尾根筋に残っています。
 琴石山には、グリーンパークや学習の森として植林された樹木のほかに、昔の植林や自生のヤブツバキの林が広く分布しています。また、南面の八合目には、ヤマサクラの巨樹が2本あるほか、琴の石・弁慶岩・鉄砲台とよばれる巨大な奇岩がそそり立つ景観が見られます。
   平成15年12月     日積ふるさと勉強会”
【写真左】二の丸付近
 琴石山全体が岩塊の地質を持ち、高度が上がるにつれ険しい箇所が増える。

 このあたりも細尾根が多く、削平された平坦地は少ないが、変化にとんだ景観が楽しめる。
【写真左】二の丸付近から周防大島などを見る。
 視界がいいときには四国の松山方面も見えるという。






大内・毛利氏と大友氏の争い

 説明板にもあるように、戦国期に毛利氏が九州豊後の大友氏との抗戦に供え築城したとある。詳細は不明ながら、城主として、高井、堅田という二人の名が残っている。このうち、高井氏については、弘治・永禄年間に、高井彦次郎元任という武将が当城の城番として毛利方として功労があったと伝えられている。
【写真左】本丸・その1
 現地には琴石山に関する伝説が次のように掲示されている。







“(伝説)琴石山(海抜545.5m)

 この山の由来には、次のような説がある。
 山の頂上に琴石という岩があり、天女が舞い降りて、この岩の上で琴を奏でたので、琴石山と名づけたという。

 この山を南の伊保庄海岸から眺めると、琴柱に糸をかけた形に見えるので、琴石山というようになったという。

 室町時代の終わりごろから、この上に「事能要害(ことよしようがい)という砦があって、ある時兵糧攻めにあった。そこで谷間に板をかけたり、木の枝に着物をかけて、多くの兵がいるように見せかけたりして勝つことができたという。
 そこで、この山を事嘉山(ことよしやま)と名づけたのが、後になまって琴石山といわれるようになった。
 琴石山は古くから名山といわれ「岩国十景」や「柳井八景」にも数えられているし、柳井市民歌や、市内の小・中・高等学校の校歌にもうたわれている。”
【写真左】本丸・その2
 写真の奥(南側)が最高所で、露出した岩塊があり、その手前は東西約10m×南北4~5mほどの削平地が残る。

 また西端部には祠が祀られている。


 なお、高井氏・堅田氏とは別に、地元日積の豪族であった吉村備後守も毛利氏に従って活躍し、一時当城の城番の一人であったという。その末裔が当地にある好村家といわれている。

 また、伊賀道城から西方約3キロほどにある柳井川沿いには、杉氏の館跡が記録されていることから、大内氏時代に当地を同氏が治め、その配下に件の一族がいたものと考えられる。
【写真左】本丸より柳井市街を俯瞰・その1
 写真左の山(半島)を南下すると上関町に繋がる。


【写真左】本丸より柳井市街を俯瞰・その2
 フェリーが見えるが、おそらく松山(愛媛県)に向かう船だろう。
【写真左】周辺の主だった山々の方向
 このうち、最下段の「石城山」は、以前紹介した古代山城の石城山神籠石(山口県光市大字塩田)である。
【写真左】伊賀道城遠望
 大畠瀬戸の対岸、周防大島側から見たもの。
 この方向から見ると流麗な山容である。