端谷城(はしたにじょう)
●所在地 兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 衣笠氏
●高さ 140m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀・堀切等
●登城日 2014年11月22日
◆解説(参考文献 「端谷城 第1次発掘調査地元説明会資料 神戸市教育委会 文化財課 平成14年3月19日」、「HP 武家家伝 衣笠氏」等)
兵庫県の東部明石市を流れる明石川の支流櫨谷川(はぜたにがわ)の中流域櫨谷寺谷は、隣接する福谷とともに歴史を持った地区である。中世には中村と呼ばれ、西国街道の要所でもあったされ、鎌倉時代から戦国期まで多くの戦場となった場所でもある。
なお、当地は旧国名でいえば東播磨となるが、東隣の摂津国と接し、端谷城はいわゆる「境目の城」であったことも指摘できる。
【写真左】端谷城遠望
南東麓から見たもの。
当城は標高140m程の高さで、しかも比高は40m程である。
現在はその麓に民家などが建っているが、下段でも示すように、明石川の支流櫨谷(はせたに)川が三方を囲み、濠の役目をしていたため、比高の低さの割に防御性がこれによって高められていたものと思われる。
現地の説明板より
“端谷城
端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1466~77)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
【写真左】端谷城などの配置図
端谷城の東には川を挟んで、城ヶ市城があり、櫨谷川を下っていくと、南側に城ヶ谷砦、北側に福谷城などがあった。
これらはいずれも端谷城の支城といわれている。
その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力を争い続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ヶ市城、城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。
戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力を伸ばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
【写真左】端谷城縄張図
現地に設置された縄張図であるが、当時の状況を示したもの。色が大分劣化していたため、管理人によって修正している。
南側の櫨谷川が当時の濠の役目をしており、それを超えると居館があり、この場所を大手口としている。そこからさらに北に向かって尾根伝いに登っていくと、三の丸があり、現在満福寺という寺院が建っている箇所である。
ここからさらに尾根伝いに進み、堀切をこえて二ノ丸を抜け、さらにその奥に本丸が控えているが、この後背は馬蹄形に長大な空堀が配置されている。
天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
【写真左】三の丸に向かう。
写真の階段下に居館があったとされ、大手口となる。現在数軒の家が建ち並んでいるが、道路は狭い。
比高の低さの割に、三の丸周辺部は切崖となっており要害性が高い。このため階段も急傾斜となっている。
堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築き上げた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残された遺構から読み取ることができます。
櫨谷を守り続けた端谷城は、落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。
2000.8 寺谷里づくり協議会”
【写真左】三の丸・満福寺
寺院となりその面影は殆ど消えているが、当時は二段で構成された郭だったとされている。
この写真の奥を進むと本丸にたどり着く。
登城道は一旦境内からそれて右(東側)の脇から向かうようになっている。
衣笠氏
衣笠氏は当城・端谷城の城主とされ、鎌倉時代の中頃にはすでに当地を支配していた一族とされている。
【写真左】衣笠範景公顕彰碑
当城最後の城主といわれる範景(影)公の顕彰碑が境内脇に建立されている。
衣笠氏の姓を名乗りだしたのは室町期に至ってからだが、もともと赤松氏の庶流別所氏の分流ともいわれ、赤松円心の弟円光の曾孫持則をその祖としている。円光といえば、黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも述べたように、その子・重光が黒田氏の始祖であるから、黒田官兵衛と衣笠氏はその系譜で繋がっていることになる。
円光が活躍したのが播磨の北東部といわれているので、代を重ねるうちに東播磨にも及んで行ったのだろう。
【写真左】切崖縁の登城道
庫裡(三の丸)の東端部に細い登城道が確保されているが、その右下はほぼ垂直の崖となっており、見ごたえ十分の切崖である。
三木合戦
三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、戦国期に至ると信長の西国征伐の一環として、家臣羽柴秀吉が東播磨攻めを開始する。いわゆる三木合戦と呼ばれるもので、天正6年(1578)4月より始まり、以後1年10か月にも及んだ。三木城が落城したのが、天正8年(1580)1月17日といわれ、城主別所長治は自害した。
ところで、端谷城が落城したのは、同年2月25日とされているので、三木城落城から1ヶ月ほど持ち堪えていたということになる。
【写真左】空堀(堀切)
三の丸(満福寺)をこえて少し登ると、左手に空堀が控えている。
現地の説明板では堀切と書かれている箇所で、東西に約30m程伸びた遺構で、右側は途中で停止しているが、左(西)側の谷に向かって削り落としている。
右(二ノ丸)との比高差は10m前後はあるだろう。見ごたえがある。
遺構及び出土品
端谷城は小規模な城砦だが、遺構の保存度からいえばかなり良好な状態といえる。また、出土品の中で特に注目されるのは、鎧(甲・よろい)である。平成17年におこなわれた遺構調査などで判明したものだが、主だった郭跡にのこる建物内石敷面の北半部から出土している。
特に、甲の「胴丸」と呼ばれていた個所のものが多く、着脱用の「押付板」は20枚も出てきている。
【写真左】三の丸から二ノ丸に向かう。
東側に設置された犬走りだが、写真にもあるように右側には柵が設けられている。
写真では分かりづらいが、ほぼ垂直の切崖となっているからである。
このあと、左側にある二ノ丸に向かう。
【写真左】二ノ丸
幅約25m×長さ約65mの規模をもち、当城の中で最大の面積を誇る郭。
発掘調査では掘立柱の建物があった箇所。
【写真左】二ノ丸西の段
二ノ丸の西側には南北にそれぞれ小さな郭が配されている。
写真は南側のもの。
この段では礎石建物が確認されている。
【写真左】二ノ丸先端部から櫨谷の集落を俯瞰する。
写真の中央部に流れる川が櫨谷川で、この川は下って明石川と合流し明石海峡(播磨灘)に注ぐ。
【写真左】西の壇附近
二ノ丸の北端部で、本丸の南西方向に伸びる尾根伝いに設置された郭群で、写真はそこに向かう入口点。
ここからは瓦葺の礎石建物、及び柵や塀などが出土している。
このあと、二ノ丸と本丸の境付近まで登り、本丸方面に向かう。
【写真左】左本丸、右二ノ丸
左右の比高差は約2m前後で、傾斜はゆるやか。
【写真左】本丸・その1
ほぼ最高所となる位置で約140m前後。
北側には土塁が残るとしてあるが、大分磨耗していて余り高さがない。
なお、この写真でも分かるように、この箇所の縁も柵がしてあるが、この箇所もほぼ垂直の切崖があり、その奥に長大な空堀が本丸を囲繞している。残念ながらこの箇所は整備されておらず、当日は向かっていないが、ここに向かうには、旧大手道の東側から藪コギ覚悟で進むしかないだろう。
【写真左】本丸・その2
西側附近の箇所で、右側には物見台及び礎石建物があったといわれている。
【写真左】物見台
実質当城の最高所であるが、この西側及び北側も絶壁となった切崖がある。
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●所在地 兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 衣笠氏
●高さ 140m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀・堀切等
●登城日 2014年11月22日
◆解説(参考文献 「端谷城 第1次発掘調査地元説明会資料 神戸市教育委会 文化財課 平成14年3月19日」、「HP 武家家伝 衣笠氏」等)
兵庫県の東部明石市を流れる明石川の支流櫨谷川(はぜたにがわ)の中流域櫨谷寺谷は、隣接する福谷とともに歴史を持った地区である。中世には中村と呼ばれ、西国街道の要所でもあったされ、鎌倉時代から戦国期まで多くの戦場となった場所でもある。
なお、当地は旧国名でいえば東播磨となるが、東隣の摂津国と接し、端谷城はいわゆる「境目の城」であったことも指摘できる。
【写真左】端谷城遠望
南東麓から見たもの。
当城は標高140m程の高さで、しかも比高は40m程である。
現在はその麓に民家などが建っているが、下段でも示すように、明石川の支流櫨谷(はせたに)川が三方を囲み、濠の役目をしていたため、比高の低さの割に防御性がこれによって高められていたものと思われる。
現地の説明板より
“端谷城
端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1466~77)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
【写真左】端谷城などの配置図
端谷城の東には川を挟んで、城ヶ市城があり、櫨谷川を下っていくと、南側に城ヶ谷砦、北側に福谷城などがあった。
これらはいずれも端谷城の支城といわれている。
その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力を争い続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ヶ市城、城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。
戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力を伸ばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
現地に設置された縄張図であるが、当時の状況を示したもの。色が大分劣化していたため、管理人によって修正している。
南側の櫨谷川が当時の濠の役目をしており、それを超えると居館があり、この場所を大手口としている。そこからさらに北に向かって尾根伝いに登っていくと、三の丸があり、現在満福寺という寺院が建っている箇所である。
ここからさらに尾根伝いに進み、堀切をこえて二ノ丸を抜け、さらにその奥に本丸が控えているが、この後背は馬蹄形に長大な空堀が配置されている。
天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
【写真左】三の丸に向かう。
写真の階段下に居館があったとされ、大手口となる。現在数軒の家が建ち並んでいるが、道路は狭い。
比高の低さの割に、三の丸周辺部は切崖となっており要害性が高い。このため階段も急傾斜となっている。
堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築き上げた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残された遺構から読み取ることができます。
櫨谷を守り続けた端谷城は、落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。
2000.8 寺谷里づくり協議会”
【写真左】三の丸・満福寺
寺院となりその面影は殆ど消えているが、当時は二段で構成された郭だったとされている。
この写真の奥を進むと本丸にたどり着く。
登城道は一旦境内からそれて右(東側)の脇から向かうようになっている。
衣笠氏
衣笠氏は当城・端谷城の城主とされ、鎌倉時代の中頃にはすでに当地を支配していた一族とされている。
【写真左】衣笠範景公顕彰碑
当城最後の城主といわれる範景(影)公の顕彰碑が境内脇に建立されている。
衣笠氏の姓を名乗りだしたのは室町期に至ってからだが、もともと赤松氏の庶流別所氏の分流ともいわれ、赤松円心の弟円光の曾孫持則をその祖としている。円光といえば、黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも述べたように、その子・重光が黒田氏の始祖であるから、黒田官兵衛と衣笠氏はその系譜で繋がっていることになる。
円光が活躍したのが播磨の北東部といわれているので、代を重ねるうちに東播磨にも及んで行ったのだろう。
【写真左】切崖縁の登城道
庫裡(三の丸)の東端部に細い登城道が確保されているが、その右下はほぼ垂直の崖となっており、見ごたえ十分の切崖である。
三木合戦
三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、戦国期に至ると信長の西国征伐の一環として、家臣羽柴秀吉が東播磨攻めを開始する。いわゆる三木合戦と呼ばれるもので、天正6年(1578)4月より始まり、以後1年10か月にも及んだ。三木城が落城したのが、天正8年(1580)1月17日といわれ、城主別所長治は自害した。
ところで、端谷城が落城したのは、同年2月25日とされているので、三木城落城から1ヶ月ほど持ち堪えていたということになる。
【写真左】空堀(堀切)
三の丸(満福寺)をこえて少し登ると、左手に空堀が控えている。
現地の説明板では堀切と書かれている箇所で、東西に約30m程伸びた遺構で、右側は途中で停止しているが、左(西)側の谷に向かって削り落としている。
右(二ノ丸)との比高差は10m前後はあるだろう。見ごたえがある。
遺構及び出土品
端谷城は小規模な城砦だが、遺構の保存度からいえばかなり良好な状態といえる。また、出土品の中で特に注目されるのは、鎧(甲・よろい)である。平成17年におこなわれた遺構調査などで判明したものだが、主だった郭跡にのこる建物内石敷面の北半部から出土している。
特に、甲の「胴丸」と呼ばれていた個所のものが多く、着脱用の「押付板」は20枚も出てきている。
【写真左】三の丸から二ノ丸に向かう。
東側に設置された犬走りだが、写真にもあるように右側には柵が設けられている。
写真では分かりづらいが、ほぼ垂直の切崖となっているからである。
このあと、左側にある二ノ丸に向かう。
【写真左】二ノ丸
幅約25m×長さ約65mの規模をもち、当城の中で最大の面積を誇る郭。
発掘調査では掘立柱の建物があった箇所。
【写真左】二ノ丸西の段
二ノ丸の西側には南北にそれぞれ小さな郭が配されている。
写真は南側のもの。
この段では礎石建物が確認されている。
【写真左】二ノ丸先端部から櫨谷の集落を俯瞰する。
写真の中央部に流れる川が櫨谷川で、この川は下って明石川と合流し明石海峡(播磨灘)に注ぐ。
【写真左】西の壇附近
二ノ丸の北端部で、本丸の南西方向に伸びる尾根伝いに設置された郭群で、写真はそこに向かう入口点。
ここからは瓦葺の礎石建物、及び柵や塀などが出土している。
このあと、二ノ丸と本丸の境付近まで登り、本丸方面に向かう。
【写真左】左本丸、右二ノ丸
左右の比高差は約2m前後で、傾斜はゆるやか。
【写真左】本丸・その1
ほぼ最高所となる位置で約140m前後。
北側には土塁が残るとしてあるが、大分磨耗していて余り高さがない。
なお、この写真でも分かるように、この箇所の縁も柵がしてあるが、この箇所もほぼ垂直の切崖があり、その奥に長大な空堀が本丸を囲繞している。残念ながらこの箇所は整備されておらず、当日は向かっていないが、ここに向かうには、旧大手道の東側から藪コギ覚悟で進むしかないだろう。
【写真左】本丸・その2
西側附近の箇所で、右側には物見台及び礎石建物があったといわれている。
【写真左】物見台
実質当城の最高所であるが、この西側及び北側も絶壁となった切崖がある。
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