2012年8月29日水曜日

宇陀松山城・その2(奈良県宇陀市大字宇陀区)

宇陀松山城(うだまつやまじょう)その2

●所在地 奈良県宇陀市大宇陀町
●探訪日 2012年4月18日

◆解説
本稿では城下町としての宇陀の町並みや、その他史跡関係を取り上げたい。
【写真左】宇陀松山地区 案内図
 この図にある「織田藩上屋敷跡」「織田藩向屋敷跡」は、残念ながら探訪していない。




現地の説明板より

“城下町「松山」の成立と発展

 「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた豊臣家配下の大名の城下町として成立しました。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。

 元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
【写真左】松山の町並み・その1
【写真左】松山の町並み・その2













 元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。

 城下町としての機能を失っても、「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。

 現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街並みを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。”
【写真左】松山西口関門













 現地の説明板より

“史跡
 旧松山城西口門

 ここは旧松山城大手筋にあたる西口関門である。建築は徳川初期のものと認められ正面の柱間13尺5寸両内開きになっていて、左右に袖垣をつけた高麗門の形である。
 門を含む地域は枡形になり旧位置に現存する城下町の門としては珍しいものである。

 松山城は旧名秋山城と呼び、秋山氏の築城に始まる。天正元和の間次第にその形を整え、福島掃部頭の居城とした。慶長年間城郭ならびにその城下町の完成を見るに至った。
 この西門もその頃の構築にかかるものである。
   大宇陀町教育委員会”
【写真左】西口門付近を流れる宇田川
 松山の町並みの西側を流れる川で、趣のある川である。










織田信雄

説明板にもあるように、元和元年(1615)、宇陀は織田信雄が所領した。信雄については、田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)でも紹介しているが、信長子息の中では、江戸時代まで大名として生き残ったのは信雄だけである。

信雄は信長の次男とされ、母は生駒吉乃(きつの)といわれている。信長の正室は知られているように濃姫であるが、一般的には信長と濃姫の間には子がいなかったといわれている。このため、信長には吉乃をはじめ約10人の側室がおり、吉乃は事実上の正室でもあったといわれている。
【写真左】徳源寺
 所在地 宇陀市大宇陀岩室
 宇陀松山城の北西1.5キロの丘陵に建立されている。

 宇陀を治めた信雄から以降、4代織田氏が続くことになるが、当院は織田松山藩が歴代藩主の菩提寺として建立した寺である。

 この寺の奥に藩主であった信雄・高長・長頼・信武の五輪塔が建立されている(下段の写真参照)。



永禄年間、信長の南伊勢侵攻に伴い、北畠氏の養子となって、具房の妹雪姫を娶り、名を北畠具豊と改めた。その3年後家督を相続、信意(のぶおき)と名乗った。この改名にある「信」を名乗ったことからも想像されるが、翌年の天正4年(1576)、父信長の命によって、北畠氏一門を誅滅させた。
【写真左】織田松山藩主歴代五輪塔
 始祖・信雄は寛永7年(1630)京都で亡くなっているので、供養塔と思われる。








 本能寺の変によって信長が亡くなると、知られるように秀吉と柴田勝家の対立が生じ、信雄(このころはすでに信雄と名乗っていた)は、秀吉に一旦属した。

しかし、その後秀吉とは関係が悪くなり、小田原攻めの際、武功を挙げたものの、東海地方への移封命令を拒否、このため秀吉から改易された。流罪先は下野国烏山といわれ、出家して常真と号した。

その後、出羽国、伊予国へと転罪されたものの、家康の口利きによって赦免され、再び還俗、このとき大和国へ18,000石を領した。文禄元年(1592)のことで、これが信雄が大和国と関わる最初のきっかけとなった。
【写真左】徳源寺側から宇陀松山城を遠望する。











 関ヶ原の戦いでは、明確な態度を示していない。しかし、大阪冬の陣においては、直前になって徳川方についた。翌元和元年(1615)、家康から大和宇陀郡、及び上野国甘楽郡などを5万石を与えられた。

2012年8月24日金曜日

宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水)

宇陀松山城(うだ まつやまじょう)・その1

●所在地 奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水
●別名 宇陀秋山城・神楽岡城
●築城期 南北朝期ごろ
●築城者 秋山氏か
●指定 国指定史跡
●高さ 473m(比高120m)
●城主 秋山氏・伊藤掃部頭義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種・福島孝治
●廃城年 元和元年(1615)
●遺構 本丸(天守郭)・二の丸・郭群・虎口・横堀その他
●登城日 2012年4月17日

◆解説(参考文献「集英社版日本の歴史⑩戦国の群像」池上裕子著、『戦国の山城』全国山城サミット連絡協議会編等)

 前稿までこの4月に探訪した伊勢国北畠氏関係の史跡を紹介してきたが、実は伊勢国を訪れる前に西方の大和宇陀地方を先に探訪している。
【写真左】宇陀松山城遠望
 東方の「又兵衛桜」(大宇陀本郷)から見たもの。
 なお、「又兵衛桜」については、別稿で取り上げる予定である。



 ところで、初めて宇陀を訪れたのは昭和46年ごろだったと記憶している。当時名古屋に住んでいたが、近鉄名古屋線から大阪線に乗り換え、室生口大野の駅だった思う、そこから延々と渓流沿いに続く道をハイキングして、たどり着いたのが室生寺だった。

 随分と時間がかかった行程だったが、渓流沿いには、グラデーション鮮やかな紅葉が四方を覆い、最終地点では、木立に囲まれ独特の色彩を放つ五重塔や、金堂・潅頂堂など、室生寺の伽藍と境内が醸し出す雰囲気には格別のものがあった。それ以来、宇陀は管理人にとって、豊後・南予(愛媛)と同じく、お気に入りの土地として脳裏に刻まれていた。今回の探訪は従って実に40余年ぶりのことになる。

 さて、大和国の山城としては、随分前に高市郡高取町にある日本三大山城の一つ「高取城(奈良県高取町)を紹介しているが、今稿で紹介するのは、北東部に位置する宇陀市の「宇陀松山城」である。
【写真左】春日神社参道
 宇陀の町並みは現在重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 当地を探訪する観光客は、ほとんどこの町並み散策が主で、松山城へ登城する人は少ないようだ。

 春日神社参道は、宇陀の城下町の出入口である西口関門から続いている大手筋正面に位置する。このまま進むと、春日神社に向かい、その手前から登城口の案内がある。

宇陀の三将

 伊勢北畠氏は戦国期、この宇陀にも支配体制を敷いた。北畠氏を支えたのは、「宇陀の三将」といわれた沢・秋山・芳野の三氏である。特に沢氏については、平安時代末期から江戸時代までにかけて約500点の文書が所収された「沢氏古文書」が残る。
【写真左】春日神社
 現地の説明板より

“春日神社由緒

一、祭神 天之児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌命(かけみかずちのみこと)・比売神(ひめかみ)

 当社の創建について詳しくは分からない。しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当社地も中世の春日庄(応永13年(1406)作とされる「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。

 宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年写・1594)という絵図には「春日社」として社地が表されている。
 また、絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て、いったん春日神社へ入る。そして、神社から再び城へ向かう構造をとる。つまり、この時代の春日神社は城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。”

【写真左】春日門跡
 春日神社手前の付近で、周囲には石垣などが残る。







 同文書によれば、沢氏はもちろん、秋山氏ら宇陀郡内においておこった土民一揆や、それらを担保する一揆盟約(掟)などが記録され、彼らの国人領主同士による、地域自治的組織化が図られていたことが知られている。ただ、現実には種々の問題が発生し、収拾がつかない場合には、度々北畠氏の裁断に仰いでいたようだ。

 ところで、沢・秋山両氏は元々同国宇陀郡内の国人領主とされ、当地荘園の下司(げし)又は荘官クラスの出自といわれている。
 北畠氏と関係を持ち始めたのは、おそらく南朝方として活躍したときと思われる。もともと宇陀は興福寺や春日社などが所有する荘園が多く、後に沢・秋山氏は北畠氏を後ろ盾として、これらの領地を次第に奪取していった。
【写真左】登城口
 春日神社脇に案内標識が建っており、この道を進む。










 北畠氏の家臣であったとはいうものの、三氏とも独立性の強い国人領主であったため、領地境界や、荘・郷の支配については互いに抗争をつづけた。文明16年(1484)、沢氏領有地の東方にあった諸木野(現在の榛原高井付近)をめぐって、秋山氏と抗争が始まった。

 この合戦には、のちに西方近隣の高取城主・越智氏や、筒井順慶を輩出した筒井氏などが絡み、複雑な様相を呈していく。統治者北畠氏も当然この抗争の調停に赴くことになり、4年後の長享元年(1487)、やっと和議が成立した。

 このとき、秋山氏は自害を命ぜられ、その後沢氏は源左衛門が北畠氏の面前で切腹させられたという。
【写真左】登城道
 登り坂となった位置からは杉林の中を進む。道の周囲は崩落防止用の土嚢が左右に積んである。








戦国期

 宇陀松山城は、別名秋山城ともいわれている。築城者秋山氏は上掲したように南北朝期北畠氏の家臣として活躍するが、その後戦国期の天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山へ入ると退去することになる。

 そのあとに入ったのが、秀吉の家臣であった伊藤掃部頭義之が入封し居城とした。その後、加藤光泰・羽田正親・多賀秀種といった豊臣家臣らが引き継いだが、関ヶ原合戦後、福島孝治が入った。しかしわずか15年後の元和元年(1615)、孝治は改易され当城は廃城となった。

 現在残る遺構の大半は、前記した豊臣家臣時代のもので、大規模な改修を行っている。併せて城下町の整備もこの頃行われたという。
【写真左】北側に延びる空堀
 宇陀松山城の調査は平成7~11年度、及び16年度に行われ、平成20年度から保存整備を進めているという。

 訪れたこの日も所々に調査跡のブルーシートや、周辺の伐採した跡が残り、整備は完了していないようだ。
 これまでのところ、礎石建物群・桐紋・菊紋などが入った瓦・陶磁器類などが発掘されている。
【写真左】御加番郭
 北側から回り込んだ登城ルートを進むと最初に見える郭で、本丸の西側に設置されている。
 この付近には虎口郭などが残る。
【写真左】本丸と天守郭・その1
 御加番郭を過ぎて東に少し上ると、すぐに広大な本丸が見え、その先には3,4m程度高くなった天守郭が控える。
【写真左】【写真左】本丸と天守郭・その2
 北端部を見たものだが、本丸から下に向かう法面はかなり高く、15m前後はあるだろう。切崖状である。

 なお、写真中央に見える郭は、西側にある御加番郭で北東部を扼する。
【写真左】天守郭・その1
 2層構造となっており、手前の階段から上る。
 出土したものや、遺構の内容等から織豊時代の城郭の特徴を明瞭に残した城郭とされている。


【写真左】天守郭・その2
【写真左】天守郭から北東に大御殿・御加番郭を見る。
 先ほど紹介した箇所で、天守郭の東端部からそのまま東に降りると、大御殿があり、その北東部には一段下がった御加番郭が控える。
【写真左】西の御加番郭から天守郭を見上げる。
 この位置から天守郭を見上げると、かなりの比高差があることが分かる。


【写真左】天守郭より二の丸を見る。
 東側の大御殿の南側には「大門」があったらしく、その南東部には二の丸が伸びている。

 二の丸は写真にもあるように、一部杉の伐採が施されているが、大半は杉林のままになっている。
【写真左】二の丸
 奥まで入っていないが、奥行は優に50mを超える。上段の本丸の規模とさほど変わらないようだ。

 おそらくこの場所にも礎石建物があったものと思われる。


【写真左】本丸の南側
 この箇所はご覧のように東方の大御殿・二の丸に向かって帯郭が走り、途中には南虎口があった。

 なお、手前の帯郭は幅が広く、西帯郭とされ、その先の細い帯郭は東帯郭と命名されている。



感想

 さすがに国指定史跡をうけるだけの堂々たる城砦である。
 ただ、調査・整備中であるとはいえ、できれば現地に縄張図や、城の概要などを示す説明板のようなものがあるとうれしいのだが…。

2012年8月19日日曜日

松阪城(三重県松阪市殿町)

松阪城(まつさかじょう)

●所在地 三重県松阪市殿町
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 蒲生氏郷
●城主 蒲生氏、古田氏、紀州徳川氏
●形態 平山城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 本丸跡・天守閣跡・二の丸跡・隠居丸跡・金の間櫓・遠見櫓・月見櫓・太鼓櫓等
●指定 国指定特別史跡 本居宣長旧宅
●備考 本居宣長記念館・歴史民俗資料館
●登城日 2012年4月18日

◆解説 
 伊勢国北畠氏関係の史跡をあらかた巡り、松阪駅近くのホテルに泊まった。翌朝ホテルの窓からこんもりとした丘が見えた。地図を広げてみると、どうやら松阪城のようだ。帰りは伊勢自動車道を北に向かうため、さほど時間はとられないと思い、予定にはなかったが登城することにした。
【写真左】松阪城遠望
 東方のJR松坂駅付近より見る。











 松阪城は戦国末期の天正16年に築城された平山城である。

現地の説明板より
“三重県指定史跡 松阪城跡
     指定 昭和27年7月9日
     面積 45,412平方メートル

 松阪城は蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
 氏郷が会津若松へ移封後、
  天正19年(1591) 服部一忠
  文禄4年(1595) 古田重勝
 と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれた。
【写真左】松阪城・その1 歴史民俗資料館付近
 北側の鐘ノ櫓跡付近から見たもの。


 城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
 三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。また二の丸には寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。
 明治14年(1881)城跡公園となる。”
【写真左】松阪城・その2 鐘の櫓跡












蒲生氏郷(がもううじさと)

 前稿「霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)」でも少し紹介しているが、江戸期に入った伊勢国の諸藩主は他国から入封した者がほとんどである。
松阪城の築城者は、蒲生氏郷といわれている。蒲生氏は近江蒲生郡の出で、六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。後に織田信長に見いだされ、信長の娘を娶った。

 永禄11年(1568)、北畠具教・具房との戦いが初陣とされ、その翌年伊勢大河内城攻めなどでも活躍した。信長が亡くなった後は秀吉に仕え、松阪城築城前には近くに松ヶ島城を築城し、秀吉から12万石を与えられている。この後、天正16年(1588)に松阪城を築くと、松ヶ島城時代の武士や商人をそっくり移住させた。
 なお、蒲生氏が松ヶ島城を築いて間もないころ、北畠具教の実弟・具親はこの氏郷に身を寄せ客臣となっているが、その2年後病没している。
【写真左】松阪城・その3












 その後、小田原征伐の論功によって、天正18年(1590)陸奥国会津60万石という多大な禄を得て若松城へ移封した。代わって服部一忠が入封したが、秀吉に謀叛の疑いをかけられ自害した秀次の家臣であったことから連座の責任を負わされ切腹した。
【写真左】松阪城・その4 本丸跡












古田氏

 このあと入ったのが古田重勝である。秀吉時代の禄高は3万4千石であったが、のちの関ヶ原の戦いでは東軍方に属し、その戦功によって家康から2万石をさらに加増された。しかし、この年死去し、嫡男重恒が幼少であったため、実弟重治が引き継いだ。
【写真左】松阪城・その5 井戸跡
 本丸跡に残るもので、頑丈な鉄製の網で防護されていることからかなり深いようだ。










 元和5年(1619)2月、重治は伊勢松阪城から石見浜田城へ移封された。重治が松阪城から石見浜田城へ移った理由は、大坂の陣(1614~15)の功績によるとされているが、松阪城時代と石見に移った時の禄高は同じ5万4000石で増禄されていない。
【写真左】松阪城・その6 天守閣跡












 関ヶ原、大坂の陣で家康方に着いたとはいえ、元は豊臣秀吉の家臣である。徳川から見れば明らかな「外様」としての扱いである。

なお、石見浜田城については、浜田城(島根県浜田市殿町古城山)ですでに紹介しているので、ご覧いただきたい。

古田氏が石見へ移封されると、松阪城は説明板にもあるように、紀州藩領(飛び地)となった。

【写真左】本居宣長旧宅

 国指定特別史跡(昭和28年3月31日)で、松阪城の南側にある隠居丸跡に設置されている。
 元々は魚町にあったが、明治42年保存のため松阪城跡に移築された。

 この建物は宣長が12歳から亡くなる72歳まで住んだもので、祖父が元禄4年(1691)に建てたという。


本居宣長(もとおりのりなが)

 宣長は江戸時代の国学者で医師でもあった。この家で医業の傍ら「古事記」の注釈書である「古事記伝」を発表、近世古事記研究の先駆けとなった。
 この近くには彼の名を冠した「本居宣長記念館」が併設されている。

 ところで、松阪は奈良平安時代、都の役人は伊勢神宮へ向かう際、通行手形の代わりとして馬の首に「駅鈴」をつけていたが、神宮領となっていた松坂に入ると、その鈴をはずし、鈴の音をとめていたという。

 宣長はその鈴の音が気に入って、この建物の2階の間の柱に掛け鈴を取り付けていたということから「鈴屋」と呼ばれていた。寛政7年(1795)石見浜田藩主・松平康定は、参勤交代の途中伊勢松阪の宣長を訪ね、源氏物語の講話を聴いた。このお礼に康定は宣長に「駅鈴」を送っている。

 丁度当城を訪れたこの日の朝、記念館の学芸員の方が管理人の「島根№」の車を見て、声をかけてこられた。実は今年が古事記1300年ということで、「石見」の方へ講演に行く予定だといわれる。それ以上の話はしなかったが、石見浜田潘を立藩した古田重治といい、「駅鈴」の松平康定といい、松阪と石見は縁のような繋がりがあるようだ。

2012年8月16日木曜日

霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その3
 伊勢北畠氏と出雲葛西氏
(いせきたばたけし と いずもかっさいし)

◆解説
ところで、管理人の地元である出雲国には、葛西氏という一族が、戦国時代末期、伊勢の北畠氏を頼って、当地に赴いたという伝承が残っている。
今稿はこのことについて、資料はあまりないものの検証してみたい。
【写真左】出雲・城平山城遠望
 所在地 島根県出雲市斐川町上阿宮~雲南市加茂町大竹
 南麓を流れる斐伊川から見たもの。





出雲・葛西氏

出雲・葛西氏については、当ブログを立ち上げて間もない2009年に、出雲国の葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1で紹介している。
改めて概要を示すと、この中で、出雲・城平山城落城後、城主だった葛西兼正は、かつて属していた伊勢国の北畠家を頼った、と記している(池田敏雄著「出雲の現郷『斐川の地名散歩』」)。

 葛西氏が出雲国に来住してきた時期は、南北朝動乱期であることはほぼ間違いないと思われる。そして、同氏は北畠氏のみならず、足利氏にも属していたと記している。
【写真左】城平山城の南麓中腹部に建立されている古刹・光明寺
大嶽山光明寺
 出雲観音霊場第7番札所
 創建時期は不明ながら、奈良~平安時代といわれている。戦国期も含め度重なる火災によって文書史料はほとんど消失しているが、山岳仏教寺院として大いに栄えたといわれている。

 城平山城のある城平山と尾根続きとなる大嶽山(大竹山H322m)の8合目付近に建っている。
 葛西氏最盛期には当院も城砦施設の一つとして使用された可能性が高い。


このことは、やはり以前にも紹介した「太平記」にも登場する地元の塩冶判官高貞塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)など)と同じ動きであったと推察される。すなわち、北条執権の鎌倉幕府倒幕にむかった後醍醐天皇に与した一族ながら、その後建武の新政の瓦解によって、足利尊氏(北朝)に属していったという流れである。

葛西氏はその後、小規模な所領ながら戦国期に至るまで18代を数え、元亀年間以降に至って、伊勢の北畠氏を頼り、のちに北畠氏の家臣となったという。
【写真左】葛西氏累代の墓・その1
 光明寺境内の西端部に建立されている。宝篋印塔形式のものや、当院住職の墓と思われるものも混在している。
【写真左】】葛西氏累代の墓・その2



しかし、5代後兼延のとき(江戸時代初期とされる)、一族とともに北畠氏から離れ、再び祖先の居た出雲国の城平山城麓(斐川町阿宮)にもどり、武士を捨て百姓となって祖先の墓を作り、代々祖先の菩提を供養してきたとされている。

以上が出雲・葛西氏の流れである。

今回、伊勢の北畠氏関係の史跡を訪れた目的の一つには、実はこの出雲葛西氏が伊勢北畠氏を頼ったということから、一度はこの地を探訪したいという思いがあったからである。
【写真左】葛西氏の屋敷跡といわれている箇所
 光明寺の東側から北方の高瀬山城にむかって中国自然歩道という道が設置されているが、その中途には同氏の屋敷跡といわれる箇所がある。

 石積み基礎とされた建物跡などがあったようだが、現在は散在しほとんど現形をとどめていない。ただ、この中腹部の平坦地には平時の生活がおこなわれていたであろう小規模なため池や、複数の建物の区画とみられる凹凸状の遺構らしきものもある。

 屋敷跡としてはかなり高い位置にあるにも関わらず、常に湧水が流出しているようで、この水が確保できることからこの場所を屋敷跡として構えたのだろう。

 また、この屋敷跡から西の尾根筋に向かって本丸に繋がる道があったといわれているが、現在は朽ち果ててほとんど痕跡をとどめない。


戦国期の葛西氏の動向

そこで、出雲葛西氏が伊勢の北畠氏を頼って行った時期についてだが、元亀年間以降(1570~)といわれている。元亀年間における出雲国の動きは、これまで度々紹介したように山中鹿助が尼子再興を願って蜂起するも、毛利方によって駆逐された頃である。

出雲葛西氏の末裔として、現在も当地に住んでおられる葛西家には、系図の他に毛利輝元から、よく戦ったと褒められた書状(感状と思われる)が残っているといわれる。
このことから、葛西氏は毛利方に与していたと考えられ、尼子再興軍と戦った可能性が高い。

同氏の居城である城平山城(出雲市斐川町阿宮)から北方1.5キロに、尼子再興軍の一人、米原綱寛が籠城した居城・高瀬山城(出雲市斐川町学頭)がある。当城が落城したのは、元亀2年(1571)3月19日である。
【写真左】城平山城側から北方に高瀬山城を遠望する。
 城平山城の東方中腹部から北に向かって「中国自然歩道」としてのハイキングコースが設定されている。この途中から高瀬城の本丸が眺望できる。


高瀬山城の落城については記録が残るが、葛西氏の居城・城平山城もまた「落城」したといわれている。

想像だが、米原氏が高瀬山城に拠った際、南方の城平山城がこのとき同氏らによって落とされた可能性もある。そして、落城したものの、葛西氏は毛利方に属し戦功を挙げたのではないか、そして、その軍功に対し、輝元が感状を与えたということではないだろうか。


伊勢国移住の時期と動機

では、輝元から感状まで拝受しながら、その後同氏はなぜ当地を離れなければならなかったのだろうか。もっとも考えられるものとしては、関ヶ原の戦いがその要因と思われる。毛利方、すなわち西軍に与したであろう葛西氏も、毛利方の敗戦によって領地を没収された可能性は高い。

関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600)9月15日である。天下分け目の大合戦として有名なこの戦いは、わずか一日で雌雄が決した。4日後の9月19日、勝者となった家康は、早くも遠州浜松にあった堀尾吉晴を、出雲・隠岐24万石として移封させた。翌慶長6年8月、吉晴は隠居し長子・忠氏が跡を継いだ。忠氏はこの年から領内の巡視を開始、そして翌7年には本格的な「検地」を行っている。おそらく、このとき葛西氏の領地であった斐川阿宮の領地も検地対象となり、止む無く葛西一族は当地を離れることになったのではないかと思われる。

さて、伊勢国に向かった出雲葛西氏ではあるが、同氏が順調に当地伊勢の北畠氏にコンタクトをとれたのだろうか。

「かつて北畠氏に属していた」という代々受け継がれていった先祖からの言い伝え、若しくはそれを証する文書(巻物か)を持参し、葛西氏は伊勢に向かったのだろう。
【写真左】伊勢田丸城・天守跡付近












南北朝期における北畠氏は、「田丸城」(2012年7月27日投稿)でも紹介したように、親房を筆頭に顕家など南朝方の錚々たる重鎮公卿を輩出した。

しかし、それから230余年の歳月が流れ、伊勢国の姿はすでに昔日の面影はなく、天正8年(1580)1月、京都で伊勢国司北畠氏第9代の具房(ともふさ)が、亡くなり、8代具教の実弟・具親は同12年(1584)、蒲生氏郷の客臣となったがその2年後病没。名門伊勢北畠氏の本流はここに途絶えた。

出雲葛西氏の最後の当主兼正らは、事実上北畠氏が途絶えてからおよそ16年後に伊勢国に入ったわけである。上述したように、出雲葛西氏の伝承では、伊勢に入国し、「北畠氏の家臣」となり、兼正から5代まで数えたという。これでいくと、滅亡したはずの北畠氏に再び仕えたということになる。
【写真左】霧山城遠望
 出雲葛西氏が伊勢国に向かったルートは不明だが、伊勢本街道を使った可能性が高いと思われる。

 霧山城が織田氏に滅ぼされたという情報をこのときすでに知っていたか不明だが、麓の多気の館(旧北畠氏館)は、訪ねたたことと思われる。



おそらくこれは、前稿でも記したように、同氏庶流として生き延びたといわれる木造・田丸・神戸の諸氏に仕えたということだろう。そしてこれら庶流の元にあったものの、再び出雲国に帰るきっかけとなったのは、もちろん先祖の菩提供養をしなければならないという義務感もあったのだろうが、以下に示すように伊勢国における葛西氏の立場が安定しなかったことも考えられる。

江戸期の伊勢国

江戸期に入って伊勢国では、津藩・桑名藩・伊勢亀山藩・伊勢上野潘など、大小15の藩制が敷かれた。新しい藩主のほとんどは他国から入封し、伊勢国の縮図は根底から変わった。北畠庶流もおそらくこれらの中に仕えただろうが、詳細ははっきりしない。

戦国期北畠氏がもっとも関係のあった度会郡の玉城は、田丸藩として伊予河野氏を始祖とする稲葉氏が入り、後に久野家が紀伊和歌山藩御付家老として入った。また隣の松坂潘は初期に古田家が入府するも、のちに同家は石見浜田藩に移封され、最終的に領地はこれもまた紀州藩領となった。

出雲国に再び戻る

 こうして、中世伊勢国に蟠踞した国司北畠氏は、次第に近世という歴史の中に埋没していった。おそらくこうした流れの中で、出雲国から縁を頼ってきた小国人領主葛西氏にとって、もはや依るべき名族は霧散したとの思いがよぎったのであろう。

そして、伊勢国に入国してから5代目の兼延に至り、再び先祖の地出雲・城平山城の麓に戻ってきた。伊勢国にあって5代を数えていることから、おそらくその期間は100~150年を経ていたと思われる。

2012年8月10日金曜日

霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)

霧山城・その2(きりやまじょう・その2)

●所在地 三重県津市美杉町下多気字上村
●築城期 興国3年(1342)ごろ
●築城者 北畠顕能
●城主 北畠政成(城代)他
●高さ 標高560m(比高240m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2012年4月17日

◆解説
前稿「詰城」の脇を通りさらに1キロ余り向かった北畠氏の本拠城といわれる「霧山城」を取り上げる。
【写真左】霧山城遠望
 南側の道の駅美杉付近から見たもので、この位置からは本丸側の尾根は見えず、後述する「鐘突堂跡」のある稜線しか見えない。




現地の説明板より

“史跡 霧山城跡
   (昭和11年9月3日指定)

 霧山城は、南北朝時代の北畠氏の居城である。南朝方のもっとも有名な公卿であった北畠親房の子、伊勢国司顕能(あきよし)が、延元元年(1336)父とともに入国すると、伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。

 本城は、興国3年(1342)頃築城されたらしい。この城は標高600mの霧山の天険を利用して、本郭をはじめ、道場、米倉、鐘撞堂などが配置され、堀切と土塁で防備されていた。
 また、麓には多気館(現在北畠神社)が築かれた。
【写真左】長い平坦地
 前稿「詰城」から先の紹介となるが、詰城を過ぎて約150mほど進むと、ご覧のような広い平坦地が登城道左に現れる。

 特に説明板のようなものはないが、明らかに人工的な造成遺構と思われる。

 詰城の郭群は小規模なものしかなかったため、この場所は詰城を補完するもので、陣所もしくは馬場等まとまった兵の駐屯場所とも考えられる。

顕能がこの地を選んだのは、地形が防御に適していたことのほかに、伊勢、吉野間の交通連絡と兵糧輸送の便を考えたものと思われる。
 伊勢地方の南朝方の拠点が相次いで北朝方に攻め落とされたときも、本城に足利軍が侵攻したという記録はない。

 両朝統一の後、北畠氏はこの地方の大豪族として勢威をふるったが、天正4年(1576)織田信長に攻撃され、本城もついに落城した。
 伊勢地方の城跡の中で、歴史的に最も著名な城として、昭和11年に国の史跡に指定されたものである。
   昭和18年2月建立 文部省
     美杉村教育委員会”
【写真左】「城跡へ610m」と書かれた位置
 詰城から霧山城本丸までのルートの中で最も傾斜のある位置で、南側が険峻となり細尾根をまっすぐ進む。





伊勢北畠氏系譜

当地伊勢の北畠氏初代は、霧山城築城者で親房の三男・顕能といわれている。
  • 初代  顕能(あきよし)  生年不詳~1383
  • 2代  顕泰(あきやす) 1338~1412? 兄弟に木造顕俊
  • 3代  満雅(みつまさ) 生年不詳~1429 顕泰次男(長男・満泰戦死のため)
  • 4代  教具(のりとも) 1423~71 6歳で家督を継ぐが、叔父大河内顕雅が暫く代行。
  • 5代  政郷(まささと) 生年不詳~1508 北伊勢長野氏らと抗争再燃。四男・顕晴は田丸氏始祖。 
  • 6代  材親(ちきか)  1468~1517 永正8年(1511)出家、晴具に譲る。儒学・仏教に帰依する。
  • 7代 晴具(はるとも) 1503~63 正室細川高国の娘。文武両道の能書家・歌人。晴具の代に細川高国作庭による北畠庭園が完成。伊勢南部(志摩)を支配下に収める。伊勢国の戦国大名となる。
  • 8代  具教(とものり) 1528~76 正室六角定頼の娘。信長の侵攻を受け降服の条件として信長次男・茶筅丸(具豊⇒信雄)を養嗣子とし、具教の娘を信雄に嫁がせる。のちに信雄(信長)によって北畠氏一門誅滅される。
  • 9代  具房(ともふさ) 1547~80 父・具教殺害後、幽閉され滝川一益に預けられ天正8年(1580)死去、享年34歳。

【写真左】鐘突堂跡の登り口付近
 このあたりから霧山城の遺構が残る区域となる。
 写真の左側を登っていくと鐘突堂跡に向かうが、これとは別に右側の尾根下を進んで行くと、直接本丸側に向かう。
【写真左】配置図
 上記の場所に設置されているもので、鐘突堂跡からは一旦下に降り、再び、本丸・米倉・矢倉跡に向かって登るコースとなる。


北畠氏が伸長著しかったころは、4代教具から6代材親(具方:ともかた)で、7代晴具に至って絶頂期を迎える。それまでは東方に伊勢神宮があったため、度会郡・多気郡・飯野郡の三つの神郡については支配が弱かった。

4代から6代にかけて北畠氏は北勢(伊勢の北部)を攻め、安濃郡の国人領主長野氏と抗争した。特に応仁・文明の乱のころ北畠氏は、伊勢神宮外宮の門前町山田の衆と合戦を行い、神宮領への侵入も企てた。
この他、伊勢国東隣の大和にも出兵し、守護大名として幕府の重責を担った。
【写真左】鐘突堂跡・その1
 本丸側頂部とほぼ同じ高さでH566mとある。鐘突堂という名称から想像すると、この場所に実際に鐘を突く堂があったということだろう。

 おそらく下の写真に示すように、この位置からは本丸側よりも南東麓の伊勢街道が俯瞰できるので、狼煙と同じような目的で堂が設置されたのかもしれない。
【写真左】鐘突堂跡・その2
 鐘突堂跡から南東部を見たもので、道の駅など伊勢本街道(R368)が見える。








北畠氏の凋落

北畠氏が急激に弱体化するのは8代・具教のころからである。
永禄12年(1569)8月、織田信長の南伊勢侵攻が開始された。上掲の北畠氏系譜第2代・顕泰の兄弟・木造(こづくり)顕俊を祖とする、木造具政が信長に内応、同月信長は10万ともいわれる大軍を率いて南下した。
【写真左】鐘突堂跡・その3 堀切
 鐘突堂跡の壇を降りそのまま南西の尾根に向かう途中にあったもので、小規模ながら堀切とみられる段差があった。

 なお、この尾根伝いをさらに進むと、しばらく細い尾根が続き、再び長大な平坦部があるようだが、当日はそこまでいっていない。おそらく南西を守備する郭だったものと思われる。


 当時具教は、大河内城(現松坂市)に拠って籠城、50日余善戦したが、遂に衆寡敵せず降服。降服の条件とされたのが、信長の二男であった茶筅丸(後の信雄)を養嗣子として北畠氏に向かい入れ、具教の娘雪姫を妻とさせることとなった。

 7年後の天正4年(1576)、すでに隠居し、三瀬谷の館(多気郡大台町)にあった具教は、信長・信雄の命を受けた旧臣の(長野氏の一部)らによって殺害された(三瀬の変)。これと相前後して、信雄の居城であった田丸城においても、具教の二男・長野具藤、三男・北畠親成、大河内教通なども殺害された。
【写真左】鐘突堂跡から北西方向に本丸を見る。
 鐘突堂跡から本丸までは約250m前後あり、一旦鐘突堂の頂部から斜面を下り、再び本丸側の尾根をトラバースするようなコースをとる。
 


 このころ霧山城では、城代として一門の北畠政成が当城に拠っていた。田丸城などから逃げ延びた北畠氏の一部も当城に籠り、織田方と交戦したが破れ自害した。

 具教の長男で第9代具房は、身柄を滝川一益に預けられ、3年間幽閉されたが、天正8年(1580)京都で亡くなった。享年34歳。
 ここに伊勢北畠氏は事実上滅亡したことになるが、同氏庶流である木造・田丸・神戸の諸氏は信雄の家臣などとなって生き永らえた。
【写真左】本丸方面に向かう。
 この当たりの斜面は管理が行き届き、桜などが植樹されている。
 この日登城した際も桜の花がすこしづつ咲き始めていた。
【写真左】本丸跡・その1
 霧山城の頂部は前記したように、南側に米倉を置き、中央部に本丸、北側に矢倉跡が配置されている。

 この写真は本丸側で、中央部はなだらかな窪みとなっている。
【写真左】本丸跡・その2 土塁
 本丸は東西に土塁が配置されている。
この写真は、西側に設置されいるもので、最大幅2~3m、高さ2m前後の規模を持つ。
【写真左】本丸跡・その3
 西側には石碑が建つ。



【写真左】米倉跡
 本丸の南側から少し下がったところにあり、奥行20m前後のもの。名称から考えると、米、すなわち食糧を保管する場所である。おそらくそのための建物が数棟建っていたものと思われる。
【写真左】米倉跡から本丸を見上げる。
【写真左】西に延びる郭
 本丸と米倉の中間部に当たるが、西に伸びる小規模な尾根に一条の郭が見える。


【写真左】矢倉跡・その1
 本丸の北側に配置されているが、本丸とは明確に区分され、4,5m低い位置にある。
【写真左】矢倉跡・その2
 矢倉跡から南に本丸を見たもので、矢倉跡の土塁も西側(右側)が高い。
【写真左】竪堀
 矢倉跡の北端部に設置され、東側の斜面に見える。
【写真左】本丸側から鐘突堂跡を見る。
 麓の方の桜は満開になっているが、霧山城のほうはもう少し後になるようだ。
【写真左】本丸から西方を眺望する。
 写真奥の山はおそらく大洞山(H:1013m)だろう。
 写真の左側奥に向かうと吉野に繋がる。
【写真左】本丸から北東方面を眺望する。
 山城探訪としては、久しぶりに体力と時間をかけたものとなった。

 本丸跡に立ち、西方の吉野方面を眺めたとき、この伊勢の山深い山城が、南北朝期、南朝(吉野朝廷)を支えていたことを改めて思うと、感慨深いものがあった。