宇和島城(うわじまじょう)
●所在地 愛媛県宇和島市丸之内
●別名 丸串城・板嶋城・鶴島城
●築城期 嘉禎2年(1236)、および戦国期・慶長5年(1600)
●築城者 藤堂高虎
●形態 平山城
●遺構 天守閣・本丸・二の丸・搦め手門
●高さ 標高50m(比高45m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年3月18日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
愛媛県南予の中心地宇和島に築かれた平山城である。南予地方はこれまで2,3度訪れているが、豊後と並んで管理人にとって好きな地域である。特に豊後水道を望む入り組んだリアス式海岸を眺めていると、その自然造形美に魅了される。
【写真左】宇和島城
西側の二の門付近から天守を見る。
現地の説明版より
“宇和島城の沿革
戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には、伊予の国が小早川隆景の所領となり、持田右京が城代となった。その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。
文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築き上げた。
【写真左】藩老桑折(こおり)氏武家長屋門
北東側の登城口付近にある建物で、宇和島藩家老桑折氏の長屋門を、昭和27年この場所に移設したものという。
なお、登城口はこの場所のほかに、南側に「上り立ち門(搦め手)」があり、そこからも向うことができる。
慶長13年(1608)、高虎が今治に転封となり、富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後、宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。
宇和島市教育委員会”
【写真左】登城途中
この付近から「井戸丸」「井戸矢倉」(下の写真参照)が見えてくる。
築城期
高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)でも少しふれたように、南予地方は鎌倉期にそれまで支配していた橘氏に代わって西園寺氏が支配するようになった。
ちなみに、橘氏は承平・天慶の乱(936~41)の戦功によって支配をしてきたが、承久の乱(1221)によって没落、代わって西園寺氏が当地を支配するようになる。
従って、築城期は厳密に言えば、天慶4年(941)ごろと思われるが、中世城砦としてその形を成したのはおそらく鎌倉期、すなわち嘉禎2年(1236)、西園寺公経が統治を治めた時期と思われる。
【写真左】井戸跡(井戸丸)
宇和島城には3か所の井戸があり、この井戸がもっとも重要なものだったという。直径2.4m、周囲8.5m、深さ11mの規模を持つ。
戦国期
説明版にある高串道免城主の家藤監物という武将は、西園寺氏の麾下であり、天正3年ごろになると、当城の役目がさらに重要なものとなり、主君である西園寺氏が入城したものと思われる。
『清良記』という史料によれば、天文年間から永禄年間にかけて、豊後水道を挟んだ対岸の豊後国大友氏が度々南予を攻めている。ただ、このころは宇和島城付近よりも、西園寺氏の本拠であった黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)などが目標とされていた。
【写真左】石垣
井戸丸を過ぎて二の門に向かう途中に見えた石垣で、下から登ってくると威圧感を覚える。
天正13年(1585)、小早川隆景の所領により城代持田右京が統治するが、2年後の15年には小早川隆景は筑前に転封され、同年10月に豊臣秀吉の家臣・戸田勝隆が、宇和・喜多両郡併せて16万石を領し、大洲地蔵ヶ嶽城(大洲城)に入り、丸串城には戸田信家が城代として入った。
藤堂高虎
そして文禄4年(1595)7月22日、藤堂高虎が宇和郡7万石に封じられ、丸串城に入城した。このころから丸串城は、板島城とも呼ばれ、のちに宇和島城と改称されていく。現在の宇和島城の原型ができあがるのは、この藤堂高虎の時代からである。
【写真左】櫛形矢倉跡
二の門を過ぎると二の丸があり、そこからUターンするように本丸に向かう。本丸手前には一の門(櫛形門)があり、西に櫛形門矢倉、東に北角矢倉がある。
写真はそのうちの西側にある櫛形矢倉跡の石垣に植えられた桜である。
この日(2010年3月18日)の早朝登城したが、すでに地元の方数人が散歩を兼ねて登城していた。桜の開花は5分咲き程度だったが、城跡の風景と相まって美しい。
藤堂高虎は加藤清正と並んで築城技術に長けた武将である。特に石垣を高く積み上げ、堀を重視した設計思想に特徴がある。
宇和島城については、慶長元年8月に修復に着手するも、翌2年に朝鮮出兵し、帰国後5年に再開、翌6年に天守閣がほぼ竣工したとされている。その後高虎自身が行ったものではないが、付属する施設として、月見櫓を増築するため、河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の天守閣を解体し宇和島城へ移設設置した。慶長9年のことである。
【写真左】鉄砲矢倉跡
本丸南西部に設置されている。
石積み2段で、長さは20m弱、幅3m程度か。礎石のようなものが2,3点在している。
ちなみに、このころの高虎は各地の築城工事のため多忙を極めている。慶長7年には今治城の築城に着手し、竣工後当城を居城とした。そして同13年には伊勢・伊賀22万石に転封し、伊賀・上野城(いが・うえのじょう)・三重県伊賀市上野丸の内を改修した。
【写真左】井戸跡か
付近に表示板のようなものがなかったと記憶しているが、井戸跡かもしれない。
【写真左】御大所跡
本丸には天守のほか、前掲した櫛形矢倉・北角矢倉・鉄砲矢倉・御弓矢倉のほか、写真にある御大所(御台所)などがある。
【写真左】天守・その1
三層三階の総塗籠造り。
1階は6間四方、2階は5間四方、3階は4間四方でバランスをとっている。
【写真左】天守・その2
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その1
【写真左】本丸から宇和島の街並みを見る・その2
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●別名 丸串城・板嶋城・鶴島城
●築城期 嘉禎2年(1236)、および戦国期・慶長5年(1600)
●築城者 藤堂高虎
●形態 平山城
●遺構 天守閣・本丸・二の丸・搦め手門
●高さ 標高50m(比高45m)
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年3月18日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
愛媛県南予の中心地宇和島に築かれた平山城である。南予地方はこれまで2,3度訪れているが、豊後と並んで管理人にとって好きな地域である。特に豊後水道を望む入り組んだリアス式海岸を眺めていると、その自然造形美に魅了される。
【写真左】宇和島城
西側の二の門付近から天守を見る。
現地の説明版より
“宇和島城の沿革
戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には、伊予の国が小早川隆景の所領となり、持田右京が城代となった。その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。
文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築き上げた。
【写真左】藩老桑折(こおり)氏武家長屋門
北東側の登城口付近にある建物で、宇和島藩家老桑折氏の長屋門を、昭和27年この場所に移設したものという。
なお、登城口はこの場所のほかに、南側に「上り立ち門(搦め手)」があり、そこからも向うことができる。
慶長13年(1608)、高虎が今治に転封となり、富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後、宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。
天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。
宇和島市教育委員会”
【写真左】登城途中
この付近から「井戸丸」「井戸矢倉」(下の写真参照)が見えてくる。
築城期
高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)でも少しふれたように、南予地方は鎌倉期にそれまで支配していた橘氏に代わって西園寺氏が支配するようになった。
ちなみに、橘氏は承平・天慶の乱(936~41)の戦功によって支配をしてきたが、承久の乱(1221)によって没落、代わって西園寺氏が当地を支配するようになる。
従って、築城期は厳密に言えば、天慶4年(941)ごろと思われるが、中世城砦としてその形を成したのはおそらく鎌倉期、すなわち嘉禎2年(1236)、西園寺公経が統治を治めた時期と思われる。
【写真左】井戸跡(井戸丸)
宇和島城には3か所の井戸があり、この井戸がもっとも重要なものだったという。直径2.4m、周囲8.5m、深さ11mの規模を持つ。
戦国期
説明版にある高串道免城主の家藤監物という武将は、西園寺氏の麾下であり、天正3年ごろになると、当城の役目がさらに重要なものとなり、主君である西園寺氏が入城したものと思われる。
『清良記』という史料によれば、天文年間から永禄年間にかけて、豊後水道を挟んだ対岸の豊後国大友氏が度々南予を攻めている。ただ、このころは宇和島城付近よりも、西園寺氏の本拠であった黒瀬城(愛媛県西予市宇和町卯之町)などが目標とされていた。
【写真左】石垣
井戸丸を過ぎて二の門に向かう途中に見えた石垣で、下から登ってくると威圧感を覚える。
天正13年(1585)、小早川隆景の所領により城代持田右京が統治するが、2年後の15年には小早川隆景は筑前に転封され、同年10月に豊臣秀吉の家臣・戸田勝隆が、宇和・喜多両郡併せて16万石を領し、大洲地蔵ヶ嶽城(大洲城)に入り、丸串城には戸田信家が城代として入った。
藤堂高虎
そして文禄4年(1595)7月22日、藤堂高虎が宇和郡7万石に封じられ、丸串城に入城した。このころから丸串城は、板島城とも呼ばれ、のちに宇和島城と改称されていく。現在の宇和島城の原型ができあがるのは、この藤堂高虎の時代からである。
【写真左】櫛形矢倉跡
二の門を過ぎると二の丸があり、そこからUターンするように本丸に向かう。本丸手前には一の門(櫛形門)があり、西に櫛形門矢倉、東に北角矢倉がある。
写真はそのうちの西側にある櫛形矢倉跡の石垣に植えられた桜である。
この日(2010年3月18日)の早朝登城したが、すでに地元の方数人が散歩を兼ねて登城していた。桜の開花は5分咲き程度だったが、城跡の風景と相まって美しい。
藤堂高虎は加藤清正と並んで築城技術に長けた武将である。特に石垣を高く積み上げ、堀を重視した設計思想に特徴がある。
宇和島城については、慶長元年8月に修復に着手するも、翌2年に朝鮮出兵し、帰国後5年に再開、翌6年に天守閣がほぼ竣工したとされている。その後高虎自身が行ったものではないが、付属する施設として、月見櫓を増築するため、河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の天守閣を解体し宇和島城へ移設設置した。慶長9年のことである。
【写真左】鉄砲矢倉跡
本丸南西部に設置されている。
石積み2段で、長さは20m弱、幅3m程度か。礎石のようなものが2,3点在している。
ちなみに、このころの高虎は各地の築城工事のため多忙を極めている。慶長7年には今治城の築城に着手し、竣工後当城を居城とした。そして同13年には伊勢・伊賀22万石に転封し、伊賀・上野城(いが・うえのじょう)・三重県伊賀市上野丸の内を改修した。
【写真左】井戸跡か
付近に表示板のようなものがなかったと記憶しているが、井戸跡かもしれない。
【写真左】御大所跡
本丸には天守のほか、前掲した櫛形矢倉・北角矢倉・鉄砲矢倉・御弓矢倉のほか、写真にある御大所(御台所)などがある。
【写真左】天守・その1
三層三階の総塗籠造り。
1階は6間四方、2階は5間四方、3階は4間四方でバランスをとっている。
【写真左】天守・その2
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