宮崎城(みやざきじょう)
●所在地 愛媛県今治市波方町宮崎
●築城期 貞観9年(867)・又は室町時代
●築城者 伊予海賊・又は来島村上氏
●形態 海城
●高さ 30m前後
●廃城年 天正14年(1586)
●登城日 2010年10月11日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
前稿「遠見山城」でも少し触れたが、波方館を支えた諸城砦の一つで、西方に突き出した宮崎地区の南岸に築かれた海城である。
【写真左】宮崎城遠望
写真の車が止まっている所から城域となる。写真に見える部分は二の丸。
右に見える民家は本丸東麓部となる。
現地の説明板より
“⑥ 宮崎城跡
この城跡は、最も優れた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城砦(砦)を配置した典型的な城跡ともいえる。
鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止となった。”
【写真左】「波方町ふるさとこみち案内板」
道路脇に設置されているもので、色がだいぶ薄くなり、番号の位置がかすれているため、各史跡の場所がはっきりしない。
宮崎城は、「宮崎漁港」と書かれた付近の海岸部に位置している。
上記説明板の⑥の番号は、下段に示す「波方町ふるさとこみち案内板」に図示された史跡表示№で、この区域の他の城砦としては、
●所在地 愛媛県今治市波方町宮崎
●築城期 貞観9年(867)・又は室町時代
●築城者 伊予海賊・又は来島村上氏
●形態 海城
●高さ 30m前後
●廃城年 天正14年(1586)
●登城日 2010年10月11日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
前稿「遠見山城」でも少し触れたが、波方館を支えた諸城砦の一つで、西方に突き出した宮崎地区の南岸に築かれた海城である。
【写真左】宮崎城遠望
写真の車が止まっている所から城域となる。写真に見える部分は二の丸。
右に見える民家は本丸東麓部となる。
現地の説明板より
“⑥ 宮崎城跡
この城跡は、最も優れた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城砦(砦)を配置した典型的な城跡ともいえる。
鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止となった。”
【写真左】「波方町ふるさとこみち案内板」
道路脇に設置されているもので、色がだいぶ薄くなり、番号の位置がかすれているため、各史跡の場所がはっきりしない。
宮崎城は、「宮崎漁港」と書かれた付近の海岸部に位置している。
上記説明板の⑥の番号は、下段に示す「波方町ふるさとこみち案内板」に図示された史跡表示№で、この区域の他の城砦としては、
- ① 梶取鼻砦
- ⑤ お頭の家跡
ところで、当城の概要を示した説明板には記されていないが、『三代実録』という史料によれば、宮崎城の初見は、貞観9年(876)に「…伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切…」と記され、すでにこのころから瀬戸内近海に多くの海賊集団が跋扈していたことがうかがえる。
そしてこれら海賊集団の末裔は室町期に至って、来島村上氏の手兵として組織化され、宮崎の地にもこうした中世の海城形態の城砦が配置されることになる。
【写真左】宮崎城の二の丸付近
現在は道路があるが、当時は二の丸から直下で海に出て行く形状だったと思われる。
写真の説明でも述べたように、この日城下まで来たものの、城域となっている箇所が民家の軒先のような位置に見えたこともあり、遺構の残る現地まで踏査していない。
宮崎城要図によれば、規模は総延長200数十メートルに及び、南端部に二の丸を置き、空堀を介して細長い本丸が続き、一旦鞍部(堀切)を渡して詰の郭が尾根伝いに伸びているという。
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