伊勢・神戸城(いせ・かんべじょう)
●所在地 三重県鈴鹿市神戸5
●築城期 不明(天文年間:1550年年代)
●築城者 不明(神戸具盛か)
●城主 神戸具盛、神戸信孝、織田信孝、本多忠統
●形態 輪郭式平城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2016年3月5日
◆解説(参考資料 「週刊ビジュアル 戦国王 056」等)
伊勢・神戸城(以下「神戸城」とする)は、三重県鈴鹿市に所在した平城で、現在の神戸公園となっている箇所である。
【写真左】神戸城
本丸天守跡にのこる石垣
現地の説明板より
“三重県指定・史跡
神戸城跡
昭和12年12月14日指定
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男・信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統(ただむね)が入国する。
本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治8年(1875)城は解体される。
その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
平成14年3月
鈴鹿市教育委員会”
【写真左】神戸城配置図
神戸城の配置図で、右側(東側)は県立神戸高等学校が道路を挟んで隣接しているが、説明板にもあるように当時は当校も神戸城の城域であった。
なお、当城は神戸公園として整備されている。
神戸氏
説明板にもあるように、神戸氏は伊勢平氏子孫である関氏の一族とされている。神戸城を築いたのは戦国期だが、その前の南北朝期に築いたのが沢城とされている。場所は神戸城から南西に凡そ900mほど向かった飯野寺家町字城掛である。
神戸氏は室町期に伊勢国司であった北畠氏の力を借りて勢力を伸ばした。特に、北畠材親(霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の頃には養子縁組があったとされるが、明確な資料は残っていない。
【写真左】本丸跡
上掲した配置図に対し、現在は堀などが埋められ、大分改変されている。
当時の二ノ丸・千畳敷といわれた箇所は駐車場や公園公衆トイレなどが設置され、遺構の輪郭を残しているのは主として本丸付近である。
神戸信孝(織田信孝)
戦国に至って、神戸氏の家督を引き継いだのは織田信長の三男信孝である。永禄11年(1568)2月、信長は上洛に先立ち北伊勢に侵攻、神戸氏第7代具盛は信長に降伏、信孝はこれによって神戸具盛の養嗣子となった。信孝はこのとき11歳で、以後「神戸三七郎」と称した。
養子となった信孝(三七郎)であったが、次第に養父・具盛と不和になり、元亀2年(1571)正月、信長の命により、具盛は隠居に追いやられ、信孝が神戸氏の当主となった。併せて、それまで関氏も麾下にあったが、関当主盛信も元亀4年(1573)追放され、関氏の領地亀山も信孝が相続することとなった。
【写真左】本丸・天守台・その1
信孝が本格的に戦に従軍参加するのは、天正2年(1574)の長島一向一揆攻めからである。この後、越前一向攻め、紀伊雑賀攻めと続き、21歳の天正6年(1578)には兄信忠に従って大坂本願寺攻めに従軍している。そして、説明板にもあるように神戸城を修築したのはこの2年後となる天正8年(1580)である。
【写真左】本丸・天守台・その2
天守台に登る階段付近から見る。
本丸には石垣から高さ20m、初重7間半×7間(13.5m×12.6m)、三重目いは破風がある五重天守が築かれたという。父信長が築いた安土城は、これより4年前の天正4年(1576)に築かれているが、信孝も父譲りの金箔瓦などを本丸で用いている。
【写真左】本丸・天守台・その3
天守台から周辺を見る。
信孝自刃
父・信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)、信孝は25歳であった。この変において信孝の軍は大半が四散したという。その後、山崎の合戦では秀吉の軍に参戦し、清州会議の結果、信孝は三法師(信秀)の後見役となった。そして美濃(岐阜城)を与えられた。
しかし、清洲会議のときから信孝は秀吉対し敵意を感じており、このため柴田勝家に接近した。これが次第に顕著となり、この年(天正10年)の12月、秀吉は岐阜城を攻略し、信孝を降伏させた。これによって三法師を秀吉に渡し、信孝は母(坂氏)を人質に指し出すことになる。
【写真左】神戸城の石碑
明治9年に建立されたもので、この前年城は解体されている。筆耕文字が大分劣化しているため解読は困難だが、神戸信孝(織田信孝)をはじめ、その後長らく城主であった藩祖本多忠統らの名が刻まれている。
天正11年(1583)正月、ついに秀吉に敢然と反旗を掲げたものが出た。滝川一益である。滝川一益はこのころ北伊勢を本拠としており、信孝と普段から誼を通じていたのだろう。3月に至ると、柴田勝家が挙兵、信孝もほぼ同時期に続いた。
4月20日、秀吉は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) に柴田勝家を敗走させ、24日は北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目) に勝家を滅ぼした。あくる25日、秀吉に与していた信孝の兄・信雄は再び岐阜城を包囲、信雄の勧めによって信孝は開城し、尾張に堕ちていった。その後信雄は秀吉の命によって、野間の大御堂寺にあった信孝を安養寺(愛知県知多郡美浜町大字布土大池)に幽閉、自刃させた。
信孝辞世の句
“昔より 主(あるじ) 内海(討つ身)の
野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん”
信孝は切腹の際、無念のあまりかききった腸(はらわた)を目の前の掛け軸に投げつけて果てたといわれ、同院には今でもそのときの掛け軸と、使われた短刀が残されている。享年26歳。
●所在地 三重県鈴鹿市神戸5
●築城期 不明(天文年間:1550年年代)
●築城者 不明(神戸具盛か)
●城主 神戸具盛、神戸信孝、織田信孝、本多忠統
●形態 輪郭式平城
●指定 三重県指定史跡
●遺構 石垣、堀等
●登城日 2016年3月5日
◆解説(参考資料 「週刊ビジュアル 戦国王 056」等)
伊勢・神戸城(以下「神戸城」とする)は、三重県鈴鹿市に所在した平城で、現在の神戸公園となっている箇所である。
【写真左】神戸城
本丸天守跡にのこる石垣
現地の説明板より
“三重県指定・史跡
神戸城跡
昭和12年12月14日指定
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏7代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1568)その三男・信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統(ただむね)が入国する。
本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治8年(1875)城は解体される。
その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
平成14年3月
鈴鹿市教育委員会”
【写真左】神戸城配置図
神戸城の配置図で、右側(東側)は県立神戸高等学校が道路を挟んで隣接しているが、説明板にもあるように当時は当校も神戸城の城域であった。
なお、当城は神戸公園として整備されている。
神戸氏
説明板にもあるように、神戸氏は伊勢平氏子孫である関氏の一族とされている。神戸城を築いたのは戦国期だが、その前の南北朝期に築いたのが沢城とされている。場所は神戸城から南西に凡そ900mほど向かった飯野寺家町字城掛である。
神戸氏は室町期に伊勢国司であった北畠氏の力を借りて勢力を伸ばした。特に、北畠材親(霧山城・その2 (三重県津市美杉町下多気字上村)参照)の頃には養子縁組があったとされるが、明確な資料は残っていない。
【写真左】本丸跡
上掲した配置図に対し、現在は堀などが埋められ、大分改変されている。
当時の二ノ丸・千畳敷といわれた箇所は駐車場や公園公衆トイレなどが設置され、遺構の輪郭を残しているのは主として本丸付近である。
神戸信孝(織田信孝)
戦国に至って、神戸氏の家督を引き継いだのは織田信長の三男信孝である。永禄11年(1568)2月、信長は上洛に先立ち北伊勢に侵攻、神戸氏第7代具盛は信長に降伏、信孝はこれによって神戸具盛の養嗣子となった。信孝はこのとき11歳で、以後「神戸三七郎」と称した。
養子となった信孝(三七郎)であったが、次第に養父・具盛と不和になり、元亀2年(1571)正月、信長の命により、具盛は隠居に追いやられ、信孝が神戸氏の当主となった。併せて、それまで関氏も麾下にあったが、関当主盛信も元亀4年(1573)追放され、関氏の領地亀山も信孝が相続することとなった。
【写真左】本丸・天守台・その1
信孝が本格的に戦に従軍参加するのは、天正2年(1574)の長島一向一揆攻めからである。この後、越前一向攻め、紀伊雑賀攻めと続き、21歳の天正6年(1578)には兄信忠に従って大坂本願寺攻めに従軍している。そして、説明板にもあるように神戸城を修築したのはこの2年後となる天正8年(1580)である。
【写真左】本丸・天守台・その2
天守台に登る階段付近から見る。
本丸には石垣から高さ20m、初重7間半×7間(13.5m×12.6m)、三重目いは破風がある五重天守が築かれたという。父信長が築いた安土城は、これより4年前の天正4年(1576)に築かれているが、信孝も父譲りの金箔瓦などを本丸で用いている。
【写真左】本丸・天守台・その3
天守台から周辺を見る。
信孝自刃
父・信長が本能寺の変に倒れた天正10年(1582)、信孝は25歳であった。この変において信孝の軍は大半が四散したという。その後、山崎の合戦では秀吉の軍に参戦し、清州会議の結果、信孝は三法師(信秀)の後見役となった。そして美濃(岐阜城)を与えられた。
しかし、清洲会議のときから信孝は秀吉対し敵意を感じており、このため柴田勝家に接近した。これが次第に顕著となり、この年(天正10年)の12月、秀吉は岐阜城を攻略し、信孝を降伏させた。これによって三法師を秀吉に渡し、信孝は母(坂氏)を人質に指し出すことになる。
【写真左】神戸城の石碑
明治9年に建立されたもので、この前年城は解体されている。筆耕文字が大分劣化しているため解読は困難だが、神戸信孝(織田信孝)をはじめ、その後長らく城主であった藩祖本多忠統らの名が刻まれている。
天正11年(1583)正月、ついに秀吉に敢然と反旗を掲げたものが出た。滝川一益である。滝川一益はこのころ北伊勢を本拠としており、信孝と普段から誼を通じていたのだろう。3月に至ると、柴田勝家が挙兵、信孝もほぼ同時期に続いた。
4月20日、秀吉は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) に柴田勝家を敗走させ、24日は北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目) に勝家を滅ぼした。あくる25日、秀吉に与していた信孝の兄・信雄は再び岐阜城を包囲、信雄の勧めによって信孝は開城し、尾張に堕ちていった。その後信雄は秀吉の命によって、野間の大御堂寺にあった信孝を安養寺(愛知県知多郡美浜町大字布土大池)に幽閉、自刃させた。
信孝辞世の句
“昔より 主(あるじ) 内海(討つ身)の
野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん”
信孝は切腹の際、無念のあまりかききった腸(はらわた)を目の前の掛け軸に投げつけて果てたといわれ、同院には今でもそのときの掛け軸と、使われた短刀が残されている。享年26歳。
因みに、当院には信孝の墓とは別に、源頼朝及び義経の父である義朝もこの地で謀殺され、眠っている。
【写真左】本丸・天守台・その3
横から見たもの
【写真左】石垣
天守台のもので、野面積み形式。全体に丸い石が多く、ところどころにこのような大きな石が使われている。
【写真左】土塁・その1
内側から見たもの
【写真左】土塁・その2
本丸の周りを囲む土塁。
なお、土塁の一角には隅櫓などもあったという。
【写真左】堀
本丸の外側にあるもので、奥に本丸が見える。
【写真左】西側の堀付近
旧西大手付近で、公園化されているため当時とはだいぶ違うかもしれないが、堀の配置は現在のような状況だったと思われる。
また、この写真の右側には武家屋敷群があった。
【写真左】南側の堀付近
こちらのほうはだいぶ狭められている。
【写真左】本丸・天守台・その3
横から見たもの
【写真左】石垣
天守台のもので、野面積み形式。全体に丸い石が多く、ところどころにこのような大きな石が使われている。
【写真左】土塁・その1
内側から見たもの
【写真左】土塁・その2
本丸の周りを囲む土塁。
なお、土塁の一角には隅櫓などもあったという。
【写真左】堀
本丸の外側にあるもので、奥に本丸が見える。
【写真左】西側の堀付近
旧西大手付近で、公園化されているため当時とはだいぶ違うかもしれないが、堀の配置は現在のような状況だったと思われる。
また、この写真の右側には武家屋敷群があった。
【写真左】南側の堀付近
こちらのほうはだいぶ狭められている。