2014年4月27日日曜日

仁保城(広島県広島市南区黄金山町)

仁保城(にほじょう)

●所在地 広島県広島市南区黄金山町(黄金山)
●形態 海城(島城)
●築城期 不明(15世紀か)
●築城者 不明
●城主 白井氏、三浦元忠
●遺構 郭・石垣等
●高さ221.7m
●登城日 2013年11月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 仁保城については、以前発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)の中でも紹介したように、現在の広島平野の南東部湾岸地域に所在する黄金山に築かれた城砦(海城)である。
【写真左】仁保城遠望・その1
 南東の発喜城側から見たもの。
 北麓には現在マツダ自動車の宇品工場がある。







現地の説明板より

“数々の伝説を持つ黄金山
 黄金伝説の地

 広島市内のシンボルとして親しまれている黄金山。この山の名前は古くは城山と呼ばれていました。

 山頂付近い城お主要な部分があり、広島湾内を一望できる山頂は戦において重要な位置を占めており、何度となく局地的な戦場ともなりました。
【写真左】配置図
 少し文字が小さいが、中央の赤字「現在地」付近が城域で、北側に「一の丸」南に「二の丸」があり、一の丸から北西へ約500下がった所には、「出丸」があったとされる。



 厳島の合戦の前哨戦として行われた弘治元年(1555年)7月、陶晴賢の武将・三浦房清が攻めてきたとき、城将香川光影が防戦し、撃退したと伝えられています。

 「黄金山」という名前の由来は、観音寺の山号が「黄金山」といったこと、このあたり一帯の麦畑が黄金色に輝いて見えたこと、夕日に黄金色に染まって見えたことなど様々です。地元の古老の中には、白南天の木の根元を掘ると黄金が出るという伝説まで伝わっています。”
【写真左】一の丸跡
 南側の頂部に当たり、現在電波塔や展望台などが設置されている。
 なお、この写真の手前は駐車場となっているが、当時はこの付近が駐屯地となっていたものと思われる。

 先ず一の丸から向かう。


安芸・武田氏と白井氏
 
 仁保城の築城期ははっきりしないが、『白井家文書』によると、明応4年(1495)に白井光胤が、武田元信から仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されている。武田元信は、銀山城(広島市安佐南区祇園町)でも紹介したように、仁保城のある位置から北北東へ約11キロ上った太田川の西岸武田山・銀山城を本拠とする鎌倉期から安芸国守護職であった。

 おそらくこの頃(明応4年)当時、白井氏はこの安芸・武田氏の家臣であったと思われ、主に海上権益の守備を任されていたものと思われる。
【写真左】帯郭か
 大幅に改変されているため、遺構の確認は困難だが、一の丸に向かう坂道の下あたりは郭跡ではなかったかと考えられる。




大内氏の進出

 大内氏が仁保城を含む広島湾岸に進出し始めたのが、大永2年(1522)頃といわれている。このころの大内氏とは義興であるが、安芸守護職であった武田氏とは度々対立し、同年3月義興は多賀谷武重・能美弾正らに命じて、仁保島の攻略を開始した。しかし、この戦いでは武田氏(白井氏ら)が防戦し、一旦兵を引いた。

 ところで、之より先立つ永正5年(1508)、周防の大内義興に従って前将軍足利義稙を擁して上洛した際、随従した元就の兄・興元が、同13年、24歳で急死し、急きょ家督を継いだ嫡男・幸松丸もまた大永3年(1523)急死することになる。毛利一族はこうした不安定な状況の態勢ながら、元就がこの年の8月、家督を継いだ。そして、その2年後の大永5年(1525)1月、改めて元就は大内氏と盟約を結んでいる。
【写真左】一の丸から保喜城・矢野城を遠望する。
 一の丸からは南東方向に発喜城・矢野城などが遠望できる。






 大内氏としては、いずれ武田氏の本拠・銀山城を北方の安芸吉田郡山城の毛利氏の支援を受けていわばは挟み撃ちにする計画もあったのだろうが、このころは毛利氏自身は一族の支配体制が脆弱なため、具体的に大内氏の命によって兵を動かす余裕はなかった。

厳島合戦

 天文20年(1551)8月、大内義隆の重臣・陶晴賢は大友晴英を擁し、ついに主君義隆追討の兵を挙げた。このとき、毛利元就は一応晴賢に協力する態度を示している。しかし、元就は晴賢に対し具体的な行動は直ぐにとらなかった。この時の判断が、後に中国の雄となる最大の分岐点となることになる。
【写真左】仁保城から厳島を遠望する。
 南西方向を見たもので、仁保城から見ると、以外と厳島が近くに見える。

 厳島の合戦は陸上戦もあったが、兵力の優位性は決定的に水軍力の確保に懸かっていた。
 広島湾岸を夥しい軍船が往来していたことだろう。



 2年後の天文22年(1553)11月、陶晴賢は石見津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見正頼を攻めたてた。晴賢が吉見氏を攻撃するきっかけとなったのは、その前月晴賢の兵が吉見正頼らによって破られるという戦があったためであるが、吉見氏はもともと陶晴賢とは遺恨があり、さらに正頼の妻は大内義隆の姉であった。
【写真左】二の丸方面に向かう。
 一の丸から降りて、南側の二の丸に向かう。
この先にもご覧の通り電波塔関連の施設が建っている。




 そして、晴賢は吉見氏討伐の命を芸備の諸領主に発し参陣を促した。しかし、この命に対し毛利家中では何度も軍議を開いたが、なかなか結論が出なかった。
 当初、元就は自ら晴賢の下に参陣する意思を表明したが、嫡男隆元がそれを諌めた。それは次の二つの理由があったからである。

 一つは、毛利氏が石見吉見氏討伐に向かえば、出雲の尼子(晴久)が南下してくることが予想された事。二つ目は、晴賢が参陣を促してから一向に毛利氏が動かないことから、元就に対し晴賢がすでに疑いを持ち始めていたこと、そのため吉見氏討伐後、晴賢が元就を拘束するのではないか、という危惧などがあった。
【写真左】二の丸
 この階段を上がると二の丸頂部になるが、上にまで上がっていない。電波塔関係の施設しかないため、省略してしまった。

 なお、この位置から頂部までの比高が当時のままとすれば、7,8m程度はあったものと思われる。
 現地には、「ここには、城主が住む館や、親族の屋敷が置かれていた云々」と書かれた説明板が設置してある。

 このあと、さらに南側にある三の丸に向かう。


 そうこうしているうちに、陶晴賢が毛利氏へ参陣を促してからすでに足かけ3年の歳月が流れた。この間、晴賢は吉見氏との戦いが膠着状態になっていた。天文23年(1554)3月、晴賢は再び吉見氏討伐に向けて動き出した。おそらく晴賢にとってこの頃の精神状態は、業を煮やした憤りと焦りがあったのだろう。元就はじめ芸備の主だった諸将に対し、晴賢は使僧をそれぞれ遣わし督促した。

 この中で、平賀氏に遣わされた使僧は、平賀氏に拘束され、あげく毛利氏に引き渡された。平賀氏は、以前にも紹介したように、父子対立の結果、父方(広相)が勝利し毛利氏に帰属していた。
【写真左】三の丸跡・その1
 改変されているため、当時の規模は不明だが、幅10m前後×奥行20m程度の大きさが残る。





 この平賀氏の行動は、結果として元就が晴賢に決別することを意味した。

 事ここに至って、元就はついに立ち上がることになる。同年(天文23年)5月11日、元就は嫡男隆元と連名の書状「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」、すなわち陶晴賢と全面対決する意志を安芸国人領主たちに送り、すぐさま吉田を出立した。
【写真左】三の丸跡・その2
 南側から見たもので、三の丸南端部にはさらに2m程下がった削平地があり、手前の箇所も腰郭だった可能性がある。




 陶晴賢と最後の攻防となったのが、厳島合戦(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)だが、その前哨戦の一つとなったのが、今稿の仁保城である。ちなみに、周辺で同じく繰り広げられた戦いは、発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)・草津城・己美城などが挙げられる。
【写真左】仁保城遠望・その2
 西麓の宇品方面の市街地から見たもの。

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