出雲・生山城(いずも・いきやまじょう)
●所在地 島根県雲南市大東町上久野生山
●築城期 不明(鎌倉期か)
●築城者 鎌倉権五郎景政?
●城主 長澤某(権五郎家臣)、布広氏(三沢氏)
●高さ 494m
●遺構 郭・堀切・竪堀・井戸等
●備考 磐根山・生山神社・鎌倉神社
●登城日 2013年10月6日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
生山城は八岐大蛇伝説で有名な出雲の斐伊川中流域を流れる支流・久野川の上流部上久野に所在する城砦である。
【写真左】生山城遠望
南側からみたもので、下段で紹介する生山神社は、中腹にみえる大岩の真下に鎮座する。
現地の説明板より
“磐根山 武御名方社
鎌倉神社ご案内
主祭神 武御名方大神
合祭神 誉田別大神 大鷦鷯(おおささき)大神
由緒略
当社の創建年代は不詳であるが、大國主大神の御子神である武御名方大神を祀り、神社後方の磐根山をご神体としてお祀りしている。
【写真左】かみくの桃源郷案内図
生山城のまわりにはキャンプや紅葉をたのしめる「かみくの桃源郷」という施設がある。
生山城はこの図の「現在地」付近に所在する。
明治までは奥宮としてお祀りし、現社殿を里宮としていた。國譲りの時諏訪の地にお鎮まりになるにあたり、「わが荒御霊はこの山に鎮めて祀り、吾勝金山辺兄彦命(あかつかなやまべえひこのみこと)が斎(いつ)く社と代々厚く祀れ、わが神業なる白銅、鋼(はがね)の鉄とそが基なる黒金の鉄をも与へん、幾代久しき黒金の野辺」との度重なる神勅を受け、現社家勝部の祖にして吾勝金山辺兄彦命の末裔五代猪尾、佐瀬の地よりこの地に移りて祀る。
以来この地は久野と名付けられ、砂鉄の産地として古代より一村の扱いを受けてきた。
【写真左】鎌倉神社・その1
生山城の南麓に祀られている。
この日、当社の脇に駐車すべく、隣の民家に許可を頂こうとしたら、その家が宮司さんの家だった。
宮司さんは若い方で、訪ねたところ、生山神社への道(参道)は知っているが、その上にある生山城本丸へ向かう道は知らないとこのことだった。
時代が降りこの地が源氏の所領となるに至り、八幡太郎義家の家臣鎌倉権五郎景政がこの地に赴き、磐根山に築城せんとしてこの山の荒神を祀るべく祠を建て、生山荒神とした。
また、権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。
神輿を担いでお供したのが渡部の某である。現社地に神殿を建て、相殿にお祀りして社名を「鎌倉大明名神宮」と改名した。明治に至り社名を『鎌倉神社』と改め今日に至っている。
戦の守護神として、また、製鉄の技術神、相撲の神、身体堅固の神、病気平癒の神、悪病退散の神として信仰をあつめている。
特殊神事
古伝神事『御供饌祭(ごくうさい)』『古伝直会式(こでんなおらいしき)』
『御神幸式(ごじんこうしき)』『相撲神事』
生山神社『花傘船屋台神事』
雲南市無形民俗文化財指定
祭礼日
例祭 10月26日
祈年祭 3月23日
新嘗祭 11月28日
奥宮・生山神社 祭礼日
4月28日(花傘奉納は5年毎で直近の日曜日)”
【写真左】登城道
生山神社に向かう道は、神社真下の鳥居から向かうようになっている。
ただ、熊笹などが入口付近から繁茂しているため、よく見ないと道が分かりにくい。
南斜面は急峻な形状のため、九十九折の道となっている。
鎌倉権五郎景政
歌舞伎の市川宗家である成田屋の十八番(オハコ)の演目の一つに、「暫(しばらく)」というのがある。これは「成田屋」すなわち、代々市川團十郎・海老蔵らが受け継いできた時代物(荒事)の演目で、奇抜な衣装と隈取などでお馴染みとなっている演目である。
ここで登場する人物で主役となるのが、鎌倉権五郎景政である。
【写真左】生山神社・その1
鎌倉神社奥宮ともいわれ、武御名方大神荒魂鎮座岩倉生山神社である。
景政は平安時代後期の桓武平氏の流れを組む一族の一人で、のちに鎌倉氏の祖となった武将といわれている。
源義家を主君とし、16歳のとき、奥州における後三年の役(1083~87)に従軍したが、その際、右目を矢で射られそれを家臣が抜き取ろうとしたが、なかなか抜けなかった。やむなく三浦為継という武将が景政の顔に足をかけて抜こうとしたら、景政は為継を刺そうとした。
【写真左】生山神社・その2
本殿部分
景政は「武士は弓矢に当たって死ぬのは本望だが、顔を足で踏まれるのは我慢が出来ない。いっそのこと為継も刺して、自分もこのまま自害したい。」と言った。そこで、為継は膝を屈めて顔を押さえ、やっと景政の目に刺さった矢を抜くことができたという。これが後に武勇伝として伝わり、景政の名が知られるきっかけとなった。
歌舞伎演目の「暫」にこの景政が登場しているが、歴史上の景政の活躍とは、実はほとんど関係がない筋書きとなっている。江戸時代に盛んになった歌舞伎や浄瑠璃なども、台本のもとになるものは、中世の読み本などから引用したものが多い。ただ、語り継がれたヒーローは登場するものの、芝居や観賞用としては、全くのオリジナルな脚本(フィクション)として創作されたものが多い。
【写真左】生山神社・その3
西側から見たもので、生山城の本丸はこの岩の上にあるが、とてもここからは向かうことは不可能。
岩の周辺部でアクセスできそうな箇所を探したが、いずれも急峻な箇所だけ。
もっとも、ある程度の史実は解っていても、その筋書きをリアルに表現した場合、場合によっては幕府の御咎めを受けることもあって、例えば元禄時代におきた忠臣蔵などは、浅野匠守や吉良上野介などは実名で登場せず、南北朝期の太平記から引用した塩冶高貞や、高師直などに置き換えたりしている。
さて、そうしたいきさつを持つ景政だが、この彼が出雲国の山奥の当地に赴いたと現地の説明板には書かれている。だが、景政の晩年や死没年など彼の後半期については実は殆ど記録が残されていない。
【写真左】生山神社から南麓の鎌倉神社を見る。
手前の木立で少し遮られているが、鎌倉神社が真下に見える。
このため、件の説明板にある景政自身が奥出雲が近いこの山間部に赴いたという説には、にわかに信じがたい。しいて言えば、その後段に書かれている、
権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。
という箇所がより史実に近いかもしれない。ただ、これについても、なぜ和歌山(紀伊国)の長澤某という人物がこの地に赴いたのか、この辺りの経緯も判然としないが…。
因みに、以前取り上げた讃岐の天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏も景政の末孫といわれている。
【写真左】生山城麓から南方を見る。
道路を挟んで南側には、「かみくの桃源郷」や、三沢城に繋がる鍋坂山などが横たわる。
久野と駿河守清秀
ところで、生山城のある上久野から4キロ余り下ったところに下久野という地区があるが、ここに久野という地名の由来を示す説明板が置かれているので、紹介しておきたい。
【写真左】下久野付近
久野の川岸には、下段の「久野の由来」にもあるように、永正年中馬田越中守、又は久野肥後守直経の居館といわれた場所がある。
また、写真には見えないが、この谷の南北にも2,3か所の城砦が記録されている。
“久野の由来
久野地区に、久野の地名に関する古伝記録がある。
「殿居敷(とのいしき)ハ下久野二在リ往古駿河国久能山ノ城主駿河守清秀故アリテ退城シ雲州二来タリ、尊信スル八幡宮ノ神託ニヨリ久野二八幡宮ヲ勧請シテ武功ヲ顕シ地頭トナリ其後戦功ヲ立テ此処二城ヲ築キ城主久野肥後守ト号セリ、爾来連綿トシテ相続キ今久野村ト称スルハ茲二起因ス、而シテ久野ハ久能ト同音相通スルニヨリ転化セルモノナリ…」とある。
古伝を要約すると、駿河国(今の静岡県)久能山の城主であった駿河守清秀は、故あって出雲にやってきた。すると、八幡宮を建てるよう神のお告げがあったので、さっそく下久野に八幡宮を勧請しお宮を建てた。
やがて清秀は武功をあげ、次第に勢力を伸ばしたので地頭職を賜り、下久野の殿居敷に城を築いて久野肥後守と号した。以後、久野氏は永らく続き、久野の地名になったと伝えられる。
久野の地名が文献で確認されたのは、建長元年(1249)6月の「出雲大社杵築大社造営注進状」の中に、「流鏑馬(やぶさめ)役金勤仕 十一番 三刀屋号飯石郷 久野郷」とあり、出雲大社造営の際の課役に関するものである。したがって、鎌倉時代に入ってからの地名ということになる。
大東町誌
久野地域おこし委員会”
【写真左】下久野・上久野周辺案内図
さて、このように久野地区の上下二か所に残る伝承から推察すると、次のように整理されるのではないだろうか。
先ず、鎌倉神社縁起にある上久野の地に、景政の家来・長澤某が生山城に入城したことが事実であるならば、景政が長治年間(1104~106)から永久4年(1116)相模国にあったことが知られているので、長澤某が出雲国に入城した時期は、おそらくこの後と思われる。
それから約130年過ぎた鎌倉時代の北条執権体制のころ、駿河国から清秀(駿河守)が下向し、地頭職となって当地を扶植していった、という流れではなかったかと考えられる。
ちなみに、同国ではこの建長元年、すなわち執権北条時頼のときの将軍(5代・11歳の藤原頼嗣)の命によって、国造・出雲義孝に対し、神魂神社社領として大庭保・田尻保の地頭職が安堵されている。
【写真左】野だたらの里
久野地区もふくめた雲南市や奥出雲は昔から「たたら」で栄えた地域である。
東国から下向してきた諸族の生活基盤は所領支配は当然だが、安定した経済活動が先ずは保障されることである。このため、この地域では「たたら」という鉄生産や、森林資源の確保に最も比重を置いた。
遺構の変遷
ところで、当城の遺構については、島根県遺跡データベースにかなり詳細な内容が記録されている。興味深いことは、その遺構の使用時期が次のように列記されていることである。
おそらく遺構調査されたときは、東側の谷間から入っていくコースが選ばれたのかもしれない。
鍋坂城
ところで、生山城のある上久野から南の山を越えて、南下すると仁多の三沢氏の居城・三沢城へ繋がる。その間にある山が標高750m弱の鍋坂山である。
戦国期、三沢城主・三沢為清(為虎か)の家臣・布広某が、主君に叛いて鍋坂城に立て籠もり、討取られたという。おそらく、このとき生山城は布広氏の属城となっていたものと思われる。
●所在地 島根県雲南市大東町上久野生山
●築城期 不明(鎌倉期か)
●築城者 鎌倉権五郎景政?
●城主 長澤某(権五郎家臣)、布広氏(三沢氏)
●高さ 494m
●遺構 郭・堀切・竪堀・井戸等
●備考 磐根山・生山神社・鎌倉神社
●登城日 2013年10月6日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
生山城は八岐大蛇伝説で有名な出雲の斐伊川中流域を流れる支流・久野川の上流部上久野に所在する城砦である。
南側からみたもので、下段で紹介する生山神社は、中腹にみえる大岩の真下に鎮座する。
現地の説明板より
“磐根山 武御名方社
鎌倉神社ご案内
主祭神 武御名方大神
合祭神 誉田別大神 大鷦鷯(おおささき)大神
由緒略
当社の創建年代は不詳であるが、大國主大神の御子神である武御名方大神を祀り、神社後方の磐根山をご神体としてお祀りしている。
【写真左】かみくの桃源郷案内図
生山城のまわりにはキャンプや紅葉をたのしめる「かみくの桃源郷」という施設がある。
生山城はこの図の「現在地」付近に所在する。
明治までは奥宮としてお祀りし、現社殿を里宮としていた。國譲りの時諏訪の地にお鎮まりになるにあたり、「わが荒御霊はこの山に鎮めて祀り、吾勝金山辺兄彦命(あかつかなやまべえひこのみこと)が斎(いつ)く社と代々厚く祀れ、わが神業なる白銅、鋼(はがね)の鉄とそが基なる黒金の鉄をも与へん、幾代久しき黒金の野辺」との度重なる神勅を受け、現社家勝部の祖にして吾勝金山辺兄彦命の末裔五代猪尾、佐瀬の地よりこの地に移りて祀る。
以来この地は久野と名付けられ、砂鉄の産地として古代より一村の扱いを受けてきた。
【写真左】鎌倉神社・その1
生山城の南麓に祀られている。
この日、当社の脇に駐車すべく、隣の民家に許可を頂こうとしたら、その家が宮司さんの家だった。
宮司さんは若い方で、訪ねたところ、生山神社への道(参道)は知っているが、その上にある生山城本丸へ向かう道は知らないとこのことだった。
時代が降りこの地が源氏の所領となるに至り、八幡太郎義家の家臣鎌倉権五郎景政がこの地に赴き、磐根山に築城せんとしてこの山の荒神を祀るべく祠を建て、生山荒神とした。
また、権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。
神輿を担いでお供したのが渡部の某である。現社地に神殿を建て、相殿にお祀りして社名を「鎌倉大明名神宮」と改名した。明治に至り社名を『鎌倉神社』と改め今日に至っている。
【写真左】鎌倉神社・その2
写真中央の鳥居・本殿の向背に生山神社(城)が祀られている。
特殊神事
古伝神事『御供饌祭(ごくうさい)』『古伝直会式(こでんなおらいしき)』
『御神幸式(ごじんこうしき)』『相撲神事』
生山神社『花傘船屋台神事』
雲南市無形民俗文化財指定
祭礼日
例祭 10月26日
祈年祭 3月23日
新嘗祭 11月28日
奥宮・生山神社 祭礼日
4月28日(花傘奉納は5年毎で直近の日曜日)”
【写真左】登城道
生山神社に向かう道は、神社真下の鳥居から向かうようになっている。
ただ、熊笹などが入口付近から繁茂しているため、よく見ないと道が分かりにくい。
南斜面は急峻な形状のため、九十九折の道となっている。
鎌倉権五郎景政
歌舞伎の市川宗家である成田屋の十八番(オハコ)の演目の一つに、「暫(しばらく)」というのがある。これは「成田屋」すなわち、代々市川團十郎・海老蔵らが受け継いできた時代物(荒事)の演目で、奇抜な衣装と隈取などでお馴染みとなっている演目である。
ここで登場する人物で主役となるのが、鎌倉権五郎景政である。
【写真左】生山神社・その1
鎌倉神社奥宮ともいわれ、武御名方大神荒魂鎮座岩倉生山神社である。
景政は平安時代後期の桓武平氏の流れを組む一族の一人で、のちに鎌倉氏の祖となった武将といわれている。
源義家を主君とし、16歳のとき、奥州における後三年の役(1083~87)に従軍したが、その際、右目を矢で射られそれを家臣が抜き取ろうとしたが、なかなか抜けなかった。やむなく三浦為継という武将が景政の顔に足をかけて抜こうとしたら、景政は為継を刺そうとした。
【写真左】生山神社・その2
本殿部分
景政は「武士は弓矢に当たって死ぬのは本望だが、顔を足で踏まれるのは我慢が出来ない。いっそのこと為継も刺して、自分もこのまま自害したい。」と言った。そこで、為継は膝を屈めて顔を押さえ、やっと景政の目に刺さった矢を抜くことができたという。これが後に武勇伝として伝わり、景政の名が知られるきっかけとなった。
歌舞伎演目の「暫」にこの景政が登場しているが、歴史上の景政の活躍とは、実はほとんど関係がない筋書きとなっている。江戸時代に盛んになった歌舞伎や浄瑠璃なども、台本のもとになるものは、中世の読み本などから引用したものが多い。ただ、語り継がれたヒーローは登場するものの、芝居や観賞用としては、全くのオリジナルな脚本(フィクション)として創作されたものが多い。
【写真左】生山神社・その3
西側から見たもので、生山城の本丸はこの岩の上にあるが、とてもここからは向かうことは不可能。
岩の周辺部でアクセスできそうな箇所を探したが、いずれも急峻な箇所だけ。
もっとも、ある程度の史実は解っていても、その筋書きをリアルに表現した場合、場合によっては幕府の御咎めを受けることもあって、例えば元禄時代におきた忠臣蔵などは、浅野匠守や吉良上野介などは実名で登場せず、南北朝期の太平記から引用した塩冶高貞や、高師直などに置き換えたりしている。
さて、そうしたいきさつを持つ景政だが、この彼が出雲国の山奥の当地に赴いたと現地の説明板には書かれている。だが、景政の晩年や死没年など彼の後半期については実は殆ど記録が残されていない。
【写真左】生山神社から南麓の鎌倉神社を見る。
手前の木立で少し遮られているが、鎌倉神社が真下に見える。
このため、件の説明板にある景政自身が奥出雲が近いこの山間部に赴いたという説には、にわかに信じがたい。しいて言えば、その後段に書かれている、
権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。
という箇所がより史実に近いかもしれない。ただ、これについても、なぜ和歌山(紀伊国)の長澤某という人物がこの地に赴いたのか、この辺りの経緯も判然としないが…。
因みに、以前取り上げた讃岐の天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏も景政の末孫といわれている。
【写真左】生山城麓から南方を見る。
道路を挟んで南側には、「かみくの桃源郷」や、三沢城に繋がる鍋坂山などが横たわる。
久野と駿河守清秀
ところで、生山城のある上久野から4キロ余り下ったところに下久野という地区があるが、ここに久野という地名の由来を示す説明板が置かれているので、紹介しておきたい。
【写真左】下久野付近
久野の川岸には、下段の「久野の由来」にもあるように、永正年中馬田越中守、又は久野肥後守直経の居館といわれた場所がある。
また、写真には見えないが、この谷の南北にも2,3か所の城砦が記録されている。
“久野の由来
久野地区に、久野の地名に関する古伝記録がある。
「殿居敷(とのいしき)ハ下久野二在リ往古駿河国久能山ノ城主駿河守清秀故アリテ退城シ雲州二来タリ、尊信スル八幡宮ノ神託ニヨリ久野二八幡宮ヲ勧請シテ武功ヲ顕シ地頭トナリ其後戦功ヲ立テ此処二城ヲ築キ城主久野肥後守ト号セリ、爾来連綿トシテ相続キ今久野村ト称スルハ茲二起因ス、而シテ久野ハ久能ト同音相通スルニヨリ転化セルモノナリ…」とある。
古伝を要約すると、駿河国(今の静岡県)久能山の城主であった駿河守清秀は、故あって出雲にやってきた。すると、八幡宮を建てるよう神のお告げがあったので、さっそく下久野に八幡宮を勧請しお宮を建てた。
やがて清秀は武功をあげ、次第に勢力を伸ばしたので地頭職を賜り、下久野の殿居敷に城を築いて久野肥後守と号した。以後、久野氏は永らく続き、久野の地名になったと伝えられる。
久野の地名が文献で確認されたのは、建長元年(1249)6月の「出雲大社杵築大社造営注進状」の中に、「流鏑馬(やぶさめ)役金勤仕 十一番 三刀屋号飯石郷 久野郷」とあり、出雲大社造営の際の課役に関するものである。したがって、鎌倉時代に入ってからの地名ということになる。
大東町誌
久野地域おこし委員会”
【写真左】下久野・上久野周辺案内図
さて、このように久野地区の上下二か所に残る伝承から推察すると、次のように整理されるのではないだろうか。
先ず、鎌倉神社縁起にある上久野の地に、景政の家来・長澤某が生山城に入城したことが事実であるならば、景政が長治年間(1104~106)から永久4年(1116)相模国にあったことが知られているので、長澤某が出雲国に入城した時期は、おそらくこの後と思われる。
それから約130年過ぎた鎌倉時代の北条執権体制のころ、駿河国から清秀(駿河守)が下向し、地頭職となって当地を扶植していった、という流れではなかったかと考えられる。
ちなみに、同国ではこの建長元年、すなわち執権北条時頼のときの将軍(5代・11歳の藤原頼嗣)の命によって、国造・出雲義孝に対し、神魂神社社領として大庭保・田尻保の地頭職が安堵されている。
【写真左】野だたらの里
久野地区もふくめた雲南市や奥出雲は昔から「たたら」で栄えた地域である。
東国から下向してきた諸族の生活基盤は所領支配は当然だが、安定した経済活動が先ずは保障されることである。このため、この地域では「たたら」という鉄生産や、森林資源の確保に最も比重を置いた。
遺構の変遷
ところで、当城の遺構については、島根県遺跡データベースにかなり詳細な内容が記録されている。興味深いことは、その遺構の使用時期が次のように列記されていることである。
- 郭 30箇所 ((鎌倉末~室町前期)~戦国期)
- 堀切 8箇所 ((鎌倉末~室町前期)~戦国期)
- 竪堀 3箇所 ((鎌倉末~室町前期)~戦国期)
- 井戸 1箇所 ((鎌倉末~室町前期)~戦国期)
おそらく遺構調査されたときは、東側の谷間から入っていくコースが選ばれたのかもしれない。
鍋坂城
ところで、生山城のある上久野から南の山を越えて、南下すると仁多の三沢氏の居城・三沢城へ繋がる。その間にある山が標高750m弱の鍋坂山である。
戦国期、三沢城主・三沢為清(為虎か)の家臣・布広某が、主君に叛いて鍋坂城に立て籠もり、討取られたという。おそらく、このとき生山城は布広氏の属城となっていたものと思われる。
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