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2015年10月7日水曜日

愛犬・チャチャ丸嬢の旅立ち

 唐突ながら、管理人の登城同伴犬だったチャチャ丸嬢の悲報をお知らせします。

♀ 愛犬「チャチャ丸」嬢の旅立ち

 18年前、彼女は我家にぬいぐるみのような姿でやってきた。そして、手のひらにも乗るほど小さく、お尻には付け足しのような2,3センチ程度のシッポがついていた。

 特別な血統書付の犬でもなく、きちっとしたしつけができなかった飼い主のせいか、これといった芸もなく、ただただ家族の顔を見れば、しっぽをせわしなく動かし、一緒に遊んでほしいとせがんでいたごくごく普通のミックス犬だった。
【写真左】美作の山城登城にて
 2009年8月

 水に浸かることが好きでなかったが、この日の美作での登城は猛暑であったため、自ら渓流に足を踏み入れ、涼を求めた。






 管理人が山城に興味を持ったのはずいぶん前からだが、実際に登城し始めたのは、彼女が4,5歳になるころである。

 山城登城を彼女と一緒に行う前、最初にしなければならないのが、現地に行くまでの自動車に慣れることだった。

 初めて彼女を車に乗せたとき、わずか2キロほどの行程だったが、さすがに勝手が違ったのか、車に酔ってしまい嘔吐してしまった。しかし、2回目からは全くそんなそぶりも見せず、このときからドライブが彼女の楽しみの一つになった。その後、長距離ドライブを兼ねた山城登城の旅が彼女とともに始まることになる。
【写真左】2006年1月 東郷湖(鳥取県)にて












 当方は専ら飲み物や食べ物、資料などをいれたリュックを背負い、首にはデジカメ・磁石などをかけ、家内はリードをつけて彼女と歩くのだが、最初の頃は若かったせいか、度々登城道コースから逸れて、随分と世話を焼かせた。山城登城の道といっても山道である、当然彼女の嗅覚には獣の匂いがプンプンしていたのだろう。むべなるかな、である。
【写真左】近くの神社へ初詣
 2005年正月

















 それでも登りのときは中型犬としては大変な馬力で(いや、犬力で)、家内をぐいぐい引っ張ってくれた。おかげで登城の場合はとても楽をするのだが、下山は大変だった。

 せっかく整備された九十九折の道でも、彼女にとってはそのコースは意味をなさない。とにかく「直滑降」で降っていく。当然下山のときの彼女のリードは管理人の担当になった。

 比高が余りない山城は、本丸に辿りついてからさほど長い休憩などはしないが、2時間近くもかかるような山城となると、さすがにこちらも本丸にたどり着くと、飲み物やちょっとした食事も口にすることがある。最初のころそんな山城登城で、一度彼女にもおやつを与えたところ、狂喜乱舞となった。

 それからはこのことが完全に彼女の頭の中にインプットされた。その後、山城登城は彼女にとって、本丸にたどり着けば、大好きなおやつが頂けるという楽しみからか、一段と登城スピードが速くなったように思う。
【写真左】日向ぼっこ
 2008年5月













 晩年はさすがに弱ったため、同伴登城はせず車の中で休ませていたが、振り返ってみれば、彼女との登城数は600か所を超えるだろう。藪コギ、ガレバといったおよそ犬の散歩道とは程遠い場所を愚痴の一つも言わず(いえないが…)、付き合ってくれた。

 見晴らしのいい本丸で腰をおろし、となりでは彼女の「ハー、ハー」という息遣いを聞きながら、眼下に広がる景色を随分と見させてもらった。
【写真左】後部座席の後ろから
 2007年8月

















 彼女が急激に弱ったのは、このひと月ほどである。自力で中々立つことができず、前足で踏ん張ろうとすると、ハの字に両足が開き、すぐにうつぶせ状態に戻る。夜になると長い間泣き続けた。

 2週間前からは全く食がとれなくなり、殆ど横臥のままになった。10月6日の夜10時、家内が様子を見にいったところ、すでに息は切れていた。彼女の18歳となる誕生日まであと1ヶ月というところだった。人間でいえば、90~100歳前後の年齢になるという。大往生である。

 永い眠りについた彼女を行きつけの動物病院につれていき、旅立ちの手続きをお願いした。殆ど病気などしたことはないが、定期的な予防注射や、以前飼っていた猫のお世話をお願いしていたこともあり、先生はよく覚えていたらしく、「この子は、本当に長生きしましたね。」と声をかけていただいた。
【写真左】花に包まれて旅立つ
 2015年10月6日









 彼女と一緒の時を過ごせたことは我々夫婦にとって、成人した二人の息子と同じく、家族の一人としての思い出ともなった。

 楽しい思い出をありがとう ―― チャチャ――

                                    合掌

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

 2008年12月29日という、その年も終りになってから立ち上げたこのブログも、足掛け4年目に入りました。

 山城探訪した記録を公開するという行為は、それまですでに多くの方がやってきていることで、当初、二番煎じの感が無きにしも非ず、という気持ちでしたが、同じ山城でも探訪する人によって、興味を持つ部分や、着眼点に違いがあり、これはこれで、それなりの価値があるのではないかと思い、アップしてきました。

 昨年(2010)は結果的に、121回の投稿を行いました。タイトルの「西国」という割には、山陰地方に偏っていますが、これは管理人の住んでいる場所と関連するために、どうしてもこうした結果となります。

 特に後半は石見地方に特化した感じとなりました。このブログをアップするに当たって、参考にした文献は、専門家のように沢山は持ち合わせていません。
 ただ、よく利用させていただいている「益田市誌・上巻」や「石見町誌・上巻」などは、管理人にとって、いわば「バイブル」のような存在で、これがなかったら、石見の中世山城は体系的に把握はできなかったと思います。
【写真上】佐和山城遠望
 彦根城側から見る。(2008年9月)



◆「西国の山城」統計
 さて、このブログのこの1年間の統計について記しておきたいと思います。

 ※データカウント開始時期、2010年の5月より
●参加者
      日本         17,052
      アメリカ合衆国      320
      ラトビア           59
      カナダ           37
      オランダ             33
以下、フランス、チェコ共和国、イラク、スウェーデン、大韓民国など

●ページビュー
 長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(2010/3/10)     239
 井野城(2010/9/02)                       66
 米山寺・小早川隆景墓(2010/06/15)             62
 鷲尾山城(2010/5/09)                     48
 三隅城(2010/08/03)                       43
 丸屋城(2010/05/08)                       39
 引田城(2010/01/13)                       38

以下、周防・若山城、別当城、楪城となっています。

 サイトに関する技術的なことは、至って疎く、編集上のレイアウトなども、いまだに洗練されていません。

 ところで、ブログ形式であったこともあり、上記のように、どの投稿が一番アクセスが多かったか、分かります。
 また、このブログを見ている人は国内だけと思っていましたが、上記のようにアメリカ合衆国や、ラトビアなどといった外国からの人が予想以上にあることに驚きました。

 そもそも「山城」そのものが、天守閣を持つ近世城郭に比べ、マイナーな存在ですので、正直言ってさほどの反響はないだろうと思っていました。ところが、蓋を開けてみると、このような結果で、管理人としては望外の喜びです。それだけ山城に対する認知度が高まってきているということでしょうか。

 本年もどの程度探訪と、ブログアップができるかわかりませんが、体力と時間の許す限りこのブログを更新していきたいと思います。

トミー拝
2011年 元旦



   

2010年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

あけまして、おめでとうございます。【写真上】景石城(鳥取県用瀬町)遠望

 一昨年末に立ちあげた拙いこのブログも、不規則な投稿ながら、なんとか1年間続けてきました。

 御覧の通り、PCなどには至って疎い管理人で、ブログの編集も不細工なままで、公開してきております。また、歴史や城郭の専門家でもなく、ただ山城に魅了されて、徘徊探訪のような登城記録を公開してきたわけで、どれほどの方がこのブログを見ておられるものか、まったく分かりません。
 しかし、少しでも山城に興味を持っていただいた人が増えていたとすれば、うれしく思います。

 本年もどの程度の探訪記録を公開できるのか、分かりませんが、体力と時間と気力の続く限り、ご紹介できればと思っています。

 皆様のご多幸をお祈りします。
                トミー拝

2010年 元旦

2009年1月24日土曜日

南北朝から室町・戦国時代へ

 これまで、時系列的に南北朝を中心とした城郭を取り上げてきました。
◆「西国」というタイトルからすれば山陰地方に偏重し、他県のものが少ない取り上げ方になりました。
 前半部では、名和長年や塩冶高貞が絡んだ城を中心としてきましたが、今後は、南北朝期も含め、他の時代も含めた形で取り上げたいと思います。

◆ただ、投稿の前後があまり関連のない史跡でつなぐのも、どうかと思いますので、できるだけ共通項を見出しつつ取り上げたいと思います。

◆とはいうものの、多くの城跡を探訪しているわけではありませんので、ご期待に応えられるか心もとないのですが……

2009年1月18日日曜日

著書名「山陰の武将」「続・山陰の武将」など

山陰地方の中世武士を調べる際、しばしば参考にしている著書が下記の2書である。



(1)著書名 「山陰の武将」
昭和49年6月30日 初版発行
著者 藤岡大拙・藤澤秀晴

(2)著書名「続 山陰の武将」
昭和50年9月1日 初版発行
著者 藤岡大拙・藤澤秀晴・日置粂左衛門

発行所はいずれも地元の新聞社である山陰中央新報社による。

(1)の本に取り上げている武将には、名和長年、塩冶高貞、三隅兼連、尼子経久、山中鹿之助、坂崎出羽守、堀尾吉晴の7名。

(2)には、南條宗勝、神西元通、杉原盛重、赤穴久清、立原源太兵衛、米原綱寛、吉川経家、亀井茲矩、松平直政の9名が取り上げられている。

(1)の著者はいずれも、地元島根の方で、藤岡氏は元島根県立女子短大学長。現在斐川町にある荒神谷博物館の館長である。その傍らこれまで出雲地方を中心とした古代史(出雲風土記など)から中世、近代にわたり多くの研究論文を発表、さらに最近では「出雲弁」という地元の方言のほうにも研鑽をつまれている。その語り口もユーモアたっぷりで、講演会の依頼も多い。

藤澤氏は藤岡氏と同級生で、元平田市立図書館長。これまで高校の教師を務めながら県内の多くの郷土史等の編纂に当たってこれらた。
本書のあとがきに、お二人はつぎのような文章を載せている。

“……わが山陰にも、雄叫びするどく戦陣にあけくれた多数の武将がいた。彼らの多くは、中央史に足跡を印するほど有名ではない。中にはほとんど忘れれてている人物もある。だが、彼らもまた、歴史の断層に赤裸な人間性と、ひたむきな生を映し出した、魅力ある武将たちだった。

 私たちは、昭和初期の暗い谷間の時代に生まれた。そして同じ中学校の一年生のとき、日本の敗戦を経験した。戦前の価値体系の崩壊は、少年期の私たちに大きな衝撃を与えたが、同時に、権力のベールに包まれた従来の日本の歴史の真の姿について、強い関心を持つようになった。中学から高校へ、私たちは机を並べて歴史を語り合った。そして大学でも、二人は当然のことのように歴史学を専攻した。


 私たちはそこで新しい歴史学の洗礼を受けたのだが、歴史の中の人間に対する愛着は失わなかった。敗戦の衝撃によって、人間の営為のむなしさを感ずるより、歴史のきびしい条件の中で、個人がいかに生きていったかに興味をもった。「いつか二人で郷土の人物を書こう」ともに高校の歴史教師になった私たちは語りあったものだ。それが、山陰中央新報社のご好意で実現することになった。……”

お二人とも昭和7年生まれなので、上記の本を上梓されたのは、42,3歳ごろである。少年期からの夢を失うことなく、こうして生まれた背景を読むと、執筆者の熱意が伝わってくるようである。 

(2)のほうは、執筆者にお隣鳥取県の日置氏が加わり、南條宗勝を担当している。

2009年1月14日水曜日

「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より

「司馬遼太郎の街道をゆく 27(朝日新聞社発行)」の中に、因幡・伯耆のみち ― 伯耆の鰯(イワシ)売り―という小品が書かれている。

伯耆の鰯売り、とは名和長年のことである。少し長いが、部分的に転載する。

……信濃坊源盛は、そういう者であった。かれはすでに齢熟し、大山においては別当という僧兵の総大将をつとめる身になっていた。
実家は、名和氏である。
「名和」
という農地がある。大山という巨大な休火山が、かつて火山噴出物を堆積させて裾野台地をつくったが、その北辺、海近くにある。名和川(2級河川)が大山北麓の樹林に水源を発し、北に向かって土砂を深くえぐってながれ、その流域が、やがて農地になった。
名和についての古い時代のことは、わからない。
この地名が有名になるのは、南北朝のころ、名和氏が出現してからである。

名和氏の前歴もまた不詳だが、この一族が農地だけでなく、名和川の河口などに海港を持ち、新興ながら勢いがつよかったということは、傍証でわかる。

(中略)

【写真】冬の夕暮れ:大山(赤崎方面より見る)※右下時刻未調整

 この間、後醍醐は鎌倉勢にとらえられて、出雲の沖にうかぶ隠岐国に流された。
元弘2年(1332)3月のことで、翌年の閏2月にはひそかに対岸の伯耆に脱出して、名和を頼るのである。


ときに名和氏の当主は、長年であった。この時期、長高と称していた。
「長くて高いのは、危険なことではないか」
と、後醍醐がいって、長年という名を与えた。このような恩情が、この時代の無名の土豪の心にどうひびくか、世間を流浪するにつれて後醍醐は知るようになっていたのにちがいない。


私に関心があるのは、当時の名和氏の地位についてである。むろん、官位などはない。
また諸国の守護や諸郷の地頭が正規の武士であるとすれば、そういう存在ではない。『太平記』巻7に、名和長年がはじめて登場する。公家の千種忠顕(ただあき)が舟からまず一人浜に降り、土地の者に、このあたりに弓矢とって名の知れた者はいるか、ときく。

この辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、其の身指して名有る武士にては候はね共、家富、一族広くして、心ガサ(註・心蒿(こころがさ)。思慮)ある者にて候へ。

と、土地の者がこたえることになっている。しかし、後醍醐が隠岐にあった時期に、その側近がひそかに名和長年に打診し、その承知を得、脱出して伯耆へ渡海することまで長年が手はずをととのえたのではあるまいか。長年の紋所は、極めて珍しい。帆掛け船なのである。長年はこのあたりで、海上権を持つ者ではなかったろうか。


私は、その原本を知らないが『蔗軒(しゃけん)日録』という本(長年の時代より1世紀のちに成立)に、
ハウキ(註・伯耆。長年のこと)ハ、イワシ(鰯)売り也。

とあるらしい。土地の言い伝えを書いたのだろうが、もし多少の真を伝えているとすれば、むろん振り売りの鰯売りではあるまい。漁業権を持つ者だったろう。


ついでながら、漁師は殺生をするため極楽へは行けないという恐怖が当時あって、極楽ゆきを保証してくれる時宗(教祖は一遍)に入信する者が多かった。長年は、時宗のものらしい法名をもっていた。釈阿(しゃくあ)という。だから網元をしていた、というじかな証拠にはならないが、かすかな傍証にはなるだろう。家は、富んでいたらしい。ただし、漁業だけでは富むまでには至らない。多くの商船をもっていたと考えたい。


富んでいればこそ、弟の一人を大山寺に入れて、別当にまでさせることができたのであろう。
「信濃坊源盛(しなのぼうげんじょう)」


この人物の碑を眺めていると、そういう思いが強く感じられてくる。源盛もまた兄長年とともに天皇の「謀反」と呼ばれた後醍醐の側に加担し、長年の戦死後は、遠く九州に降って肥後の八代で死ぬのである。その死は1358年で、57歳だったというから、後醍醐が隠岐から伯耆にやってきたときは、源盛は32,3歳であったろう。
(中略)


長年は決心し、すぐさま鎧をつけた。一座はことごとく武装し、なかでも長重はいち早く駆けて浜へ行った。このあと鎧の上に荒むしろを巻き、「主上を追い進(まい)らせ、鳥の飛ぶが如くして」船上山の上の智積寺(ちしゃくじ)の本堂に入れるのである。船上山は大山の古期火山群の一峰で、坂はまことにけわしい。


このあたり、いかにも名和氏は鎌倉の既成体制のなかの武家貴族ではない。非公認の土豪劣紳らしく、決断も早ければ行動もいききしている。
(中略)


【写真】花回廊(旧溝口町側)から見た大山

 名和一族の数奇な運命はこの時から始まる。
みずからそれをえらんだこの一族は、船上山に籠り、河内金剛山での正成と同様、当国の守護などの軍勢をひきつけて大いに戦うのである。ついには伯耆一国から鎌倉方を一掃した。


このことは、鎌倉時代の末期に台頭していた新興勢力のにおいを嗅ぐのにちょうどいい。


その無名性とゼニのにおいについて、名和長年のことを『梅松論』(著者は足利尊氏派の武将)では「福祐(ふくゆう)の仁(ひと)」としてのみとらえている。また同時代に成立して公家の色合い強い『増鏡』では、その第17に「あやしき民なれど、いと猛に富めるが」とこれも大差はない。フランス革命当時のブルジョアジーを思わせる。


挙兵(1333)から京都の市街戦の戦場で死ぬまで、3年でしかない。
この間、いわゆる建武の中興のつかのまの成功がある。その時期に、長年は伯耆と因幡(両国で今の鳥取県)を受領し、他にも顕職を兼ねた。陽気で率直な人柄は、後醍醐からも好かれたという。


 この「あやしき民」の実力によって、鎌倉末期の伯耆が、以外に経済力をもった土地だったことを私どもは知りうるのである。

以上。



◆楠木正成も、名和長年にしても建武の中興後、どうみても後醍醐派の形勢は不利となっていても、最後まで後醍醐に従ったということから、戦前の忠君愛国のシンボルとして利用されてしまい、戦後になったとたん、しばらくは無視されるようなことになった。その時代ごとに、こうして評価がコロコロと変わることは、二人にとっては迷惑な話である。

当初、後醍醐派として与していた同じ山陰出身の塩冶高貞は、途中から後醍醐の政策に同調できず、尊氏派に与するが、結局前記したとおり、執事・高師直の陰湿な策略で自害する。こうしてみると、二人とも京都に上るまでが絶頂期であったということになる。

2009年1月1日木曜日

いい年でありますように(恭賀新年)

【写真上】福知山城
 近年改築されたものですが、できるだけ当時の建築技法や材料に沿ったものとしてできています。個人的には、天守閣のある改築版の城としてはトップクラスのものではないかと思っています。


☆新年明けましておめでとうございます☆

 さて、このブログも昨年、といっても、年も押しつまった12月29日立ち上げた、いわば出来立てホヤホヤの代物で、いまのところ海のものとも山のものとも分からない状態ですが、今年もよろしくお願いします。
 
 2009年の年も明けました。昨年は、いやここ数年、いやなことばかり続きます。日本に限らず、世界中がおかしくなってきたような感じです。

 このブログも「西国の山城」ということで、いわば戦(いくさ)のための要塞施設をテーマとしていますから、平和な時代の文化施設とは対極にあるかもしれません。 ただ、戦国武将すべてが好んで戦をしてきたとは思えず、むしろできるだけ乱世を終局に向かわせるべく、やむを得ず武力をもってやってきたのだ、と思いたいのです。

 しかし、結果として平安末期から江戸時代初期までの500年もの長い時間を費やして、戦や覇権による争奪戦が繰り広げられました。当時の言葉でいえば「安寧」を目指した代償があまりにも大きく、そして長すぎました。

 山城を探訪するたびに、「兵どもの夢の跡」という言葉を覚えます。現地に足を踏み入れ、そこに立っている足元に夥しい数の討死した武将の亡骸があったかと思うと、名状しがたい感慨があります。山城の探訪はある意味で、そうした武将たちへの鎮魂の旅ともいえるかもしれません。

 気ままな山城探訪ですから、更新も不定期です。気分転換にこの拙いブログをご笑覧していただければ、幸いです。

2008年12月29日月曜日

山城とその周辺

◆数年前から周辺の山城を探訪しているうちに、その地域の歴史なども必然的に知るようになり、改めて、地元の歴史の奥深さを知ることがあります。
◆また、山城の場所によっては、その周辺にはほとんど民家がないところもあれば、山深いところに現在でも集落が残っていたりしています。特に後者のような集落をとりまく風景を見渡した時、なんとなく中世の領主がその付近を治めていた情景を想像したりして、山城のもつ独特の雰囲気を味わったりします。

◆特にその集落の中に、戦国時代の武将の末裔が住まいをしているとなると、よりリアリティがわき、数百年も前のことであるにも関わらず、タイムスリップしたかのような感慨を覚えます。

◆当時城下だったところは、今ではほとんどその面影を残しているところは少ないですが、山城周辺の遺構がダイナミックに残っている個所を探訪すれば、山城ファンの方ならだれもが感動するものです。

気ままに探訪しております。

はじめまして

◆歴史については多少の興味はあったものの、当初は神社・寺院を探訪することが楽しみでした。

 そうこうするうちに、神社仏閣の由来・縁起などを調べていくと、寄進や、造営、遷宮などに武将がかかわっていることが多く、その当事者である武士の世界が面白くなり、彼らが築き上げた城(山城・砦など)に興味が移っていきました。

そうした経緯もあって、だんだんと周辺の山城を中心に探訪するようになりました。
写真:石見の本明城 本丸跡
◆現在日本で山城探訪をやっている方は、サイトやブログなどを見てみると、予想以上の方々がいることがわかります。
 中には、「城郭放浪記」さんのように、すでに1,700ヵ所以上という驚異的な数の登城記録を持っている人もいます。(これはもうギネスものです。)

◆実は、今回このブログを立ち上げるきっかけとなったは、件の「城郭放浪記」さんから、せっかくいろいろ調べたことを発信しないのは、残念だ、というコメントをいただいたことからでした。

◆しかしながら、私の場合、こうしたパソコンやITといった分野は一番苦手な部分で、そもそもブログをどうやって立ち上げていいのか、基本的なことが全く分からない中年オヤジです。

◆そうこうするうちに、東京にいる息子が帰省し、相談したところ、10分程度で立ち上げてくれました。そんな形で産声を上げたこのブログです。

 管理者である私自身が「ボケ」が多少入っている?ため、とても定期的に更新することや、洗練された内容でお届けできることは全く自信がありません。むしろ、近づいてきた私自身の「頭の老化」現象を少しでもやわらげるべく、山城探訪の感想や、その他日々感じたことを吐露したいと思っております。