備中・福山城(びっちゅう・ふくやまじょう)
●所在地 岡山県総社市清音三因
●指定 国指定史跡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 真壁小六是久
●遺構 本丸跡・門跡・井戸・土塁等
●高さ 標高302m
●登城日 2011年5月24日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
幸山城(岡山県総社市清音三因)から南に登っていくと、福山城がある。南北朝期足利尊氏派と後醍醐天皇方による「福山合戦」が行われた場所である。
【写真左】福山城及び幸山城遠望
西麓から見たもの。(撮影2013年5月)
【写真左】福山城頂上部
定期的にこうした伐採作業が行われているよで、材木が積んである。
現地の説明板より
“湊川決戦1週間前 備中福山合戦
海抜302mのこの福山は往古神奈備山・加佐米山・百射(ひもい)山とか言われたが、山岳仏教が栄えた奈良平安期、報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て、伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが、建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に憤懣を抱き、天皇支持勢力の新田義貞・楠木正成等と対立した。
この結果、尊氏勢が九州へ敗走し、軍勢を立て直して再び京都を目指し、東上を開始した。
【写真左】福山城位置図
幸山城(6月22日・24日投稿)から南に向かうルートを使うが、このコースは「上の横道北コース」というもので、700m:30分程度かかる。
福山合戦はその途上の延元元年5月に起こった。足利直義16日、朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す。17日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落とし、弓矢にて2万余の死傷者を出したが、新手入り変わり立ち変わり、遂に乱入され火をかけられ落城となった。
大井田氏経1,000騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は100騎程になり、山上は火の海、氏経はこれ迄と、部下を集め三石の本陣に加わらんと、一方切り破り逃れた福山落城後、直義は敗走する氏経を追い、板倉より辛川まで十余度交戦を続け、三石城へ逃れ去った。
直義は、足利勢をここで休養させ、首実検をして戦功を賞した。討ち首1,353を数えたという。”
【写真左】「上の横道コース」途中にあった巨石
急峻な坂道途中にこのようなバランスで鎮座している。
南北朝期の備中・備前
福山合戦の始まる前、尊氏派に属した主な一族としては、備前国では児島の豪族である飽浦信胤(星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)参照)・田井信高らが最初に与し、この福山城において蜂起した。それにともない、備中国からは、小坂・河村・荘・真壁・陶山・成合・那須・市川の諸氏が加わった。
これに対し、以前にも述べたように宮方(後醍醐派)として離れなかった児島高徳(児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)参照)の一族は、福山城に拠った足利方を攻めたが敗退した。
この結果、このときまで与同を決めかねていた備前守護・松田盛朝(金川城(岡山県岡山市北区御津金川)参照)、及び備中の新見氏(楪城(岡山県新見市上市)参照)・美作の菅家一党(大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)・江見・広戸らが、足利方に与していくことになる。
【写真左】「上の横道北コース」と「南コース」及び、福山城直登コースの合流点
写真左側が北コースで、右に行くと南コースとなるが、この写真はほぼ直線で登っていく階段で、麓から山頂(本丸)まで、1,234の階段になっている。
今回は、北コースから来ていたので、すでに約2/3は登っていることになる。
延元元年・建武3年(1336)
このような足利方の拡大に伴い、播磨の赤松、四国の細川らも合流し、建武3年(1336)正月に至って、鎌倉から西上した足利尊氏の軍勢とともに、京都に攻め登った。そして一時京都を攻略したが、宮方の反撃にあい、尊氏らは一旦九州鎮西に奔ることになる。
京都で足利方を撃ち破った宮方軍は、さらに西国へと西下してきた。このときの中心人物は新田義貞である。義貞は先ず播磨赤松氏の拠る白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を攻囲し、備前においては義貞の弟・脇屋義助が(三石城(岡山県備前市三石)に拠る石橋和義を囲み、それに呼応した備前の児島高徳は、今木・大富・和田・射越・原・松崎らと共に、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)に挙兵した。
新田勢の中で特に西方に向かったのは、大井田氏経である。氏経は長躯備中に進出し、福山城に陣を構えた。この時の様子を『太平記』は次のように記している。
“新田左中将の勢、すでに備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を攻むる…”
【写真左】登城途中から北西に高梁川を見る
2/3の階段を過ぎたといっても、かなりの段数が残っているため、結構きつい。
休憩するたびに眼下にこうした眺望が楽しめる山城は久しぶりである。
こうした中、九州に奔った足利尊氏は、菊池武敏・阿蘇惟直と筑前多々良浜で戦い、勝利した。その後当地で陣を立て直し、自らは海路をとり、弟・直義には陸路と二手に分け、再挙東上すべく筑前博多を出発した。4月3日のことである。
5月15日、児島の下津井古城(下津井城(岡山県倉敷市下津井)参照)吹上に着し、加治筑前守顕信に迎えられた。
直義は東上途中、長門・周防・安芸・備後・備中の諸勢を味方につけ、さらに美作から三浦高継(高田城主と思われる)も駆け付けた。
【写真左】福山城頂上部
下の写真にもあるように、福山城の構造は南北に長さ約300m、幅50m前後の規模を持ち、北から「一ノ壇」「二ノ壇」…「五ノ壇」となっている。
こうして、5月17日、大井田氏経の拠る福山城に、足利直義を中心とした尊氏軍が攻め入った。
戦いは説明板の通り、直義軍(尊氏軍)の大勝となり、その後の戦況を大きく左右することになる。すなわち、三石城を攻囲していた脇屋義助は囲みを解いて、播磨へ奔り、旭川河口付近に陣立てしていた児島高徳は、尊氏軍の進軍に浮足立ち同じく播磨へ。
また、美作の菩提寺城(大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)や、播磨の白旗城を攻囲していた新田義貞らも、この敗戦の報を聞き、兵を返した。
それから1週間後の5月25日、遂に兵庫湊川で、宮方軍と尊氏軍による最大の決戦が行われ、楠木正成は討死し、新田義貞は帰洛していくことになる。
【写真左】福山城略図
現地の図では、一の壇・二の壇・三の壇と図示されているが、下方(南)にさらに四の壇・五の壇が続く。
遺構としては、空堀・土塁・門跡・石列・井戸跡などがある。
【写真左】門跡
北側に設置されたもので、一の壇と二の壇の間にある。
石垣が残ることから、かなり規模の大きなものだったと思われる。
【写真左】土塁跡
土塁は西側に構築され、その脇には空堀が付設されている。
現状は大分崩れているが、当時は石垣による堅固なものと思われる。
【写真左】井戸跡
当城で唯一残る井戸跡であるが、山の形状から考えて、おそらく当時相当深く掘られていたのではないだろうか。
【写真左】四の壇から五の壇
三の壇から少し下がって南に続く所で、特に四の壇の長さは70m前後と長い。
激戦を重ねた福山合戦の戦場としての山城なのだが、他の南北朝期の山城に比べてあまりにも平坦な郭の遺構である。
「日本城郭大系第13巻」でも書かれているように、福山城が山城となる前、平安期に栄えた「福山寺」と重複しているとする説があり、若しそうだとすれば、この辺りは境内・庭園であったかもしれない。
【写真左】福山城から東に岡山市街を見る
登城したこの日も、次から次と登山者が来ていた。
岡山や倉敷など市街から近いところにある福山城は、その眺望が魅力だろう。
南北朝期、この福山城から南方を眺めれば、早島(ふれあいの森公園など)が浮かび、さらに南の児島なども瀬戸内に点在する島嶼となっていたと思われる。
●所在地 岡山県総社市清音三因
●指定 国指定史跡
●築城期 鎌倉末期
●築城者 真壁小六是久
●遺構 本丸跡・門跡・井戸・土塁等
●高さ 標高302m
●登城日 2011年5月24日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
幸山城(岡山県総社市清音三因)から南に登っていくと、福山城がある。南北朝期足利尊氏派と後醍醐天皇方による「福山合戦」が行われた場所である。
【写真左】福山城及び幸山城遠望
西麓から見たもの。(撮影2013年5月)
【写真左】福山城頂上部
定期的にこうした伐採作業が行われているよで、材木が積んである。
現地の説明板より
“湊川決戦1週間前 備中福山合戦
海抜302mのこの福山は往古神奈備山・加佐米山・百射(ひもい)山とか言われたが、山岳仏教が栄えた奈良平安期、報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て、伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが、建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に憤懣を抱き、天皇支持勢力の新田義貞・楠木正成等と対立した。
この結果、尊氏勢が九州へ敗走し、軍勢を立て直して再び京都を目指し、東上を開始した。
【写真左】福山城位置図
幸山城(6月22日・24日投稿)から南に向かうルートを使うが、このコースは「上の横道北コース」というもので、700m:30分程度かかる。
福山合戦はその途上の延元元年5月に起こった。足利直義16日、朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す。17日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落とし、弓矢にて2万余の死傷者を出したが、新手入り変わり立ち変わり、遂に乱入され火をかけられ落城となった。
大井田氏経1,000騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は100騎程になり、山上は火の海、氏経はこれ迄と、部下を集め三石の本陣に加わらんと、一方切り破り逃れた福山落城後、直義は敗走する氏経を追い、板倉より辛川まで十余度交戦を続け、三石城へ逃れ去った。
直義は、足利勢をここで休養させ、首実検をして戦功を賞した。討ち首1,353を数えたという。”
【写真左】「上の横道コース」途中にあった巨石
急峻な坂道途中にこのようなバランスで鎮座している。
南北朝期の備中・備前
福山合戦の始まる前、尊氏派に属した主な一族としては、備前国では児島の豪族である飽浦信胤(星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)参照)・田井信高らが最初に与し、この福山城において蜂起した。それにともない、備中国からは、小坂・河村・荘・真壁・陶山・成合・那須・市川の諸氏が加わった。
これに対し、以前にも述べたように宮方(後醍醐派)として離れなかった児島高徳(児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)参照)の一族は、福山城に拠った足利方を攻めたが敗退した。
この結果、このときまで与同を決めかねていた備前守護・松田盛朝(金川城(岡山県岡山市北区御津金川)参照)、及び備中の新見氏(楪城(岡山県新見市上市)参照)・美作の菅家一党(大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)・江見・広戸らが、足利方に与していくことになる。
【写真左】「上の横道北コース」と「南コース」及び、福山城直登コースの合流点
写真左側が北コースで、右に行くと南コースとなるが、この写真はほぼ直線で登っていく階段で、麓から山頂(本丸)まで、1,234の階段になっている。
今回は、北コースから来ていたので、すでに約2/3は登っていることになる。
延元元年・建武3年(1336)
このような足利方の拡大に伴い、播磨の赤松、四国の細川らも合流し、建武3年(1336)正月に至って、鎌倉から西上した足利尊氏の軍勢とともに、京都に攻め登った。そして一時京都を攻略したが、宮方の反撃にあい、尊氏らは一旦九州鎮西に奔ることになる。
京都で足利方を撃ち破った宮方軍は、さらに西国へと西下してきた。このときの中心人物は新田義貞である。義貞は先ず播磨赤松氏の拠る白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を攻囲し、備前においては義貞の弟・脇屋義助が(三石城(岡山県備前市三石)に拠る石橋和義を囲み、それに呼応した備前の児島高徳は、今木・大富・和田・射越・原・松崎らと共に、熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)に挙兵した。
新田勢の中で特に西方に向かったのは、大井田氏経である。氏経は長躯備中に進出し、福山城に陣を構えた。この時の様子を『太平記』は次のように記している。
“新田左中将の勢、すでに備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を攻むる…”
【写真左】登城途中から北西に高梁川を見る
2/3の階段を過ぎたといっても、かなりの段数が残っているため、結構きつい。
休憩するたびに眼下にこうした眺望が楽しめる山城は久しぶりである。
こうした中、九州に奔った足利尊氏は、菊池武敏・阿蘇惟直と筑前多々良浜で戦い、勝利した。その後当地で陣を立て直し、自らは海路をとり、弟・直義には陸路と二手に分け、再挙東上すべく筑前博多を出発した。4月3日のことである。
5月15日、児島の下津井古城(下津井城(岡山県倉敷市下津井)参照)吹上に着し、加治筑前守顕信に迎えられた。
直義は東上途中、長門・周防・安芸・備後・備中の諸勢を味方につけ、さらに美作から三浦高継(高田城主と思われる)も駆け付けた。
【写真左】福山城頂上部
下の写真にもあるように、福山城の構造は南北に長さ約300m、幅50m前後の規模を持ち、北から「一ノ壇」「二ノ壇」…「五ノ壇」となっている。
こうして、5月17日、大井田氏経の拠る福山城に、足利直義を中心とした尊氏軍が攻め入った。
戦いは説明板の通り、直義軍(尊氏軍)の大勝となり、その後の戦況を大きく左右することになる。すなわち、三石城を攻囲していた脇屋義助は囲みを解いて、播磨へ奔り、旭川河口付近に陣立てしていた児島高徳は、尊氏軍の進軍に浮足立ち同じく播磨へ。
また、美作の菩提寺城(大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)参照)や、播磨の白旗城を攻囲していた新田義貞らも、この敗戦の報を聞き、兵を返した。
それから1週間後の5月25日、遂に兵庫湊川で、宮方軍と尊氏軍による最大の決戦が行われ、楠木正成は討死し、新田義貞は帰洛していくことになる。
【写真左】福山城略図
現地の図では、一の壇・二の壇・三の壇と図示されているが、下方(南)にさらに四の壇・五の壇が続く。
遺構としては、空堀・土塁・門跡・石列・井戸跡などがある。
【写真左】門跡
北側に設置されたもので、一の壇と二の壇の間にある。
石垣が残ることから、かなり規模の大きなものだったと思われる。
【写真左】土塁跡
土塁は西側に構築され、その脇には空堀が付設されている。
現状は大分崩れているが、当時は石垣による堅固なものと思われる。
【写真左】井戸跡
当城で唯一残る井戸跡であるが、山の形状から考えて、おそらく当時相当深く掘られていたのではないだろうか。
【写真左】四の壇から五の壇
三の壇から少し下がって南に続く所で、特に四の壇の長さは70m前後と長い。
激戦を重ねた福山合戦の戦場としての山城なのだが、他の南北朝期の山城に比べてあまりにも平坦な郭の遺構である。
「日本城郭大系第13巻」でも書かれているように、福山城が山城となる前、平安期に栄えた「福山寺」と重複しているとする説があり、若しそうだとすれば、この辺りは境内・庭園であったかもしれない。
【写真左】福山城から東に岡山市街を見る
登城したこの日も、次から次と登山者が来ていた。
岡山や倉敷など市街から近いところにある福山城は、その眺望が魅力だろう。
南北朝期、この福山城から南方を眺めれば、早島(ふれあいの森公園など)が浮かび、さらに南の児島なども瀬戸内に点在する島嶼となっていたと思われる。